朝の光が、カーテンの隙間から差し込んでいた。
モモは天井を見つめたまま、まばたきをひとつした。
寝たのか寝ていないのか分からない夜だった。
枕に顔を押しつけた姿勢のまま、何度も意識が浮いたり沈んだりを繰り返して、気づけば朝になっていた。
「最近は来ないから、ちょっと気になってさ」
リトさんの声が、まだ頭の中に残っている。
寝ている間も、あの声のことを考えていた気がする。
モモはゆっくり身体を起こした。
シーツが太腿に絡まっている。寝相が悪かったらしい。
Tシャツが捲れ上がって、おへその辺りまで素肌が出ていた。
尻尾が、背中の後ろでだらんと垂れている。
昨夜きゅっと丸まっていたそれは、今は力が抜けて──少しだけ寂しそうに見えた。
モモは両頬を、自分の手のひらで挟んだ。
ぱちん、と小さな音。
(……しっかりしなさい)
昨夜のことを反芻する。
リトさんに「距離を取っている」と指摘された。
過去のベッド潜り込みを掘り返された。
そして——「嫌じゃありません」と、自分から言った。
全部、リトさんの掌の上だ。
追い詰めて、引いて、こちらに空白を埋めさせる。
手口は分析できている。
分析できているなら——逆に利用できるはず。
モモは洗面所の鏡の前に立った。
くせ毛を直しながら、鏡の中の自分と目を合わせる。
シャープな緑色の目。ショートボブのピンク髪。
(距離を取りすぎた)
昨夜の失敗を分析する。
警戒を前面に出しすぎた。不自然な距離は、逆にこちらの動揺を相手に教えてしまう。
ならば——以前の自分に戻ればいい。
リトさんに好意を持つ、ちょっと積極的なモモ・ベリア・デビルーク。
あの仮面を被り直せば、警戒心を悟られることはない。
近づく。でも、触れない。
観察する。でも、見つめない。
会話する。でも、隙を見せない。
(わたしの方が、上手よ)
── 一歩だけ、自分からリトさんに近づいてみよう。
*
リビングに降りると、テレビの音が聞こえた。
朝の情報番組。天気予報のジングルが流れている。
美柑さんがキッチンで朝食の支度をしている匂い。味噌汁と焼き魚。
モモはリビングの入り口で足を止めた。
ソファの前──テレビとの間の狭い空間に、お姉様とリトさんがいた。
お姉様が立っている。
いつものペケの衣装。ピンクのロングヘアが背中に流れている。
リトさんが、その後ろに立っていた。
リトさんの右手が、お姉様のお尻に触れていた。
制服ではなくペケが生成した薄い生地のスカート。
その上から、まるくて大きなお尻の片方を、掌で包むように——ぐに、と。
「り、リトぉ……朝からぁ……♡」
お姉様の声が、甘く震えている。
困っている。困っているはずなのに——身体はリトさんの方に傾いていて、逃げる様子がない。
頬がほんのり桜色に染まって、長いまつ毛が伏せられている。
リトさんの指が動いた。
お尻の丸みに沿って、下から持ち上げるように。
ぷにっ……と、柔らかい肉が指の間で形を変える音が——聞こえるはずがないのに、モモの脳が勝手に再生した。
(……っ)
足が動かない。
見てはいけない。でも、目が離せない。
あの夜と同じだ。あの時も、こうやって足が止まって——。
リトさんの左手がお姉様の腰に回った。
引き寄せる。お姉様の背中がリトさんの胸にぴたりとくっつく。
耳元で何か囁いている。聞こえない。聞こえないけれど、お姉様の耳が真っ赤になったのは見えた。
「もぅ……リトのえっち……♡」
えっち、と言いながら嬉しそうだった。
困った顔をしているのに、尻尾がリトさんの腕にそっと巻きつこうとしている。
あの本能的な動き。リトさんを離したくないという——。
モモは一歩後ろに下がった。
リビングの入り口の壁に、肩が当たる。
(——大丈夫)
深呼吸する。音を立てないように。
(あれくらいのこと、大したことじゃないわ)
そうだ。
お尻を触る程度のスキンシップ。あの日見た情事に比べたら、可愛いものだ。
それに——モモだって、かつてはリトさんのベッドに忍び込んでいた。
あの時の自分の方が、よほど大胆だったはず。
シャツ一枚で、リトさんの布団の中に潜り込んで、わざと胸を押しつけて——。
(……わたしの方が、もっと際どいことをしていた)
それを思えば、お姉様のお尻を触っている程度で動揺するのは馬鹿馬鹿しい。
モモは歩幅を整えて、リビングに踏み入れた。
「おはようございます、お姉様、リトさん」
何も見ていないふりをした。完璧に。
二人の位置から、ちょうど死角になるタイミングで入った。
リトさんの手がお姉様のお尻から離れた。
自然に。まるで最初から何もしていなかったかのように。
「おう、おはようモモ」
「モモ〜おはよう! 今日もいい天気だね〜!」
お姉様は何事もなかったかのように笑っている。
頬の赤みだけが、数秒前の痕跡を残していた。
モモはいつもの場所に座った。
美柑さんが味噌汁を運んでくる。
ナナが二階からどたどたと降りてくる。
「朝飯ー! 美柑、今日の味噌汁なに?」
「なめこだよ、ナナさん」
日常が動き出す。
いつもの朝。いつもの結城家。
モモは味噌汁を啜りながら、視線だけでリトさんを追った。
焼き魚をほぐすリトさんの指。さっきお姉様のお尻を揉んでいた指。
箸の持ち方は綺麗だ。指が長い。
(……やめなさい)
視線を味噌汁に落とした。
なめこが椀の中でぷるぷる揺れていた。
*
チャンスは、昼過ぎにやってきた。
日曜日の午後。ララとナナは買い物に出かけた。美柑さんは友達の家に遊びに行っている。
リトさんが、リビングのソファで漫画を読んでいた。
一人だ。
モモは二階の自分の部屋で、それを把握していた。
階下の気配を、デビルーク人の聴覚で読み取っている。
ページを捲る音。ソファのスプリングが軋む音。時折、鼻で笑う音。
(行きなさい、モモ)
自分を奮い立たせる。
朝の決意を思い出す。
一歩だけ近づく。でも隙は見せない。
階段を降りた。
リビングに入る。
リトさんがソファで寝転がっていた。
漫画を顔の上に掲げて読んでいる。
Tシャツが少し捲れて、腹筋の下の方が見えている。
モモはソファの反対側に座った。
昨夜と同じ距離。クッションひとつ分。
「リトさん」
「ん?」
漫画から目を離さず、リトさんが応じた。
「朝、お姉様にベタベタしてましたね」
モモの声には、微かな棘を含ませた。
嫌味。からかい。少しだけ攻撃的な——けれど深刻ではない、軽い挑発。
「リビングで堂々と。美柑さんやナナが見たら大変ですわよ?」
リトさんが漫画を下ろした。
目が合う。
「見てたの?」
「通りがかっただけです」
嘘だ。立ち止まって見ていた。でも、それは言わない。
リトさんが、ぷっと吹き出した。
「なんだよ、モモも焼きもち?」
「焼きもちなんて焼いてません」
即答。早すぎた。
否定が早すぎるのは、図星の証拠。
モモ自身がそれを分かっている。畳みかけなければ。
「リトさんの節操のなさに呆れているだけですわ。お姉様のお尻を朝から触るなんて、まったく——」
「モモは?」
「——は?」
「モモのお尻は触っていいの?」
思考が、一瞬止まった。
リトさんの目が笑っている。
ヘラヘラとした、軽い笑い。人を食ったような。
深刻さのかけらもない表情。
——だからこそ、対処に困る。
「な、何を言ってるんですか。ダメに決まって——」
ぱしん。
軽い衝撃が、お尻に走った。
リトさんの右手が、モモの左のお尻を叩いていた。
痛くはない。ぱしん、という音の方が大きいくらいの、軽い一打。
ソファに座った姿勢で、横から伸ばした手が——スカートの薄い生地越しに、丸いお尻の一番高い部分を正確に捉えた。
「——っ!!」
モモの身体が、びくっと跳ねた。
熱が走った。
叩かれた場所から、じわりと。
お尻の皮膚が、ぱしん、の余韻でひりひりしている。
それが——不快ではなかった。不快でないことが、問題だった。
「り、リトさんっ!」
立ち上がった。
顔が熱い。耳まで赤くなっているのが自分で分かる。
「何するんですかっ! セクハラですわよ!」
声を荒げた。怒りの演技。
怒っている——怒っているはずだ。
お尻を叩かれたのだから、怒るのが正常だ。
風紀委員の古手川さんなら、ここで平手打ちのひとつも飛ばすだろう。
だが——モモの心臓は、怒りとは違うリズムで跳ねていた。
ドクン。ドクン。ドクン。
「ごめんごめん」
リトさんが、片手を上げて降参のポーズをとった。
ヘラヘラ笑っている。反省の色は皆無。
「つい。モモが可愛いこと言うから」
「可愛くないですっ! わたしは怒ってるんです!」
怒っている。怒っている演技をしている。
演技——だ。
本当に怒っているなら、とっくにこの場を離れている。
なのにモモの足は動かない。
リトさんの前に立ったまま、両手を腰に当てて、頬を膨らませている。
「もう! リトさんのそういうところが——」
「ん? どういうところ?」
「……節操がないところです!」
モモは踵を返した。
今度こそ、リビングを出る。
背中にリトさんの笑い声が追いかけてくる。
「わりぃわりぃ」
軽い。軽すぎる。
あの男にとって、女のお尻を叩くことは挨拶程度の行為なのだ。
——だからこそ厄介。
特別な意味を持たない接触。だから怒りきれない。怒りきれないから、モノにされる。
廊下に出て、壁に背中を預けた。
右手で胸を押さえる。
ブラウス越しに、心臓の暴走が伝わってくる。
お尻が、まだ熱い。
ぱしん、の手形が残っているような気さえする。実際には残っていないのに。
(……セクハラよ、あんなの)
そう。セクハラだ。
怒るべきだ。
リトさんは最低だ。
——なのに。
叩かれた瞬間の感覚が、まだ手のひらの温度として残っている。
リトさんの手は、大きかった。
モモは自分の左のお尻に、そっと手を当てた。
スカート越しに。丸い膨らみの、一番高いところ。
リトさんの手が触れた場所。
すぐに手を離した。
(何してるの、わたし……)
*
夜。
モモは自分のベッドに潜り込んでいた。
パジャマ代わりのTシャツとショートパンツ。
シーツを胸の辺りまで引き上げて、横向きに丸まっている。
目は閉じている。けれど、眠れていなかった。
今夜もだ。
考えているのは——リトさんのこと。
お尻を叩かれた感覚。
あのヘラヘラした笑顔。
「モモが可愛いこと言うから」という、あの台詞。
(可愛い、なんて……)
あれはお世辞だ。口説き文句ですらない。
からかいだ。
分かっている。分かっているのに、その言葉が頭の中をぐるぐる回る。
枕に顔を押しつけた。
目を閉じて、呼吸を深くする。
眠ろう。今夜は眠ろう。明日は学校だ。
プリンセスが寝不足で学校に行くなんて、みっともないにも程がある。
——かちゃ。
音がした。
モモの全身が、一瞬で覚醒した。
ドアノブが回る音。金属が擦れる、小さな、小さな音。
地球人の耳には聞こえないかもしれない。
だがデビルーク人の聴覚は、その音を正確に捉えた。
ドアが開く。
蝶番が微かに軋む。
廊下の暗がりから、光がほんの僅かに差し込んだ。
足音。
裸足の足が、フローリングを踏む音。
体重を分散させた、静かな歩み。
一歩。二歩。三歩。
ベッドに近づいてくる。
モモは——動かなかった。
目を閉じたまま。
呼吸を、眠っている時のリズムに合わせた。
すう、すう、と。規則正しく。安らかに。
シーツの下で、尻尾がぎゅっと身体に巻きついた。
(リトさん——だ)
匂いで分かった。
ボディソープの残り香と、その下にある体温の匂い。
何度もベッドに忍び込んだ時に嗅いだ、あの匂い。
リトさんが、ベッドの傍に立っている。
見下ろされている気配。
暗闇の中で、リトさんの視線がモモの顔に注がれているのが分かる。
肌が、その視線の圧を感じ取っている。
心臓が暴れそうになるのを、必死で抑えた。
呼吸が乱れたら、起きていることがバレる。
すう、すう、と。眠っている人間の呼吸。
五秒。
十秒。
永遠のような沈黙。
リトさんが——動いた。
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