昼休みのトイレは——静かだった。
三階の——東棟のトイレ。ここは教室から少し離れているから、昼休みでも混み合わない。
私は——この場所を気に入っていた。
手を——石鹸で丁寧に洗う。指の間。爪の先。手首まで。
泡を——しっかりと流して——ペーパータオルで水気を取る。
鏡に——自分の顔が映っている。
前髪を——指で整えた。
黒髪のロングストレート。今朝、ちゃんとブラッシングしたから——艶がある。
制服の襟元を——正す。ブラウスの第一ボタン——きちんと留まっている。
リボンの結び目が——少し左にずれていたので、指先で直した。
うん——完璧。
鏡の中の私は——風紀委員として恥ずかしくない身だしなみをしている。
スカート丈も——膝の中央。校則通り。
靴下の折り返しも——左右対称。
ブレザーのボタンに皺はなく——肩のラインがきちんと出ている。
(流石に——私ね)
少しだけ——口角が上がった。
トイレの扉が開いて——女子生徒が入ってきた。一年生の子だろうか。
「あ——古手川先輩! こんにちは!」
「こんにちは。——食事の後はちゃんと手を洗ってね」
「はい!」
その子は——にこにこしながら個室に入っていった。
挨拶が——気持ちいい。
ちゃんと敬語を使えているし、表情も明るい。
こういう子がいると——この学校もまだ捨てたものじゃないと思える。
ペーパータオルを——ゴミ箱に捨てて、トイレを出た。
廊下に——出た瞬間。
ばっ——と。
「——っ」
目の前に——人がいた。
金色の長い髪。ワインレッドの目。無表情。
黒い——いや、今は制服だ。制服姿のヤミさんが——トイレの入口の前に立っていた。
出てきたところ——らしい。
手が——まだ少し濡れている。洗いたてか。
ヤミさんも——こちらを見た。
一瞬——目が合った。
「……ええ」
……それは挨拶なのかしら。
「こんにちは、ヤミさん」
「…………」
沈黙——が、落ちた。
廊下に——誰もいない。窓から差し込む午後の日差しが、リノリウムの床をぬるく光らせている。
ヤミさんは——私の横を通り過ぎようとしている。いつも通り——会話を続ける気がない空気。
でも——私は、立ち止まっていた。
ヤミさんを——見ていた。
制服姿のヤミさん。小柄だけど——足取りに隙がない。ムチムチっとした体型を、制服が包んでいる。スカート丈は短め——だけど、以前のボンテージに比べれば許容範囲。
問題は——そこじゃない。
ヤミさんは——結城くんの妹の、美柑ちゃんと親しい。
唯一の友人——と言ってもいいくらい、二人は仲がいい。放課後に一緒にいるところを何度か見かけたことがある。たい焼きを食べ歩いているとか。
つまり——ヤミさんは、結城家に出入りしている可能性がある。
美柑ちゃんに会いに行く——という名目で。
結城家——結城くんの、家。
あの——ヤリチンの、巣に。
「ヤミさん」
声をかけた——つもりだった。
でも——声は出なかった。
喉元まで来た言葉を——飲み込んでしまった。
代わりに——視線を送った。
(あなた——結城くんの家に、行ったりしているの——?)
そういう意味を込めた——つもりの——視線。
ヤミさんが——足を止めた。
振り返って——こちらを見た。
ワインレッドのジト目が——私を見ている。
ぽかん——としていた。
何を言いたいのか——まったく伝わっていない顔。
(そうよね——視線で伝わるわけないわよね——)
当たり前だ。テレパシーじゃないのだから。
でも——聞けない。
「結城くんの家に行ってますか?」なんて——藪蛇すぎる。
何を言っても——「なぜそんなことを風紀委員に聞かれなければならないのですか」と返されるに決まっている。そして——ごもっともだ。
ヤミさんが——ぽかんとした顔のまま、私を見ている。
廊下の沈黙が——痛い。
ヤミさんは——宇宙一の暗殺者だと噂されている。
あの無表情の下に——どれほどの力が隠れているのか。
金色の髪を——自在に変形させて、武器にする。
髪を——武器に。
金色の——長い髪。
あの髪が——変形したら。
例えば——。
ヤミさんの髪が——何本もの触手のように伸びて。
結城くんの——手首と足首に、巻きつく。
ぎりっ——と。金色の鎖。
『——なに——ヤミ——!?』
結城くんが——ベッドの上で、大の字に拘束されている。
四肢を——金色の髪で縛られて——動けない。
制服のワイシャツが——はだけて——薄い胸板が露出している。
ヤミさんが——その上に、跨っている。
制服のスカートが——大きく開いて——白い太腿が、結城くんの腰を挟んでいる。
ジト目が——上から結城くんを見下ろしている。
「……黙ってください。暗殺者の仕事中です。貴方と交われば貴方を始末できると聞きました……」
冷たい声。感情のない——淡々とした声。
結城くんの——ズボンのベルトを、髪の触手が器用に外していく。ジッパーを下ろす。
中から——。
(——中から——何が——)
いやいやいやいや。
(ストップ——ストップストップストップ——‼)
頭を——ぶんっと振った。
何を考えているの——私は——‼
昼休みの——廊下で——トイレの前で——ヤミさんが結城くんに跨る妄想を——‼
「…………」
ヤミさんが——怪訝な顔をしていた。
ワインレッドのジト目が——わずかに細くなっている。
「この人は何を考えているんだろう」という——純粋な疑問が、その無表情に浮かんでいる。
「……失礼します」
ヤミさんが——小さく言って、踵を返した。
金色の髪が——ふわっと揺れる。短いスカートから伸びる白い脚が——廊下を歩いていく。
足音が——ほとんどしない。暗殺者の歩き方。
角を曲がって——見えなくなった。
「…………」
私は——廊下に一人で立っていた。
トイレの前で——一人で——顔を真っ赤にして。
(何をしているの——古手川唯——‼)
頬を——両手でぱしんっと叩いた。
痛い。でも——頭が冷える。
あの妄想は——何だったのか。
ヤミさんの髪が——結城くんを縛って——跨って——。
(違う——私は——ヤミさんが結城くんに何かされていないか心配しただけで——)
心配——?
結城くんに——何か「されている」か心配——?
なぜ——「されている」が前提なのかしら。
ヤミさんなら——逆に結城くんを制圧する方が自然でしょう。
だから——さっきの妄想の方が現実的で——。
(——現実的じゃないわよ——‼ どっちも——‼)
はぁ——と、溜め息をついた。
最近——おかしい。
結城くんが——頭から離れない。
あのエロ漫画を拾ってから——妄想が止まらなくなっている。
結城くんと——誰かの——組み合わせが、勝手に浮かんでくる。
美柑ちゃん。ヤミさん。次は——誰なの。
(違う——次なんてない——‼ これは一時的な——ホルモンバランスの乱れよ——‼)
もう一度——頬を叩いた。
ぱしんっ。
痛い。
身だしなみを——整え直した。
前髪を直して。襟元を正して。リボンの位置を確認して。
鏡がないから——手探りで。
大丈夫。私は——風紀委員。
古手川唯。
こんな——破廉恥な妄想に負ける人間では——ない。
廊下を——歩き出した。
教室に——戻る。
何事もなかったかのように——午後の授業を受ける。
何も——考えていない。
何も。
……ヤミさんの太腿は——なぜあんなに白いのかしら。
(——考えるなっ——‼)