放課後の——教室は、ほとんど空になっていた。
夕方の日差しが——窓から斜めに差し込んで、机の上にオレンジ色の四角を作っている。
黒板には——六時間目の数学の板書がまだ残っていた。誰も消していない。
私は——鞄の中身を、机の上に出して整理していた。
教科書。ノート。筆箱。風紀委員の活動日誌。
一つずつ——向きを揃えて入れ直す。
いつもの——放課後の、いつもの光景。
何も——変わらない。
(——本当に?)
手が——止まった。
ノートを持ったまま——三秒ほど、固まっていた。
(何も変わっていない——? 本当に?)
ノートを——鞄に入れた。ゆっくりと。
変わっている。
何かが——確実に、変わっている。
*
最初に——おかしいと思ったのは、モモさんだった。
あの腹黒お嬢様——いえ、失礼。デビルーク第三王女は、以前なら他の女子にこう言っていた。
「リトさんには気をつけた方がいいですわ」
それが——最近、聞こえなくなった。
忠告を——やめたのか。
それとも——忠告する必要が、なくなったのか。
廊下で——結城くんとモモさんがすれ違う場面を見た。
モモさんは——目を逸らして、少し俯いた。以前のような——計算高い、余裕のある笑みは浮かべていなかった。
お嬢様口調の——あの鎧が、結城くんの前でだけ薄くなっている。
(あの——モモさんが?)
気のせいだと——思おうとした。
次に——ナナさんだった。
「あんなスケベ男、姉上に近づけるわけにはいかないだろ!」
以前のナナさんなら——廊下の端から端まで聞こえるような声で、そう叫んでいたはず。
姉のララさんを守るんだと——息巻いていた、あの態度。
それが——消えた。
結城くんの近くにいるとき——ナナさんは、目を伏せている。
あの生意気な——ツリ目が、どこか怯えたように揺れている。
身体が——無意識に結城くんの方を向いている。
(あの子——まさか)
背筋が——冷たくなった。
御門先生も——だ。
保健室を通りかかったとき——先生の声が聞こえた。
「結城くんのことは——」
そこで——言葉が止まった。私の足音に気づいたのだろう。
後ろを振り返ると——保健室の扉がぱたん、と閉まっていた。
以前の御門先生なら——結城くんの話題にも余裕の微笑みで「困った子ね」と流していたはず。
あの大人の鎧が——結城くんの名前を出す時だけ、ひびが入っている。
(先生——まで——?)
そして——ヤミさん。
あの無表情の下に——何かが変わっている。
先日のトイレの前で——彼女と目が合ったとき。ジト目は同じだった。でも——ほんの一瞬、目元の筋肉が緩んだように見えた。
気のせいかもしれない。
でも——風紀委員は細部を見る。それが仕事だ。
ヤミさんは結城くんのことを「あの男は危険です」と言っていた。
最近——その言葉を聞いていない。
ティアーユ先生も——おかしい。
あのおっとりした生物学の先生。いつもぼんやりしていて——転んで生徒にぶつかっても「ごめんなさい……大丈夫?」と心配するだけの——天然の塊のような人。
先日——職員室の前で、結城くんとティアーユ先生がすれ違うのを見た。
ティアーユ先生が——結城くんの顔を見た瞬間、頬が赤くなった。
そして——慌てて目を逸らして、書類を胸に抱きしめるように歩き去った。
あの人は——普段から赤面しやすいタイプだけど——あれは違った。
見てはいけないものを見たときの——怯えに近い赤面だった。
(先生が——二人も——?)
籾岡さんも——だ。
あのギャルは——以前なら結城くんのことを「結城って最低だよね、マジ」と友達に公言していた。
あの余裕の表情で——結城くんを見下すような笑みを浮かべていた。
それが——最近、結城くんの悪口を言わなくなっている。
廊下で結城くんとすれ違うとき——籾岡さんは視線を外さなくなった。
外さないどころか——唇を少しだけ噛んで、妙に意識したような横目で結城くんを追っている。
あの強がりのギャルが——「嫌い」と言えなくなっている。
(あの子まで——? 嘘でしょ——)
*
鞄を——持ち上げた。
教室には——もう誰もいない。
廊下の向こうから——部活動の掛け声が、くぐもって聞こえてくる。
窓の外——校庭を走る陸上部の影が、夕日に伸びている。
私は——歩き出さなかった。
机の横に立ったまま——唇を噛んでいた。
一人ずつ——おかしくなっている。
モモさん。ナナさん。御門先生。ヤミさん。ティアーユ先生。籾岡さん。
全員が——結城くんの近くで。
全員が——以前とは違う顔を見せている。
偶然?
思春期の——ホルモンバランスの変動?
(そんなわけ——ないじゃない)
噂は——本当なんじゃないか。
結城リトは——ヤリチン。
女を——次々と堕としている。
今まで——噂は噂だと、半分は信じていなかった。
確たる証拠がないから。噂は所詮噂で——風紀委員として対処するには、事実確認が必要だと。
でも——状況証拠が、積み上がりすぎている。
あれだけ警戒していたモモさんが——大人しくなった。
姉のために戦っていたナナさんが——目を伏せるようになった。
大人の余裕で生徒を捌いていた御門先生が——結城くんの名前で声が揺れている。
無感情の壁で覆っていたヤミさんの——目元が、柔らかくなった。
おっとりしたティアーユ先生が——結城くんの前で怯えるように赤面した。
「最低」と公言していた籾岡さんが——悪口を言えなくなっている。
全員——壁が、崩れている。
(まさか——全員——?)
鞄を持つ手に——力が入った。
呼吸が——少し、浅くなっている。
心臓が——もやもやする。
怒り——だと思う。
風紀を乱す行為への——正当な怒り。
(そう——怒っているのよ——私は)
怒っているから——胸が苦しいの。
怒っているから——結城くんの顔が浮かんで離れないの。
これは——義憤。風紀委員としての——正義感。
間違いない。
だから——確かめなければ。
問い詰めなければ——ならない。
結城くんを——直接。
あなたは——その噂通りの人間なのか。
周りの女の子たちに——何をしたのか。
そして——。
(そして——彼女がいるのかどうか——)
足が——止まった。
(なぜ——今——「彼女がいるか」が出てくるの——?)
風紀委員の調査に——そんな項目はない。
「ヤリチン」かどうかの事実確認に必要なのは——複数の女性との不健全な交際の有無であって——特定の彼女の存在は——。
でも——知りたい。
あの男に——本命がいるのか。
あの爽やかな笑顔の裏で——誰を一番に考えているのか。
(——調査の一環よ。交際関係の実態を把握するための——必要な質問なの)
言い訳が——出てきた。
自分でも驚くほど——スムーズに。
鞄を——肩にかけた。
明日——結城くんを呼び出す。
屋上か——空き教室。二人きりで話せる場所。
風紀委員として——正式に問い詰める。
噂の真偽を——本人に確認する。
堂々と——やればいい。私は風紀委員なのだから。
廊下を——歩き出した。
靴音が——夕暮れの空気の中に、硬く響いた。
(大丈夫——私は、古手川唯よ)
あの男の手口なんかに——引っかかるわけがない。
問い詰めて——事実を確認して——必要なら指導する。
それだけ。
(それだけの——ことじゃない)
下駄箱で——上履きから靴に履き替えた。
校門へ——向かう。
夕日が——正面から当たって、目を細めた。
影が——長い。私の影が——校門の向こうまで伸びている。
明日——。
「結城くん。風紀委員として——あなたに聞きたいことがあるの」
小さく——口の中で、練習した。
声が——少しだけ、震えていた。
(震えるな——古手川唯——‼)
拳を——ぎゅっと握った。
これは——風紀の問題。
ただの——風紀の問題。
あの男に——ドキドキなんて、していない。
絶対に——していない。
……帰り道——スマホで「彼氏に浮気を問い詰める方法」を検索しかけて、慌ててブラウザを閉じた。
(——彼氏じゃないわよ——‼‼)
*
帰宅して——鞄を自分の部屋の机に置いた。
制服のブレザーを——ハンガーにかける。
ブラウスの襟元を——緩めた。
椅子に座って——ぼんやりと、天井を見上げた。
明日——結城くんを呼び出す。
言葉にすると——単純だ。
風紀委員として——事実を確認するだけ。
でも——どう切り出す?
「結城くん。あなたの周りの女の子たちが——最近おかしいの」
直球すぎる。
結城くんなら——あの爽やかな顔で、こう返すだろう。
「おかしい? 何が?」
そうだ——あの男はとぼけるのが上手い。
ヤリチンの噂を何度指摘されても——困ったような笑顔で「俺?」と首を傾げる。
あの顔を——至近距離で見ながら問い詰めなければならない。
(大丈夫——私は風紀委員よ——取り調べのプロよ——)
プロではない。高校二年生だ。
では——もう少し具体的に攻めるか。
「モモさんが——あなたの前でだけ態度が変わっているの。ナナさんも。ヤミさんも。御門先生まで——」
名前を並べたら——結城くんの表情が、変わるかもしれない。
焦る? 動揺する?
……いいえ。あの男は——焦らない。
あの涼やかな目で——私を見つめて。
「古手川って——俺のこと、そんなに見てたんだ」
(——っ)
心臓が——跳ねた。想像なのに。
そう——開き直られるパターン。
ヤリチンの男が——問い詰められて逆に攻める。否定も肯定もせず——こっちの隙を突いてくる。
「見てたって——私は風紀委員として——!」
「俺のことが気になるなら——素直にそう言えばいいのに」
(言うわけないでしょ——‼)
椅子の上で——膝を抱えていた。
いつの間にか——靴下も脱いでいる。
想像の中の結城くんが——近づいてくる。
空き教室の——窓際。
午後の日差しが差し込む中——結城くんが、一歩、距離を詰める。
「古手川——」
苗字を——呼び捨てにされる。
いつもは「古手川」だけど——声のトーンが違う。低くて——甘い。
「俺と——付き合わない?」
(——は?)
付き合う。
交際。
彼氏と——彼女。
結城くんが——私の彼氏。
私が——結城くんの彼女。
(ないわ——絶対にないわ——ヤリチンと付き合うなんて——)
ないのだけれど——もし、万が一、仮に、完全な思考実験として——。
もし——誘われたら。
どうする?
「風紀委員と付き合えると思っているの?」と一蹴する。当然だ。
でも——もし。
もし——結城くんが真剣な目をしていたら。
あの——時々見せる、真っ直ぐな目。計算のない——本気の目。
(……断れるの——? 私——)
断る。断るに決まっている。
でも——断った後に、ちゃんとデートしてくれるなら——。
(デートの話になっている——‼)
頭を——膝に押し付けた。
だめだ——思考が勝手に走る。
映画館——。
結城くんと——映画を観に行く。
隣の席に座って——暗い劇場の中。ポップコーンを——一つ買って、二人で食べる。
結城くんの指が——ポップコーンを摘まむ時に、私の指に触れる。
「あっ——ごめん」
「……別に——たまたまよ」
画面を見ているフリをして——横顔を盗み見る。
スクリーンの光が——結城くんの横顔を、青白く照らしている。
鼻筋が——綺麗。睫毛が——長い。
(……カッコいいとか思ってないわよ——)
映画が終わって——カフェに入る。
窓際の二人席。向かい合わせ。
結城くんが——メニューを開いて。
「古手川、何飲む?」
「……紅茶」
「ケーキは?」
「……チーズケーキ」
結城くんが——ブラックコーヒーを頼む。
高校生男子が——ブラックコーヒー。
(ちょっと背伸びしているところが——可愛い——)
可愛くない。可愛くない。
カフェの中で——二人で話す。
学校の話。風紀委員の話。
「古手川って——いつも大変だよな。風紀のこと」
「……当然よ。誰かがやらなきゃいけないことだもの」
「偉いな」
褒められる。
あの——爽やかな笑顔で。
(……嬉しくないわよ——ヤリチンに褒められても——)
帰り道——夕暮れの商店街を歩く。
結城くんが——私の隣を歩いている。
少しだけ——距離が近い。肩は触れない——でも、手を伸ばせば届く距離。
「今日——楽しかったな」
「……そう。まあ——普通だったわ」
普通なわけがない。心臓が——ずっと喧しい。
結城くんが——立ち止まる。
「古手川」
「なに——」
振り向いた瞬間——。
結城くんの顔が——近い。
夕日の中——涼やかな目が、私だけを見ている。
唇が——。
「——っっ!!」
椅子から——飛び降りた。
ばたんっ——と、椅子が倒れた。
自分の部屋——だ。
映画館でもカフェでも夕暮れの商店街でもない——自分の、部屋。
息が——荒い。
頬が——熱い。
両手で——顔を覆った。
(何をしているの——古手川唯——‼‼‼‼)
問い詰める方法を考えていたのに——いつの間にかデートの妄想に変わっていた。
しかも——最後にキスされそうになっていた。
妄想の中で——自分から振り向いて——距離を詰めていた。
(私が——結城くんに——キス——)
「ないないないないないっ——‼」
声に——出た。
倒れた椅子を——起こした。
深呼吸を——三回した。
(落ち着きなさい——古手川唯——)
とりあえず——明日。
昼休みに——結城くんを呼び出す。
それだけ決めればいい。
妄想は——禁止。
「結城くん——昼休みに、話があるの」と言えばいい。
場所は——屋上か、空き教室。
シンプルに——風紀委員として質問する。それだけ。
(それだけ——)
時計を見た。もう——二十時半。
お風呂に——入ろう。
頭を冷やさないと——おかしくなる。
*
浴室から——出た。
バスタオルを身体に巻いて——脱衣所の鏡に、自分が映っている。
湯気で曇った鏡を——手で拭いた。
髪が——濡れて肩に張り付いている。黒髪が——水を含んで、いつもより重い。
頬が——お風呂上がりのピンク色に染まっている。
ドライヤーは——あとでいい。先に——着替え。
自分の部屋に戻って——クローゼットを開けた。
明日の下着を——選ぶ。
いつもなら——何も考えずに、一番上の引き出しから適当に取る。
白か——ベージュの、シンプルなもの。
でも——今日は。
手が——引き出しの奥に伸びた。
奥にしまってある——一度も着けていないセット。
去年の誕生日に——自分で買った。お姉ちゃんに憧れて——少しだけ背伸びして選んだもの。
淡いラベンダー色の——レースのブラジェット。
同じ色の——レースのショーツ。
繊細な花柄のレースが——縁を飾っている。清楚で——でも、少しだけ大人っぽい。
(……明日——これを着けよう)
なぜ——と、自分に問いかけない。
問いかけたら——答えが出てしまうから。
バスタオルを——外した。
ラベンダー色のショーツに——脚を通した。
レースの縁が——太腿の付け根に、ふわりと触れる。
ブラジェットを——着けた。肩紐を調整して——ホックを留めた。
鏡の前に——立った。
全身鏡に——下着姿の自分が映っている。
黒髪のロングストレート——濡れたまま、肩と背中に垂れている。
ラベンダー色のレースが——白い肌に映えている。
胸——。
ブラジェットの中で——ふっくらと持ち上がっている。
B88——自分では大きすぎると思っていたけど——レースの下着に包まれると、形が綺麗に出ている。
デコルテから——谷間のラインが、繊細なレースの縁に沿って覗いている。
ウエスト——細い。
くびれ——ちゃんとある。
お尻——。
横を向いて——確認した。
ショーツのレースが——丸いラインに沿って、きゅっと包んでいる。
形は——悪くない。むしろ——いい。弾力のある——桃のような曲線。
太腿——すっと伸びて、膝から脛へと綺麗なラインが続いている。
(……うん)
客観的に——見て。
スタイルは——いいと思う。
風紀委員として——身だしなみに気をつけているし、姿勢もいい。
運動は得意じゃないけど——体型維持は自然にできている方だ。
ラベンダー色のレースが——上品に身体を飾っている。
清楚で——でも、女の子らしさがちゃんとあって——。
(結城くんは——喜んでくれるかしら)
——。
時間が——止まった。
鏡の中の自分が——真っ赤な顔をしている。
(今——何を考えた——?)
結城くん——が——喜ぶ——?
なぜ——結城くんの評価が基準なの——?
この下着は——自分のために選んだの。自分が気持ちよく過ごすために。風紀委員として——清潔感のある下着を身に着けることは——当然の——。
(嘘——全部嘘——今の完全に結城くんのために選んでた——‼)
鏡から——ばっと離れた。
パジャマを——急いで着た。
長袖の——花柄のパジャマ。ボタンを一つ掛け違えた。直した。
ベッドに——飛び込んだ。
布団を——頭まで被った。
暗い。布団の中——自分の呼吸だけが聞こえる。
(眠れるわけないじゃない——)
明日——結城くんに会う。
ラベンダー色のレースの下着を着けて——結城くんに会う。
誰にも見えない。制服の下——だから。
結城くんにだって——見えない。
見えないのに——ちゃんとした下着を着けていることが。
武装のような気もするし——自爆のような気もする。
(……寝よう)
目を閉じた。
明日——ちゃんとやる。
風紀委員として——堂々と。
結城くんが何を言っても——動揺しない。
あの爽やかな笑顔にも——あの低い声にも——。
(揺るがない——私は——古手川唯——‼)
……三十分後——まだ目が開いていた。