四時間目の——終了チャイムが鳴った。
昼休み——だ。
教室が——ざわつき始める。弁当を広げる子、購買に走る子、友達のところに移動する子。
いつもの——昼休みの喧騒。
私は——机の上の教科書を閉じた。
手が——微かに震えていた。
(……やるのよ——古手川唯)
ラベンダー色のレースが——ブラウスの下で、胸に密着している。
朝から——ずっと意識している。いつもの白い下着より——肌触りが違う。レースの縁が——動くたびに、ほんの少しだけ肌を撫でる。
誰にも——見えない。
でも——着けている自分が、知っている。
立ち上がった。
鞄から——何も取り出さない。ノートも、ペンも、風紀委員の腕章も。
今日は——腕章を外して行く。
風紀委員としてではなく——古手川唯として、聞きたいことがある。
(……嘘。風紀委員として聞くのよ。個人的な感情なんか——)
嘘をつくな——と、心の中の自分が言っている。
廊下に——出た。
結城くんの教室は——隣だ。
隣——なのに、今日に限って、廊下が長い。
教室の入り口に——立った。
中を——覗いた。
結城くんは——窓際の席にいた。
机に頬杖をついて——友達と話している。笑っている。あの——爽やかな笑顔。
(……あの顔で——女を——)
胃が——きゅっと締まった。
「結城くん」
声が——出た。
自分でも驚くほど——平坦な声だった。
結城くんが——こちらを見た。
友達も——こちらを見た。
「……古手川?」
「話があるの。——来てくれる?」
教室が——少しだけ静かになった。
風紀委員の古手川が——結城リトを呼び出している。周囲の視線が集まるのを——背中で感じた。
結城くんは——一瞬だけ目を細めて——すぐに笑った。
「いいよ」
軽い。
あまりにも——軽い返事。
*
屋上——だった。
給水塔の影。フェンスの向こうに——春の空が広がっている。
風が——髪を揺らした。黒髪が——頬にかかる。
二人きり——だ。
結城くんは——フェンスに背中を預けて、私を見ている。
腕を組んで——リラックスした姿勢。構えていない。
私は——結城くんの正面に、二メートルほどの距離を置いて立っていた。
風が——吹いている。
スカートの裾が——ふわりと膨らんだ。手で——押さえた。
「……で、話って?」
結城くんが——首を傾げた。
来た。
この顔——昨日の想像通りの、あの顔。
(落ち着きなさい——練習した通りに——)
「結城くん——あなたに、聞きたいことがあるの」
「うん」
「あなたの——周りの女の子たちのことよ」
声が——少しだけ、裏返った。
(しっかりしなさい——‼)
「最近——モモさんが、あなたの前でだけ態度が変わっているの。以前は——他の女の子に『リトさんには気をつけた方がいいですわ』って忠告していたのに——最近は、それを言わなくなった」
結城くんの表情は——変わらない。
「ナナさんも——以前はあなたのことを大声で『スケベ男』と叫んでいたのに——最近は、あなたの近くにいると——目を伏せるようになった」
結城くんは——黙って聞いている。
「御門先生も——あなたの名前を出す時に、表情が変わるの。以前の余裕が——なくなっている」
風が——また吹いた。結城くんの髪が揺れる。
「ヤミさんも——あの無表情が、あなたの近くでだけ——ほんの少し、柔らかくなっている」
結城くんは——表情を変えない。まだ——余裕がある。
「ティアーユ先生も——あなたとすれ違った時に、おかしな赤面をしていたわ。あの人は天然だけど——あれは普通の照れじゃなかった」
「籾岡さんだって——あなたのこと『最低』と言っていたのに——最近は何も言わなくなった。あなたを見る目が——変わっている」
全部——言った。
昨日から——いいえ、もっと前から溜め込んでいたものを、全部。
「……それで——噂よ。あなたが——その——」
喉が——詰まった。
「ヤリチンだっていう——噂」
言った。
直接——面と向かって、言った。
結城くんの顔を——見た。
結城くんは——笑っていなかった。
でも——怒ってもいない。焦ってもいない。困ってもいない。
涼やかな目が——私を、静かに見ている。
「私は——本当のことが知りたいの」
声が——震えた。震えるな——と思っているのに、止まらない。
「噂は——本当なの? あなたは——本当に——あの子たちと——」
言葉が——続かなかった。
「何を」しているのか——具体的に口にするのが怖い。
沈黙が——屋上に落ちた。
風が——二人の間を吹き抜ける。
フェンスが——かたかたと揺れている。
結城くんが——口を開いた。
「本当だよ」
——。
空気が——変わった。
「噂じゃない。事実だ」
結城くんの声は——穏やかだった。
まるで——天気の話をするように。
「モモとは——関係がある。ナナとも。御門先生とも。ヤミとも。ティアーユ先生とも。籾岡とも。古手川が気づいた通りだよ」
足元が——揺れた。
揺れて——ない。屋上は動いていない。揺れているのは——私の方だ。
わかっていた——はずだ。
状況証拠から——そうだろうと、思っていた。
でも——本人の口から聞くと。
「……っ」
胃が——ぐっと押し上げられる感覚。
目の奥が——熱い。
(泣くな——泣くな古手川唯——‼)
なぜ——泣きそうなのか。
怒りだ。きっと——怒りで涙が出そうなのだ。
「——信じられない」
声が——低くなった。
「あなた——そんなことが——許されると思っているの?」
結城くんを——睨んだ。
ツリ目に——力を込めて。風紀委員の目で。
「複数の女の子と——同時に——そんなの——不誠実じゃない! あの子たちの気持ちを——弄んでいるの?」
声が——大きくなっていた。
拳を——握りしめている。爪が——掌に食い込む。
「弄んでなんかないよ」
結城くんは——静かに答えた。
「なっ——」
「みんなのことは——大事に思ってる」
「大事に思っているなら——一人の子と誠実に——!」
「なぜ?」
「——え?」
結城くんが——一歩、近づいた。
「なぜ——一人じゃないとだめなんだ?」
「そ——そんなの——常識でしょう!?」
「誰の常識?」
「みんなの——社会の——当たり前の——‼」
声が——裏返っていた。
論理的に——反論しようとしているのに、言葉が感情に追い越されている。
「付き合うっていうのは——一人の人を大切にすることでしょう!? 一人の相手に——誠実に——ちゃんとデートして——ちゃんと将来を考えて——」
(——デート——)
昨日の妄想が——フラッシュバックした。映画館。カフェ。夕暮れの商店街。ポップコーン。ブラックコーヒー。
(今それを思い出すな——‼)
結城くんが——私を見ている。
穏やかな——でも、芯のある目。
「古手川の言う通りだと思うよ。一対一の関係は——大事だ」
「なら——」
「でも——俺たちはそれとは違う形で、幸せになってる」
「幸せ——?」
「うん。モモも、ナナも、御門先生も、ヤミも、ティアーユ先生も、籾岡も——みんな、自分で選んでる。強制なんかしてない。みんなが——望んでることだ」
「望んで——」
言葉を——繰り返した。意味を飲み込めなかった。
「そんな——ありえない——」
「古手川は——あいつらが不幸そうに見えたか?」
「——っ」
返せなかった。
モモさんの——あの大人しくなった横顔。不幸そうだったか?
ナナさんの——目を伏せた表情。苦しそうだったか?
御門先生の——声が揺れた瞬間。辛そうだったか?
ティアーユ先生の——あの赤面。怯えていたけど——嫌悪ではなかった。
籾岡さんの——悪口が消えた横顔。苦痛に歪んでいたか?
違う——違った。
みんな——どこか、満たされたような顔をしていた。
以前より——生き生きとしていた。
「嘘——そんなの——」
頭が——混乱していた。
論理が——組み立てられない。
一人の相手と誠実に付き合うべき。それが——正しいこと。常識。道徳。風紀。
でも——当事者たちが幸せだと言ったら——私は何を根拠に否定するの?
「あなたの——手口よ——きっと——騙して——」
「騙してない。古手川が信じないなら——直接あいつらに聞いてみてもいい」
「……っ」
聞ける——わけがない。
「あなた、結城くんと肉体関係があるんですか」なんて——風紀委員だって聞けない。
結城くんが——もう一歩、近づいた。
距離が——一メートルを切った。
あの涼やかな目が——間近にある。
風に揺れる前髪の隙間から——真っ直ぐに、私を見ている。
心臓が——喧しい。ラベンダー色のレースが——ブラウスの下で、胸の鼓動に合わせて揺れている気がする。
「古手川——そんなに信じられないなら」
結城くんが——少しだけ笑った。
いつもの——爽やかな笑み。でも——目の奥に、何か別のものが光っている。
「見てみるか?」
「——は?」
「俺たちが——どういう関係なのか。言葉じゃ信じられないって言うなら——自分の目で、確かめたらいい」
「見るって——何を——」
意味が——わからない。
見る——?
何を——見るの——?
結城くんの関係を——目で確かめる——?
「どういう——こと——?」
声が——掠れていた。
結城くんは——少し間を置いて、口を開いた。
「一人ずつ——確かめろよ」
「……え?」
「モモ、ティアーユ先生、籾岡、御門先生、ナナ、美柑、ヤミ——一人ずつ」
結城くんが——フェンスから背中を離して、私の方に向き直った。
「そいつらと俺が——どういう関係なのか。古手川が自分の目で見て、自分の耳で聞いて——確かめればいい」
「確かめるって——」
「簡単だろ。古手川が聞きたいことを——本人たちに、直接聞けばいい」
声が——穏やかだった。
脅しでも——挑発でもない。
ただ——事実を差し出すように。
「俺が騙してるって思うなら——なおさら、本人に聞くのが一番だ。俺のいないところで聞いてもいい。俺がいるところで聞いてもいい。好きにしろ」
「…………」
返す言葉が——なかった。
逃げ道を塞がれた——のではない。
むしろ——全ての扉を開けられた。
どこからでも確かめていい——と。
何を聞いてもいい——と。
隠すもの——など、何もないと言っている。
「古手川——お前は風紀委員だろ」
結城くんが——少しだけ、笑った。
「調査——得意じゃないのか?」
(——煽ってるの——? この男——)
違う——煽りではない。
あの目に——悪意はない。
ただの——自信だ。
結城リトは——本気で、自分たちの関係に後ろめたさがない。
「……考えさせて」
やっと——それだけ、声に出した。
「いいよ。待ってる」
結城くんが——私の横を通り過ぎた。
屋上の扉に——手をかける。
「古手川」
振り返らないまま——結城くんが言った。
「いつでもいい。お前が準備できたら——俺に言え」
扉が——開いて、閉まった。
屋上に——一人、残された。
風が——また吹き始めていた。
髪が——ぐしゃぐしゃに乱れる。直す気力が——ない。
私は——フェンスに背中を預けて、ずるずると座り込んだ。
スカートの裾が——コンクリートの床に広がる。
膝を——抱えた。
空が——青かった。
雲が——何事もなかったかのように流れている。
「……確かめる——」
呟いた。
一人ずつ——呼んで。
本人たちの口から——聞く。
結城くんとの——関係を。
(私に——そんなこと——できるの——?)
できない——はずだった。
風紀委員として——そんな調査をする権限はない。
でも——。
結城くんが——許可した。
本人たちに聞けと——言った。
(聞いたら——どうなるの——)
聞いたら——知ってしまう。
全部——知ってしまう。
結城リトと——あの子たちが、何をしているのか。
どんな顔で——どんな声で——。
(——やめなさい——古手川唯——‼)
膝に顔を埋めた。
昼休みの——チャイムが、遠くで鳴った。