水曜日の朝は、いつも少しだけ憂鬱だ。
週の真ん中。月曜の緊張感は薄れ、金曜の解放感にはまだ遠い。
古手川唯は洗面台の鏡に向かって前髪を整えながら、今日のスケジュールを頭の中で組み立てていた。
一限、数学。二限、英語。昼休みに風紀委員の巡回。五限の後に委員会。
隙のない一日。隙のない自分。
それでいい。
歯ブラシを口に咥えたまま、制服のリボンを結ぶ。
鏡の中の自分は、いつも通りだった。
黒髪のロングヘア。ツリ目。少しきつめの顔立ち。
ブラウスの第一ボタンまできっちり留めているのに、胸の膨らみが布地を押し上げて、ボタンの間に微かな隙間ができる。
毎朝のことだ。毎朝、この隙間が嫌になる。
いくら直しても生地が突っ張ってしまう。
制服は一度買ったらしばらく使う。
当分は、育ってしまった胸の大きさに悲鳴をあげるボタンに気をつけなけれならない。
スカートのファスナーを上げた。
ウエストは問題ない。だがヒップの辺りで布地が張る。
お尻のラインが、スカートの上からでもはっきり分かる。分かってしまう。
(……無駄にいい生地よね……薄くて手触りいいし)
唯はため息をひとつ吐いて、洗面所を出た。
*
一限の数学は滞りなく終わった。
二限の英語も。三限の古文も。
ノートを取り、問題を解き、教師の質問に過不足なく答える。
古手川唯の学校生活は、精密機械のように正確だ。
だが——精密機械にも、ノイズは入る。
四限の休み時間。
教室の後ろの席で、女子のグループが声を潜めて喋っていた。
「——ねえ、聞いた? 結城くんのことなんだけど」
聞こえなければよかった。
唯の席は窓際の二列目。距離はある。
だが聞こえてしまう耳を持っている自分が恨めしい。
「また? 今度は誰?」
「わかんないけど——なんかさ、最近ヤバいらしいよ。もう二人三人じゃないって」
「嘘でしょ。高校生だよ? そんな何人もと付き合えるわけないじゃん」
「付き合ってるっていうか……もう、そういう次元じゃないって話」
唯はシャーペンを握る指に力を込めた。
ノートの端に、無意識に直線を引いていた。定規も使わずに。
(……馬鹿馬鹿しい)
高校生の男子が、複数の女性と同時に関係を持っている。
しかも全員が満足しているという。
そんなことがあり得るだろうか。
物理的に——いや、精神的に。
一人の人間が、複数の相手の心を掌握し続けるなんて。
それは小説や漫画の中の話であって、現実にはあり得ない。
唯は理性でそう結論づけた。
何度も。何度も。何度出しても足りないくらいに。
だが——結論を出すたびに、記憶が反論する。
モモの変化。ナナの変化。ヤミさんの、あの微かな目元の変化。
御門先生の声のトーン。
唯の目が——確かに捉えている変化たち。
(偶然よ。全部偶然。思春期の女の子が、ちょっと雰囲気が変わるなんてよくあること——)
シャーペンの先が折れた。
ぱきん、と小さな音を立てて、芯が弧を描いてノートの上に落ちた。
*
昼休み。
唯は購買でパンを一つ買い、中庭のベンチに腰を下ろした。
桜はとうに散って、欅の若葉が風にそよいでいる。
五月の日差しは明るすぎて、目を細めたくなる。
クリームパンの包装を開けながら、唯はふと思い出した。
モモ——モモ・ベリア・デビルーク。
あの腹黒いお嬢様は、以前こう言っていた。
『リトさんには気をつけた方がいいですわ』と。
唯はその言葉を鮮明に覚えている。
廊下の角で、モモが数人の女子生徒に向かって、あの穏やかな微笑みで忠告していた光景。
声のトーンは柔らかかったが、目は笑っていなかった。
あれは——本気の警戒だった。唯にはそう見えた。
リトの婚約者の妹が、リトに気をつけろと言う。
それは異常なことだ。
だがモモは聡い。モモの観察眼は鋭い。
あの女が警戒するなら——そこには根拠がある。
唯は以前、モモの言葉を自分の中の「証拠」のひとつに加えていた。
リトの危険性を示す、信頼できるソースのひとつとして。
——そう言えば、最近モモはどうしているだろう。
クリームパンを半分かじって飲み込んだところで、唯は立ち上がった。
*
モモを見つけたのは、校舎裏の花壇の前だった。
しゃがみ込んで、サルビアの苗に水をやっている。
ピンクのショートヘアが風に揺れていて、横顔は穏やかで——いつも通りに見えた。
「モモさん」
唯が声をかけると、モモはゆっくりと顔を上げた。
「あら、古手川さん。珍しいですわね、こんなところで」
微笑み。いつもの微笑み。
猫をかぶった、隙のない、完璧なお嬢様の微笑み——のはずだった。
だが唯は、一瞬だけ違和感を覚えた。
目だ。
モモの目が——ほんの微かに、以前と違う。
光り方、というのだろうか。瞳の奥にある緊張感のようなものが、薄くなっている。
あの鋭い計算高さが、少しだけ——丸くなっている。
「少し聞きたいことがあるの」
唯はモモの隣にしゃがみ込んだ。制服のスカートの裾が地面に触れないように、膝を揃える。
「なんでしょう?」
「以前、あなた——結城くんのことで、皆に注意していたでしょう? 『気をつけた方がいい』って」
モモの手が止まった。
ほんの一瞬。如雨露を傾ける角度が、微かに変わった。
一秒にも満たない硬直。だが唯の目は、それを見逃さなかった。
「——ああ、それですわね」
モモが如雨露を置いた。膝の上で手を拭う仕草は自然だ。
立ち上がり、唯と目線を合わせる。
「確かに、そういうこともありましたわ」
過去形。
「ありましたわ」と。
「あります」ではなく。
唯の中で、微かな警報が鳴った。
「今は——違うの?」
直球で聞いた。
唯は遠回しが苦手だ。風紀委員として培った癖でもある。
モモは一瞬、視線を逸らした。
花壇のサルビアに目を落とす。赤い花弁が、風に揺れている。
そして——唯の方を向き直った時には、もう表情が元に戻っていた。
完璧な微笑み。
「あの頃は、わたくしも少し神経質になりすぎていたのかもしれません」
声のトーンが柔らかい。柔らかすぎる。
「噂に流されてしまっていましたわ。でも実際にリトさんと接してみると——悪い方ではないと思いますの」
唯の眉が、ぴくりと動いた。
「悪い方ではない?」
「ええ。少し——不器用な方ですけれど」
モモの目が、一瞬だけ細くなった。
それは微笑みの延長のように見えたけれど——唯には分かった。
あれは微笑みじゃない。
何かを思い出している時の、目だ。
具体的な何かを。
熱のある何かを。
「リトさんは——見た目ほど軽い方ではありませんわ。ちゃんと、相手のことを見ていますもの」
モモの声が、ほんの僅かに——甘くなった。
自分で気づいているのかいないのか。
あの腹黒いモモが、リトの名前を口にする時だけ、声から計算が抜け落ちている。
まるで——。
唯の背筋に、冷たいものが走った。
(……まさか)
モモが——あのモモが。
「リトさんには気をつけた方がいい」と、本気で忠告していたあの女が。
今、リトを——褒めている。
しかも、無意識に甘い声で。
「そう……。そうなの」
唯の声は平坦だった。平坦にした。
「ええ。古手川さんも、噂に振り回されないようにしてくださいましね」
モモがにっこりと笑った。
完璧な笑顔。隙のない笑顔。
——けれど、その笑顔の下に、唯は見た。
あの「忠告していた頃のモモ」には確かにあった鋭さが、消えている。
警戒が消えている。
リトに対する警戒が——なくなっている。
唯は立ち上がった。
スカートの裾を払い、モモに簡単な礼を言って、その場を離れた。
廊下を歩きながら、唯は奥歯を噛み締めていた。
(何があったの……?)
あのモモが変わった。
リトに対して、壁を下ろしている。
『気をつけた方がいい』と言っていた本人が——いつの間にか、壁の向こう側に行っている。
それは——噂が本当だということではないか?
(いいえ、まだ分からない。証拠がないもの)
唯は首を振った。
証拠がない。具体的な。物理的な。風紀委員として通報できるレベルの。
声が甘くなった程度のことを根拠に、人を糾弾するわけにはいかない。
けれど嫌な予感が、喉の奥にこびりついて離れなかった。
*
五限目が終わり、唯は委員会の資料を取りに職員室に向かった。
職員室の前の廊下を歩いている時、唯の耳が——また拾ってしまった。
二年の女子が二人、壁際で話している。声は絞っているつもりなのだろうが、唯の耳には筒抜けだ。
「——え、マジで? 結城くんって先生ともヤバいの?」
「分かんないけど、見たんだって。放課後、結城くんが生物室から出てくるの見たって」
「生物室? ……あ、ティアーユ先生の?」
「そうそう。しかもさ、出てきた時——結城くん、すっごい爽やかな顔してたらしいよ」
「いつも爽やかじゃん、あいつ」
「いや、なんか——違う爽やかさっていうか。満足した感じっていうか」
「うわ……それは……」
「ねー。しかもさ、何分も出てこなかったらしいよ、先生」
「何分も?」
「うん。で、やっと出てきた時——髪、ちょっと乱れてたって」
唯の足が止まった。
ティアーユ先生。
生物科の教師。おっとりした天才科学者。気が弱くて、押しに弱い——。
押しに弱い。
その言葉が、唯の頭の中で反響した。
結城リトは押しが強い。
あの笑顔で、あの距離感で、相手のパーソナルスペースに自然と入り込む。
気が弱い教師が、あの男に迫られたら——。
(……やめなさい。妄想よ。全部妄想)
唯は自分に言い聞かせた。
生物室から出てきた。髪が乱れていた。それだけのこと。
実験の後片付けで遅くなったのかもしれない。風が強い日だったのかもしれない。
理由はいくらでもある。
けれど——御門先生の時もそうだった。
保健室から出てくる頻度が増えた。
先生の声のトーンが変わった。
それだけのことだと思っていた。それだけのことだと。
そしてモモの変化。
あの鋭い警戒が消えた。声が甘くなった。
ひとつひとつは、偶然で説明がつく。
だが——偶然が積み重なると、それは偶然ではなくなる。
唯は職員室のドアの前で立ち止まった。
ドアのガラス越しに、職員室の中が見える。
奥の席に——ティアーユ先生がいた。
金色のロングヘアを肩に流して、書類に目を通している。
黒のスカートスーツ。伏し目がちな緑色の目。甘い顔立ち。
胸元が——大きい。スーツのジャケットの上からでも分かるほどに。
普通だ。何も変わらない。いつものティアーユ先生だ。
唯はドアを開けようと取っ手に手をかけた。
その時——ティアーユ先生が、ふと顔を上げた。
同僚の教師が何かを言ったらしい。
唇が動いた。何を言っているかは聞こえない。
だが——表情が、一瞬だけ。
ほんの一瞬。まばたき一回分の長さ。
ティアーユ先生の目が泳いだ。
何かを思い出したような——思い出したくなかったような。
そんな影が、甘い顔に差して消えた。
唯の手が、取っ手を握ったまま止まった。
(……今の、何?)
分からない。
表情が動いただけ。それだけのこと。
読み取りすぎだ。考えすぎだ。
唯は取っ手を引いて、職員室に入った。
いつも通りの「失礼します」を言い、いつも通りの資料を受け取り、いつも通りの「ありがとうございます」を言う。
ティアーユ先生の横を通った。
ふわり、と——匂いがした。
花の香り。ティアーユ先生がいつもつけている、優しい香水。
だがその下に——もうひとつ。
微かに。ほんの微かに。
甘い匂い。嗅いだことがある匂い。
夏の体育の後の、汗と——。
唯は足を速めた。
考えすぎだ。疲れているのだ。私は今、全てをあの男と結びつけようとしている。
職員室を出た。
廊下の窓から、午後の陽射しが白く差し込んでいる。
唯は壁に背中を預け、資料のファイルを胸に抱えた。
心臓が速い。
モモの変化。
先生からの噂。
どちらも、唯の足元を揺らしていた。
あの男は——本当に。
高校生の男子が、本当に。
唯は唇を噛んだ。
考えても仕方がないことだと分かっている。
証拠がない。証拠がない限り、風紀委員は動けない。
いや——動かないのではなく、動けないのだ。
(動かないんじゃないわ。動けないのよ。私は風紀委員として——)
自分に言い聞かせる。
言い聞かせるたびに、声が空回りする。
結城リト。
あの爽やかな笑顔。あの自然な距離感。
女を堕とす手口を全部わかっている——はずなのに。
「はず」が、日に日に頼りなくなっていく。
唯は資料のファイルをきつく抱え直した。
ブラウス越しに、心臓の鼓動が指先に伝わっている。
教室に戻ろう。
いつも通りの席に座って、いつも通りの授業を受ける。
それだけのことだ。
唯は背筋を伸ばし、廊下を歩き始めた。
ローファーが、リノリウムの床を規則正しく叩く。
——規則正しく。
——正しく。
何もかもが、正しいはずなのに。
唇の上で、モモの声が残響のように繰り返していた。
『リトさんは——見た目ほど軽い方ではありませんわ。ちゃんと、相手のことを見ていますもの』
あの甘い声。あの計算の抜け落ちた声。
唯は無意識に、自分の唇を指先で触れた。
触れてから——弾かれたように手を下ろした。
(何をしているの!)
誰も見ていなかった。
廊下には誰もいなかった。
だが頬が、勝手に熱を持っていた。
古手川唯は小さく首を振って、教室のドアに手をかけた。
振り出しだ。
何度理性で結論を出しても、あの男の影が唯を追いかけてくる。
噂が消えない。変化が増える。疑惑が膨らむ。
そしてそのたびに——唯の中の何かが、ほんの少しだけ揺れる。
それを認められないから、また理性で蓋をする。
蓋をして、「私には関係ない」と言い聞かせる。
——その蓋は、いつまで保つのだろう。
古手川唯は、まだ自分に問いかけることすらできなかった。
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