三時間目のチャイムが鳴った。
ティアーユ・ルナティークは黒板の前で振り返り、「はい、今日はここまで」と穏やかに告げた。
白墨の粉が指先に残っている。黒のスカートスーツの袖口にも少し。
教卓の上には細胞分裂の図解プリントが整然と並んでいて、一枚だけ風で飛びかけたのを手で押さえた。
「次の授業までに教科書の百四十二ページを読んでおいてね」
生徒たちが席を立つ。椅子を引く音、雑談、笑い声。
ティアーユはそれを聞きながら、教卓の上の出席簿を閉じた。
教師になって一年目。
御門——ミカドに誘われて、この学校に来た。
宇宙生物工学の天才と呼ばれていた自分が、地球の高校で生物を教えている。
奇妙な人生だと思う。でも、嫌いじゃない。
生徒たちの顔を見ているのが好きだ。
難しい概念を噛み砕いて伝えた時、「あ、分かった」という表情になる瞬間。
あの顔を見ると、自分がここにいる意味を少しだけ感じられる。
プリントを揃えてファイルに挟みながら、ティアーユは廊下を歩いた。
ヒールの低いパンプスが、リノリウムの床を規則正しく叩く。
*
生物準備室は、校舎の東棟の奥にある。
窓際に並んだ標本瓶。ホルマリンの微かな匂い。古い木の机。
ティアーユはここが好きだった。
静かで、誰も来なくて、少しだけ薄暗い。
天才科学者の居場所としては狭いけれど、研究室よりも落ち着く。
椅子に腰を下ろし、採点用の赤ペンを手に取った。
小テストの束。四十人分。
一枚目を開く。
細胞膜の機能について。「半透性を持ち、物質の出入りを調節する」——正解。丸をつける。
二枚目。「細胞膜は細胞を守るバリアである」——不正確だけど、間違いではない。三角にしようか。
迷って、結局小さく丸をつけた。
(甘いのかしら、わたし……)
赤ペンのキャップを咥える。
甘い。自覚はある。
テストの採点だけじゃない。何に対しても、厳しくなれない。
三枚目を開こうとした時、ふと手が止まった。
名前欄。金色の闇——ヤミちゃん。
答案用紙の字は小さくて、整っていて、無駄がない。
回答は全問正解。当然だ。あの子の知能は地球の基準では測れない。
ティアーユは答案を手に取り、しばらく眺めた。
(ヤミちゃん……うまくやれてるかしら)
心配の種は、いつもそこにある。
ヤミ——金色の闇。
ティアーユの細胞から作られたクローン。
宇宙最強の暗殺者として育てられた少女。
ティアーユが「作った」のではない。ティアーユの遺伝情報が「使われた」のだ。
だが結果は同じ。あの子の存在は、ティアーユの身体から始まっている。
殺し屋として生きてきたヤミが、今は地球の高校に通っている。
友達ができた。美柑ちゃんという、結城君の妹。
たい焼きを食べるようになった。
少しずつ、少しずつ、「普通の女の子」に近づいている。
それは——良いことだ。良いことのはず。
なのに胸の奥が痛む。
あの子が殺し屋になったのは、わたしの遺伝子が世に出たから。
わたしがいなければ、ヤミちゃんは生まれなかった。
生まれなければ、あの子が血で手を汚すこともなかった。
——それとも、生まれなかった方が良かったのか?
違う。それは違う。
ヤミちゃんは今、ここにいる。生きている。少しずつ笑うようになっている。
その笑顔を見守ることが、わたしにできる唯一のこと。
ティアーユは答案に花丸をつけた。
百点の答案に花丸は過剰だと分かっている。分かっているけれど、つけたかった。
*
四枚目の答案に目を落とした時、別の名前が視界に入った。
結城リト。
ティアーユの手が、一瞬だけ止まった。
結城リト。一年生。ヤミちゃんと同じクラス。
ララちゃんの婚約者で、モモちゃんとナナちゃんとも同居している。
——そして、学園で「ヤリチン」と呼ばれている男の子。
ティアーユは赤ペンをくるくると回した。
噂は聞いている。職員室でも話題になることがある。
ミカドが眉をひそめて「あの子には気をつけた方がいいわよ」と言っていた。
複数の女子生徒と関係を持っている、と。
(そんなわけないわよね……)
ティアーユは小さく首を傾げた。
高校生の男の子よ?
確かに結城君は顔が整っていて、爽やかで、女の子に人気がある。
でも、複数の女性と同時に関係を持つなんて——それは大人でも難しいことだ。
噂は尾ひれがつくものだし、高校生の恋愛事情なんて外からは分からない。
結城君の答案を見る。
七十二点。悪くはないが、良くもない。
細胞分裂の順序がひとつ逆になっている。ありがちなミス。
赤ペンで正しい順序を書き添えて、三角をつけた。
普通の男の子だ。
成績は中の上で、授業中は真面目に聞いているし、ノートも取っている。
時々ぼんやりしているのを見かけるけれど、それは高校生なら普通のこと。
ヤリチンなんて——そんなわけない。
そう結論づけて、ティアーユは次の答案に進もうとした。
——けれど。
結城君の名前を見た瞬間、別の記憶が呼び起こされていた。
ティアーユは赤ペンを置いて、両手で頬を押さえた。
(あぁ……また思い出してしまった……)
*
あれは先週の実験の時だった。
五時間目の生物。顕微鏡を使ったプレパラートの観察。
ティアーユは各班を回って指導していた。
結城君の班に差しかかった時だった。
顕微鏡のステージクリップが外れて、プレパラートがすべり落ちた。
ティアーユは「あっ」と手を伸ばした。
身体が前に倒れた。実験台に腰がぶつかった。
——そこまでは、よくあることだ。ティアーユは昔からドジだ。
問題は、その時結城君が椅子に座っていたこと。
倒れ込んだティアーユの胸が——結城君の顔に、もろにぶつかった。
「ひゃっ——!」
Iカップの胸が、結城君の顔を包み込んだ。
スーツのジャケット越し。だがジャケットの前ボタンは開いていて、インナーのブラウスは薄い。
結城君の鼻と口が、柔らかい胸の谷間に完全に埋まった。
「ご、ごめんなさいっ……! 大丈夫っ……?」
慌てて身体を起こした。
結城君は顔を赤くして、「い、いえ、大丈夫です」と目を逸らした。
周囲の生徒がくすくす笑っている。
恥ずかしかった。
顔が熱くて、耳の先まで赤くなっているのが自分でも分かった。
——それだけなら、まだ良かった。
一昨日のことだ。
放課後の生物準備室で、実験器具の片付けをしていた。
棚の高い位置にある試薬瓶を戻そうとして、踏み台に乗った。
その時、ドアが開いた。
「先生、プリント忘れました」
結城君だった。
「あ、結城君、ちょっと待ってね——」
振り返ろうとした瞬間、踏み台の端に足を引っかけた。
身体が後ろに傾く。試薬瓶を棚に戻す動作の途中で——倒れた。
「あぶなっ——」
結城君が受け止めてくれた。
背中から、結城君の胸に倒れ込む形になった。
男の子の身体は思ったより硬くて、温かかった。
——問題は、その時のティアーユの姿勢だった。
踏み台から落ちた勢いで、スカートが捲れ上がっていた。
結城君に背中を支えられた状態で、ティアーユの脚がだらりと開いている。
黒いスカートスーツの中の——白いショーツが、結城君の目の前に。
ティアーユは三秒後にそれに気づいた。
「きゃあっ——! ご、ごめんなさいっ!」
スカートを押さえて、慌てて立ち上がった。
結城君は「いえ、見てないです」と爽やかに笑った。
見てたと思う。距離的に、見えないはずがない。
そしてつい三日前。
これが一番ひどかった。
実験台の下に転がっていったビーカーを拾おうとしゃがみ込んだ。
実験台の天板は低い。身体を深く折り曲げて、腕を伸ばす必要があった。
その時——結城君が同じビーカーを拾おうと、反対側からしゃがみ込んだ。
実験台の下。暗くて狭い空間。
ティアーユは膝をついて、脚を開いた姿勢でビーカーに手を伸ばしていた。
スカートが太腿の上まで引き上がっている。
M字に開いた脚の間に——白いショーツが、まるで見せつけるように。
結城君と目が合った。
実験台の下で。暗がりの中で。
結城君の顔が——ティアーユの開いた脚の、すぐ向こう側にあった。
「…………」
「…………」
三秒間の沈黙。
「あっ——ごめんなさいっ! わたし、えっと、その——!」
這い出す時に実験台の天板に頭をぶつけた。ごん、と鈍い音がした。
結城君が「先生、大丈夫ですか」と心配してくれた。
大丈夫じゃない。
何も大丈夫じゃない。
*
ティアーユは採点用の赤ペンを握りしめたまま、机に突っ伏した。
(わたし……結城君に迷惑をかけすぎている……)
胸を顔に押し付けた。ショーツを至近距離で見せた。M字開脚まで。
普通なら——セクハラで訴えられるのはティアーユの方だ。
いや、違う。ティアーユがセクハラしているわけではない。ドジなのだ。ただのドジ。
だが結果として、結城君に対して性的な状況を繰り返し作ってしまっている。
しかも——ティアーユは自分の身体がどういうものか、あまり自覚がない。
身長百六十七センチ。スリーサイズは九十六の五十六の九十。
Iカップの胸は、黒いスカートスーツの上からでも明確にその存在を主張している。
ジャケットの前ボタンを閉めると胸が潰れて苦しいから、いつも開けている。
インナーのブラウスは薄手の白で、下着の線がうっすら透ける日もある。
ヒップラインはスカートの生地を押し上げて、歩くたびに左右に揺れる。
本人はそのことに気づいていない。
気づいていないから、対策もしない。
男子生徒たちの視線が胸やお尻に集まっていることを、ティアーユは知らない。
「ティアーユ先生エロすぎ」というネットの書き込みも知らない。
知っていたら——多分、スーツの上からコートを着て授業をすると思う。真夏でも。
若くて、美人で、スタイルが良くて、そしてドジ。
他の教師なら問題になるレベルの失態が、ティアーユだと「またか」で済んでしまう。
「先生って天然だよね〜」
生徒たちは笑う。悪意はない。むしろ好意的だ。
ティアーユ先生は面白い。ティアーユ先生はかわいい。ティアーユ先生はエロい。
——エロいから、許されている。
その構造に、ティアーユ本人だけが気づいていない。
*
ティアーユは顔を上げて、大きく息を吐いた。
「……しっかりしなきゃ」
自分に言い聞かせる。
教師なのだ。大人なのだ。天才科学者なのだ。
ドジで生徒に迷惑をかけている場合じゃない。
結城君には特に申し訳ないと思っている。
あの子は毎回「大丈夫です」と爽やかに笑ってくれる。
怒らない。嫌な顔もしない。
本当に良い子だと思う。
(やっぱり、ヤリチンさんだなんて噂は嘘よね……)
あんなに爽やかで優しい男の子が、複数の女性と関係を持っているなんて。
ティアーユにはどうしても信じられなかった。
採点の続きに戻る。
五枚目、六枚目、七枚目。
赤ペンが答案の上を走る。丸、丸、三角、丸。
窓の外で、体育の授業をしている生徒たちの声が聞こえる。
グラウンドを走る足音。ホイッスルの音。笑い声。
平和だ。
この学校は平和だ。
ティアーユは、この平和が好きだった。
——ふと、視界の端に何かが映った。
窓際に立てかけてあった試験管立てが、微かに振動している。
廊下を誰かが歩いている足音がドアの向こうから近づいてきた。
こんこん。
ノックの音。
「先生、いますか」
ティアーユの背筋が、ぴくりと伸びた。
聞き覚えのある声。爽やかで、少し低くて——。
「あ……結城君?」
ドアが開いた。
制服のシャツを少しだけ着崩した結城リトが、生物準備室の入口に立っていた。
逆光で輪郭が金色に縁取られている。
「プリントの件で聞きたいことがあるんですけど」
「え、ええ、どうぞ……」
ティアーユは椅子に座り直した。
採点していた答案の束を、慌てて裏返す。結城君の答案が一番上にあったから。
結城君が近づいてくる。
椅子の横に立った。
近い。
男の子の匂いがする。汗と、制汗剤と、それから——若さの匂い。
「この図なんですけど」
結城君がプリントを広げた。
身体を傾けて、机の上のプリントを指さす。
その時——結城君の腕が、ティアーユの肩に触れた。
ほんの少し。肩と腕が軽く接触しただけ。
ティアーユは、何も言わなかった。
言えなかった、のではない。
言う必要を感じなかった。
生徒が質問に来て、距離が近くなるのは自然なことだ。
教師として、過剰に反応する方がおかしい。
「ここの矢印の意味が分からなくて」
「あ、ここはね——」
ティアーユは説明を始めた。
いつも通りの穏やかな声で。
結城君の肩が自分の肩に触れていることを、意識の隅に置いたまま。
——置いたまま、忘れようとした。
忘れられるはずだった。
いつもなら。
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