結城君の指が、プリントの上を滑った。
「ここなんですけど、減数分裂の第一分裂と第二分裂の違いが——」
真面目な質問だった。テスト前の復習。教師として答えるべき質問。
ティアーユは椅子に座ったまま、プリントに赤ペンで補足の図を描き始めた。
「えっとね、第一分裂では相同染色体が分離するの。だから染色体数が半分になるのはこの段階で——」
結城君が身を乗り出した。
椅子の横に立っている結城君の腰骨が、ティアーユの肩の高さにある。
距離が、また少し縮まった。
「ふーん……じゃあ第二分裂は?」
「第二分裂は普通の体細胞分裂と同じで、染色体の——あっ」
赤ペンが滑って、プリントの上に赤い線がびーっと走った。
結城君の腕が肩に当たった衝撃で。
「あ、ごめん。先生、くすぐったかったですか?」
「え?」
くすぐったい?
肩に腕が当たっただけだ。くすぐったいとは少し違う。
「えっと……くすぐったいというか、びっくりしただけで——」
「ここ、くすぐったいですか?」
結城君の指が、ティアーユの肩に触れた。
とん、と。人差し指の先で、肩の丸みを軽くつつくように。
「あ……ちょっと、くすぐったい、かも……」
正直に答えてしまった。
指先の圧力が軽くて、肌の表面をぴりぴりと刺激する感覚だったから。
「じゃあここは?」
指が首筋に移った。
襟ぐりの際。髪の生え際のすぐ下。
「ひっ——」
小さく声が漏れた。首を竦める。
「くすぐったい?」
「っ……う、うん……くすぐったい……」
質問されたから答えた。それだけだ。
教師として、生徒の質問には誠実に答える。それがティアーユの信条。
——今の質問が、教科に関係ないことに気づいていなかったわけではない。
気づいていた。気づいていたけれど、「やめて」と言うタイミングを逃した。
「ここは?」
指が下がった。
肩甲骨の辺り。ジャケットの生地の上から。
「……くすぐったい……」
「ここは?」
脇腹。
「っ……! そこはっ……くすぐったいっ……!」
身体がびくっと跳ねた。脇腹は弱い。昔からくすぐったい場所だ。
椅子の上で身をよじる。でも——逃げきれない。
結城君の指は追いかけてくる。
「ふーん、先生、脇腹弱いんですね」
観察するような声。まるで実験データを記録しているみたいに冷静で。
なのに指は止まらない。
「ゆっ、結城君……えっと、授業の質問は……」
「あ、まだ聞きたいことあるんで。もうちょっとだけ」
質問。そう、質問。プリントの質問。
でも今結城君がしているのは質問じゃない——いや、質問ではある。
「くすぐったいですか?」という質問。
指が、脇腹から少しずつ上がっていった。
肋骨の上を、一本ずつなぞるように。
「ここは?」
「……くすぐった……い……」
声が小さくなっている。
肋骨の上を指が這うたびに、くすぐったさとは少し違う何かが混じり始めていた。
指の行き先が——胸に近づいている。
ティアーユの頭の中で、微かな警報が鳴った。
注意しなきゃ。今ここで「やめて」と言わなきゃ。
「あの、結城君——」
「ここは?」
指が、胸の側面に触れた。
Iカップの柔らかな膨らみの、一番外側。
ブラウスとブラジャーを通して、指先の圧力が伝わってくる。
「っ——」
声が出なかった。
注意しようとした。「結城君、そこは」と言おうとした。
でも指が——胸の側面を、するりと撫でた。
自分の胸が大きいことは、分かっている。
分かっているというか——日常のあらゆる場面で思い知らされている。
立った姿勢で足元が見えない。実験器具を並べる時、自分の胸が邪魔をして真下の机が確認できない。階段を降りる時、つま先が胸の陰に隠れてしまうから、いつも少し身体を傾ける。
肩が凝る。慢性的に。朝起きた時から重い。ブラジャーの肩紐が食い込んで、赤い跡がいつもついている。
服を選ぶのも一苦労だ。普通のブラウスではボタンの隙間が開いてしまうし、白衣を着ても前が閉まらないことがある。
——こんなもの、ないほうがいい。何度そう思ったか分からない。
その胸に、今、人の指が触れている。
くすぐったい。
くすぐったいのだと思う。たぶん。
でも——お腹の底に、じんわりと熱いものが生まれた。
「先生、くすぐったかったですか?」
質問。また質問。
質問で遮ってくる。注意の言葉を、質問で封じてくる。
「くすぐったかったですか?」と聞かれたら——答えなければならない気がする。
教師だから。質問には答えるのが仕事だから。
「……くすぐった……かった……」
答えてしまった。
声が震えていた。自分でも分かった。
結城君の手が——変わった。
指先で触れていたのが、掌に。
Iカップの膨らみの下に手を滑り込ませて、持ち上げるように。
「先生って、すごいですよね」
「え……?」
「いや、純粋に。こんなに大きいんだなって」
掌が、膨らみの重さを確かめるように、ゆっくりと持ち上げた。
ぷるん、と。手の上で胸が揺れた。
ブラウス越しに伝わる体温。結城君の掌が、胸の丸みに沿って形を確かめている。
まるで——果物の熟れ具合を見るみたいに、当たり前の動作で。
——軽い。
持ち上げられた瞬間、胸が軽くなった。
いつも重力に引っ張られて、肩紐に食い込んで、背中を丸くさせていたあの重さが——結城君の掌に預けられて、ふわりと消えた。
誰にも持ち上げてもらったことがない。当たり前だ。誰にも触らせたことがない。
この胸は、ティアーユにとって「不便なもの」でしかなかった。
走れば痛い。うつ伏せでは眠れない。可愛い下着はサイズがない。白衣のボタンが飛んだことが三回ある。
そんな——厄介でしかないものを、結城君は「すごい」と言った。
嫌味でもからかいでもなく——純粋に、感心した声で。
ティアーユは——何も言わなかった。
言わなかった。
なぜか。
分からない。
いや——分かっている。
結城君の声が、あまりにも自然だったからだ。
「すごいですよね」と。褒めているのか、感心しているのか。
性的な含みが——なかったように聞こえた。
聞こえてしまった。
そして——胸を持ち上げてもらった時の、あの、ふわりと重さから解放される感覚が——気持ちよかった。
気持ちよかったのだと、認めたくなかった。
ティアーユの頭の中で、「これは胸を触られている」という認識が——正しく結ばなかった。
くすぐったいかどうかの検証の延長。身体の話。大きさの話。
生物の先生だから、身体のことを聞かれている——そういう処理が、おっとりした脳の中で勝手に行われてしまった。
結城君の手が、もう片方の胸にも移った。
同じように持ち上げて、重さを比べるように。
「左右で微妙に違うんですね」
「あ……うん、人間の身体は左右対称じゃないから……個体差があるのは普通で……」
答えていた。
生物の教師として。質問に。
胸を触られながら——自分の胸についての講義をしていた。
結城君の指が、胸の側面から少しだけ内側に移動した。
膨らみのカーブに沿って。ゆっくりと。
「ここも?」
「っ……う……ん……」
頷いてしまった。
頷きながら——肩が、僅かに震えていた。
指が、胸の頂点に近づいていく。
ブラウスの上から。ブラジャーの上から。
二枚の布を挟んで——指先が、乳首のすぐ横を通過した。
「——っ!」
ティアーユの身体が、びくっと跳ねた。
触れていない。乳首には触れていない。横を通過しただけ。
なのに——乳首が、勝手に硬くなっていた。
ブラウスの薄い生地の上から、ブラジャー越しに——小さな突起が主張し始めている。
ティアーユは自分の胸を見下ろした。
見えてしまっている。
ブラウスの上から、ぷっくりと盛り上がった二つの点が——。
(やだ……)
腕で隠そうとした。
その腕を——結城君の手が、やんわりと押さえた。
「先生」
「……っ」
「この突起、なんだろう」
白々しい声だった。
知っているくせに。分かっているくせに。
結城君の人差し指が——ブラウスの上から、勃ち上がった乳首に触れた。
こりっ。
「ぃっ——!」
声が漏れた。
高い声。自分の声じゃないみたいな——甘い、声。
指先が乳首の先端を捉えている。ブラウスとブラジャー越しに、つまむように。
「硬くなってる。なんの反応ですか、先生」
「ゆっ、結城くっ——やめっ——」
注意しようとした。
「やめなさい」と。教師の声で。厳しい声で。
——出なかった。
声が、途中で折れた。
「やめ」の先が出てこない。
それは怒りの声ではなく——困惑の声だった。
結城君の指が、乳首をつまんだ。
きゅっ。
「いたっ……!」
痛い。
痛い——はずだ。つねられたのだから。
実際に、ぴりっとした痛みが乳首から脳に走った。
なのに。
声が——「いたい」だけではなかった。
「いたっ」の語尾が、微かに——震えていた。
痛みの中に、別の何かが混じっていた。
甘くて、熱くて、お腹の底がきゅっと縮むような——。
ティアーユは自分の声に驚いた。
(今の……なに……?)
結城君の指が、乳首をくりくりと転がした。
ブラウス越しに。布の摩擦が加わって、刺激が増す。
「先生、これくすぐったいですか? それとも痛いですか?」
また質問。
質問で注意を封じる。答えさせる。答えたら——もう「やめて」を言うタイミングがなくなる。
「っ……い、痛い……痛いから、やめ——」
「痛い? ごめんなさい」
指が離れた。
一瞬だけ。
そしてもう一度——今度は反対側の乳首を、きゅっとつまんだ。
「こっちも痛いですか?」
「ぁっ——!」
今度の声は——痛みだけじゃなかった。
甘い。はっきりと、甘い声が混じっていた。
ティアーユは自分の口を手で押さえた。
今の声を、自分が出したのだと信じたくなかった。
結城君の目が——一瞬だけ、光った。
光ったように見えた。
獲物を見つけた時の——。
(違う。そんな目じゃない。結城君は、ただの——)
*
ティアーユの心臓が、こめかみの辺りで暴れていた。
結城君の指が、まだ胸の近くにある。
離れてはいるけれど、いつでも触れられる距離。
(言わなきゃ)
今ここで、はっきり言わなければ。
教師として。大人として。
「こういうことはやめなさい」と。
——でも「やめなさい」は強すぎる。
結城君が傷つく。
結城君は悪い子じゃない。悪い子じゃないはずだ。
くすぐったいかどうか聞いていただけで。
触ったのは——ちょっとふざけすぎただけで。
それを教師が頭ごなしに叱ったら——。
(傷つけてしまう)
ティアーユの中で、それが最も大きな恐怖だった。
相手を傷つけること。
自分の言葉で誰かが傷つくこと。
それは——ヤミちゃんのことがあるから。
わたしの存在が、誰かを傷つけた。
だからもう、これ以上——誰も。
ティアーユは、意を決した。
右手を伸ばした。
結城君の左手を——握った。
「結城君」
声が、震えていた。
自信なんてなかった。教師としての威厳もなかった。
ただ、一人のおっとりした女が、精一杯の勇気を振り絞って。
「……こういうことは、やめようね……?」
語尾が上がった。
命令ではなく——お願い。
「やめなさい」ではなく、「やめようね」。
ティアーユの手が、結城君の手を握っている。
強く。自分でも驚くほど強く。
注意しているのに——手を離せない。
離す理由がない。いや、離すべきだ。注意しているのだから。手を握る必要なんてない。
なのに——指が、結城君の手に絡みついている。
結城君の顔を、ティアーユは見上げた。
椅子に座っているティアーユと、立っている結城君。目線の位置が違う。
結城君の唇が、一瞬だけ——弧を描いた。
にやり。
ほんの一瞬。まばたきしたら見逃すくらいの。
唇の端が、ほんの僅かに持ち上がった。
——見えた。
見えた、はず。
でも次の瞬間には、もう消えていた。
「すみません、先生」
結城君の声が——変わった。
さっきまでの、実験的で冷静で計算された声じゃない。
いつもの。爽やかで、少し申し訳なさそうな。いい子の声。
「ふざけすぎました。ごめんなさい」
頭を下げた。
綺麗なお辞儀。角度も深さも完璧。
反省している生徒の模範のような姿勢。
「あ……う、ううん、いいの……ふざけてただけよね……」
ティアーユは慌てて首を振った。
許してしまった。即座に。反射的に。
謝られたから。
謝られたら——許すしかないではないか。
反省しているのに追い打ちをかけたら、それこそ結城君が傷つく。
「大丈夫、気にしないで。でも、その……もうしないでね?」
「はい、もちろん。本当にすみませんでした」
結城君が微笑んだ。
爽やかに。まっすぐに。反省して、心から申し訳なく思っています、という顔で。
——セクハラなど、最初からなかったかのような空気が、生物準備室を満たした。
ティアーユは気づいた。
自分がまだ結城君の手を握っていることに。
「あっ——ご、ごめんなさい……手……」
慌てて離そうとした。
指が——一瞬、離れたくなさそうに絡まった。
自分の指が。結城君のじゃない。自分の指が。
ぱっ、と手を放した。
椅子の上で、ティアーユは膝の上に両手を乗せた。
結城君がプリントを畳んで、鞄にしまった。
「先生、ありがとうございました。減数分裂、よく分かりました」
「え、ええ……いつでも聞いてね……」
「じゃ」
結城君が背を向けた。
ドアに向かって歩いていく。
制服の背中。まっすぐな背筋。何事もなかった歩き方。
ドアノブに手をかけた。
振り返った。
「先生」
「……なに?」
「手、あったかかったです」
にこっ、と笑った。
ドアが閉まった。
足音が遠ざかっていく。
廊下の奥へ。
静かになっていく。
ティアーユは——椅子に座ったまま、動けなかった。
両手を、胸の前で組んだ。
さっきまで結城君を握っていた右手が——まだ温かい。
心臓が、どくどくと鳴っている。
乳首が、まだ硬いままだった。
ブラウスの上から、ぷっくりと突起が見えている。
ティアーユは両腕で胸を抱え込むようにして、椅子の上で身体を丸めた。
(何だったの……今の……)
分からない。
分からないけれど——ひとつだけ、確かなことがある。
「やめようね」と言った。
結城君は「すみません」と謝った。
もうしないと言った。
解決した。はずだ。
なのに——ティアーユの右手は、まだ結城君の手の温度を覚えている。
握った感触を。指の形を。
「……大丈夫」
ティアーユは自分に言い聞かせた。
「大丈夫。もう終わったんだから」
赤ペンを拾い上げた。
採点の続き。八枚目の答案。
文字が——滲んで見えた。
目が潤んでいた。
泣いているわけじゃない。泣く理由がない。
ただ——何かが、胸の奥で詰まっている。
名前のつけられない感情が。
ティアーユは目を拭って、採点を続けた。
丸。三角。丸。丸。
窓の外で、午後の陽が傾き始めていた。
感想もくれると嬉しいです