※この作品はR-18です。

五車湯屋繁盛記   作:U字

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潜入捜査ごっこ── (水城ゆきかぜ)

 

 俺が五車湯屋の暖簾をくぐったのは、完全に事故だった。

 

 ……いや、事故じゃない。同僚から白い名刺を渡されて、自分の足で来た。「面白い店がある。人生変わるぞ」。裏面には極小文字で「※施術内容は訓練目的です」──怪しさしかない。

 

 だが、俺はここにいる。

 

 週末の夜、繁華街の裏路地。名刺を手にした瞬間、何もなかったはずの雑居ビルの壁に暖簾が浮かび上がった。紺地に白抜きで「五車」。その時点で帰ればよかった。帰らなかった。

 

 暖簾の奥を抜け、壁を這う青白い紋様に導かれるまま階段を降りると、畳敷きの広間に出た。掘りごたつのある待合室。木製の番台。その奥に、白髪の老人が座っている。和服。温和な顔。目はほとんど閉じている。

 

 老人は俺を認めると、わずかに目を開いた。穏やかだが、底が見えない目だ。

 

「おや、新しい客人か。名刺を見せてもらえるかのう」

 

 名刺を差し出す。老人は受け取りもせず、一瞥しただけでうなずいた。

 

「ほほ、よいよい」

 

 番台の奥に板が掛かっている。忍名だけが筆書きされた指名ボード。「雷花」「霞桜」「刃霞」「蒼角」「天鼎」──写真は一枚もない。

 

 (……指名ボードに写真がないのは、ソープとして致命的じゃないのか)

 

 (いや、そもそもここはソープじゃなくて「療養研修施設」だったな。嘘つけ)

 

「初めてなら新人の子がおるぞい。『雷花』という。元気のいい子じゃ」

 

 断る理由もなかった。写真もないのに何を判断しろというのか。

 

「……じゃあ、その子で」

 

「ほう」

 

 老人が、妙に嬉しそうに目を細めた。

 

---

 

 地下二階の個室。引き戸を開けると、壁の紋様が稲妻のように一瞬だけ発光した。畳の上にマット、奥に小さな浴場。何かの訓練施設を風呂場に改装したような部屋だ。

 

 座って待っていると、五分もしないうちに扉が開いた。

 

 空気がピリっとした。静電気──いや、もっと鋭い何かだ。引き戸の隋間から、雷雨の前のような匂いが流れ込んでくる。

 

 最初に目に入ったのは、表情だった。

 

 やたらと気合の入った目。睨むようにこちらを見ている──が、その目の奥に余裕がない。気合と緊張の配分が、明らかに後者に偏っている。

 

 次に、肌の色。褐色。よく日に焼けた健康的な色で、それ自体が活発さを主張している。ミニスカートにニーハイソックス。ニーハイの締め付けから上に覗く素の太腿が、褐色の肌のせいで妙に目を引く。スレンダーな身体つき。

 

 彼女は扉を背にして仁王立ちになった。右手に紙を持っている。

 

「動くなっ!」

 

 声が裏返った。

 

「あなたは容疑者よ! 対魔忍──じゃなくて、捜査官のゆきか……えっと、雷花! 雷花が取り調べを行うわ!」

 

 (……いや、どう考えてもソープだろ、これ)

 

 (捜査官が手順書持ち込んでくるのかよ)

 

 「捜査資料」と油性ペンで書かれた紙。彼女の手の中で小刻みに震えていた。中身はどう見ても施術の手順書だ。

 

 (あと、いま自分の名前言いかけたな。ゆきか──なんだ?)

 

「いいこと? ここでは私が法よ。私の質問にだけ答えなさい。それ以外の発言は認めないわ」

 

 顎を上げて宣言する。声は強気だが、安定しない。語尾が微妙に上ずる。目線が一瞬だけ手元の紙に落ちた──台詞を確認している。

 

「まず、この部屋のルールを説明するわ」

 

 咳払い。紙をチラリと見る。

 

「一。容疑者は捜査官の指示に従うこと。二。捜査中に暴れた場合は雷撃で制圧するわよ。三。この部屋では私のことは雷花と──」

 

 一瞬、間が空いた。

 

「──雷花と呼びなさいよ! ゆきかぜなんて呼ばないでよね!」

 

 (…………お前が言ったんだが)

 

 誰もゆきかぜなんて名前は知らない。知らなかった。いま、自分で言った。

 

 ゆきかぜ。

 

 ……変な名前。

 

「な、なに笑ってるのよ! 笑うのは許可してないわ!」

 

 褐色の頬がわずかに赤い。気合の入った目が泳いでいる。手順書の震えが、さっきより大きくなった。

 

 (──こいつ、本気で緊張してるんだな)

 

「……よろしく、雷花」

 

「ふ、ふんっ。わかればいいのよ」

 

 鼻を鳴らして、手順書の最初のページをめくった。

 

 ページをめくる指先が、まだ震えていた。

 

 ──ゆきかぜ。

 

---

 

「えっと……容疑者の身体に、違法な対魔粒子が隠されている可能性があるの」

 

 ゆきかぜは手順書をチラ見しながら言った。目線が紙と俺を往復している。いや──俺じゃない。俺の身体と紙を往復している。顔は一度も見ない。

 

「だから──身体検査を行うわ。異論は認めないわよ!」

 

 (対魔粒子ってなんだよ。俺の体に隠してるのは財布と携帯だけだが)

 

「まず、服を脱ぎなさい。……自分で脱げるわよね?」

 

 自分で脱ごうとしたが、ゆきかぜが「捜査官の手で検める必要がある」と言い張り、自分でボタンに手をかけた。

 

 外し損ねた。

 

 もう一回。外し損ねた。

 

 三回目、ようやく外れた。

 

 (……お前がやるって言ったんだが)

 

 シャツを剥ぎ取られる。ズボンも脱がされる。ゆきかぜの手は全体的にぎこちなくて、力の入れ方が読めない。だが、触れるたびに指先からピリッとくる。あの静電気だ。扉が開いた時に感じたやつ。

 

 こっちが裸になると、ゆきかぜは一歩下がって、自分の上着に手をかけた。

 

 手早く脱ぐ。こちらを見ないまま。

 

 制服の下は、スポブラのような簡素なトップスだった。褐色の腹筋が薄く割れている。へそが出る。日に焼けた肌の色が均一で、水着の跡がない。

 

 ……一瞬、見惚れた。対魔忍の身体だ。引き締まっていて無駄がない。

 

「み、見るなっ! これは……捜査の準備なんだから……っ!」

 

 こっちを見ないで言っている。

 

---

 

 泡を立てるゆきかぜの手つきは、相変わらずぎこちなかった。

 

 手順書を浴場の縁に立てかけて、チラチラと確認しながら俺の胸板に手を乗せる。泡越しに、ゆきかぜの手のひらの温度が伝わってくる。温かい。褐色肌のせいか、体温が高い。

 

 そして──電流。

 

 胸板を滑る手のひらから、微弱な電気が泡を伝わってくる。ピリッ、と肌に走る刺激。痛みではない。もっと細かくて、深い。肌の表面だけじゃなく、筋肉の奥まで届くような感覚。鳥肌が立つ。

 

 (……なんだ、これ。マッサージか?)

 

 泡の下で、ゆきかぜの指が動くのがわかる。五本の指がそれぞれ別の生き物のように探り、ひとつひとつ泡を押し広げていく。指先から伝わる電流の強さは一定じゃない。親指が強く、小指が弱い。そのばらつきが不規則な波になって、肌の上を転がっていく。

 

 ──制御できてないんだな、これ。

 

 ゆきかぜの手が胸板からゆっくりと降りていく。デコルテ。肋骨。腹筋。手順書に書かれた通りの順番なのだろう。動きが機械的で、だからこそ変に色気がある。肋骨の上を指がなぞったとき、電流が少しだけ強くなった。反射的に息を吸う。ゆきかぜの指がビクっと引っ込みかけて──すぐに戻った。何事もなかったように。

 

 ……いや、いまの、絶対気づいてるだろ。

 

 もうひとつ気づいたことがある。匂いだ。ゆきかぜの手が近づくたびに、日焼け止めの匂いがする。清潔で甘酸っぱい。夏のプールサイドみたいな匂い。それが泡の石鹸の香りと混ざって、少しだけ湿った空気の中で漂っている。

 

 ──手が、止まった。

 

 下腹部の手前。ゆきかぜの指が、泡の上でぴたりと停止している。さっきまで機械的に動いていた手が、突然意思を持ったかのように止まる。指先からの電流が不安定に揺れている。泡が小さく波立つ。

 

 一秒。二秒。

 

 ゆきかぜの指先が、泡の中で微かに震えているのがわかる。波形が乱れるように、電流の強弱がばらつく。

 

「……ここにも、対魔粒子が隠れてる可能性がある、から……」

 

 声のボリュームが半分になっていた。手順書に目を落とす。紙を見て、俺の下腹部を見て、また紙を見る。その目線の往復が前より速い。焦っている。

 

 俺の顔は見ない。

 

 三秒。

 

 再開。手が降りる。

 

 触れた。

 

 ゆきかぜの指先から、電流が走った。さっきより明らかに強い。腹の底がぎゅっと締まる感覚が、背骨を伝って首の後ろまで駆け上がる。指先から流れ込んでくる電気の熱が、下腹の奥に溜まる。

 

 ……まずいな。勃起し始めている。

 

 ゆきかぜも気づいているはずだ。手の下で、竿が硬くなっていくのを感じたはずだ。だが何も言わない。指先の電流が一瞬途切れて、すぐに戻った。その動揺だけが、彼女の反応だった。

 

 それを感じ取ったのか、ゆきかぜの手が再び止まった。今度は一瞬だけ。すぐに動き出す──が、手順書にない動きが混ざり始めた。指先が震えている。泡を塗っているのか撫でているのか、自分でもわかっていないような手つき。

 

 呼吸が浅くなっている。ゆきかぜの、じゃない。俺のだ。

 

 いや──ゆきかぜもだ。

 

 肩が小刻みに上下している。息を殺そうとしている。だが隠しきれていない。そして相変わらず、俺の顔を見ない。手順書と身体の間を目が往復するだけで──顔だけは絶対に見ない。

 

 身体には触れているのに。

 

 (……この手の震え方。マジで緊張してるのか、これ)

 

 その時、ゆきかぜの手に力が入った。

 

 バチッ。

 

 電流が跳ねた。さっきまでの微弱な刺激とは桁が違う。下腹から太腿の裏まで、電気が一気に駆け抜けた。痛くはないのに、身体が勝手に反応する。腰がビクッと浮いた。

 

「ちょ……っ!」

 

 ゆきかぜが手を引っ込めた。両手を胸の前で握りしめている。さっきまで電流を流していた指先が、行き場を失ったように強く握られている。顔が真っ赤だ──褐色の肌越しでも、耳の先まで赤いのがわかる。

 

「ご、ごめん! 今のは──今のは捜査の一環であって、別にわざとじゃ──!」

 

 (捜査官がなんで俺に謝ってんだよ)

 

 (あと、いま一瞬捜査官の口調忘れたな。設定どこいった)

 

 ゆきかぜは慌てて手順書を拾い上げ、次のページを確認する。紙を持つ手が、さっきよりずっと震えていた。

 

 目が合わない。合わせようとしない。

 

 だが──指先にまだ残っている。ゆきかぜの電流と、体温と、日焼け止めの匂い。泡が消えかけた肌の上で、その三つが渾然とした残像になって、消えない。

 

---

 

 しばらく、無言の時間があった。ゆきかぜは深呼吸をして──それから、手順書の次のページに手を伸ばした。

 

 読んだ。

 

 固まった。

 

 目が泳いでいる──いつも以上に。紙面と俺の身体の間ではなく、紙面と虚空の間を往復している。明らかに、書いてある内容を事前に把握していなかった顔だ。

 

「……次は、身体の隅々まで、密着して……調べる、わよ」

 

 声が裏返りかけた。「密着」のところで一瞬止まった。

 

 (……密着捜査って、なに)

 

 マットに横たわるよう指示される。ゆきかぜは俺に背を向けて──ミニスカートを脱いだ。ニーハイソックスは残す。白のシンプルな下着。飾り気がない。リボンもレースもない。

 

 (……下着まで新人感あるの、逆にやばいだろ)

 

 褐色の肌に白い布。そのコントラストが、目を持っていく。背筋の線が綺麗だった。肩甲骨の下に薄く筋肉が走っている。戦う人間の背中だ。それが尾骨に向かって細く絞れ、腰のくびれを描いて、白い布の縁に消える。ニーハイと下着の間──何も覆わない褐色の太腿の後ろ側が、湿った空気の中で鮮明に見える。

 

 目を逸らそうとした。逸らせなかった。白い布の下に、脱いだミニスカートで隠れていた臀部の輪郭が見える。引き締まっているのに丸みがある。鍛えている人間の身体だ。

 

 ゆきかぜが振り向く。こちらを見ない。見ないまま、マットの上で体勢を整えようとして──

 

「あっ──手順、書……!」

 

 手順書が泡だらけのマットの上に落ちた。

 

 ゆきかぜが拾い上げるが、もう遅い。泡を吸った紙はぐちゃぐちゃで、インクが滲んで文字が読めなくなっている。ゆきかぜの表情に、明確な動揺が走った。頼りにしていた唯一のものが消えた顔だ。

 

 (……捜査資料が泡に沈んだぞ。これ証拠隠滅じゃないのか)

 

 ゆきかぜは滲んだ紙を浴場の縁に戻し、一瞬だけ目を閉じた。覚悟を決めるように。

 

 そして──覆いかぶさってきた。

 

---

 

 熱い。

 

 それが最初の感覚だった。

 

 ゆきかぜの身体が俺の上に乗った瞬間、肌から直接伝わる体温が衝撃的だった。さっきまでは手のひら越しだった。泡越しだった。今は違う。肌と肌が直接触れている。ゆきかぜの体温が、熱源のように俺の身体を温めていく。いや──熱すぎる。こいつの平熱、何度あるんだ。

 

 最初に触れたのは腹だった。ゆきかぜの腹筋が俺の腹に押しつけられる。薄く割れた腹筋の凹凸が、泡越しに伝わってくる。重い、と思った。だが重くない。スレンダーな身体は軽いのに、体温だけが重かった。熱に重さがあると思ったのは初めてだ。

 

 ゆきかぜの呼吸が伝わってくる。肌が触れているから、胸郭の膨らみが直接こちらへ波うつ──浅い。速い。緊張している呼吸だ。

 

 泡が二人の間で潰れていく。白い泡の中で肌が光る。ぬるぬると滑る感触の中で、ゆきかぜの身体の輪郭がわかる。鎖骨。肋骨。腹筋。腰骨。全部が泡越しに押し付けられて、どこにどのパーツがあるか、目を閉じていてもわかる。

 

 電流が、変わった。

 

 さっきまでは指先だけだった。今は──密着した肌の全面から。微弱な電気がゆきかぜの肌を伝って、触れている箇所すべてからピリピリと流れ込んでくる。胸板。腹。太腿。肌が触れるたびにバチッ、バチッと小さな放電音がする。制御が崩れ始めている。

 

 (泡が──肌が──こいつの肌、熱すぎ──)

 

「んっ……!」

 

 ゆきかぜが声を漏らした。短く、鋭く。すぐに歯を食いしばって殺した。だが聞こえた。泡が潰れる音の合間に、確かに。

 

「……動かないでっ……ちゃんと……調べてるんだから……っ」

 

 声が掠れている。捜査官の口調を維持しようとして、失敗しかけている。

 

 匂いが変わっていた。

 

 日焼け止めの清潔な匂いが、汗で薄まっている。代わりに、ゆきかぜの肌そのものの匂いが立ち上ってくる。甘酸っぱい──潮の匂いに似ている。プールサイドの匂いが、海辺の匂いに変わっていく。汗と体温で溶けた日焼け止めの下から、素の匂いが染み出してくる。

 

 ──匂いが、まずい。頭が鈍る。

 

 ゆきかぜが体勢を変えた。俺の上で身体を滑らせて、全身で泡を塗り広げるように動く。手順書に書いてあった動きを記憶で再現しているのだろう。だがぎこちなさが消えていない。むしろ、手順書がないぶん動きに迷いがある。上に行くか下に行くか、一瞬身体が止まって──そのたびに密着面から電流が走る。バチ。その音が、ゆきかぜの迷いを可視化していた。

 

 泡越しに、ゆきかぜの胸が俺の胸板を滑った。

 

 控えめな膨らみ。だが乳首が立っているのが、泡越しの圧力でわかる。胸が小さいから、その変化が直に伝わる。硬く勃起した乳首が、俺の肌の上を引っかく。ゆきかぜの身体が上下に動くたびに、それが俺の肌の上を引っ殱いて消える。ゆきかぜ自身は気づいていない。気づいていれば、もっと慌てるはずだ。

 

 (──やめろ)

 

 ゆきかぜが身体を反転させた──背中を俺の胸に押しつけた。肩甲骨の線が胸板に食い込む。さっき背中越しに見ていた筋肉の輪郭が、今度は感触として伝わってくる。うなじの線が、泡越しに俺の上を滑る。

 

 ──だめだ。そろそろ、正常な思考が保てなくなってきた。

 

 太腿が、俺の腰を挟んだ。

 

 ニーハイソックスの締め付けの上──素肌の太腿が、俺の腰の両側に密着する。肌の内側。挟まれた瞬間、熱さが跳ね上がった。太腿の内側は、他のどこよりも体温が高い。ニーハイの繊維と素肌の境界線が、太腿にリング状の跡を残している。その跡の内側──締め付けから解放された肌が、わずかに白く、柔らかい。

 

 そして──気づいた。

 

 太腿の内側を伝う液体が、泡じゃない。

 

 透明で、粘度がある。愛液だ。糸を引いている。太腿の付け根から、ゆっくりと下へ伝っていく。俺の肌に触れて、温かい。

 

「これは……泡なんだから……っ! 捜査の、一環なんだから……っ!」

 

 声が震えている。さっきの強気な宣言が嘘のように、語尾が揺れる。

 

 (……電流がまた──手が震えてる。さっきからずっと──)

 

 ゆきかぜの身体は俺に密着している。腕。胸。腹。太腿。肌という肌が触れている。電流が全身から流れ込んでくる。呼吸が浅くなる──俺の呼吸が。声を殺す側に回っている。いつの間にか、攻守が曖昧になっている。

 

 ゆきかぜの手が俺の胸板の上についた。泡まみれの手のひら。その手がまだ震えている。密着しているから、震えが肌越しに直接伝わってくる。その下に、俺の心臓がある。速いのが、伝わっているはずだ。

 

 ゆきかぜの指が、一瞬だけ強く押した。心臓の位置を確かめるように。その指先から、微かな電流が心臓に向かって流れた。肌の奥が、脈打つ。

 

 だが──ゆきかぜの顔だけが、横を向いていた。

 

 身体は密着して絡み合っているのに。肌のすべてを押しつけているのに。顔だけが横を向いて、俺の目を避けている。横を向いた顔の、耳の先が赤い。肌の色でも隠せない赤。

 

 身体を許すより、目を合わせる方が恥ずかしいのか。

 

 密着した状態で、ゆきかぜの心臓の音が聞こえる。速い。抑えようとして、抑えられていない。さっき俺の胸の上に置かれた手──あの指の下で感じたのと同じ鼓動が、今度は密着した胸越しに直接伝わってくる。俺の心臓とゆきかぜの心臓が、胸越しに互いの拍動を感じている。

 

 (こいつ、本気で緊張してるんだ。慣れてるフリしてるだけで──)

 

 手順書もない。台詞もない。マニュアルもない。それでもやり通そうとしている。震える手で、泡を塗り広げ続けている。俺の身体に密着したまま、顔だけをそらし続けている。

 

 この手は──まだ、震えている。

 

 最初に捜査資料を持って仁王立ちしていた時から、ずっと。

 

---

 

 ゆきかぜが、身体を起こした。

 

 俺の上に跨ったまま、息を整えている。泡はもうほとんど残っていない。汗と体液で滑る肌が、部屋の青白い非常灯に光っている。肩が上下する。呼吸を整えようとして、整えきれていない。

 

「これが……最終尋問よ」

 

 声が掠れていた。捜査官の口調を保とうとしている──が、語尾が揺れる。唇が乾いている。無意識に舌で湿らせたのが見えた。

 

「自白したら、解放して……あげる、から……っ」

 

 目が泳いでいる。手がまだ震えている。手順書はもう存在しない。記憶と即興だけで、ここまで来た。

 

 ゆきかぜが両手を俺の胸板についた。体重を預けるように。指が胸板に食い込む。そこから微弱な電流が流れてくる──不安定に。泡がないぶん、電気の感触がより直接的で、指先の震えがそのまま電流の揺らぎになっている。

 

 その手が、まだ震えている。手順書がないから、余計に。何を頼りにすればいいかわからないまま、それでもやり通そうとしている手だ。

 

 ──気づいたら、握っていた。

 

 ゆきかぜの震えている手を。

 

 ゆきかぜの指は細かった。握った瞬間にわかった。あれだけの電流を操る手なのに、骨の感触がわかるほど細い。手のひらから伝わる体温は、身体の他の部位と同じように熱い。だが電流が──止まった。握った瞬間、あれだけ揺れていた電流がぴたりと静まった。

 

「手順書なんか見なくていいよ」

 

 ゆきかぜの動きが止まった。

 

 握られた手の中で、震えが一瞬だけ大きくなって──それから、少しだけ収まった。指が、俺の手の中で力を失いかけて、でも引っ込めない。しがみつくように、微かに握り返してきた。

 

「……なに、それ。容疑者のくせに……っ」

 

 手を振りほどかない。

 

 代わりに──初めて、俺の目を見た。

 

 ここまで、ずっと。洗体の時も。マットの時も。身体には触れても、顔だけは絶対に見なかった。身体を許すより、目を合わせる方が恥ずかしかったゆきかぜが。

 

 握られた手の温かさに導かれるように、顔を上げて、俺の顔を見た。

 

 目が合った。

 

 ゆきかぜの瞳は──琥珀色だった。こんな色をしていたのか。あれだけ近くにいて、あれだけ肌に触れていて、ずっと目を逸らされていたから、知らなかった色だ。潤んでいる。睫毛が長い。目尻に汗が溜まっている。頬に赤みが走る──その赤は、耳の先の赤と同じ色だ。さっきまで横を向いていた顔で隠していた色。

 

 ゆきかぜの唇が、微かに震えた。何か言おうとして、言えない。

 

 捜査官役のゆきかぜじゃない。ゆきかぜ自身が、そこにいた。

 

---

 

 挿入。

 

 ゆきかぜの内側は、外よりもっと熱かった。

 

 さっきまで肌の表面で感じていた体温の比じゃない。溶ける、に近い感覚。ゆきかぜが息を呑む音が聞こえた。腹筋が硬直するのが、繋がった状態で伝わってくる。膣壁が、竿を包むように締まる。きつい。小さな身体の内側は狭くて、亀頭が奥に押し当てられる。

 

 指先で触れていた時の電流、密着していた時の全面の電流──それとも全く違う。膣壁からの電流は、直接神経に触れるように流れ込んでくる。快感と痛みの境界が消える。ピリピリではない。もっと深い。脊髄まで届くような、鈍い衝撃波。奥に行くほど電流が強くなる。ゆきかぜの最も深い場所が、最も電圧が高い。

 

「っ……!」

 

 ゆきかぜの短い声。歯を食いしばった声。握った手に力がこもる──痛いくらいに。目は──まだ、俺を見ている。潤んだ目が逸らされない。さっきまでずっと逸らしていたのが嘘のように、今度は外せなくなっている。視線が絡まっている。目と目の間の距離が、物理的な距離より近い。

 

 最初は、俺に委ねていた。手を握られて素に戻ったゆきかぜは、捜査官の虚勢が剥がれて、どう動けばいいかわからないようだった。俺が腰を動かすたびに、ゆきかぜの瞳が揺れる。内壁の電流が乱れる。手を握る力が、動くたびに変わる。

 

 だが──長くは続かなかった。

 

 ゆきかぜの眉が寄った。何かに苛立っているような──自分に、だ。次の瞬間、腰が動いた。

 

「わ、私の……方が……捜査官なんだから……っ!」

 

 ゆきかぜが自分から腰を動かし始めた。俺の手を握ったまま──離さないまま。騎乗位。ゆきかぜの腰が、覚束ない動きで前後に揺れる。

 

 最初は、ぎこちなかった。リズムが定まらない。腰の動きに合わせて内壁の電流が乱れ、自分の電流に自分で反応して、動きが止まりかける。だがすぐに再開する。歯を食いしばって。

 

 汗で肌が光る。紅潮が首から胸元まで広がっている。控えめな胸が、腰の動きに合わせて小刻みに揺れる──揺れが小さいからこそ、呼吸の深さが伝わる。腹筋が、動くたびに薄く浮き出る。さっきマットの上で泡越しに感じた凹凸が、今は目に見える。汗が腹筋の溝を伝って流れ落ちる。

 

 膣壁からの電流が、ゆきかぜの動きに合わせて波打つ。制御は完全に崩壊している。二人の密着面から微弱電流が全身に広がり、繋がった部分から互いに流れ込む。ゆきかぜが腰を落とすたびに膣壁が竿を締め、俺が突き上げるとゆきかぜの電流が乱れる。フィードバックが閉じている。

 

「こ、これは……取り調べの一環で……っ♥」

 

 ごっこの台詞だ。だが声が変わっている。語尾の強がりが崩壊していく。捜査官の仮面の下から、ゆきかぜ自身の声が漏れ始めている。

 

 日焼け止めの匂いは完全に消えていた。汗と体液と電気の匂いだけが、部屋の空気を満たしている。ゆきかぜの肌の匂いが最も濃くなる。鼻から吸い込むたびに、頭の奥が痺れる。

 

「もっと……っ♥♥」

 

 語尾がなくなった。捜査官はもういない。ゆきかぜの声だけがある──生の、飾りのない声。

 

 腰が勝手に動く。合わせるように──いや、合わせている。

 

 ゆきかぜの腰のリズムが不規則になる。一つのリズムを探して、見つけて、速くなる。握った手に力が入る──ゆきかぜの手が、俺の手を握り締めている。指と指が絡んでいる。手のひら越しに、互いの脈拍が伝わっている。

 

 ゆきかぜの目は、まだ俺を見ている。手を握られてから、一度も逸らしていない。潤んだ目でこちらを見たまま、腰を動かしている。睫毛に汗の粒がついている。琥珀色の瞳が、非常灯の青白い光を反射して、濡れた宝石のように光っている。

 

 二人の体温の境界が消失していた。どこまでが俺でどこからがゆきかぜかわからない。電流で繋がって、体温で混ざって、膣壁が竿を締めたまま離さない。もう分離できない。

 

「──っ!」

 

 声にならない。ゆきかぜの目が見開く。内壁の電流が最大になる。腰が止まりかける──が、止まらない。止められない。

 

 俺は──忍名「雷花」ではなく。

 

「ゆきかぜ──」

 

 目が合ったまま、名前を呼んだ。

 

 ゆきかぜの瞳が、大きく見開かれた。本名を──目を見て──呼ばれた。琥珀色の瞳の中に、俺が映っている。

 

 ゆきかぜの膣壁が締めつけた。その収縮と電流が俺の絶頂を引き出す。二人同時に。ゆきかぜの中で射精した。膣の奥に精液が出る感覚と、膣壁の電流が同時に走る。全身の筋肉が一瞬だけ強張って、ゆきかぜの身体も同時に硬直して──弛緩する。電流が全身を駆け巡って、最後に指先から抜けていく。

 

 ゆきかぜの雷遁が暴走した。部屋全体に放電。壁の紋様が一斉に発光し、照明が弾ける。

 

 暗転。

 

 暗闇の中で、ゆきかぜの身体が俺の上で崩れた。汗ばんだ肌から蒸気が立ち上る。肌と肌が触れている箇所だけが、温かい。中で脈打つ感覚だけが残っている。ゆきかぜの心臓の音が、胸越しに聞こえる。さっきまでの速さではない。ゆっくりと、落ち着いていく。俺の鼓動と、少しずつリズムが揃っていく。

 

 ゆきかぜの指が、俺の手を握り返していた。さっきまで震えていた手が、今は汗ばんで、力が抜けている。震えが──止まっていた。

 

 暗闇と、体温と、電気の残り香。

 

 それだけが、部屋を満たしていた。

 

---

 

 非常灯が点いた。青白い光が、ゆっくりと部屋を照らす。

 

 ゆきかぜは俺の横に座っていた。肩が触れる距離。泡はとっくに乾いていて、二人とも裸のまま。太腿を伝う精液と愛液が、まだ乾ききっていない。

 

「……照明、壊しちゃった。また怒られるわ」

 

 声が低かった。捜査官の口調が、完全に消えている。疲れた声。でも──柔らかい。さっきまでの強がりも、ごっこの台詞もない。ゆきかぜの、素の声。

 

 (……指先がピリピリする。電流の後遺症か? これ、病院行った方がいいやつか?)

 

 ツッコミが戻ってきた。だが温度が違う。余韻がまだ抜けない。匂いと体温と電流の境界がまだ曖昧で、どれがどれかわからない。ゆきかぜの肩が触れている部分だけ熱い。それが電流の余韻なのか体温なのか、区別がつかない。

 

 ゆきかぜが太腿を閉じた。内腿の濡れを隠すように。それからニーハイソックスを引き上げ直す。泡と汗でずり落ちたニーハイ。わざわざ引き上げるのか。裸なのに。

 

 (……ニーハイを直す優先度、そこじゃないだろ)

 

 ゆきかぜが、浴場の縁に放置されていた手順書に手を伸ばした。泡を吸ってぐちゃぐちゃになった紙。拾い上げる。もう何も読めない。

 

「……報告書、書かないといけないのに」

 

 滲んだ紙を見つめている。しばらくそのまま。

 

 それから──紙を畳んで、胸に押しつけた。捨てない。

 

 (……捜査資料を胸にしまうのか。証拠隠滅の次は持ち逃げかよ)

 

 間。

 

「……次も、取り調べに来なさいよ♡」

 

 目を逸らした。

 

 だが──逸らし方がさっきまでと違う。洗体やマットの時の「恥ずかしくて見れない」じゃない。見て、知って、その上で逸らしている。琥珀色の瞳に俺が映っていたことを、ゆきかぜも覚えているから。

 

 (……捜査官が容疑者にリピートを求めるな)

 

「……よろしく、ゆきかぜ」

 

 名前で呼んだ。今度は──絶頂の最中じゃない。

 

 ゆきかぜの肩が、ぴくっと跳ねた。首筋が赤い。

 

「ら、雷花って呼びなさいってば……っ!」

 

 声が裏返っていた。

 

---

 

 番台に戻ると、じいが座っていた。来た時と同じ場所で、同じ姿勢で。目はほとんど閉じている。

 

 俺の顔を見た。一瞬だけ目を開いて。

 

「よかったのう」

 

 一言。それだけ。全部察しているような目を細めて、もう閉じた。

 

 暖簾をくぐって、外に出た。

 

 夜明けの空気が冷たい。地下の湿った空気と、ゆきかぜの体温に慣れた肌に、三月の夜明けが突き刺さる。

 

 ポケットに手を入れた。

 

 名刺の角が、指先に触れた。

 

 ──指先が、まだピリピリしている。

 

 

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