名刺のせいだ。
一回だけ様子を見に行こう、と思った。思っただけで足が動いた。週末の夜、同じ裏路地。同じ雑居ビルの壁に暖簾が浮かび上がるのを見て、あ、覚えてるな──道順を。足が勝手に動いている。
暖簾をくぐった。二回目。
階段を降りる。壁を這う青白い紋様に導かれて。前回と同じ道。
番台のじいが、目を開いた。前回より速い。覚えられている。
「おや」
一文字。それだけで全部伝わった。「また来たのか」と「知ってたぞ」が同時に入っている一文字。
ポケットの中の名刺に触れた。角が指先に当たる。捨てていない。
「今日は桜花を試してみるかのう。明るくてよい子じゃ」
(……前回の「元気のいい子」と何が違うんだ。語彙のバリエーション、もう少し頑張れ)
指名ボードを見る。前回は見る余裕もなかったが、今回は文字が読める。「雷花」「霞桜」「刃霞」「蒼角」「天鼎」。前回指名した「雷花」の文字が、妙に見慣れている。
「……桜花で」
「ほほ」
じいが目を細めた。
---
地下二階。前回と同じ階だが、通された個室が違う。
引き戸を開けた瞬間、甘い匂いが鼻を突いた。
前回の部屋は雷紋だった。ピリッとした空気。今回は──桜。壁の紋様が桜の花弁を模していて、淡いピンクの照明が部屋全体を染めている。奥の浴場には桜の花びらの入浴剤が浮いていて、湿った空気に甘い匂いが混ざっている。甘い、というより──柔らかい匂いだ。前回の空気が「緊張」なら、ここは「弛緩」だ。入る前から力が抜けていく。
(……各部屋カスタマイズされてんのか。設備投資えぐいな)
座って待つ。前回は五分もしないうちに扉が開いた。今回は──
三分。
扉が開いた。前回より速い。
最初に目に入ったのは、笑顔だった。
ゆきかぜは気合の入った目で睨んできた。こいつは笑っている。目が三日月になるような笑い方。扉を開けた瞬間からもう笑っている。緊張がない。ゼロ。
オレンジがかった金色の髪が肩にかかっている。湿った空気のせいで毛先が少しだけカールしている。桜色の浴衣。帯はゆるめに結んであって、鎖骨のあたりが覗いている。浴衣と肌の間に空間がある。結びが甘い。わざとなのか、ただ雑なのか、この時点ではわからない。
白い肌。前回の嬢の褐色とはまるで違う。部屋の照明のせいか、肌全体がほんのりピンクに見える。桜の匂い──入浴剤の匂いだと思った。だが桜花が近づくにつれて、匂いが濃くなる。入浴剤だけじゃない。こいつの肌の匂いが混ざっている。最初から。
顔立ちが幼い。年齢はゆきかぜと同じくらいのはずだが、もう少し下に見える。目が大きい。笑うと三日月になるが、笑っていないときは──そういえば、まだ笑っていない瞬間を見ていない。
柔らかい。──見ただけでわかった。身体の線が全体的に丸い。前回の引き締まった腹筋や鍛えた背筋とは違う。角がない。浴衣の合わせから覗く胸の膨らみが、前回より明らかに大きい。
「いらっしゃい♪ わたしが桜花だよ♪ 今日はわたしが先輩として、いろいろ教えてあげるね♪」
声が明るい。声量もある。ゆきかぜの裏返った宣言とは対照的に、よく通る声で、淀みがない。
(……先輩ソープ嬢ってなんだ。そんな職種あんのか)
桜花がこちらに歩いてくる。歩き方が軽い。浴衣の裾が翻るたびに白い脛が覗く。畳の上に正座した。俺の正面。距離が近い。膝と膝が触れそうな位置。桜の匂いが、また濃くなった。
「今日のカリキュラムを説明するね♪」
「新人研修カリキュラム」と書かれた紙を広げた。手書き。丸文字。要所に花丸がついている。「洗体実習」の横に小さな泡のイラスト。「密着実技」の横にはハートマーク。丁寧に描いてある。「最終試験」の横には──何も描いていない。空白だ。
(……捜査資料と丸文字カリキュラム。前回と今回で書類の格差がありすぎる)
(……待て。「最終試験」の横、何も描いてないぞ。あれだけ空白なのか)
「えっとね♪ 一時間目が洗体実習、二時間目が密着実技、三時間目が最終試験♪。」
笑顔のまま一気に言い切った。だが最後の「最終試験♪。」だけ、何かが引っかかった。
(……気のせいか?)
「お客さんは今日から新人さんだよ♪ わたしが手取り足取り教えてあげるから、安心してね♪」
手取り足取り。
(……文字通りの意味で使ってないことを祈る)
桜花の目が、正面から俺を見ている。ゆきかぜは目を合わせなかった。顔だけは絶対に見なかった。この子は違う。正面から、三日月の目で、笑ったまま見ている。見られていることが据わる感覚。ゆきかぜの「見ない」もきつかったが、こいつの「見る」はもっときつい。目を見ているのに、中身が見えない。笑顔が壁になっている。
視線を外したのは、俺の方だった。
(……なんだ。緊張してるのは俺の方かよ)
「あ、緊張してる?♪ 大丈夫だよ♪ わたし、優しく教えるからね♪」
笑顔。目が三日月。声が明るい。余裕しかない。
前回の「動くなっ!」が、妙に懐かしかった。
---
「じゃあ、一時間目はじめるね♪」
桜花が立ち上がった。俺の前で。
帯に手をかけた。
ためらいがない。
前回の嬢は、こちらに背を向けて脱いだ。「見るな」と言った。こいつは違う。正面を向いたまま、笑顔のまま、帯を解いている。こちらを見ながら。いや──見せながら。
帯が滑り落ちた。桜色の布が畳の上に広がる。
浴衣の合わせが緩む。片方の肩からずり落ちる。鎖骨が出る。白い。照明のピンクが肌の上で桜色に溶けている。汗もかいていないのに、肌が仄かに光っている。
「お湯のせいかな、ちょっと赤くなっちゃった♪」
(……まだ湯気にすら触れてないが)
浴衣がさらにズレる。もう片方の肩からも落ちて、胸の上で布が引っかかっている。乳房の膨らみが浴衣を支えている。重力に抗えなくなる寸前で止まっている。
止まっている。
動かない。
「ねぇ、お客さん」
桜花が首を傾げた。笑顔のまま。
「脱がしてほしいなぁ♪」
(……お手本を見せるんじゃなかったのか。いつの間に参加型になった)
「だって、先輩が手取り足取り教えるには、新人さんも一緒にやらないと♪」
手取り足取り。さっきの台詞が、文字通りの意味で返ってきた。
──手を伸ばした。浴衣の合わせに指をかける。
浴衣を肩から下ろす。布が腕を伝って落ちていく。桜の匂いが跳ねた。
白い。
肩。二の腕。胸。腹。鍛えた身体じゃない。全部が柔らかい。筋肉の線がない。どこを見ても丸みがある。腰のくびれが深くて、その下の尻が大きい。
胸が露わになった。でかい。前回の控えめな膨らみとは明確に違う。重みがある。浴衣が落ちた反動で、たぷん、と揺れた。重みのある乳房が、重力でわずかに垂れて、先端にピンク色の乳首がついている。乳輪が大きい。小さく勃起しているのがはっきり見える。
桜花は恥ずかしがらない。
隠さない。視線を外さない。俺が胸を見ているのを見ている。その上で笑っている。
「えへへ♪ じゃあ、お客さんも脱ごうね♪」
桜花の手が、俺のシャツのボタンに伸びた。
前回は、嬢がボタンを外し損ねた。三回目でようやく外れた。あの手は震えていた。
桜花は一回で外した。迷いがない。二つ目。三つ目。指の動きが滑らかで、力が入っていない。シャツが開いていく。桜花の顔が近い。ボタンを外すたびに毛先が俺の胸に触れて、離れる。甘い匂いが、こっちの身体にまで移り始めている。
「お客さんの身体、硬いね♪ 力、抜いていいんだよ♪」
桜花の指先が、シャツを剥いだ俺の胸板にそっと触れた。確かめるように。
冷たくない。温かい。指先の温度が、さっき正座の時に膝越しに感じた体温と同じだ。この子は全身が温かい。指先まで。
(……力を抜けって言われても、お前がいるから抜けないんだが)
桜花の手が、俺のベルトに伸びた。──ここから先は、説明する必要があるか? 一言も喋れないまま脱がされた。笑顔で。「えへへ、お客さんも元気な身体だね♪」。それは説明しなくていい。
浴場に移動した。桜の花びらが浮いた湯に身体を沈める。湯が桜色をしている。入浴剤の匂いが蒸気に乗って濃くなる。
桜花が隣に入った。裸のまま。距離がない。湯の中で太腿が触れた。柔らかい。湯温とは別の温かさが伝わってくる。
「じゃあ、洗い方のお手本を見せるね♪」
桜花が俺の手を取った。
右手を、桜花の手の上に重ねる。指を絡めるように、俺の手を掴んで、自分の身体に導いた。
「ここをね、こうやって、くるくるって……♪」
──俺の手で、桜花の身体を洗わせている。
手のひらの下に桜花の肌がある。泡越し。だが泡の質が前回と違う。桜の入浴剤が混ざっているせいか、油分が多い。滑る。前回の泡は摩擦があった。肌の輪郭がわかった。今回は──滑りすぎる。指が意図した場所に留まらない。腹を洗おうとして、指が肋骨の下を滑って、胸の下に入り込む。
「あ、そこそこ♪ もうちょっと上♪」
桜花の手が、俺の手を胸に導く。
触れた。前回とは物理が違う。手のひらに収まらない。指の間から溢れる。泡越しに揉んだら指が沈む。弾力があるのに底がない。手のひら全体で揉んでもまだ余る。
手のひらの中心に、硬い粒が触れた。乳首の位置が、泡越しに伝わる。
「えへへ♪」
桜花が笑った。感じているのか。面白がっているのか。──区別がつかない。声のトーンが変わらない。
「あ、そこ、くるくるじゃなくて、もみもみだよ♪」
(……指導内容がおかしい)
俺の右手は桜花の胸の上にある。桜花に導かれるまま揉んでいる。触っているのか触らされているのか、もうわからない。
──もう片方の桜花の手が動いた。
俺の下半身に。
「お客さんの方も洗わないとね♪」
笑顔のまま、泡をつけた手が俺の性器を包んだ。
親指が泡の上を軽く滑った。柔らかい。力がない。撫でるように。
──突然、五本の指が全部閉じた。
握られた。
息が止まった。
次の瞬間には緩んでいる。また親指だけが滑る。ゆっくり。力がない。──また五本が閉じる。
──どっちだ。来るのか来ないのか。
パターンが読めない。いつ来るかわからない。身体が構えようとするが、構えた瞬間に緩む。緩んだ瞬間に握られる。身体の反応が、全部後手に回る。
「あ、元気になってきたね♪」
勃起している。完全に硬くなっている。桜花に握られている。桜花の手は温かい。泡越しでも、体温が伝わってくる。五本の指が竿の形をなぞるように動いている。親指が亀頭の縁を撫でるたびに、腰が勝手に跳ねる。
(──待て。何が起きてる。なんでこいつ笑顔のまま俺の──)
右手は桜花の胸の上にある。左手は湯の中で行き場を失っている。桜花の右手は俺を握っている。攻めているのか攻められているのか、もうわからない。
呼吸が乱れている。俺の方が。
桜花の呼吸は、変わらない。安定している。笑顔のまま。前回は──前回は、嬢の呼吸も乱れていた。二人とも乱れていた。今回は違う。俺だけだ。
「触るとぽかぽかするでしょ♪」
桜花が笑った。湯気の向こうで、髪が頬に張りついている。頬がピンクに染まっている。──湯のせいか。湯のせいだと思いたい。
(……こいつの余裕はなんなんだ。俺の方が先に壊れるぞ、これ)
---
「じゃあ、二時間目♪」
桜花が湯から上がった。水滴が白い肌を伝っている。拭かない。濡れたまま、マットの上に立った。
「次はね、密着の仕方♪」
桜花が振り返った。髪が水滴を散らす。濡れた髪が首筋に張りついている。背中が白い。腰のくびれから臀部にかけての曲線が、湯気の中で揺れている。
「これ、お姉ちゃんに教わったテクニックなんだ♪」
(……何教えてんだ)
マットに泡が広がった。桜花が手で泡を塗り広げている。丁寧に。花を植えるような手つき。──その泡の上に、俺を仰向けに寝かせた。
「はい、ごろんして♪」
ごろん。
背中に泡の感触。冷たくない。桜の入浴剤の甘い匂いが、蒸気よりもっと近い距離で鼻に入ってくる。
桜花の手が──手が、離れた。代わりに全身が来た。
桜花が、俺の上に乗った。
全身で。
重さがある。だが重くない。柔らかい。胸が俺の胸板に押しつけられて潰れている。あのでかい乳房が横に広がって、乳首が俺の肌に直接当たっている。
腹が腹に重なっている。桜花の陰毛の感触が下腹に触れる。太腿が太腿に重なっている。泡が二人の間で潰れて広がって、身体の隙間を埋めていく。
──体温。
桜花の体温が、全身から染みてくる。「温かい」。じんわりと、芯まで温める体温。包み込むような。──そして動く。
桜花が身体を滑らせ始めた。
胸が俺の胸板の上を滑る。大きさがある分、圧力がある。押しつけられて潰れて、広がって、泡と一緒に滑って、また戻ってくる。勃起した乳首が俺の肌の上を引っかくように通過する。そのたびに、背中がゾクッとする。
腹が腹を擦る。太腿が太腿を挟む。泡の油分で滑る。摩擦がないのに、圧力がある。逃げ場がない。全面が接触している。
匂いが変わった。
桜の入浴剤が汗で薄まり始めている。代わりに──桜花の肌の匂いが立ち上がってくる。甘い。入浴剤と同じ甘さ。最初から区別がつかなかったが、今はもう完全に混ざっている。桜花の肌自体が桜の匂いなのか。桜の匂いが桜花に染みているのか。どっちかわからない。どっちでもいい。甘い。
「えへへ、くすぐったいね♪」
桜花が密着したまま笑っている。笑い声が胸板から直接伝わってくる。振動として。俺が苦しんでいるのに、笑っている。この非対称が──恐ろしい。
「あのね、ここでね、こうやって腰を動かすと──」
桜花の腰が、俺の上で動いた。泡で滑る。太腿が俺の腰を挟んで、ゆっくり、前後に。勃起した竿の上を、桜花の湿った割れ目が滑っている。泡の膜一枚を挟んで。だがその膜が薄い。桜花の割れ目の熱さが、竿の裏筋に直接伝わってくる。入ってないのに、入っているような熱さ。
内語が壊れ始めた。
(考えるな……考えるな……でもこいつの腰が──)
声を殺している。俺が。息を噛む。奥歯を噛み締める。あの時は──嬢も声を殺していた。二人とも。今回は俺だけだ。桜花の呼吸は乱れない。安定している。密着しているから呼吸の速さがわかる。胸板越しに心拍が伝わる。速くない。平常。
「我慢しなくていいよ♡」
笑顔。この笑顔がいちばん怖い。
(……怖い?)
自分の内語に引っかかった。怖い。そうだ、怖い。この笑顔が怖い。
桜花の顔が近い。密着したまま、顔を持ち上げて、俺の顔を覗き込んでくる。目が合う。三日月の目。ゆきかぜは目を逸らした。桜花は逸らさない。むしろ──近づいてくる。
「お客さん、顔赤いよ♡ 大丈夫?♡」
大丈夫なわけがない。
覗き込まれている。密着したまま。俺の性器の上に腰を置いたまま。その状態で「大丈夫?」と聞いてくる。
(……こいつ、無邪気なのか。計算なのか)
──どっちでも怖い。
その「怖い」が、口から出そうになった。飲み込んだ。まだ。まだ大丈夫。まだ俺は壊れていない。
(……まだだ。まだ耐えろ)
桜花の笑顔が、ゼロ距離にある。甘い匂いがする。温かい。そして──読めない。
---
「じゃあ──最終試験♪」
桜花の声のトーンが、変わった。
♪はついている。笑顔もある。だが──何かが違う。さっきのカリキュラム説明で引っかかった、あの「最終試験♪。」の硬さ。あれと同じものが、今の声にある。
目の奥だけが変わっている。何が変わったかは言語化できない。同じ三日月の目なのに。同じ笑顔なのに。──何かが、奥にある。
桜花が身体を起こした。俺の上に跨ったまま。騎乗の姿勢。
髪が汗で頬に張りついている。胸が汗で光っている。泡はとっくに流れている。肌と肌の間に残っているのは、汗と、桜花の体温だけ。
桜花の手が、俺の性器に触れた。
位置を合わせている。笑顔のまま。ためらいがない。
──入った。
桜花が腰を降ろした。
温かい。
温かい、の延長。だが──深い。表面の体温よりさらに奥に、熱い場所がある。内壁が柔らかく締まる。膣のひだが竿全体を包み込んで、亀頭を奥まで咥え込んでいる。
鋭い刺激はない。前回の嬢の内側は電流が走っていた。桜花は違う。全方位から、柔らかく圧迫されている。膣壁が竿の形に合わせて絞ってくる。逃げ場がない。
桜の匂いが、最も濃い。汗と混ざって、甘い。甘すぎる。
「ね、気持ちいいでしょ♡」
笑顔のまま腰を動かし始めた。ゆっくり。リズムが正確。一定の速度で、一定の深さで、腰が前後する。根元まで飲み込んで、亀頭だけ残して引き抜き、また根元まで。膣壁が竿を撫で上げるように締まる。このリズム──手順を知っている。いや、教わっている。教科書通りだとしたら。
(……この教科書を書いた奴が怖い)
速くならない。同じリズムで、同じ深さで、俺の限界に向かって導いていく。
髪が顔にかかる。桜の匂いが近い。胸が視界を塞ぐ。汗で滑る肌。泡はもうない。肌と肌だけ。
桜花の笑顔がずっとそこにある。笑顔のまま、俺を壊していく。
内語が──
(ま──)
桜花の腰が動いている。膣壁が締まる。亀頭が奥の壁に当たるたびに、腰から背骨に快感が這い上がる。温かい。甘い。笑顔が見える。目が三日月。声が聞こえる。「えへへ♪」──
「あ──だめ──」
限界だった。
桜花の中で果てた。射精した。桜花の膣の奥に、全部出した。
一方的に。完全に。同時ではない。俺だけが先に壊れた。桜花の腰は止まらなかった。俺が中に出している間も、同じリズムで、笑顔で、腰を動かし続けた。精液を絞り切るように膣壁が収縮して、絶頂の波が引くまで桜花が受け止めていた。
「えへへ、出ちゃったね♪」
笑顔。
完全敗北だ。
息が戻らない。視界がぼやけている。桜花の顔が上にある。髪が垂れている。笑顔。まだ笑っている。
──声が、漏れた。
「……怖ぇよ、お前」
本音だった。さっき飲み込んだ「怖い」が、そのまま出た。
──桜花の笑顔が、止まった。
0.5秒。
笑顔が消えた。
目が、わずかに見開かれた。三日月が──丸くなった。
──初めて見た。この子が、笑っていない顔。
その0.5秒の間に何があったかは、俺にもわからない。
そして──桜花の腰が、一度だけ動いた。
俺のためではない。
自分のために。
汗で貼りついた髪の隙間から、閉じた目が見えた。笑顔が消えた横顔。この顔を見たのは──俺だけだ。
「……っ♥」
小さな呼気。桜花の唯一の声。「えへへ♪」でもない。笑い声でもない。抑えようとして、抑えきれなかった──呼気。
内壁が、一度だけ収縮した。ぎゅっ、と竿を絞め付けるように。
まだ繋がっている。俺は果てた後で、桜花の中にいる。その中で──収縮が来た。桜花が感じた証拠。出した後の敏感な竿に、桜花の膣壁が絞りついた感触。その一度の収縮だけが、全身の感覚が飽和した俺の中で、はっきりと残った。
0.5秒。
──笑顔が戻った。
「えへへ、合格♪」
復帰の速さが、逆に怖い。
さっきの「……っ♥」と、今の「合格♪」が、同じ桜花の口から出ている。
(……なんなんだ、こいつ)
あの0.5秒は何だったのか。
答えが出ない。
---
非常灯の薄い光。
桜花が隣に座っている。浴衣を羽織り直しているが、帯はまだ結んでいない。肩にかかった髪が汗で湿っている。頬が桜色に染まっている。──湯のせいか。天然なのか。最後まで、わからない。
桜の甘い匂いが、まだ鼻の奥に残っている。桜花の体温が、まだ肩に残っている。あの一度の膣の締めつけが、まだ記憶に残っている。三つが混ざって、どれがどれかわからない。
(……あの笑顔。あの0.5秒。あれは何だったんだ)
答えが出ない。出ないことが、引っかかる。
桜花が帯を結び直そうとした。
──結べない。
指が、わずかに震えていた。
(……震えてるのか? いや、気のせいか。こいつの指が震えるわけない──)
桜花が気づかれる前に帯を結んだ。笑顔で。一瞬で。
「ちょっと汗かいちゃった♪」
(いま、震えてたか? ……わからない)
わからないことが増えていく。この子と一緒にいると。
「また練習しに来てね♡」
桜花が、小指を差し出した。
「約束♡」
──指切り。
桜花の小指に、俺の小指を絡めた。温かい。指先まで温かい。この子の体温だ。
「約束破ったら──」
一瞬、笑顔の質が変わった。さっきの「最終試験♪」と同じ温度。
「──怒るかもしれないよ?♡」
(……それが何より怖い)
指切りが解けた。小指が離れる。温もりだけが残った。
名刺はない。手順書もない。物理的な証拠は何もない。──だが、小指の温もりが残っている。あの0.5秒の記憶が残っている。名刺より、重い。
---
階段を上がる。ポケットに手を入れた。
名刺がまだそこにある。角が指先に当たる。
ピリピリしない。
あの電流の記憶が──小指の温もりに、上書きされている。
番台のじい。今度は目が少しだけ開いている。前回の一言では済ませない顔。答えを聞きたそうにしている。
「桜花はどうじゃった?」
「……怖かったです」
じいが、目を細めた。
「ほほ──」
暖簾をくぐる。外の空気が冷たい。桜の匂いはしない──と思った。だが腕を擦ると、自分の肌から桜の匂いがした。鼻の奥ではない。肌に移っている。小指が、まだ温かい。