※この作品はR-18です。

陰キャの高校生、結月ゆかりと。   作:猫語呂師団

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出会い

 大学構内でも就活の話題が出始める頃、何となく教師になりたいと考えていた。そしてそのことを友人などに話すと、大抵「すごいね」といった感想を貰った。が、別に大したことではない。唯一持っていた資格が教員免許だからだとか、当時から付き合っていた彼女が早々と就職先を決めていて、僕もどこか決めなければと焦っていたとか、そんなつまらない理由でしかない。そしてそんな思いが届いたのか、僕は四月からとある地方の高校に数学教師として勤めることとなった。

 その地方は雨が多いことで有名だった。一年の内のほとんどの日に雨が降っており、晴れの日ですら、どこかじめじめとした空気を孕んでいるそうだ。そしてその噂に違いはなく、僕が生徒に紹介されることになる式典の日すら、窓からは雨が見えていた。

「──です。これからよろしくお願いします」

 ぺこりと頭を下げると、体育館にはパラパラと拍手の音が響いた。僕にとっては初めてのこの出来事も、彼らにとっては毎年のことなのだ。自分達の学校に新しくやってきた男には、何の興味もないらしかった。

 新年度のごたごたはあっという間に過ぎ去り、すぐに授業が始まった。僕はいつも訪れる側だった職員室に専用の机を貰い、そこにファイルやパソコンなどを置くのが不思議で仕方なかった。まだ学生気分が抜け切れていないらしく、隣や向かいに座っている年季の入った教師を見ていると、自然と背筋がこわばった。その高校に昔から勤めているという先生から校内の案内を一通り受けた後で、僕の教師としての仕事は始まった。と言っても、そこまで難しいことではなかった。大学の講義で学んだ数学に比べれば、高校で教えるそれなどもはや基礎ですらないと感じる。内容も教科書通りに教えればよく、生徒からの質問もほとんどなかった。

「であるからして、このXが7だとわかるわけだな」

 僕は昔から人間観察が好きだった。通学で電車なんかに乗ると必ずと言っていい程他人の仕草を観察してしまうのだ。スマホをいじるだけでも、男、女、太った人、痩せた人など、何十というパターンがある。僕はそんな彼らの行動から、過去を想像するのが好きだった。そしてその趣味は教師になった今にも持ち越されていた。

 教卓に立って教鞭をとっていると、席に坐っている生徒40人がまぁよく見える。流石にスマホなんかは注意させてもらうが、多少のおしゃべりや手紙なんかは、見ている方が面白いので黙ることにしている。こうして生徒たちを観察していると、彼らもこれまでの人生を自分の意思で歩んできた、一人間なのだということを実感する。

 そして長いこと観察を続けている内に、僕は一人の女子生徒に目をつけた。彼女はいつ見ても一人で、授業前後の休み時間に教室にいても、誰かと会話しているところは見たことがなかった。そしていつも本ばかり読んでいた。授業中も一番後ろの席だからなのか机の下で本を開いていて──と言っても、前から見れば丸わかりなのだが──それに熱中している様子だった。不思議なことに、それが原因で勉学に支障をきたしている様子はなかった。小テストや定期テストではいつも一番とは言わずともそれなりの成績を残し、上位陣に食い込むほどだった。僕はテストの丸付けをするために、出席番号から彼女の名前を知ることができた。彼女の名は「結月ゆかり」というらしい。趣味や見た目に見合った、穏やかな名だと思った。名は体を表すとはよく言ったものである。

 僕は彼女に個人的な興味を抱いたが、それを理由に彼女と話そうとは思わなかった。当たり前と言えば当たり前だ。教師が生徒に個人的に話しかけるなど不自然だし、授業中の読書をきっかけにすればどうしても説教臭くなってしまう。だから僕としても彼女のことは、少し不思議な女子生徒ほどの印象にとどまるに過ぎなかった。少なくとも、あの日までは。

「──君、ちょっといいかな」

 放課後、パソコンに生徒の点数を入力していると学年主任から声をかけられた。

「実は、注意してほしい生徒がいるんだ」

 主任が言うことには、毎日下校時刻ぎりぎりまで教室に居残りをしている生徒がいるらしい。そしてその生徒は何度注意しても帰ろうとせず、学校としても部活動以外で生徒を校内に残しておきたくなく、困っていたそうなのだ。

 僕は彼に対し、なぜ自分なのかと尋ねた。僕はこの高校に赴任してきてまだ一年も経っておらず、何よりそのクラスの担任ですらない。他にも適任がいるだろうと、そう考えたのだ。しかし学年主任はあくまで君に頼みたいのだと続けた。なんでも生徒間で僕の評判が良く、人気の先生からの注意なら聞き入れてくれるだろうと踏んだかららしい。人気というのは恐らく授業中の種々の行為を野放しにしていた影響だろうが、まさかそのつけがこんなところまで廻って来るのかと僕はため息をついた。そして彼の頼みの末、僕は件の教室へ向かうこととなった。

 放課後の学校程不思議な空間もないだろう。階段を上っていると、踊り場の窓から漏れ出て来る西日が目を突き刺し、校庭から響いてくる部活動をしている生徒たちの掛け声がこだましている。僕は学生の頃から、この空気感が気に入っていた。その日の授業が全て終わった、一日のご褒美の時間。あったかい夕日に包まれながら、このなんでもない時間を身に浴びるのが好きだったのだ。

 階段を登り切って、誰もいない廊下を歩いて行く。静かな分、コツコツという靴音が響く。そして件のクラスのドアを開くと、中に入った。

 窓際の人物を確認すると、僕は少しばかり驚いた。そこには僕が気になっていた、例の女子生徒が坐っていたのだ。彼女はドアの開く音に顔を上げたが、すぐに視線を手元の本に落とし込んだ。僕は彼女を怖がらせないよう、教室内の机を縫うようにして近づいた。

「結月さん、ちょっといいかな」

 彼女は再びページから顔を上げ、新しく赴任して来たこの教師の顔を訝しげに見つめた。眼鏡のレンズ越しに目が合い、吸い込まれるような深みのある紫にどきりとする。

「なにか用ですか」

「あー、用って訳でもないんだが……。そうだ、今は何の本を読んでるの?」

 彼女は黙って表紙をこちらに向けた。

「『雨』か。難しい本を読むんだね」

「はい、私、雨が好きなので。──雨の日だけは下を向いていても、許される気がするんです」

 ナイスボールと遠くから聞こえた。今グラウンドを使っているのは、野球部だろうか、サッカー部だろうか。

 僕は彼女の一つ前の席を借り、よっと腰を落ち着けた。

「先生も好きですか?」

「何が?」

「この本も、モームも。それから雨も」

「好きだよ。どれもね」

 それを聞くと彼女は目を細めて笑った。それは普段の彼女からは想像もできないような、素敵な笑顔だった。

 その後、彼女といくつか他愛のない話をした。大学はどうとか、初めての教師の大変さがどうとか、今いる彼女の話だとか。

 そうして話していると、彼女は非常に大人びて見えた。少なくとも今、こうして教師の自分と対等に会話ができているということが僕には小さな驚きだった。会話の受けごたえやその内容も、高校生にしてはどこか達観している。彼女の頭の中に秘められた小説たちの硬い文章が、口から零れているようだった。

「暗くなると危ないから、できるだけ早く帰るように」

 話の最後にそれだけ伝え、なんとか教師としての体裁を保つ。それでも彼女は、僕の言葉に頷いてすぐに本に目を落とした。

 その出来事をきっかけに、二人の会話は増えていった。彼女は毎日のように学校に残り、誰もいなくなった教室で静かに本を読んでいた。だから何かと理由をつけて教室へ向かえば、容易に彼女と話すことができた。

 雑談の内容は、もっぱら二人の共通趣味の読書だった。本好きは意外と少なく、それに目の前の人間が本を好きだからと言って、必ずしも話が合うとは限らない。こちらが推理小説を、あちらがSF小説を好きならば、決して分かり合うことはない。その点に置いて、趣味嗜好が一致する僕と彼女が出会ったことは幸運だった。本の話をしているときにだけ、彼女はあの日と同じ表情を見せてくれた。日陰の中の陽だまりが目立つように、彼女のその表情は、彼女自身をよく引き立てていた。

 話してみて分かったことだが、彼女は静かな子などではなかった。ただ話の解る人間が身近にいなかっただけなのだ。あの芸能人がどうとか、そのアニメの主題歌がこうとか、そんな話題に興味を持てなかっただけなのだ。

 ある日の放課後。僕が小テストの束を持って教室を出ようとすると、声をかけられた。

「先生」

「どうした?」

「どちらへ行かれるんですか?」

「数学準備室だよ。テストの丸付けをするんだ」

 彼女は顔に逡巡の色を浮かばせ、そして続けた。

「……私も、ご一緒していいですか」

 それは意外な提案だった。少なくとも彼女の口からそのような言葉が発せられるとは、僕は微塵も考えていなかった。

 教師が生徒と個人的な接点を持つなどあってはならない。仮にそれが100パーセントの善意で行われていたとしても、周囲からは成績の贔屓や種々のハラスメントなど、あらぬ疑いをかけられてしまう。

 しかしどうしたことだろうか。僕はなぜか、彼女を誘いたくなった。偶然話が合っただけの、僕の今後の教師人生を考えると何百何千分の一という生徒に、興味を持ったのだ。

「うーん……。それじゃこうしよう」

 僕は小テストの束を半分に分け、彼女に持つように促した。

「テストを運ぶのを手伝ってくれるかい?」

 彼女は僕の意図を読み取ってくれたようで、悪い笑みを浮かべて「はい」と返事をした。

 そして僕たちは放課後の校内を、二人で数学準備室まで移動していった。この日は雨が降っていたため、いつものような部活動の声は聞こえてこなかった。

 準備室があるフロアは移動教室のある館の四階で、そこには生徒の来るような教室は一つも無い。だから彼女はしきりに顔をキョロキョロさせていた。やがて目的の部屋へ到着すると、片手でテストを抱えながら木製のドアをゆっくりと開けた。

「足元に気をつけて」

 片手で電気のスイッチを入れながら、彼女を準備室に招き入れる。彼女にとっては初めての場所なのだろう。「失礼します」と小声でつぶやいた彼女は、埃っぽい狭苦しいこの部屋に、ゆっくりと足を踏み入れた。

 ここは教室の半分以下の広さの部屋だ。隅に置かれたスチールラックが存在感を放っていて、数学の教科書や参考書、三角定規などの授業教材がぎっしりと詰まっている。真ん中には机とソファが置かれているが、そこにも学校支給のパソコンや弁当ガラなどが散乱していて、とても快適とは程遠い場所だった。

 彼女がじろじろと室内を物色しているのを見て、僕は慌てて机の上の散らかったものを片づけた。

「ここへ置いてくれるかな」

 彼女は小テストから手を離し、ソファにおずおずと坐った。

「ここは良い部屋ですね」

「そうかい?」

「えぇ。静かで落ち着きます。それに──」

 彼女はその先の言葉を紡ごうとして、途中で口を閉ざした。一体彼女が何を言いたかったのかは、今でもわからずじまいである。

 僕が丸付けをする間中、彼女は横で本を読んでいた。僕の腰かけているソファのもう一方に浅く座り込んでいて、時折ページをめくると紙の擦れる音が響いた。いつも一人きりの部屋に他人がいるというのはなんだかこそばゆい。この高校に赴任してきてずいぶん経つ間に、部屋の中は僕好みに改装されていた。だから自分だけの部屋を他人に見られているというのがなんとなく恥ずかしかったのだ。

 窓からは相変わらず雨の様子がよく見えた。それは激しいものではなかったが、風のおかげがずいぶんと斜めに降っていて、窓ガラスをひたひたと叩いていた。この地方は微雨が多いはずだから、こんな雨は珍しい。

 真横に他人がいるおかげで、いつもより早く丸付けが終わった。赤ペンにキャップをはめ、うーんと伸びをする。凝り固まった指や肩の筋肉がほぐれて心地よかった。

「お疲れ様です、先生」

 僕が丸付けを終えたのを見て、彼女は本にしおりを挟んで机に置いた。スカートから覗いている細い足が揃えられていた。骨董品店の、ガラス越しに見る西洋人形みたいだと思った。

「ありがとう、お陰で早く終わったよ」

 テストの束を、机に叩いて揃えながら言った。

 壁掛けの時計は下校時刻五分前を指していた。彼女にそのことを伝えると、「あ、そうですね。そろそろ帰ります」と言って、本とカバンを持って立ち上がった。

「先生はまだ仕事があるから。気を付けて帰るんだぞ」

 彼女は失礼しますと小さく呟いて、数学準備室を出ていった。

 彼女が部屋からいなくなると、雨脚が強まっている事に気づいた。窓を叩く雨粒の音が、部屋によく響いている。

 こんな日は早く帰るに限る。さっさと仕事を終わらせてしまおう。

 僕は彼女が帰って広くなったソファで、脇にのけておいたパソコンを立ち上げた。そして彼女の、準備室を去る後ろ姿を思い出しながら、キーボードを打ち始めた。

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