ふたりの牢獄人生 作:水瓜
ココの変異は想像していたよりも、静かに行われた。
いや、これは本当に変異しているのだろうか?
表情にもはや苦悶の色は無く呼吸も穏やかであるのを見ると、腹痛からは解放されているように見える。
しかし迷宮に関しての図鑑に書かれていたような、
得られる固有魔法の種類は服用者一人一人により異なるが、統計からはその個人の性格や嗜好に密接に関わっていると考えられているらしい。
そして肉体の変異も個人差が大きく、服用前とあまり風貌が変わらないような小さな変異で済む者も居れば、元が人間だと一見しただけでは分からないような姿に変わってしまう者も居る。
ココの見てわかる変化がない理由が、彼女の身に起こっている変異が非常に微細なものだからであれば良いのだが、変異薬の保存方法にでも問題があり薬の効果が正しく発揮されていないのなら拙い。
その場合、病気を治癒させるという副次効果も正常に働かない可能性もあるのだから。
しかし俺に出来るのは、眠っているココの隣に座りながら様子を見守る事だけだった。
「つっ!」
痒みを感じて何気なく動かした右手首に鋭い痛みが走る。
ココを見守っている時は痛みも忘れていたが、実は俺の傷口もそれなりに深かった。
説得の為に手首を切る際、ココに生きて貰う為に必死になりつつも、頭のどこかで靭帯や筋まで傷つけては後遺症が残るという理性は働いており、手首の裏側に浮いている太い血管を狙って切りつけた。
なので指は何とか動かせるし痺れも無いが、皮膚が引き攣れて僅かな動作でも酷く痛む。
即座に傷を治す回復薬の類は駄目元でココに飲ませてしまっており、この傷は自然な治癒に頼るしかない。
あの時はココが薬を飲まなければ俺も共に死ぬ覚悟で切ったし、その行為に関して後悔は無いが、それはそれとして痛みが辛くない訳ではなかった。
――考えてみればあのナイフは迷宮探索に使っている物であり清潔とは言えない。
もし傷が酷く膿んだり感染症に掛かれば命に関わるし、このまま布で押さえておくだけでは危険かも知れない。
その時、俺はココに飲ませた抗菌草の煎じ汁に思い至る。
そう言えば、鍋一杯に作った汁の内、ココに飲ませたのはコップ一杯だけでまだ大量に余っていた筈だ。
あれを飲んでおけば、取り合えず感染症だけは避けられるだろう。
ココの額の汗を布で拭き取ってから席を立って、台所に置かれていた鍋からすっかり冷めた汁をコップに注ぎ一口啜った。
だがその直後、俺の口の中で予想だにしていない猛烈な苦みとえぐみが入り混じった耐え難い風味が爆発した。
「うぉぐっ、ぶはっ!」
思わず薬を床に吐き出してしまったが、今の味と臭いはそれ程に衝撃的だった。
ココに煎じ汁を持っていく前に一口味見した時には、草特有の苦みは多少あったが我慢すれば普通に飲める程度だったのに、今飲んだものはまるで雑草の搾り汁と泥水を混ぜたような風味だった。
抗菌草の煎じ汁は地上に居た時も飲んだことがあるが、例え冷めても今のような臭いと味では無かった筈だが、どういう事なのだろうか。
これは飲んでも良い液体なのだろうかと不安に感じるが、他に薬と呼べるものもない。
命には代えられないと無理矢理コップの中の残りを飲み下したが、途中で何度も吐き戻しそうになった。
飲み終えた後、口に残る嫌な味を洗い流そうと薬缶に作ってある白湯をコップに注いで飲んだが、その水もまた異様な鉄臭さと酸味を感じて飲めた物ではない。
普通の水ですらこんな味に感じるという事は、先程の煎じ汁に問題があったのではなく、俺の味覚の方がおかしくなっているのだろうか。
不安を覚えて、台所にある塩と砂糖などの調味料やパンを口にしてみるが、塩は舌が痺れる程に辛いだけで、砂糖は青臭い奇妙な風味が甘味と混じり合って吐き気を催す。
パンも苦みと酸味を強く感じ、とても食べられたものでは無かった。
風邪で高熱を出した際に一時的に味覚がおかしくなる事があるが、あれを何倍も酷くしたような状態だ。
二日間に渡る不眠と心労により引き起こされた味覚異常か、或いは他の要因か。
様々な可能性が脳裏を巡るが、専門家でもない俺には判断が付かない。
唯一つ確かなのは、俺の舌がおかしくなっている事だけだ。
このまま台所で考えていても埒が明かないので一旦ココが眠るベッドの傍に戻る事にしたが、ココの容態に加えて俺自身の身体にも心配事が生じるとは思っても居なかった。
◇◆◇◆◇◆◇◆
変異薬を飲んでから眠り続けていたココが目を覚ましたのは、朝のリフト昇降の音が響く中だった。
地下牢にけたたましく鳴り響くベル音に瞼を痙攣させ、やがてゆっくりと目を開く。
暫しの間、ぼんやりとランプの光が照らす室内を彷徨っていた視線が俺を見つけた。
「あ、ご主人……様」
「ココ、身体は大丈夫か? 腹の痛みは!?」
「お腹……、あれ、そう言えば全然痛くないです」
不思議そうな顔でココは身を起こして腹部を手でさするが、やはり痛みは消失しているという。
変化の兆しが見られないので心配していたが、変異薬の治癒効果は無事に効果を発揮したようで内心胸を撫でおろした。
その後、彼女は自分の手足をじっと見つめて、それから身体の各所を触っていく
「ご主人様、私どうなったんですか? 自分ではあまり変わっていないように……、あれ?」
胸の辺りを触ったココは違和感を覚えたようで、服の襟から胸部の輪郭をなぞっていく。
違和感を確信したのか彼女はワンピースを勢いよく脱ぎ捨て裸体を露わにし、その姿を見た俺は思わず息を飲んだ。
この地下牢で数か月を共に過ごしてココの身体は見慣れているが、目の前に現れた姿は俺の記憶とは全く異なっている。
身体中に無数に付けられていた痛々しい火傷や外傷の跡は綺麗に消失していて、本来の傷一つない滑らかな白い肌が広がっている。
それに加えて以前は多少は肉が付いてきたとはいえ、起伏が小さく胸も慎ましかった身体は、痩せてはいるものの女性的な丸みを備えた出る所が出たものに変化していて、胸もお椀のような綺麗な半球を描いていた。
いや、これは単に肉が付いたというだけではなく――。
「……ココ、ちょっと立ってみてくれないか」
「えっ? ……はい」
やはりだ。
ベッドから降りて立ち上がったココの背は明らかに伸びており、俺よりは低いものの一般的な成人女性と同程度の上背はある。
ベッドに横たわっている時は顔以外を掛け布で覆っていたし地下牢の薄暗さもあって気が付かなかったが、以前の子供と見紛うような小さな身体とは大きく様変わりしていた。
「な、何だかいつもより天井が低いような……。 ご、ご主人様、私どうなってしまったんですか? 変じゃないですよね!?」
「心配するな。 どうやら身体が大きくなって肉も付いたようだが……、それ以外に変わった所は無い」
もしかしてこれが変異だというのか?
だとするなら、まさかこのような変化だけで済むとは良い意味で想定外だった。
勿論、俺はココがどんな姿になろうと変わらず愛し続ける覚悟を決めていたが、長い間親しんできたココの姿がそこまで変わらなかったのは純粋に嬉しかった。
「じゃあご主人様……、まだ私の事、好きですよね?」
「……ああ、勿論だ。 いや、別にどんな姿になっても当然好きだが――」
俺が言い終わる前にココが勢いよく抱き着いてきて、俺の唇を塞ぐ。
身体が大きくなった分、受け止めた衝撃も増していて後ろに少しよろめいてしまったが、尻餅をつく事は避けられた。
喜びに身を任せて、熱い吐息と共に唇から差し込まれるココの舌に、俺も舌を絡める事で応える。
お互いの唾液が交換され、口の中で混じり合った。
(――あれ?)
味覚が異常を来たしてから、ほんの数口しか水を飲めておらず乾いていた喉に、ココの唾液が自然に染み込んでいく。
いや、寧ろ仄かで後を引かない心地いい甘味すら感じた。
美味い……、もっと飲みたい。
喉の渇きに突き動かされるようにココの舌を吸い続けている内に、流石に苦しくなったのか彼女の息遣いが少し乱れ始めた。
腹痛は治まったとはいえ、病み上がりの彼女にあまり負担を掛ける訳にはいかないか。
名残惜しさを感じながらも互いの唾液に塗れた唇を離した俺は、あまりに熱心にキスをしていた事に照れくささを感じてココの頭を軽く撫でた。
「何はともあれ、お前が無事に治ってよかったよ。 ああ、だけど……、この二日間寝ていないから俺も眠気の限界だ。 すまないが少し眠らせて貰う」
「あ……、ずっと起きていて下さったんですね。 す、すみません、はしゃいじゃって。 でも化物にならなかった事が嬉しくて……、ご主人様にそれで良いって言って頂けても、やっぱり人間のままが良いですから。 私もまだ眠たいし、一緒に寝かせてください」
「勿論だ。 ああ、寝る前に水を飲むと良い」
変異によってどのような力に発現したのかなど、まだ知りたい事はある。
しかし今の俺は寝不足によって頭に靄が掛かったように思考力が低下しており、こんな状態で難しい事を考えるのはとても無理だ。
ココはテーブルの上に移しておいた薬缶から水を注ぎ、美味しそうに飲み干した。
俺も味覚が正常に戻ったかも知れないと淡い期待を抱いて同じ薬缶からの水を喉に流し込むが、やはり先程と同じ酷い味に感じた。
この味覚異常も、目が覚める時には治っていれば良いのだが。
一抹の不安を抱えつつココと共にベッドに横たわり目を閉じると、今までこらえていた眠気が一気に噴き出し、俺の意識はたちまちの内に夢の世界へと旅立っていった。