常識改変プロデューサーとアイドル 作:湯けむり桶
午後の陽光が差し込む事務室。
パソコンの冷却ファンが回る音だけが響く中、俺は次回のプロモーションプランの最終確認に没頭していた。
不意に、上質な茶葉の香りが鼻腔をくすぐる。
顔を上げると、そこには完璧な立ち振る舞いで湯呑みを置く和久井留美の姿があった。
「お疲れ様、プロデューサーさん。少し根を詰めすぎているようだったから。……今日は玉露を淹れてきたわ。適温まで冷ましてあるから、今が一番美味しいはずよ」
「ああ、ありがとう。助かるよ」
俺が湯呑みに手を伸ばしたその時、彼女はもう一方の手で、一枚の書類をデスクの上にスッと滑らせた。
公的機関の印字、そして「婚姻届」という見慣れた、しかしこの場にはあまりに重い文字。それは、この数ヶ月、週に一度は繰り返される「儀式」だった。
妻となるべき欄には既に彼女の署名と捺印が完璧に済まされており、あとは俺が名前を書き込むだけになっている。
俺はそれを見なかったことにし、冷静に玉露を一口啜った。
「……いい香りだ。温度も完璧だよ」
「ふふ……。相変わらず、つれないのね」
留美は困ったような、しかしどこか楽しげな笑みを浮かべて、婚姻届を優雅な所作で懐へと仕舞い込んだ。
この世界において、アイドルがプロデューサーと結婚を望むのは、彼女たちにとっての「到達点」の一つとして認識されている。能力によって書き換えられた常識の中でも、彼女のこのアプローチだけは、義務感を超えた彼女自身の純粋な、そして執拗な意志の表れだった。
一度は社会人を経験し、酸いも甘いも噛み分けた彼女だからこそ、言葉の裏に潜ませる独占欲は誰よりも鋭い。
「先日話した案件、クライアントからは好感触を得ているわ。次の打ち合わせには私も同席させてもらう予定よ」
「助かる。留美がいてくれると話が早い」
ひとしきり仕事の話や他愛のない雑談を交わす。
彼女と話していると、ここが戦場のような芸能界であることを忘れてしまいそうになる。落ち着いた大人の女性としての包容力。だが、その瞳の奥には、俺を完全に独占したいという静かな熱が常に揺らめいている。
「さて、私は次のレッスンへ行くわね。……あまり根を詰めないように。あなたが倒れてしまったら、誰が私の隣を歩いてくれるのかしら」
留美は俺の肩を優しく叩き、そのまま部屋を去っていった。
彼女が去った後には、玉露の香りと、彼女が放った静かなプレッシャーだけが残されていた。
俺が彼女を「一人の女」として完全に受け入れ、その婚姻届にサインをするまで。
この穏やかで背徳的な日常は、幾度となく、執拗に繰り返されるのだろう。