常識改変プロデューサーとアイドル 作:湯けむり桶
「……ただいま」
深夜の静まり返った自宅。玄関の鍵を開け、溜息と共にドアを閉めた。
今日は重い案件が重なり、気力も体力も底をついている。適当にカップ麺でも啜って、泥のように眠るつもりだった。
だが、暗いはずの廊下の先、リビングから暖かな光が漏れ、食欲をそそる出汁の香りが漂ってきた。
「おかえりなさい、プロデューサーさん。……遅かったですね。まゆ、待ちくたびれちゃいました」
リビングへ入ると、そこにはエプロン姿の佐久間まゆが、完璧に整えられた食卓を前に座っていた。
「もう当然のように鍵のことは気にせず居座っているな……。まゆ、どうしたんだ。急に」
俺の問いに、まゆは小首を傾げ、潤んだ瞳で俺を見つめた。その指先は、いつも通り「赤い糸」を象るように服の裾を弄っている。
「留美さん、なんです。……留美さんが、夜な夜なプロデューサーさんの『お世話』をしているって聞きまして。……まゆ、負けていられませんから」
彼女の言う「負けていられない」が何を指すのか、聞くまでもなかった。
和久井留美による浴室の献身が、能力の影響もあってか、いつの間にかアイドルたちの間で(あるいはまゆの耳にだけ)共有されていたらしい。独占欲の塊である彼女が、これを静観できるはずがなかった。
「……まゆが作ったお料理、冷めちゃいますよ? 早く、召し上がってください」
俺は促されるまま席に着き、並べられた料理を口にした。
正直、プロの料理人かと思うほどに美味い。疲れた身体に染み渡るような、優しくも濃厚な味。思わず舌を打つ俺の様子を見て、まゆは満足げに、どこか誇らしげに微笑んだ。
「美味しいですか? ……ふふ、良かった。まゆが、プロデューサーさんの身体も心も、ぜーんぶ、管理してあげますからね」
一時の多幸感に包まれたが、これ以上彼女のペースに巻き込まれるわけにはいかない。俺の能力による常識改変は、放っておけば彼女をさらに大胆な行動へ駆り立てるだろう。
「……美味かった。だが、まゆ。こういうことはもうするな。アイドルが夜中に男の家へ通うのは、リスクが大きすぎる」
「リスク……? まゆとプロデューサーさんの仲なのに、ですかぁ……?」
不満げに頬を膨らませるまゆを宥め、俺は有無を言わさずタクシーを呼び出した。
彼女をタクシーまで見送り、強引にタクシーに乗せる。
「……プロデューサーさん。まゆのこと、嫌いになったらダメですよ……? ……まゆ、また来ますから」
走り去るタクシーの窓から、彼女の視線が最後まで俺に絡み付いていた。
彼女を追い出したつもりだが、リビングに残された温かな料理の香りと、彼女が座っていた椅子の余熱が、俺の平穏な独り暮らしを確実に、そして甘く侵食し始めていた。