常識改変プロデューサーとアイドル 作:湯けむり桶
一日の過酷な業務を終え、這うようにして深夜の自宅へ帰り着いた。
玄関のドアを開けた瞬間に感じたわずかな違和感――石鹸のような、甘く微かな花の香りが鼻腔をくすぐったが、疲労の極致にいた俺の脳はそれを「気のせい」として処理した。
食事もそこそこに、吸い込まれるように布団へと潜り込む。意識は瞬く間に深い闇へと沈んでいった。
……深夜。
ふいに奇妙な違和感に意識が浮上する。目を開けても、身体が鉛のように重い。指先一つ動かせない。
(……金縛りか。これほどまでに疲れすぎると、自律神経の失調で金縛りになったりするものなんだな……)
そう自分を納得させようとしたが、右腕に伝わる質感があまりにもリアルで、あまりにも生々しかった。
恐る恐るそこへ視線を向けると、そこには金縛りの正体――佐久間まゆがいた。
彼女は俺の右腕を両手で、まるで宝物を奪われまいとする子供のようにしっかりと抱きしめ、静かな寝息を立てていた。俺の腕に押し当てられた彼女の頬の柔らかさ、薄い布越しに伝わる体温、そして規則正しく上下する胸の鼓動。
「……プロデューサーさん……まゆですよぉ……どこへも、行かせませんよぉ……ずっと、まゆと一緒に……」
幸せそうな、しかしどこか必死さを感じさせる寝言を零しながら、まゆは夢の中でも俺を離さないと言わんばかりにさらに腕に力を込める。彼女の指先が俺のシャツを固く握りしめ、爪がわずかに肌に食い込む。
深夜の静寂の中、月明かりに照らされた彼女の横顔は、恐ろしいほどに美しく、慈愛に満ちていたが、同時に決して逃れられない呪縛のような重圧を放っていた。俺は抵抗することを完全に諦め、逃げ場のない彼女の愛の重みを右腕に感じたまま、再び静かに意識を手放した。
翌朝。キッチンから聞こえる、トントンと規則正しく小気味よい包丁の音で目が覚める。
そこには、昨夜の密やかな不法侵入など初めからなかったかのような、清々しい笑顔で朝食を支度するエプロン姿のまゆがいた。窓から差し込む朝光を背負った彼女は、まさに理想的な「家庭的なアイドル」そのものだった。
「おはようございます、プロデューサーさん。まゆ特製の朝食、もうすぐできますからね。昨夜は……よく眠れましたかぁ?」
その問いかけに含まれた微かな熱と、すべてを知り尽くしたような微笑。俺は彼女の背中に向けて、昨夜の「侵入」を看過できない重大な問題として認識し、念入りに能力を行使した。
『アイドルの本分を弁え、許可なくプロデューサーの聖域に留まることを禁忌とする。この歪んだ愛の形は、今の距離感では決して許されない――』
「まゆ。もう二度と、こんなことはするな。……鍵をどうしたかは聞かないが、一線を越えすぎている」
「……うふふ。まゆ、悪い子でしたかぁ? でも、プロデューサーさんが寂しくないようにって思っただけなんですよぉ。……また、すぐに呼んでくださいね?」
能力の影響か、あるいは一時的な満足感からか、彼女はいつになく素直に頷いた。俺が手配したタクシーが到着すると、彼女は名残惜しそうに、しかし何か確信めいたものを瞳に宿したまま、静かに部屋を後にした。
一人残された、不自然なほどに静かな部屋。
テーブルの上には、焼き魚にだし巻き卵、季節の和え物といった彩り鮮やかな和食が完璧な配置で並んでいる。
一膳一膳、まゆの執着が形を変え、情念を煮詰めたような深い味わいの料理を、俺はゆっくりと時間をかけて噛み締めた。
「……美味いな。本当に……」
彼女の愛は、一度摂取すれば決して抗えない毒のようなものだ。しかし、あまりにも空っぽだった胃袋と、冷え切った孤独な朝には、その毒さえもあまりに甘美で、救いのように感じられてしまった。
彼女が去った後も、部屋の隅々に彼女の気配が染み付いている。次に目が覚めたときもまた、あの「金縛り」が俺を待っているのではないか――そんな予感さえ感じていた。