第1章【崩壊する日常】
コズミック・イラ(C.E.)70年。
人類は、かつてないほど深く、そして致命的な分断の只中にあった。
遺伝子操作によって生まれつき優れた頭脳と強靭な肉体、そして病への高い免疫力を持つ新人類「コーディネイター」と、自然のままに生まれた従来の人類「ナチュラル」。
この二つの人類の間には、嫉妬と偏見、そして経済的な摩擦から生じた深く暗い溝が長年にわたり存在していた。
事態が決定的な破局を迎えたのは、C.E.70年2月14日のことである。
ナチュラルの急進的排他主義団体の思想に影響を受けた地球連合軍が、プラントの農業用コロニー「ユニウスセブン」に対して一発の核ミサイルを撃ち込んだのだ。
「血のバレンタイン」と呼ばれるこの未曾有の悲劇により、二十四万人以上ものコーディネイターの命が宇宙の塵と消えた。
この凄惨な事件を決定的な引き金として、プラントの軍事組織「ザフト」と、地球連合軍との間で、血みどろの全面戦争が勃発したのである。
当初、圧倒的な物量と人口を誇る地球連合軍が優位に立つと誰もが予想していた。
しかし、ザフトは人型汎用機動兵器「モビルスーツ」という未知の兵器をいち早く実戦投入し、その圧倒的な機動力と戦闘力によって戦局を膠着状態へと持ち込んでいた。
「開戦となれば早期に決着がつく」という双方の甘い見通しは完全に裏切られ、戦争は泥沼の様相を呈しながら、すでに十一ヶ月という長い月日が経過していた。
だが、そんな狂気と戦火が渦巻く宇宙空間にあって、まるで別世界のように平和を貪る場所があった。
大西洋連邦にもプラントにも属さない、中立国オーブ連合首長国が所有する資源コロニー「ヘリオポリス」である。
コロニーの内部には人工的な青空が広がり、本物と見紛うほどの穏やかな風が吹き抜け、鳥のさえずりすらも精巧に模倣されて響き渡っている。
そこに暮らす人々は、宇宙のどこかで同世代の若者たちが殺し合っているという現実を、テレビの向こう側の「遠い出来事」としてしか認識していなかった。
彼らは戦争の真の恐怖を知ることなく、かりそめの平和を謳歌していたのである。
ヘリオポリス内にある工業カレッジの学生、キラ・ヤマトもまた、そのかりそめの平和を享受する若者の一人であった。
最高の能力を持つとされる「コーディネイター」でありながら中立国に暮らす彼は、ナチュラルの友人たちと共にゼミの課題に追われ、他愛のない冗談を言い合って笑い合う、どこにでもあるありふれた日常を過ごしていた。
彼の関心事は、専らゼミの未提出レポートや、友人たちとの次のお出かけの予定であり、自分自身が戦争の渦に巻き込まれるなどとは微塵も考えていなかった。
しかし、コロニー内ではその不穏な空気をいち早く察知した一部の人間たちが、すでに独自のルートで行動を起こし、密かにシェルターへの避難を完了させていた。
その平和の裏側では、地球連合軍が極秘裏に開発していた新型機動兵器「G兵器」を奪取すべく、ザフトの精鋭部隊である「クルーゼ隊」が冷酷な暗躍を始めていたのである。
彼らの息を潜めた作戦行動は、すでに後戻りできない段階まで進みつつあった。
善良な市民たちがその巨大な脅威に気づくには、あまりにも時間が足りなかった。
一方、その血生臭い次元から遠く離れた、現代の日本。
深夜の静寂に包まれた都内のオフィス街を、一人の中年男が重い足取りで歩いていた。
彼の名は「ひで」。今年で三十二歳になる彼は、くたびれた安物のビジネススーツに身を包み、終電間際の暗い夜路を一人、帰途についていた。
かつて、彼は陸上自衛隊の普通科に所属する「自衛官」であった。
厳しい訓練に明け暮れ、泥水の中を這いずり回り、生存術を叩き込まれた元陸曹である。短めに整えられた黒髪の下には、戦場を生き抜くための鋭敏な「兵士の目」が隠されており、右手の指には、小銃の引き金を絞り続けたことでできた硬いタコが、五年経った今でも色濃く残っている。
だが、組織を退職して五年という歳月が経つ今は、かつての精悍な面影をスーツの下に隠し、理不尽な顧客からのクレーム対応と、終わりの見えない残業の山に心身をすり減らす、ただのしがないサラリーマンになり果てていた。
「あー……クソッ。今日もまたこんな時間かよ……」
首元を締め付けるネクタイを乱暴に緩めながら、ひでは大きく溜息をついた。
アスファルトの匂いと、深夜特有の冷たい風が頬を撫でる。
胃の奥底には、夕方に流し込んだ栄養ドリンクの不快な甘ったるさが残っていた。
「帰って冷えたビール飲んで、泥みたいに眠りたい……明日の会議の資料なんて知ったことか……」
独り言のように悪態をつきながら、見慣れた交差点の横断歩道に足を踏み入れた、まさにその時だった。
突如として、ひでの周囲のアスファルトや街灯、見慣れたコンビニの看板といった景色が、ぐにゃりと飴細工のように不自然に歪み始めた。
空間そのものが歪むような、圧倒的な違和感。三半規管が狂わされ、激しい眩暈が彼を襲う。
「……っ!? なんだ……地震か!?」
何が起きたのかを理解する間もなく、彼の視界は、世界を真っ白に染め上げるほどの強烈な閃光に包まれた。音すらも置き去りにするほどの光の奔流。
咄嗟に腕で顔を覆ったひでだったが、平衡感覚を完全に奪われ、抗う間もなくその光の渦へと飲み込まれ、そのまま前へと倒れ込んだ。
* * *
数秒後なのか、数時間後なのか。
光が完全に収まり、恐る恐る目を開けたひでは、自分の身体が硬いアスファルトの上ではなく、冷たく無機質な金属の床に倒れ込んでいることに気がついた。
「……痛ぇ。なんだここ、地下鉄の工事現場か……?」
全身を打った痛みに顔をしかめながら、ひではスーツに付着した見知らぬ土埃を手で払い、ゆっくりと立ち上がる。
周囲を見渡すと、そこはむき出しの太いパイプと、分厚い金属の壁に囲まれた、巨大な工業施設の裏通路のような場所だった。
壁に設置された案内板に目を向けるが、そこに並んでいる言語や記号は、英語でも日本語でもない、これまで見たこともない異質なものだった。
さらに、立ち上がった際の関節にかかる負荷や、一歩踏み出した際の感覚から、地球上の重力よりもほんのわずかに軽く感じることに違和感を覚える。
(なんだこの感覚……? 夢でも見ているのか? いや、この金属の冷たさと匂いは現実だ……)
思わず自分の頬を強くつねり、痛覚があることを確認した直後だった。
『ウゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥッ!!』
ビリビリと空気を震わせる、鼓膜を破るようなけたたましい非常サイレンが、突如として施設内に鳴り響いた。
それに呼応するかのように、腹の底を激しく揺らす地響きを伴う巨大な爆発音が、連続して空間に飛び込んできた。
ヘリオポリスの外壁が容赦無く破られ、ザフトによるG兵器奪取の奇襲作戦が、ついに火蓋を切ったのだ。
「爆発!? テロか、それともガス管の破裂か……っ!」
壁を伝う振動の質から、それが単なる事故ではなく、明らかに軍事的な破壊工作によるものだと、元自衛官の直感が告げていた。
通路の奥から、逃げ惑う人々の悲鳴と足音が波のように押し寄せてくる。ひでが咄嗟に身を低くし、近くの太いパイプの陰に身を隠した瞬間だった。
大きく崩れ落ちた外壁の向こう側の空間を、信じられないものが横切った。
巨大な単眼を赤く光らせた、鋼鉄の人型機動兵器――ザフトの主力量産型モビルスーツである「ジン」が、背部の巨大なスラスターから青白い炎を噴き上げながら、圧倒的な質量を伴って飛び去っていくのを、ひでの目ははっきりと目撃したのである。
「ロボット……!? アニメじゃあるまいし、ふざけんなよ……!」
常識を逸脱した光景に悪態をつくが、空気中に漂い始めた硝煙の匂いと、頬を撫でる熱風は、これが紛れもない現実であることを証明していた。
ここは平和な日本のオフィス街ではない。
人の命が容易く散る「死地」だ。
自衛隊を退職してから五年間のブランクがあろうと、かつて厳しい訓練の中で身体の髄まで染み付いた「大人の防衛本能」が、ただのサラリーマンであった彼を、即座に一人の兵士へと引き戻し、行動へと駆り立てた。
(状況不明。現在地不明。だが、ここは戦場だ。ぼやっとしていれば死ぬぞ!)
ひでは、身動きの邪魔になるスーツのジャケットを一切の未練なく脱ぎ捨てると、ワイシャツの袖を乱暴に捲り上げた。
彼の目つきから、残業疲れのサラリーマンの疲労の色は完全に消え失せ、生き残るためだけに最適化された冷徹な「兵士の目」へと変貌を遂げていた。
華々しいヒロイズムなど彼にはない。あるのは、徹底して泥臭い「生き残るための戦術」だけだ。
ひでは姿勢を極限まで低く保ちながら、悲鳴が上がる方向とは逆の、より安全な避難ルートの探索へと、静かに足を踏み出したのである。
かりそめの平和が崩壊したこの見知らぬ天井の下で、三十二歳の元自衛官の過酷なサバイバルが幕を開けた。
赤く明滅する非常灯が、無機質な金属の壁を不気味に、そして断続的に照らし出している。
鼻を突くのは、焼け焦げた絶縁材と粉塵、そして微かに混じる鉄錆のような血と硝煙の匂いだ。
「……くそっ、なんだってこんな事に」
轟音と共に床が激しく揺れるたび、ひではその身を低く沈め、周囲の状況を冷静に分析していた。
スーツの膝はすでに薄汚れ、額からは油汗が滲んでいる。
だが、彼の内面は驚くほど冷徹だった。
ここは「死地」だ。
五年のブランクがあろうと、かつて自衛隊の厳しい訓練の中で身体の髄まで染み付いた「大人の防衛本能」が、彼を即座に行動へと駆り立てていた。
ただのくたびれたスーツ姿のサラリーマンであった男の目つきは、今や完全に、生き残るためだけに最適化された「兵士の目」へと変貌している。
右手の指に刻まれた、小銃の引き金を絞り続けたことでできた硬いタコが、見えない銃の感触を無意識に求めて微かに動いていた。
白煙が充満する工業区画の裏通路。
ひでは壁の冷たい感触に背を預けながら、姿勢を極限まで低くして避難ルートを探っていた。
彼がかつて所属していた部隊での訓練の記憶が、頭で考えるよりも先に彼の身体を自動的に動かしている。
足音を殺すための特殊な歩法、曲がり角では必ず立ち止まり、視覚よりも先に聴覚と嗅覚で先の空間を索敵する技術。
華々しいエースパイロットのヒロイズムなど微塵もない、徹底して泥臭い「生き残るための歩兵戦術」だ。
(どうやらここは、巨大な軍事施設か工場の類らしい……。それにしても、遠くに見えるあの構造体……)
ひでの目に映る光景は、地球上のどの建築物とも異なっていた。
はるか上方にまで広がる巨大なシリンダー状の空間と、それを内側から支える太いメインシャフトのような構造物。
重力もわずかに軽く、明らかに異常な空間だった。
ここが宇宙空間に浮かぶ資源コロニー「ヘリオポリス」であることなど、現代日本から転移してきたばかりの彼に知る由もない。
その途中、階下を見下ろすことのできる連絡通路のキャットウォークに差し掛かった時、ひでの聴覚が異質な音を捉えた。
軍靴の響き。それも、極めて統制の取れた、複数人の足音。
「……ッ」
ひでは咄嗟に身を隠し、手すりの隙間から下の区画を覗き込む。
そこでは、緑色の軍服を着た数名の兵士たちが、明らかに別の所属を示す青い制服を着た警備員や施設職員たちを、容赦なくアサルトライフルで撃ち殺していく凄惨な光景が広がっていた。
緑の軍服の兵士たち――ザフトの特務部隊――の動きは、ひでの目から見ても戦慄を覚えるほど異常だった。
常人離れした跳躍力と身体能力、完全に無駄を省いた射撃姿勢、そして何より、人を撃ち殺すという行為に対する一切の躊躇いが無い。彼らが手にした無骨な銃器から火線が放たれるたび、乾いた破裂音が空間に反響し、逃げ惑う警備員たちが次々と血飛沫を上げて倒れ伏していく。
彼らは遺伝子操作によって生み出された新人類「コーディネイター」であり、旧人類である「ナチュラル」とは根本的に身体能力の次元が違った。
「おいおい……本物の銃声じゃないか。映画の撮影どころの話じゃねえぞ」
ひでは息を潜め、額に滲んだ冷や汗をワイシャツの袖で乱暴に拭う。
発砲音の質、薬莢が金属の床に落ちる高い音、そしてむせ返るような硝煙の臭い。
それは、演習場で嫌というほど嗅いだ非日常の気配だった。
ここがどこなのか、誰がどちらの陣営の人間なのか、彼には一切の予備知識はない。
緑の軍服が何者で、撃たれているのが誰なのかも分からない。ただ一つ確実にわかるのは、「無差別に殺し合いが起きている」という絶対的な事実だけだ。
(助けに入るか……? いや、馬鹿な真似はよせ)
ひでは奥歯を強く噛み締める。
丸腰の自分が飛び出したところで、あの精強な歩兵部隊を相手に何ができるというのか。
無駄死にするだけだ。
もし見つかれば、自分もあの警備員たちと同じように、問答無用で蜂の巣にされるだろう。
丸腰のまま逃げ回るには、この空間はあまりにも危険すぎる。
「……背に腹は代えられない」
ひでは徹底した現場至上主義のリアリズムに基づき、冷徹な判断を下す。
彼は身を屈めたまま、キャットウォークの端、自分のいる階層で最も近くに倒れている青い制服の警備員の死体へと素早く、かつ音を立てずに接近した。
床に広がる赤黒い血だまりを避けながら、死体の手から滑り落ちていた見慣れぬ形状のアサルトライフルを拾い上げる。
その手つきには、一般人が死体を前にして抱くようなパニックや恐怖がなかった。
グリップを握り込み、重量とバランスを確かめる。
鉄と硝煙、そして微かな血の匂い。
手慣れた動作で弾倉(マガジン)を一度抜き取り、残弾が十分に詰まっていることを目視で確認すると、再びカチャリと小気味良い音を立てて装填する。
続いてチャージングハンドルを引いて薬室に弾を送り込み、安全装置(セーフティ)を指の腹で外す。
その一連の流れるような所作には、つい先程まで終電帰りの残業を嘆いていたただのサラリーマンとは思えない、元とは言えプロフェッショナルな滑らかさがあった。
(悪く思うなよ。お前の分まで、俺は生き残らせてもらう)
ひでは死体に短く黙祷を捧げると、銃を腰の高さでしっかりと構え、壁沿いに前進を再開した。
通路は爆発の影響で所々崩落しており、断線したケーブルから青白い火花が散っている。視界は極めて悪い。
十字路に差し掛かり、曲がり角の先をクリアリングしようと、銃口を向けながら慎重に壁から顔を覗かせた瞬間――。
ひでは、薄暗い通路の先で立ち往生している二人の人影を発見した。
「……!」
咄嗟に引き金にかけた指の力を抜く。
相手は、緑の軍服の兵士ではなかった。
それどころか、この血生臭い戦場には全く不似合いな、二人の美しい女性だったのだ。
一人は、品格漂う美しい銀髪を後ろで綺麗にまとめ、知的な赤いアンダーリムの眼鏡をかけた女性。
仕立ての良い白い軍帽と、スリットの入ったタイトなスカート、そして百六十五センチのスラリとした肢体に包まれた軍服風の衣装が、彼女の豊かな胸元のふくらみを否応なしに強調している。
凛とした、しかしどこか峻厳な空気を纏うその立ち姿は、まるで厳格な教官のようであった。
もう一人は、同じく透き通るような銀髪を可愛らしいツインテールにした女性。
百五十八センチと小柄ながら、極めて肉感的な胸元と安産型を思わせる豊かなヒップラインを持ち、柔和な中にも芯の強さを感じさせる優しい瞳をしていた。
動くたびに、軍服の上からもその柔らかな曲線美が強調されている。
血と硝煙に塗れたこの空間にあって、彼女たちの存在はあまりにも浮いていた。
むせ返るような死の匂いの中にあって、彼女たちの周囲だけは、大人の女性特有の甘く清潔な香りが漂っているようにすら錯覚させる。
彼女たちは、コスプレのようにも見える特異な軍服風の衣装を着ていたが、その表情には明らかな焦燥と戸惑いが浮かんでおり、この未知の施設で完全に迷っている様子だった。
彼女たちの名は、香取と鹿島。
『艦隊これくしょん』という、ひでとは全く別の次元の世界から、突然この場所に転移してきた存在であった。
彼女たちは、自分たちが「練習巡洋艦」としての本来の力を著しく制限された状態で、この見知らぬ空間に放り出されたことに深く戸惑っていたのである。
しかし、そんな超常的な事情を知る由もないひでは、ただ「民間人の女性が戦場に取り残されている」という事実のみを認識した。
「そこのあんたたち! 突っ立ってると死ぬぞ、こっちの物陰へ来い!」
ひでが声を押し殺し、しかし周囲の騒音に負けない鋭い声色で呼ぶと、二人は弾かれたようにこちらを振り向いた。
銀髪に眼鏡の女性――香取が、鋭いバイオレットの瞳でひでを睨みつけ、もう一人の女性――鹿島を庇うようにサッと前に出た。
その身のこなしは、ただの怯える民間人のそれではなかった。海軍の軍属として、有事における咄嗟の反応が身についているのだ。
「あなたは……? その手にある銃はなんですか!」
香取が警戒心を露わにして問う。
無理もない。薄暗い非常灯の下で、返り血と土埃に汚れたスーツ姿の男が、殺傷能力のある本物のアサルトライフルを構えているのだ。
ひでは相手に安心感を与えるため、銃口を完全に床へと向け、敵意がないことを示しながら素早く答えた。
「俺は敵じゃない。『ひで』だ。ただの日本のしがないサラリーマンだよ。あんたたちは? 怪我はないか?」
『日本のサラリーマン』という言葉に、香取と鹿島は僅かに目を丸くした。
しかし、ひでの配慮に満ちた問いかけと、その三十代の大人としての落ち着いた声色に、香取は少しだけ警戒を解き、静かに名乗った。
「私は香取。こちらは鹿島です。私たちも気がついたらこの場所に……。怪我はありませ
ん」
名乗り合いながらも、香取と鹿島は、目の前の男を値踏みするように観察した。
身なりこそスーツ姿の民間人だが、その銃を下げていても隙のない姿勢、非常事態においても一切のパニックを起こしていない冷徹な目の色。
そして何より、彼から発せられるピリピリとした特有の空気感。
練習巡洋艦としての記憶と魂を持ち、数多の戦いを経験してきた彼女たちは、本能で直感した。
この「ひで」と名乗る男からは、自分たちと同じ「戦う側の人間」、それも泥水をすすってきたような現場の兵士の匂いがすると。
「事情は後だ。ここはもう戦場だぞ。死にたくなきゃ、俺の指示に従え!」
ひでの有無を言わさぬ、三十二歳という大人の男としての力強い決断力と重みのある声に、香取と鹿島は顔を見合わせ、そして小さく、しかしはっきりと頷いた。
「……わかりました。ご指示を、ひでさん」
「私たち、足手まといにはなりませんから!」
成熟した大人の女性である彼女たちの、その落ち着いた、腹の据わった返答に、ひでは僅かに驚きを覚えた。
パニックになって泣き叫ばれたら無理矢理にでも引っ張っていく覚悟だったが、どうやら彼女たちも気弱な素人ではないらしい。
(……不思議な女たちだ。だが、今は助かる。何としても、三人でここを抜け出す)
「よし、俺が先頭を歩く。お前たちは俺の後ろに付け。足音は最小限に、影から影へ移動するぞ。敵は常人離れした身体能力を持ってる。絶対に見つかるなよ」
ひでは再び銃を構え直し、鋭い視線を暗い通路の奥へと向けた。
かりそめの平和が崩壊したこの見知らぬ天井の下で、元自衛官の男と、異世界から来た二人の女性軍属の、生き残りを賭けた絶望的な避難行が幕を開けたのである。
周囲の爆発音はさらに激しさを増し、巨大な兵器の駆動音がコロニーの骨組みを不気味に揺らし続けていた。