ゼータプラスの強引な着艦によって生じた凄まじい摩擦熱と、スラスターの放った強烈な余熱が、アークエンジェルの広大なフライトデッキの空気を陽炎のように歪ませている。
その熱気の中心で、灰色の未完成機から這い出すようにして外へ降りたひで、香取、鹿島の三人は、デッキの冷たく硬い床に座り込んだまま、しばらくの間はただ荒い息を繰り返すことしかできなかった。
全身の筋肉が岩のように強張り、極度の緊張と急激な重力変化による疲労が、鉛のように体を重くしている。
鼓膜の奥では、まだバルカンの発射音とビームの轟音が耳鳴りとなって響いていた。
ひでの着ているシワだらけの安物のスーツは、油と汗と硝煙にまみれ、三十代の男の深い疲労が色濃く滲み出ている。
「大丈夫か、二人とも。どこか打ったりはしていないか」
ひでが床に手をついたまま、隣で肩で息をしている二人の女性に声をかける。
「はい……。なんとか、無事に降りられましたね」
香取が乱れた美しい銀髪を指でかき上げながら、ずれたアンダーリムの眼鏡の位置を直して答えた。
その額には大粒の汗が光り、タイトな制服は汗で肌に張り付いていたが、彼女の知的な瞳はすでに周囲の状況を冷静に観察し始めていた。
「ひでさんも、お怪我はありませんか。あの強引な着艦で、どこか痛めたりしていませんか」
鹿島がひでの体を気遣い、自分のスカートの裾の汚れを丁寧に払いながらゆっくりと立ち上がる。
「ああ、俺は平気だ。元自衛官だからな、頑丈なのが取り柄だ。それよりも、ここは……」
ひでは重い膝に手をついて立ち上がり、改めて自分たちが転がり込んだ巨大な空間を隅々まで見回した。
アークエンジェルのフライトデッキは、ちょっとした野球場がすっぽりと収まりそうなほどの、常識外れに広大な空間だった。
天井の至る所で赤と青の非常用ランプがせわしなく点滅し、白煙を上げる配管や、火花を散らす切断されたケーブルが床のあちこちに散乱している。
しかし、その広さや最新鋭の設備とは裏腹に、そこは戦場の混乱と熱気に包まれた修羅場そのものであった。
重傷を負って血まみれになった兵士がストレッチャーで次々と運ばれていく光景や、消火器を持って駆け回る整備兵たちの悲痛な怒号が、ひでたちの鼓膜を容赦なく叩き据える。
「なんて広大な格納庫でしょう。これほどの巨大な艦を、あのような少数のクルーだけで動かしたというのですか」
香取が感嘆と驚きが入り交じった声で呟き、高い天井を見上げた。
「この施設の規模と設備の充実ぶり……。私たちの世界の大日本帝国海軍の軍艦とは、まるで設計思想からして異なります。空を飛ぶための巨大な推進器と、これだけの莫大な物資を積載するスペースを両立させるなど、物理法則的に考えられません」
鹿島もまた、艦娘としての専門的な視点から、アークエンジェルの規格外のスケールと技術力に息を呑んでいた。
だが、ひでの目は、その巨大な軍事施設の片隅に身を寄せている、ある一団に向けられていた。
甲板に降り立ったひでたちや、ストライクから降りたキラを待っていたのは、先ほどまで瓦礫の陰で野戦整備を行っていたキラの友人たちだったのだ。
カズイ、トール、ミリアリア、サイの四人である。
彼らは取り残されることなく、そのままアークエンジェルへと収容されていたのだ。
彼らは全員、この血生臭い軍艦の格納庫には全く似つかわしくない、色鮮やかな私服姿の民間人である。
顔や服を煤と泥で汚し、互いの体を寄せ合うようにして、怯えた小動物のように小刻みに震えていた。
「キラ!」
少年の一人、トールが弾かれたように声を上げ、格納庫の床を蹴って駆け出していく。
その視線の先には、純白のストライクガンダムのコックピットから力なく降りてきたキラ・ヤマトの姿があった。
キラは顔面を死人のように蒼白にさせ、足元をふらつかせながらタラップを降り、駆け寄ってきて差し出されたトールの手にすがりつくようにして甲板に崩れ落ちた。
「キラ、大丈夫か! どこか撃たれたのか! 怪我はないの!」
ミリアリアという少女が、涙声でキラの背中を必死にさする。
サイとカズイも駆け寄り、親友の無事を確かめ合うようにして彼を取り囲んだ。
「……うん、僕は大丈夫。なんともないよ。みんなも、無事だったんだね」
キラの声はひどく掠れており、その瞳には戦場で命のやり取りをしてきた者特有の、深く暗い疲労と絶望の色が沈んでいた。
だが、その感動的な再会の光景は、ひでの目にはあまりにも残酷で、痛々しいものに映った。
「日本の平和な街中にいるような普通のガキどもが、軍の最機密の軍艦に乗せられてる。どう考えても異常な光景だ」
ひでは眉間に深い皺を刻み、唇を強く噛み締めた。
彼らは本来、親の庇護の下で学び、遊び、未来を夢見るべき年齢の子供たちだ。
それが今、血と硝煙の匂いが充満する戦艦の甲板で、いつ死ぬとも知れない恐怖に震えながら身を寄せ合っている。
あの中にいる一人の少年は、たった今、自分の手で人の命を奪ってきたばかりなのだ。
「軍の艦艇に民間人を非常時に収容することは、国際条約等で義務付けられてはいますが……。彼らの精神状態は、すでに限界に近いですね」
香取が眼鏡の奥の瞳を細め、冷静に、しかし深い同情を含んだ声で分析する。
「ええ。それに、キラさんはあの恐ろしい兵器に乗って、直接戦闘まで行っています。彼の負った心の傷は、私たち大人には計り知れません」
鹿島もまた、胸の前で両手を固く組み、悲痛な面持ちでキラたちを見つめていた。
ひでは大きく息を吐き出し、彼らの方へと歩み寄ろうと足を踏み出した。
大人の男として、せめて気の利いた言葉の一つでもかけてやり、張り詰めた不安を少しでも和らげてやらなければならないと思ったのだ。
そこへ、マリューが駆けつけてくる。
彼女のオレンジ色の軍服は所々が油と煤で汚れ、左腕には応急処置の血の滲んだ包帯が痛々しく巻かれていたが、その表情には安堵の色がはっきりと浮かんでいた。
「キラ君、それにひでさんたち! よく無事で……!」
マリューはキラたちの元へ駆け寄ると、膝をついて少年少女たちと同じ目線になり、彼らの無事を確かめるように一人一人の顔を見つめた。
そして、ゆっくりと立ち上がると、今度はひでたちの方を向いて深々と頭を下げた。
「ひでさん、香取さん、鹿島さん。あなたたちも、よくあの機体で生き残ってくれたわ。あなたたちの援護がなければ、私たちは絶対にここには辿り着けなかったわ」
マリューの言葉には、上官としての建前ではなく、一人の人間としての心からの感謝が込められていた。
「礼を言われる筋合いはねえさ。俺たちは俺たちの命を守るために、必死で地べたを這いずり回っただけだ」
ひではぶっきらぼうに答えながらも、自衛隊時代の癖で無意識に背筋を伸ばし、周囲への警戒を解いていなかった。
「ですが、大尉。この艦の状況は、あまりにも異常です。出航したばかりとはいえ、艦内の指揮系統も、人員配置も、全く機能しているように見えません」
香取が眼鏡の位置を直し、鋭い視線で周囲の混乱した状況を的確に指摘する。
「ええ。それに、これだけの巨大な艦を運用するにしては、絶対的に人員が不足しています。……何か、取り返しのつかない深刻な事態が起きているのではありませんか」
鹿島の言葉に、マリューの表情が再び暗く沈み、痛む左腕を庇うように押さえた。
彼女が何かを言い淀み、視線を床へと落とした、その直後だった。
エレベーターからもう一人、厳しい顔つきの女性士官――ナタル・バジルール少尉が降りてきた。
さらに、メビウス・ゼロから降りたムウ・ラ・フラガも合流する。
ナタルの美しく切り揃えられた黒髪は煤で汚れ、制服には他人の血の跡が黒くこびりついていたが、その顔つきは氷のように冷徹で、軍人としての厳しい規律を全身から立ち上らせていた。
ムウはパイロットスーツのまま、飄々とした足取りで歩いてくる。
ナタルの登場により、格納庫内の空気が一瞬にして凍りつき、重苦しい緊張感が場を完全に支配した。
ナタルは直立不動で敬礼し、残酷な事実を口にした 。
「……艦長、副長を含め、ブリッジの高級士官は先ほどの攻撃で全員戦死されました」
その言葉が格納庫に響き渡った瞬間、マリューの顔からサァッとすべての血の気が引いた。
「えっ……?」
マリューの足がよろけ、信じられないというように数歩後ずさる。
アークエンジェルは文字通り、頭脳を失った状態であった 。
「そんな……艦長が……? あのベテランのクルーたちが、全員……?」
アークエンジェルは、地球連合軍の威信と莫大な予算をかけて建造された最新鋭艦である。
その頭脳となるべき経験豊富な士官たちが、艦が宇宙へ出る前に一人残らず全滅した。
それは文字通り、この巨大な艦が頭脳と手足を完全に失い、ただの巨大な鉄の箱になり下がったことを意味していた。
「嘘だろ……。正規のクルーが全滅だと?」
ひでもまた、その報告を聞いて思わず声を漏らした。
自衛隊で組織の指揮系統の重要性を骨の髄まで実感きたひでにとって、指揮官の全滅は部隊の壊滅と完全に同義である。
どんなに優れた兵器があろうと、それを運用する頭脳と手足がなければ、ただの浮かぶ的でしかない。
「現在、ブリッジは生き残った下士官と、数名の技術兵のみで辛うじて維持されています。本来の運用に必要な人員の、三割にも満たない数です」
ナタルは淡々と事実を告げる。
その声には絶望の色はなく、あくまで軍人としての状況報告の義務を正確に果たしているだけだった。
「ひでさん、これは最悪の事態です。艦の頭脳が失われた状態では、いかに優れた装甲を持っていようと、次の戦闘を生き抜くことは不可能です」
香取がひでの耳元で、緊迫した声で囁く。
「大日本帝国海軍においても、艦長や副長を同時に失うことは、艦の死を意味します。この巨大な艦を、素人の寄せ集めで動かせるはずがありません」
鹿島もまた、絶望的な表情で首を横に振った。
「現在の状況下において、本艦の生存者の中で最も階級と序列が上なのは、ムウ・ラ・フラガ大尉、あなたになります。指揮を執ってください」
ナタルがムウへと視線を向ける。
ナタルの要求は、軍の指揮権継承のルールに則った、極めて正当で論理的なものだった。
指揮官が戦死した場合、生存している最先任の将校が指揮権を引き継ぐのは、軍隊における絶対の掟である。
しかし、ムウは軽く肩をすくめ、両手を振った 。
「冗談じゃないぜ。俺はしがない戦闘機(モビルアーマー)乗りだ。こんなデカいフネの指揮なんて柄じゃない。……次級者のマリュー大尉、あんたが艦長だ」
「わ、私が!? 私は技術士官よ、戦艦の操艦や指揮なんて……!」
マリューは信じられないものを見るような目でムウを睨み返した。
彼女の悲痛な叫びは、当然の拒絶だった。
技術開発のプロフェッショナルと、戦場での部隊指揮のプロフェッショナルは、全く別の生き物である。
突然、数百人の命と最新鋭艦の運命を背負わされ、今日からあなたが艦長だと言われて、はいそうですかと引き受けられる人間などいるはずがない。
「他に誰がいる? あんたがやるしかないんだよ」
ムウの冷酷な現実を突きつけるような言葉に、マリューは重圧に震えながらも、血の気の引いた唇を噛み締めた。
彼女の目には、逃げ出したいという弱さと、軍人としての責任感が激しく交錯している。
そのやり取りを見ていたひでは、正規の指揮系統が完全に全滅しているという絶望的な事実を悟る 。
(……正規クルーが全滅で、ただの技術屋の大尉に急に艦長をやれって言ってるのか。この艦、泥舟も同然じゃないか)
ひでの脳内で、自衛隊時代のシビアな状況判断のフィルターがフル稼働する。
海自は専門外だが船を動かすには、航海長、砲術長、機関長、通信長など数え切れないほどの専門家が必要なはずだ。
それを、生き残りの素人の寄せ集めで動かすなど、正気の沙汰ではない。
「おいおい、冗談キツイぜ。素人の寄せ集めで、このバケモノみたいな戦艦を動かそうってのか」
ひでがぼそりと呟く。
「ええ。しかも、指揮官は実戦経験ゼロの技術士官……。これでは外の宇宙に出た瞬間、ザフトの的になるだけです」
香取がひでの言葉を引き継ぐようにして、厳しい顔つきで言った。
右隣に立つ香取も、左隣に立つ鹿島も、ひでと同じように厳しい表情でその光景を見つめている。
大日本帝国海軍の艦娘として、熟練の乗組員がいかに重要かを知り尽くしている彼女たちにとっても、このアークエンジェルの現状は絶望以外の何物でもなかった。
(このままじゃ、俺たちもあの民間人のガキどもと一緒に、この泥舟と心中することになるぞ……)
ひでは、これから起こるであろう地獄のような逃避行を予感し、重く、深く溜息をついた。
はい、承知いたしました。
ご提示いただいた新しい構成案に基づき、プロットを再編し、一話ずつの密度を極限まで高めて執筆いたします。
アークエンジェルの広大なフライトデッキに、肺を焼くような重苦しい沈黙が不気味に降り下りていた。
正規のブリッジクルーが全滅したという、あまりにも絶望的で、組織としての死を告げる報告がもたらされた直後のことである。
実戦経験のない技術士官であるマリュー・ラミアスへの、有無を言わさぬ強引な艦長就任の押し付けが行われた。
その生々しい軍隊内部の機能不全と混乱を目の当たりにしたひでは、自衛隊時代のシビアな現場経験から、この艦がすでに組織として完全に「死に体」であることを痛感していた。
血の気を失った青白い唇を激しく震わせながら、マリューが絞り出すように艦長就任を宣言した。
だが、その苦渋の決断に誰もが安堵の息をつく間もなく、事態は最悪の方向へと転がり始める。
「マリュー艦長、動揺している暇はありません」
ナタル・バジルール少尉の、氷の刃のように冷たく、そして鋭い声が、格納庫の淀んだ空気を一刀両断にした。
彼女の視線は、今まさに艦長となったマリューではなく、格納庫の片隅で寄り添い、怯えきっている民間人の少年少女たちへと真っ直ぐに向けられていた。
その瞳には、軍規という絶対的なルールを冷徹に執行する者特有の、一切の容赦を排した光が宿っている。
ナタルは、軍の機密を何よりも重んじる、生粋の職業軍人であった。
未曾有の危機的状況下にあっても、彼女の頭の中には地球連合軍の軍事規定が、生存本能よりも優先される絶対事項として深く刻み込まれているのだ。
「軍規に基づき、直ちに民間人を拘束し、最高機密であるG兵器に触れた彼らを隔離します」
ナタルが声を荒げると同時に、彼女の背後に控えていた周囲の警備兵たちが、訓練された無機質な動作で動き出した。
彼らは一切の迷いを見せることなく、ひでやキラたちに向けて、手にした自動小銃の銃口を一斉に構える。
アサルトライフルの冷たい銃口が、無抵抗な民間人たちへと非情に向けられた。
カチャリという、安全装置を外す硬質な金属音が、広大な格納庫に不気味なほど鮮明に響き渡る。
「ひっ……!」
銃口を向けられたミリアリアが、短い悲鳴を上げて両手で口を覆った。
カズイは恐怖のあまり足から崩れ落ちそうになり、サイが必死にその震える体を支えようと腕を回す。
少年少女たちは極限の恐怖で悲鳴すらまともに上げられず、互いに抱き合ってガタガタと震え出した。
トールも親友であるキラを庇うように前に出ようとしたが、訓練された兵士たちの放つ圧倒的な威圧感を前に、膝が笑って一歩も動くことができない。
キラもまた、ストライクでの死闘を終え、初めて人の命を奪ってしまったという極度のトラウマと疲労の中にあり、突然突きつけられた「味方」からの銃口に、ただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
つい数分前まで平和な学生生活を送っていた彼らにとって、本物の銃口を向けられ、命の火を消される恐怖に晒されるという体験は、精神を完全に磨り潰すのに十分すぎる破壊力を持っていた。
「ま、待って、バジルール少尉!」
マリューは予期せぬナタルの強硬手段に目を丸くし、慌てて制止の声を上げた。
「彼らは民間人よ。しかもキラ君は、私たちの命を救ってくれた恩人じゃない!」
マリューは必死に言葉を紡ぎ、自らの体を盾にするようにしてナタルの前に立ち塞がろうとする。
だが、ナタルの表情はピクリとも動かず、その冷徹な歩みを止めることはなかった。
「恩人であろうと、軍の最高機密に触れたという事実に変わりはありません」
ナタルはマリューの必死の訴えを、冷酷な正論で切り捨てる。
「彼らを自由にしておけば、情報漏洩という取り返しのつかない重大なリスクを招きます。艦長、あなたは私情を挟みすぎです」
彼女の眼差しは、一切の妥協を許さない岩のような厳しさを持っていた。
絶対的な暴力の象徴である銃器が、理不尽に民間人を制圧しようとする絶望的な空間が形成される。
誰もが息を呑み、次に放たれるであろう非情な銃声に怯えていた。
「ははっ」
その緊迫した空気を破ったのは、ひでの乾いた笑い声だった。
場違いなほどに落ち着き払った大人の男の笑い声が、警備兵たちの殺気をわずかに削ぎ落とす。
ひでは、自身に向けられた黒光りする銃口から目を逸らすことなく、ゆっくりと一歩前に出た。
「ひ、ひでさん……! 駄目です、撃たれます!」
背後から鹿島が悲痛な声を上げる。
だが、ひでは振り返らずに、空いた片手を上げて彼女を静かに制止した。
「いい目をしてる。あんた、根っからの軍人だな」
ひでは銃口を向けられながらも、両手を軽く挙げて降参のポーズを取り、ゆっくりとした歩みでナタルに近づいていく。
その足取りには一切の怯えがなく、むしろ死線をくぐり抜けてきた者特有の、重く静かな威圧感すら漂っていた。
三十代の元自衛官としての経験が、ここで僅かでも怯えを見せれば相手のペースに完全に飲み込まれることを、彼に本能レベルで教えていた。
銃口を突きつけられた時、最も危険なのは相手を刺激するような急な動きをすることである。
ひでは相手を警戒させないように、だが確実に自分の存在感を誇示するように、じりじりと間合いを詰める。
「民間人が口を出すな。それ以上近づけば、射撃を許可する」
ナタルはひでの堂々とした態度にわずかな警戒心を抱きながらも、軍人としての厳しい声で威嚇を続ける。
民間人が軍の決定に口を出すことなど、規則を重んじる彼女の辞書には存在しない。
だが、ひでは彼女の堅物な思考回路を逆手に取るように、言葉という名の鋭利な刃を突きつけた。
「軍規は結構だが、現実を見ろ。指揮系統がガタガタのあんたたちだけで、外のあいつらの追撃を振り切れるのか?」
ひでの低く、しかし格納庫全体によく通る声が、ナタルの急所を容赦なく抉り出す。
アークエンジェルは今、正規の頭脳を完全に失い、素人の寄せ集めで動かさざるを得ない、沈みかけの船である。
火器管制も、航法計算も、ダメージコントロールも、すべてにおいて圧倒的に人員が不足している。
その絶望的な事実を最も重く受け止めているのは、他ならぬナタル自身であった。
「それは……!」
ナタルは一瞬言葉に詰まり、悔しそうに血が滲むほど強く唇を噛み締めた。
ひではそのわずかな心の隙を逃さず、さらに言葉を重ねて交渉の主導権を完全に握りにかかる。
自分たち三人がここで拘束されれば、行動の自由を完全に奪われ、この崩壊するコロニーと運命を共にすることになりかねないからだ。
「タダ飯を食うつもりはねえよ。俺たちは俺たちの命を守るために、あんたたちに協力してやるって言ってんだ」
ひでは両手をゆっくりと下ろし、ナタルとマリューを交互に見据えながら、はっきりと提案を口にした。
「あんたたちは今、手足をもがれた状態で、まともに火器管制すら機能していないはずだ。このまま宇宙に出れば、待ち構えているザフトの艦隊に一瞬で沈められるのは火を見るより明らかだろ」
ひでの言葉は、誰もが薄々感づいていながらも、恐ろしくて口に出すことができなかった最悪の未来予想図だった。
「だから、取引だ。俺たちをこの艦の臨時のクルーとして雇え。俺があの灰色の未完成機に乗って、外の敵を牽制してやる。そして、この二人は、あんたたちのブリッジでシステムオペレートを完璧に代行してくれる」
民間人が、軍の最新鋭艦の運用に直接関わるなど、平時の軍隊では絶対にあり得ないことである。
「莫迦なことを言うな! 素人が口出しできるほど、最新鋭艦のシステムは甘くないぞ!」
ナタルの激しい反論に対し、ひでの背後から香取と鹿島が静かに前に出た。
彼女たちの制服は着艦時の衝撃や汗で汚れ、所々が破れていたが、その顔つきは極めて冷静であり、大日本帝国海軍の艦娘としての揺るぎない誇りに満ちていた。
彼女たちにとって、艦を動かすことは呼吸をすることと全く同義である。
いかに異世界の最新鋭艦であろうと、艦という兵器の根本的な構造と、そこに宿るべき魂のあり方は変わらないという絶対的な自信が、彼女たちにはあった。
「私たちが素人かどうか、試してみますか?」
香取がアンダーリムの眼鏡を中指で優雅に押し上げながら、冷徹な微笑みを浮かべて言い放つ。
「先ほどの戦闘中、私たちは外部から貴艦の挙動を詳細に観測していました。まず、貴艦のメインレーダーシステムには、致命的な同期遅延が発生していますね」
香取の口から飛び出した極めて専門的な指摘に、技術士官であるマリューがハッとして顔を上げる。
「フェイズドアレイアンテナのデータリンクにおける優先順位のアルゴリズムが、コロニー内部の閉鎖空間特有の電磁干渉に最適化されていない。それが、あの数コンマの遅延の原因です。今のままでは、高速で三次元機動するモビルスーツの軌道を正確に捕捉することは不可能です」
彼女の言葉には、確かな技術的裏付けと圧倒的な説得力があった。
「ブリッジのシステムから環境フィルターの係数を手動で書き換え、アンテナの指向性を局所的に絞り込めば、即座に遅延は解消できます。なぜあの戦闘中に、その程度の処理を行わなかったのですか?」
香取の容赦ない言葉に、マリューは息を呑んだ。
まさに彼女が開発中に頭を悩ませていたシステムの「癖」を、外部からの観測だけで、しかも一瞬で見抜かれたのだ。
さらに、鹿島が一歩進み出て、香取の分析を完璧に補完するように口を開く。
「パッシブセンサーによる熱源探知にも、重大なノイズ問題が生じています。巨大なメインスラスターの強烈なバックウォッシュの熱を、システムが自艦の放熱として正しく相殺しきれておらず、後方からの敵機の熱源反応を正確に識別できていない状態でした」
鹿島の清楚な声が、広い格納庫に響き渡る。
「機関部の排熱シールドの位相を三度ずらし、センサーの閾値を現在のコロニー内部の気圧変動に合わせて再調整すれば、探知範囲と精度は劇的に向上します。これらはすべて、ブリッジのサブコンソールから数分で実行可能なタスクです」
香取と鹿島から立て続けに放たれた、あまりにも高度で正確な技術的指摘。
それは艦艇の魂を持つ艦娘だからこそ直感的に理解できる、兵器との親和性の証明に他ならなかった。
どこに血が通っておらず、どこにノイズが走っているかを、彼女たちは外部から観察しただけで完全に把握していたのだ。
マリューは驚きのあまり言葉を失い、ナタルもまた、素人とは思えない専門的な分析を前に、銃を下ろすことすら忘れて呆然と立ち尽くしていた。
「信じられない……。私たちが開発中に調整しきれなかったシステムの問題を、外部から見ただけで、しかも解決策まで提示するなんて……」
マリューが震える声で呟き、香取と鹿島を畏怖の目で見つめる。
彼女たちの知識と演算能力は、連合軍のエリートオペレーターたちを遥かに凌駕していることが、技術責任者であるマリューには痛いほどに理解できた。
「どうだ、少尉殿。これが素人の戯言に聞こえるか?」
ひでがナタルに向かって、勝利を確信したような不敵な笑みを浮かべて言い放った。
「こいつらの頭脳を拘束して独房に放り込むか、それとも今すぐブリッジに座らせてこの沈みかけの船を少しでもマシな戦艦にするか。どっちが生き残る確率が高いか、あんたの優秀な軍人の頭で計算してみろ」
ひでの言葉は、軍規に縛られたナタルの思考を、生存という最も根源的な現実へと強制的に引き戻した。
ナタルはギリッと強く奥歯を噛み締め、反論の言葉を必死に探したが、見つからなかった。
ここで意地を張って彼女たちを拘束すれば、アークエンジェルは確実に次の戦闘で撃沈される。
沈黙が格納庫を支配する中、ついに艦長としての全責任を背負ったマリューが、重い口を開いた。
「……わかったわ。あなたたちの力を貸して」
マリューの言葉には、先ほどまでの弱々しさは完全に消え去っていた。
「X306のパイロットのひでさんは少尉待遇、香取さんと鹿島さんは准尉待遇として、本艦の運用補助に入ってもらうわ。責任はすべて艦長である私が取ります。バジルール少尉、銃を下ろさせて」
マリューがナタルの目を真っ直ぐに見据えて断言する。
ナタルは無念そうに顔を歪めながらも、やがて諦めたように姿勢を正して敬礼を返した。
ナタルの合図で、警備兵たちが一斉に銃を下ろす。
「妥当な線だな。よろしく頼むぜ、艦長さん。……それと、あいつらだ」
ひでは視線を格納庫の隅で固まっている少年少女たちへと向けた。
「あいつらはただの避難民だ。戦争には何の関係もないガキどもだ。安全な部屋を与えて、丁重に保護してやってくれ。間違っても軍の都合でこき使ったり、無理やり拘束したりするなよ」
ひでの要求に、マリューは真剣な表情で頷き、中立国に着くまでの安全を確約した。
こうして、異世界人である三人は、アークエンジェルに暫定的な軍属としての居場所を確保することになったのである。
マリューの指示により、ひで、香取、鹿島の三人は、アークエンジェルの中層区画にある予備の士官用個室へと案内された。
四畳半ほどの広さに、二段ベッドと簡素なデスク、そして軍用端末が備え付けられただけの無機質な空間だが、先ほどまでの死地を思えば、ここはこの世で最も安全な楽園のようにすら感じられた。
案内した警備兵が扉を閉め、ロックをかける音が響く。
「……ふぅ。とりあえず、首の皮一枚繋がったな」
ひではネクタイを乱暴に緩め、硬いパイプ椅子にドサリと腰を下ろした。
「お疲れ様です、ひでさん。あの交渉術、実に見事でした」
香取が眼鏡を外し、疲れた瞳を指で押さえながらも、ひでの立ち回りを称賛した。
「ああ、生きた心地がしなかったがな。……さて、休む前にやることがある」
ひではデスクの上の軍用端末を起動させた。
マリューから与えられたアクセス権限により、基本的な公開情報や歴史データベースへの閲覧が許可されている。
「香取、鹿島。俺たちが放り込まれたこの世界の正体を、徹底的に洗え。何が起きていて、誰と誰が、何のために殺し合っているのかをな」
ひでの言葉に、二人の艦娘は表情を引き締めて端末の前に並んだ。
香取の指が、驚異的な速度でキーボードを叩き始める。
モニターには、膨大なテキストデータ、地図、そして数々の凄惨な記録映像が次々と映し出されていった。
そこにあったのは、ひでたちの知る歴史とは根本から異なる、あまりにも残酷な「人種間戦争」の記録であった。
「遺伝子調整された新人類、コーディネイター。そして、調整を受けない従来の人類、ナチュラル……。これが、この世界の対立の根源ですか」
香取が、モニターに映し出された初期のコーディネイター、ジョージ・グレンの演説映像を見つめながら呟いた。
「優れた知能と肉体を持つコーディネイターを、ナチュラルは畏怖し、憎悪した。……そして、その憎悪は爆発した。これを見てください、ひでさん」
香取が示したのは、凄まじい閃光と共に、宇宙に浮かぶ農業用プラントが破壊される映像だった。
「C.E.70年2月14日。地球連合軍によるプラントへの核攻撃。……『血のバレンタイン』事件」
「核だと……!?」
ひでは思わず椅子から立ち上がった。
映像の中では、無数の命が育まれていたはずのプラントが、核の業火によって一瞬で蒸発し、宇宙の塵へと変わっていく。
二十四万人ものコーディネイターが、たった一発の核弾頭によって殺戮されたという記録が、冷徹な数字として刻まれていた。
「この事件を機に、コーディネイターの軍事組織ザフトは、地球全土に『ニュートロンジャマー』を散布。核分裂を抑制し、地球上のエネルギー供給を麻痺させた。……そして現在、両陣営は相手を根絶やしにするまで止まらない、総力戦(トータル・ウォー)に突入しています」
鹿島が、現在の戦勢地図を広げながら、悲痛な声で解説を加える。
地球上の主要都市は戦火に包まれ、宇宙では互いの拠点を破壊し合う泥沼の消耗戦が続いている。
そこには「平和」や「対話」という言葉が入り込む余地は一ミリも存在せず、ただ「生存か、滅亡か」という二極論だけが戦場を支配していた。
「……なんてこった。これじゃあ、ただのロボットアニメの戦争じゃねえ」
ひではモニターに映し出された無数の死体の山と、破壊された都市の惨状を目の当たりにし、奥歯が軋むほど強く噛み締めた。
「これは人種差別から始まった、文字通りの『ジェノサイド』だ。……あいつら、互いを人間だと思って戦ってやしねえ」
元自衛官として、多くの理不尽を見てきたひでであったが、この世界の抱えるあまりにも深すぎる憎悪の連鎖には、底知れぬ恐怖と嫌悪を感じずにはいられなかった。
ヘリオポリスのような中立のコロニーが戦火に包まれたのも、この狂った世界情勢の中では、必然の結果でしかなかったのだ。
「ひでさん、マリュー艦長も、ナタル少尉も、そしてあのキラという少年も……。誰もが、この出口のない地獄の渦中に放り込まれているのですね」
香取が、震える手で眼鏡をかけ直した。
「……ああ。だが、俺たちはこの泥舟に乗り込んじまった。そして、あのガキどもを保護すると約束した」
ひでは、自らの拳を硬く握りしめた。
「世界が狂っていようが、俺たち大人がガキを見捨てていい理由にはならねえ。……生き残るぞ。何が何でも、この地獄を這いずり回ってな」
ひでの決意の言葉が、狭い個室に重く響いた。
外では、ヘリオポリスの崩壊がさらに加速し、次なる死の影が、アークエンジェルを飲み込もうと着実に迫っていた。