アークエンジェルの第一格納庫は、死地から帰還した二機のモビルスーツが放つ熱気と、焦げ付いたオイルの匂いに重苦しく包まれていた。
巨大なハッチが閉ざされた後も、機体を強制冷却するファンの駆動音が、静まり返った艦内に低く、執拗な唸り声を響かせ続けている。
ひでは、ゼータプラスの狭小なコックピットから、数Gの負荷に耐え抜いた重い体を引きずり出すようにしてタラップへと降り立った。
手すりを握り締めた掌には、まだ操縦桿を通じて伝わってきた機体の微細な振動と、敵を撃たんとした際の硬い感触が、呪いのようにこびり付いている。
過酷な今回の戦闘が、彼の五感をかつてないほどに研ぎ澄ませていた。
ひでは首筋を伝う嫌な汗を乱暴に拭い、隣のカタパルトに鎮座する純白の機体、ストライクガンダムを仰ぎ見た。
機体各部のスラスターからは、限界まで酷使された証である白い排気が、陽炎のように揺らめきながら天井へと昇っている。
だが、その鉄の城の主であるはずの少年は、ハッチが開かれた後も、一向に姿を現す気配がなかった。
「……キラ、聞こえるか。戻ったんだ。もう降りていいぞ」
ひではストライクの足元から、インカムの通信を通じて、努めて穏やかな声をかけた。
しかし、返ってきたのは、スピーカー越しに聞こえる荒く、不規則な呼吸音だけだった。
それは、過呼吸に陥り、込み上げるパニックと嘔吐感を必死に抑え込もうとする子供の、痛々しいまでの喘ぎだった。
ひでは、キラが今、どれほど深い心の闇の中に突き落とされているのかを、痛いほどに理解していた。
自らの手を直接血で汚し、かつての親友と刃を交え、その命を奪い合ったという事実は、十六歳の少年が背負うには、あまりにも残酷で、あまりにも重すぎる。
ひでがタラップに足をかけ、少年のもとへ向かおうとした時、格納庫の奥から喧騒と共に複数の足音が近づいてきた。
「キラ!無事なのか、キラ!」
「すごいぞ、ザフトのモビルスーツを倒したんだってな!信じられないよ!」
駆け寄ってきたのは、トール、サイ、カズイ、そしてミリアリアの四人だった。
彼らの顔には、自分たちの友人が、この絶望的な状況下でザフトの精鋭を退けた「英雄」として帰還したことへの、隠しきれない興奮と無邪気な期待が浮かんでいた。
友人たちの明るい声に反応したのか、ストライクのハッチがプシュゥッという排気音を立てて完全に開いた。
中から現れたキラは、ヘルメットを胸に抱えたまま、土気色の顔で力なくシートに座り込んでいた。
その瞳は、眼前に広がる格納庫の光景を映してはおらず、ただ虚空の向こうにある「死」だけを見つめているようだった。
「……キラ?どうしたんだよ、そんな顔して。勝ったんだろ?俺たちを助けてくれたんだろ?」
トールが怪訝そうに、コックピットの縁からキラの顔を覗き込んだ。
キラは震える唇を何度か動かそうとしたが、言葉は意味を成す声にならず、ただ喉の奥で虚しく消えた。
そこへ、整備班の誘導に従って、キラが執念で宇宙空間から回収してきたライフポッドが、クレーンによってゆっくりと床に降ろされた。
金属が床と擦れる不快な音が、格納庫内に響き渡る。
「……ポッドだ。生存者がいるかもしれない。マードック、開けろ」
ひでは、硬直した場を切り替えるように、重く、実務的な声で命じた。
マードック曹長をはじめとする整備兵たちが、手際よくポッドのハッチのロックを解除する。
プシュッという乾いた音がして、数時間、あるいは数日の間、死の恐怖と共に密閉されていた内部の空気が一気に外へ漏れ出した。
中から、ふらつく足取りで最初に出てきたのは、数名の民間人たちだった。
彼らは皆、自分たちが生きているという現実が信じられないのか、あるいは自分たちがどこにいるのかも分かっていないのか、幽霊のような足取りで外へと這い出してきた。
その顔には、恐怖で焼き切れた精神の残骸が張り付いているようだった。
そして、最後に出てきた少女の姿を認めた瞬間、キラの凍りついていた瞳に、僅かな、しかし激しい動揺の光が走った。
「……フレイ。 フレイ・アルスター……?」
キラの声は、蚊の鳴くような細さで、今にも消え入ってしまいそうだった。
ポッドから降りてきたのは、燃えるような赤毛が特徴的な、一際目を引く美しさを持つ少女、フレイ・アルスターだった。
彼女はヘリオポリスの学生の間では誰もが知るマドンナであり、キラにとっても、密かに憧れを抱き、遠くから見つめるだけの存在だった。
フレイは、自分が救われたという現実が受け入れられないのか、周囲に広がる軍用艦の殺伐とした光景に圧倒され、ガタガタと全身を震わせていた。
「キラ……?あなた、キラなの?どうして、どうしてこんなところに……」
少女の問いかけに、キラはもつれる足取りでコックピットを飛び出し、タラップを転げ落ちるようにして駆け下りた。
彼は自分の存在を、この地獄の中で繋ぎ止めるための唯一の楔(くさび)を見つけたかのように、必死に彼女へと手を伸ばした。
「よかった……。無事だったんだね。僕、君があのポッドに乗っているのを見つけて……。君を死なせたくなくて、必死で……」
キラはフレイの肩を抱き寄せようとしたが、フレイはその手を、まるで汚らわしいものに触れられたかのように無意識に振り払った。
彼女の瞳には、感謝の光など微塵もなく、ただ深いショックと、得体の知れない存在に対する本能的な恐怖が渦巻いていた。
「ぱぱは……パパはどこ!?返して、パパを返して!外はどうなっているの!?ヘリオポリスは……私たちの街は!?私たち、どうしてこんな人殺しのフネに……!」
フレイの悲鳴のような叫びが、格納庫の冷たい金属の壁に跳ね返り、キラの心を鋭く刺し貫いた。
サイがフレイを支えようと慌てて駆け寄るが、彼女はそれを拒むようにその場に泣き崩れた。
そこへ、騒ぎを聞きつけた連合の正規兵たちが、キラの周りに集まってきた。
彼らは、自分たちの艦を救ったこの少年に、惜しみない称賛を浴びせようとしていた。
「よくやったぞ、少年!あのジンを、しかも魔弾とか呼ばれているエースを撃破する瞬間、ブリッジのモニターで全員が見ていたぞ!」
「天才的な操縦だ!君のようなコーディネイターが、あと数人も味方にいれば、ザフトの連中なんて敵じゃないな!」
兵士たちは口々にキラの肩を叩き、その戦果を英雄のそれとして称えた。
それは、死と隣り合わせの生活を送る軍人として当然の反応であり、艦の窮地を救った者への最大限の敬意と感謝の表明であった。
「……ああ、本当に。キラ、お前って凄かったんだな。あの時、俺たちを見捨てないで戦ってくれたんだろ。ありがとうな」
カズイも、自らの死の恐怖を振り払うかのように、興奮気味に感嘆の声を漏らした。
友人たちの、そして兵士たちの称賛の声。
それは、平和な世界であれば、誇らしく、喜ばしいものであるはずだった。
しかし、その言葉が飛び交い、キラが「英雄」として祭り上げられるたびに、彼の顔はみるみるうちに土色へと沈んでいった。
ひでは、少し離れた位置から、腕を組んだまま、その残酷なまでのコントラストを冷ややかに見つめていた。
ひでの横には、ブリッジの当直を一時的に交代してきた香取と鹿島が立っていた。
「……見ていられませんね。彼らは、あの子がその手で何を壊し、何を奪ったのか、何も分かっていない。ただ、自分たちが助かったという結果だけを喜んでいる」
香取が、アンダーリムの眼鏡を中指で静かに押し上げながら、冷徹な響きを含んだ声で囁いた。
その知的な瞳には、キラに対する深い同情と、周囲の無理解に対する抜き難い嫌悪が、激しく入り混じっていた。
「キラさん……可哀想に。あんなに心を痛めているのに、周りの人たちはそれを『勲章』のように扱って。これでは、あの子の心は壊れてしまいます」
鹿島も、胸の前で両手を強く組み、今にも泣き出しそうな表情でキラを見つめていた。
彼女たち艦娘にとって、兵器として生きる辛さは誰よりも理解できるものだったからこそ、キラの置かれた状況が耐え難かった。
ひでは、足元に転がっていた焦げ付いたボルトを拾い上げ、それを乱暴に、暗い影の向こうへと投げ捨てた。
「……英雄ってのはな、誰かの命を奪い、その死骸の上に立った瞬間に祭り上げられるもんなんだよ。あいつらには、あの子の流している『心の血』なんて見えやしねえ。
いや、見たくねえんだよ」
ひでの声には、隠しきれない苦々しさが滲んでいた。
自分もかつて、自衛官として有事の際の覚悟と、国民を守るという責任を問われ続けてきた。
だが、この狂った世界で起きていることは、彼の知る規律ある「国防」とは、あまりにもかけ離れた、救いのない殺し合いだった。
子供を兵器に乗せ、敵を殺させ、それを安全な場所から称える。
それは、ひでが最も忌み嫌う、大人の不甲斐なさを象徴するような、歪み切った光景だった。
「キラ、お前本当にすごいよ!これで僕たちも安心だ。お前がいれば、ザフトのジンなんて怖くないよね!次も頼むよ、キラ!」
トールが、悪気のない満面の笑顔でキラの肩を揺さぶった。
その純粋で、濁りのない信頼の言葉が、キラにとっては、逃げ場のない鉄格子の鍵をガチャンと閉める音のように聞こえたに違いない。
キラは震える自分の両手を見つめた。
アーマーシュナイダーを突き立て、敵パイロットの鼓動が止まるのを感じた、あの指先。
機体が爆発し、光の粒となって散っていった、あの光景。
そこには血など付いていないはずなのに、今のキラには、決して洗い流せない鮮血が、指の節々にまでこびり付いているように見えていた。
「……やめてくれ。……やめてよ、そんなこと言わないでよ」
キラの口から、漏れるような呻きが溢れ出した。
「え?何か言ったか、キラ?聞こえなかったよ」
トールが親しげに聞き返す。
その瞬間、キラは突然、耳を塞ぐようにして、喉が裂けんばかりの絶叫を上げた。
「やめてくれって言ってるだろ!僕は……僕は、人を殺したんだぞ!
人が死んだんだ!あの中で、人が焼けて死んだんだ!どうして、どうしてそんなに笑っていられるんだよ!」
格納庫の喧騒が、冷水を浴びせられたように一瞬で凍りついた。
友人たちは、自分たちが知る「優しいキラ」の豹変に戸惑い、かける言葉を失って石のように立ち尽くした。
称賛していた兵士たちも、バツが悪そうに視線を泳がせ、一人、また一人と無言で持ち場へと戻っていった。
格納庫に満ちていた「勝利の熱」は、一瞬にして「人殺しの冷気」へと塗り替えられた。
「……キラ」
ミリアリアが、泣きそうな顔でキラの袖をそっと掴もうとした。
しかし、キラはその手を乱暴に振り切り、よろめきながら、出口へと走り去った。
残された友人たちは、ただその後ろ姿を、暗い通路の向こうへと消えていくまで呆然と見送ることしかできなかった。
「……追わなくていいんですか、ひでさん。彼には今、誰かの支えが必要なはずです」
香取が、静かに、しかし問い詰めるような視線をひでに向けた。
「……今は、一人にしてやれ誰が何を言ったところで、あの『感触』はきっと消えやしねえ。他人がかける言葉なんて、今のあの子にとっては、傷口に塩を塗るようなもんだ」
ひでは、ポケットから取り出したタオルで顔の脂汗を拭い、重い足取りで歩き出した。
キラを救ったはずの自分の「大人の言葉」さえも、今のあの子にとっては、自分を戦場へ縛り付けるための呪文の一つでしかない。
その事実が、ひでの胸を鋭い錐(きり)のように抉った。
「……さて、感傷に浸ってる暇はねえな。香取、鹿島。ブリッジの状況はどうだ。あの二人の女は、まだやり合ってるか」
ひでは歩きながら、意識を、生き残るための現実的な戦術的問題へと強制的に切り替えた。
自分たちがこの鉄の檻の中で生き延びるためには、この艦がどう動くべきかを冷静に把握し、あの少年たちのために、少しでも安全な航路を確保しなければならない。
「深刻です。マリュー艦長とナタル少尉の間で、今後の航路と索敵方針が完全に割れています。内部の統制が、物理的なダメージ以上に崩れかけています」
香取の報告に、ひでは深く、重い溜息をついた。
「……だろうな。理想主義の技術者と、規則に縛られた職業軍人だ。
水と油どころか、爆薬と火種だぞ」
ひでは、格納庫の鈍色に輝く天井を仰ぎ見た。
厚い装甲のすぐ向こう側には、どこまでも冷たく、音のない、無慈悲な宇宙が無限に広がっている。
そこには、ミゲルのような復讐に燃える戦士が、まだ暗闇に潜んでこちらを狙っているはずだ。
そして、アスラン・ザラという、キラの心をさらにズタズタに引き裂くであろう存在も、確実にそこにある。
「行くぞ。俺たちが動かなきゃ、この艦は目隠しをしたまま、地雷原を全速力で走ることになるあいつらの涙を守るには、俺たちが泥を被るしかねえんだ」
ひでは、二人の艦娘を従え、重苦しい沈黙が支配する格納庫を後にした。
出口のそばで、まだ地面に伏して泣きじゃくっているフレイを、おずおずと慰めているサイたちの横を通り過ぎる際、ひでは一瞬だけ足を止めた。
だが、かけるべき言葉、かけられるべき希望は、どこにも見つからなかった。
この世界では、美辞麗句などというものは、戦火の前では何の役にも立たない気休めに過ぎない。
それを、自衛官としてのキャリアと、この数時間の地獄で骨の髄まで理解しているのは、ここには、ひでしかいなかった。
アークエンジェルの無機質な通路を、ひでの履く軍靴の音がカツ、カツと虚しく叩く。
その一定のリズムは、まるで次なる戦い、次なる死へのカウントダウンのように響いていた。
ひでの視線の先には、第一ブリッジへと繋がるエレベーターの重厚な扉があった。
その向こうには、責任という名の、逃げ場のない重圧に押し潰されかけているマリューが待っているはずだ。
「……サイレントラン。それが、俺たちの唯一の、首の皮一枚繋ぐ道か」
ひでは、インカムに手を当て、自分を言い聞かせるように、低く嗄れた声で呟いた。
香取と鹿島は、一言も発することなく、ひでの背後にぴたりと続いた。
彼女たちの瞳には、すでに周囲数万キロの索敵計算と、熱源識別の複雑なアルゴリズムが走り始めていた。
少年たちの流す、あまりにも純粋で無力な涙をよそに、アークエンジェルは、自らの命を繋ぎ止めるための、静かな、しかし過酷極まる航海へと、その歩みを一歩ずつ進めようとしていた。
崩壊したヘリオポリスの残骸を背に、漆黒の宇宙が、その巨大な口を開けて彼らを待ち構えている。
ひでは、自らの汚れを知る大人の手で、その冷たい暗闇へと、力強く手を伸ばす決意を固めた。
アークエンジェルの第一ブリッジへと続く重厚な気密ハッチが、プシューッという乾いた排気音と共に左右へと滑り込んだ。
そこから流れ出してきたのは、リサイクルされたばかりの、どこか機械油の匂いが混じった冷え切った空気だった。
ひでは、二人の艦娘を引き連れてその「戦場の中枢」へと足を踏み入れた。
正面のメインスクリーンには、崩壊し、無数の岩石と化したヘリオポリスの無惨な残骸が、漆黒の宇宙を埋め尽くすように映し出されている。
ブリッジ内には、コンソールのビープ音と、オペレーター席に座る少年たちの荒い呼吸音だけが、不規則に響いていた。
艦長席に座るマリュー・ラミアスは、モニターの光に照らされて幽霊のように青白く、その細い肩を震わせている。
そのすぐ傍らで、副長のナタル・バジルールが、まるで氷の彫刻のような冷徹な表情で立ち尽くしていた。
「ですから、艦長!このままの針路では、ザフトの哨戒網に捕捉されるのは時間の問題です!今すぐ出力を上げ、デブリ帯を最短距離で突破すべきです!」
ナタルの鋭い声が、静まり返ったブリッジに響き渡った。
「ダメよ、ナタル少尉!そんなことをすれば、エンジンの熱源を敵に晒すことになるわ!今の私たちには、隠れることしかできないのよ!」
マリューが、絞り出すような声で反論する。
二人の女指揮官の間には、もはや修復不可能なほどの断絶が生じていた。
ひでは、その不毛な争いを鼻で笑い飛ばすように、軍靴の音を高く鳴らして中央へと進み出た。
「……賑やかだな、おい。地獄の真っ只中で、お喋りを楽しむ余裕があるのかよ」
ひでの低く、威圧感のある声に、二人の女が同時に振り返った。
その視線には、苛立ちと、それ以上の「拠り所」を求める縋(すが)るような色が混じっていた。
「……ひでさん。格納庫での対応、ありがとうございました。キラ君の様子は……」
マリューが、気遣わしげに問いかける。
ひでは、腕を組んだまま、冷淡に首を振った。
「あいつのことは放っておけ。大人が何を言ったところで、あの坊主の傷は塞がらねえ。それよりも、この艦の現状はどうなんだ。目隠しをしたまま暗闇を這いずるつもりか?」
ひでの言葉に、ナタルが眉間に皺を寄せ、一歩前に進み出た。
「言葉が過ぎます、ひで殿。私たちは軍規に基づき、最善の選択を模索しているのです。現在のNジャマーの影響下では、レーダーは完全に沈黙しています。目視とパッシブセンサーに頼るしかないのです」
「軍規、か。そんなもんで飯が食えるなら苦労はねえな」
ひでは、ナタルを冷ややかに一瞥し、背後に控えていた香取へと顎をしゃくった。
「香取、鹿島。この艦の『目』を研ぎ澄ませてやれ。お前たちの技術(ちから)なら、この暗闇でも道を見つけられるはずだ」
「了解いたしました、ひでさん。アークエンジェルの索敵システム、私たちが接収し、再構築します」
香取が、アンダーリムの眼鏡を指で静かに押し上げ、知的な笑みを浮かべてコンソールへと歩み寄った。
鹿島も、それに続いて隣のステーションへと着席する。
その一連の動作には、迷いも、無駄も一切なかった。
「ちょっと、あなたたち!勝手に何をして……!」
ナタルが制止しようと叫んだが、香取の指はすでに、猛烈な速度でキーボードを叩き始めていた。
「ナタル少尉、お静かに。今のこの艦の索敵アルゴリズムは、あまりにも前時代的です。パッシブセンサーの受光感度を量子レベルで同期させ、デブリの熱放射と敵艦の排熱を識別します鹿島、演算処理の同期(シンクロ)を開始して」
「はい、香取姉さん。火器管制レーダーの微弱電流を逆相関させ、ESM(電波探知支援)として機能させます。これで、敵の通信波がわずかでも漏れれば、その座標を特定できます」
鹿島の手元で、コンソールの画面が鮮やかな緑色から、深みのある濃紺へと塗り替えられていく。
メインスクリーンに映し出されていたノイズだらけの映像が、一瞬で、まるで研ぎ澄まされた刃のように鮮明なものへと変わった。
瓦礫の一つ一つの輪郭が、熱源の強弱によって色分けされ、宇宙空間の立体的な構造が浮き彫りになる。
「なっ……何をしたの?こんな鮮明な画像、連合の最新式でも不可能なはずよ……!」
マリューが、信じられないものを見るかのようにスクリーンを凝視した。
「私たちは、艦の魂を知る者です。このアークエンジェルが何を求めているのか、その神経系を繋ぎ直してあげただけですよ」
香取が、涼しい顔で答える。
その傍らで、索敵補助の席に座っていたトールやサイたちが、呆然として口を開けていた。
「すごい……ノイズが、全部消えた。これなら、敵が隠れていてもすぐにわかるぞ」
トールが、興奮を抑えきれない様子で呟く。
「……喜ぶのは、敵をやり過ごしてからにしろ」
ひでは、トールの後頭部を軽く叩き、再びマリューの方へと向き直った。
「マリュー艦長。これで『目』は開いた。次は、どこへ逃げるかだ。あんたの頭の中にある理想論ではなく、現実的な生存戦略を聞かせてもらおうか」
マリューは、ひでの鋭い視線に気圧されそうになりながらも、震える手で海図のような星図を広げた。
「……現在の私たちの位置から、最も近い連合の拠点は、第四資源衛星『アルテミス』です。
そこへ逃げ込めば、艦の補修と、民間人の保護を要請できます」
「アルテミス、か。難攻不落の要塞として知られている場所だ」
ナタルが、補足するように言った。
「しかし、そこへ至る最短航路には、敵の偵察隊が展開している可能性が極めて高い。だからこそ、私は強行突破を提案しているのです」
「……馬鹿の一つ覚えだな、少尉さん」
ひでは、鼻を鳴らした。
「強行突破なんてのは、圧倒的な火力を背景にするか、あるいは死ぬのが怖くない奴がやることだ。この艦には、泣きじゃくるガキと、素人のクルーしかいねえんだぞ。今の俺たちに必要なのは、『死んだふり』だ」
ひでは、星図の一点を指差した。
「デブリ帯の最も深い層を、慣性航行で抜ける。エンジンは完全に停止させ、生命維持に必要な最小限の電力以外はすべて落とす。サイレントラン……音のない航海だ」
「そんな……!もしデブリに接触すれば、回避運動も取れずに沈みます!」
ナタルが、激しく抗議する。
「だからこそ、お前たちの『腕』が必要なんだろ。
香取と鹿島が針路を割り出し、それを操舵手が正確になぞる。機械に頼れねえなら、人間が意地を見せる番だ」
ひでの言葉には、決して揺るがないプロフェッショナルの凄みが宿っていた。
マリューは、ひでの顔と、香取が映し出した鮮明なモニターを交互に見つめ、やがて覚悟を決めたように深く頷いた。
「……分かりました。ひでさんの提案を採用します。総員、サイレントランのシークエンスを開始。メインエンジンをカット。慣性航行に移行します」
「艦長!正気ですか!」
ナタルの絶叫に近い制止を、マリューは静かに制した。
「ナタル少尉。今の私たちに足りないのは、ルールを守ることではなく、生き残るための『勘』です。私は、ひでさんの経験に賭けます」
艦内に、重苦しい静寂が降りてきた。
これまで微かに鳴り響いていたエンジンの重低音が消え、代わりに、艦体の各所からキィ……キィ……という、熱収縮による金属の軋み音が聞こえ始める。
ブリッジの照明が落とされ、赤色の予備灯だけが明滅する暗闇の世界。
オペレーターの少年たちは、暗闇の中で互いの吐息を感じるほどの近さで、コンソールに食らいついていた。
「……怖いか、ガキども」
ひでが、暗闇の中で低く問いかけた。
「……はい。何も聞こえないのが、こんなに怖いなんて思わなかった」
カズイが、震える声で答える。
「それでいい。その恐怖が、お前たちの集中力を研ぎ澄ませる。耳を澄ませろ。宇宙は、本当は音に満ちているんだ。それを聞き漏らすな」
ひでは、自らも目を閉じ、艦の微かな振動に意識を向けた。
艦娘たちは、そのひでの意識と同期するように、システムの深淵へと潜り込んでいく。
アークエンジェルは、まるで巨大な墓標のように、静かに、そして密やかにヘリオポリスの瓦礫の中を滑り出した。
窓の外を、かつての居住区の残骸や、引き裂かれた外壁が、音もなく通り過ぎていく。
それは、死者たちの行列を見送る葬列のようでもあった。
「……右舷、十五度。小規模な熱源を確認。……いえ、ただの瓦礫の摩擦熱です。やり過ごします」
鹿島が、囁くような声で報告する。
彼女の指先は、まるで繊細な楽器を奏でるように、キーボードの上を優雅に舞っていた。
誰もが息を止め、自らの心臓の鼓動が敵に届くのではないかという妄想に囚われていた。
その極限の静寂の中、ひでは、マリューの握りしめた拳が白くなっているのを見た。
彼女もまた、大人として、指揮官として、自らの不甲斐なさと戦っているのだ。
「……マリュー艦長。あんたのその甘さは、戦場では毒になることもある」
ひでは、隣に座るマリューにだけ聞こえるような小さな声で告げた。
「……分かっています。私は、あの子たちをこんな目に遭わせて……最低の大人です」
「だが、その毒を薬に変えるのが、俺たちの仕事だ」
ひでは、わずかに笑みを浮かべた。
「生き残れば、いつか自分を許せる日が来る。それまでは、俺がその泥を一緒に被ってやるよ」
マリューは、驚いたようにひでの顔を見上げた。
赤い予備灯に照らされたひでの横顔は、険しく、しかしどこまでも頼りがいのある「守護者」のそれだった。
彼女は、初めてこの艦の中で、孤独ではない自分を感じていた。
「……ありがとうございます、ひでさん」
マリューの瞳に、僅かながらも芯の通った光が灯る。
アークエンジェルは、死の静寂を纏いながら、暗黒の深淵へと深く、深く潜り込んでいく。
そこには、自分たちの命を狙う獲物と、そして自分たちを捕らえようとする過去の亡霊が待ち構えている。
ひでは、自らの汚れを知る大人の手で、その暗闇を切り裂くための鋭い刃を、静かに研ぎ続けていた。
「……索敵に集中しろ。一瞬でも気を抜いた奴から、死神が連れて行くぞ」
ひでの冷徹な指令が、ブリッジの空気を再び引き締める。
艦娘たちが紡ぎ出すデータの糸が、アークエンジェルの周囲に巨大なクモの巣を張り巡らせる。
見えない敵の影、漏れ出す通信の断片、瓦礫の陰に潜む殺意。
それらすべてを絡め取り、自らの糧とするための、静かなる狩猟の時間。
アークエンジェルは、もはやただの特装艦ではなかった。
艦娘という名の魂を得て、それは暗闇を支配する、静かなる捕食者へと変貌を遂げようとしていた。
崩壊したコロニーの残骸を抜けた先には、さらなる過酷な海域が広がっている。
ひでは、その先にある「希望」という名の幻を掴むために、この静寂の航海を完遂することを誓った。