第1章【少年の熱】
資源衛星ヘリオポリスの崩壊という未曾有の悲劇から逃れ、暗黒の宇宙空間を漂う孤独な艦があった。
地球連合軍が極秘裏に建造した最新鋭の強襲機動特装艦アークエンジェルである。
アークエンジェルがデブリ帯を抜け、ユーラシア連邦の軍事要塞「アルテミス」へと向かう静かな航海を続ける中。
艦内には追撃を一時的に振り切ったことによる、束の間の安堵と、それを上回る重苦しい疲労感が充満していた。
本来であれば数百名の正規クルーによって運用されるべき巨大な艦は、生き残ったわずかな士官と、避難民の少年少女たちによって辛うじて動かされている状態だった。
艦内の医務室のベッドで、キラ・ヤマトは高熱にうなされていた。
青白い照明に照らされた彼の顔は痛ましいほどに赤く染まり、額からは玉のような汗が絶え間なく滲み出ている。
コーディネイターとしての超人的な処理能力でOSを書き換え、未知の機体であるストライクで実戦を立て続けに生き抜いた代償は、想像を絶するものだった。
決して無敵の超人などではない、16歳の少年の肉体と精神を限界まで削り取っていたのである。
心拍数を知らせるモニターの電子音だけが、静まり返った医務室に無機質に響いていた。
「……うなされてるな」
見舞いに訪れたひでは、苦しそうに荒い息を吐くキラの額に濡れたタオルを乗せる。
「ひでさん……キラ、大丈夫でしょうか」
付き添っていたフレイやミリアリアたち友人たちが、不安げな表情でひでを見上げる。
彼女たちの瞳には、過酷な現実への恐怖と、大切な友人を失うかもしれないという切実な怯えが浮かんでいた。
「ただの知恵熱と過労だ。休ませておけば治る」
ひでは子供たちを安心させるように努めて平坦な声で告げたが、内心では奥歯を強く噛み締めていた。
今のキラの状態がただの過労で済まないことなど明白だった。
「いいか、お前たちも他人事じゃないぞ。しっかり食って、しっかり寝る、それが生きる秘訣だ」
ひでは不安に押しつぶされそうな少女たちに向けて、あえて厳しい、しかし温かみのある大人の声で諭した。
戦場における華々しいエースパイロットの理論よりも、泥にまみれても生き残るための戦術を重んじるひでにとって、休息と栄養補給は戦闘行動と同じくらい重要な任務だった。
「キラが目を覚ましたら、消化に良くて栄養のあるものを食べさせてやってくれ。鹿島に言えば、限られた食材でも最高のものを作ってくれるはずだ」
ひでの言葉に、ミリアリアはこくりと力強く頷き、フレイはまだ不安そうにしながらもキラの手をきつく握り直した。
少女たちの様子を見届けたひでは、静かに医務室を後にした。
自動ドアが閉まり、廊下に出た途端、ひでは壁に背を預けて深く、重い溜息を吐き出した。
(……休めば治る? 冗談じゃない。次に敵が来たら、またこの高熱の子供を叩き起こして、あの化け物に乗せなきゃならないんだぞ)
この狂った世界で、大人が子供を守れないという圧倒的な不条理に、ひでは己の無力さを呪った。
自分がゼータプラスという未知の機体をなんとか動かし、戦力になっているとはいえ、戦局のすべてを好転させるほどの力はない。
結局のところ、この巨大な鉄の棺桶であるアークエンジェルを守るためには、ストライクという刃と、それを振るうキラの命を擦り減らすしかないのが現実だった。
「……クソが」
ひでは誰に聞こえるでもない悪態をつき、自らの乗機であるゼータプラスの格納庫へと重い足取りで向かった。
機体の状態を確認し、少しでも自分が盾になれる時間を延ばすために、やるべきことは山積みだった。
通路を歩きながら、ひではインカムのスイッチを入れた。
「香取、鹿島。聞こえるか。ゼータプラスの整備状況と、データ解析の進捗はどうなっている」
通信機越しに、ブリッジに詰めているであろう二人の女性の声が返ってくる。
彼女たちはひでと同じく異世界からの転移者であり、それぞれ練習巡洋艦の魂を持つ特異な存在だった。
『はい、ひでさん。お疲れ様です。ゼータプラスのシステム解析および、基本OSの調整は順調に進行しています』
香取の凛とした、しかしどこか艶のある声が耳に届く。
彼女は20代半ばの外見を持ち、品格漂う銀髪を後ろでまとめ、知的な赤いアンダーリムの眼鏡をかけた教官スタイルの女性だ。
礼儀作法と軍紀に厳しい教育者としての顔を持つ彼女だが、ひでに対しては深い慈愛と、絶対的な信頼を寄せている。
『ひでさん、コーヒーはいかがですか?格納庫のほうにお持ちしましょうか?』
続いて、鹿島の優しく包み込むような声が割り込んできた。
彼女もまた銀髪のツインテールを持ち、158センチと小柄ながら極めて肉感的なプロポーションを誇る、献身的な秘書官タイプの女性である。
常にひでの体調を気遣い、兵站や食事の管理まで完璧にこなす彼女の存在は、殺伐とした艦内におけるひでの心のオアシスだった。
「気持ちはありがたいが、今はいい。それより、香取。機体の武装についての解析結果を教えてくれ」
ひでが本題に入ると、通信の向こうで香取が端末を叩く微かな音が聞こえた。
ゼータプラスは地球連合軍がヘリオポリスで秘密裏に開発した6機目のG兵器であり、X300系フレームのプロトタイプに該当する。
『はい。メインの武装である高エネルギービーム・スマートガンと、大腿部のビーム・カノンの出力調整は完了しています』
『ですが、メインコンピューターの深層データから、本機にはさらなるオプション装備が存在することが判明しました』
「オプション装備?今でも十分すぎる火力だと思うがな」
『ええ。データ上では「ハイパーメガランチャー」と呼称される、拠点攻撃用の超大型ビーム兵装です。スマートガンを遥かに凌ぐ長距離射撃と、戦艦の主砲クラスの破壊力を有しているようです』
その言葉を聞いて、元普通科隊員としての血が騒いだのか、ひでの顔つきがわずかに変わった。
一発で確実に仕留める長距離狙撃は、ひでの戦術思想に合致するからだ。
「そいつは面白そうだな。で、その物騒な大砲はどこにあるんだ?」
ひでが期待を込めて尋ねると、香取は少しだけ申し訳なさそうな声を出した。
『残念ながら、設計データが存在するのみで、現在のアークエンジェルの物資状況では物理的な部品が決定的に不足しています。機体本体の建造だけで手一杯だったのでしょう。現時点での使用は不可能です』
「……チッ、絵に描いた餅か。まあいい、ないものねだりをしても始まらない。弾薬と推進剤の残量管理だけはきっちり頼むぞ」
『了解しています。それと、ひでさん。本機のフェイズシフト装甲についての追加機能が確認されました』
香取の言葉に、ひでは格納庫の扉を開けながら眉をひそめた。
「追加機能?実弾を弾く以上の何かが隠されてるってのか?」
『装甲の強度そのものは変わりませんが、通電時のカラーパターンの変更が可能であることが分かりました。現在は初期設定の「白と赤」を基調としたカラーリングになっています』
格納庫に足を踏み入れると、そこには威風堂々たる姿で鎮座するゼータプラスがあった。
現在は白と赤の鮮やかなトリコロールに近い配色で、いかにも最新鋭の試作機といった主張の強い色合いをしている。
『システム上、現在の「白と赤」の他に、「白と青」、そして「グレーを基調とし、青の差し色が入ったもの」の合計3種類のパターンから選択が可能です』
「色が変わるのか……」
ひでは機体を見上げながら顎を撫でた。
目立つカラーリングは敵のヘイトを集めやすい。
『ひでさんの運用ドクトリンを考慮すると、変更の余地があるかと思いまして。いかがなさいますか?』
香取の的確な提案に、ひでは少し考え込んだ。
そこに、鹿島が控えめに口を挟む。
『ひでさん。私としては、あまり目立ちすぎる色は敵の標的になりやすいので、少し心配です。被弾率を下げるためにも、もっと地味な色が良いのではないでしょうか?』
鹿島の気遣いに満ちた言葉に、ひでは同意の意を示した。
「ああ、俺もそう思う。目立てばいいってもんじゃねえ。……香取、鹿島。3つ目の『グレーに青の差し色』ってパターンに変更してくれ」
『グレーですね。了解いたしました。ただちにシステムを書き換え、次回の起動時より適用されるように設定します。理由をお聞きしても?』
香取が手際よく端末を操作しながら、教官らしい探求心を見せて問いかけてきた。
「理由は二つある。一つは単純な宇宙迷彩だ。この暗い宇宙空間で、白や赤は自己主張が激しすぎる。グレーを基調にすれば、デブリや暗礁宙域に紛れ込みやすくなる。一撃離脱や遊撃を基本とする俺の戦術には、少しでも視認性が低いほうが有利だ」
ひでの実戦経験に基づいた理路整然とした説明に、香取は感心したようなため息を漏らした。
『なるほど。確かに、本機の特性を活かす上で、視覚的な隠蔽率は生存性に直結しますね。素晴らしい判断です、ひでさん』
「もう一つの理由は、フェイズシフト装甲の欠点に対する偽装だ」
ひでは機体の足元にある整備用リフトに乗り込み、上昇ボタンを押しながら言葉を続けた。
「フェイズシフト装甲はエネルギー切れを起こすと、元の無機質な灰色の金属色、つまりフェイズシフトダウン状態になる。ストライクのデータで確認済みだろ?」
『はい。エネルギーの残量低下を視覚的に露呈してしまうという、致命的な弱点ですね』
「そうだ。もし通常時が白や赤で、エネルギーが切れて突然グレーになれば、敵に『撃ってください』と宣伝しているようなもんだ。だが、最初から装甲色をグレーに設定しておけばどうなる?」
『……ああっ!』
通信の向こうで、鹿島が短い声を上げた。
『最初からグレーなら、もしフェイズシフトダウンして色が落ちたとしても、見た目の変化が少なくて済む……!敵にエネルギー切れを悟られにくくなるんですね!』
「そういうことだ。味方にも気づかれにくくなるというデメリットはあるが、そこはお前たちとの通信によるデータリンクでカバーできる。敵に弱点を晒すリスクを考えれば、絶対にこっちのほうがいい」
ひでの徹底した生存戦略と、現場のリアリズムに基づく判断に、二人の女性は深く納得した様子だった。
『ひでさんのその泥臭い……いえ、実戦的な思考。本当に頼もしい限りです。すぐに設定を完了させますね』
香取の言葉には、上官としての評価だけでなく、一人の男に対する深い尊敬と熱がこもっていた。
『ふふっ。ひでさんが安全に帰ってきてくれる確率が少しでも上がるなら、私もその色に大賛成です』
鹿島もまた、安堵の入り混じった声で同意した。
「よし、決まりだ。次に出撃する時は、少しは地味な見た目になってることを期待するぜ」
リフトがゼータプラスの胸部付近で停止し、ひではコックピットハッチに手をかけた。
そこでふと、前回の戦闘で機体が見せたもう一つの機能について思い出した。
「それにしても……この機体の可変機構には肝を冷やしたぜ」
ひでが苦笑混じりに言うと、香取が興味深そうに反応した。
『ウェーブライダー形態への変形ですね。本機は対モビルスーツ戦よりも、長距離侵攻や大気圏突入を主眼に置いた設計となっているようです』
「ああ。戦闘機形態に変形して高速移動するなんて、まるで昔見たアニメみたいだったよ。まさか自分がそんなロボットに乗ることになるなんて、転移した当初は想像もしてなかったがな」
ひでは自嘲気味に笑いながら、コックピットの狭いシートに体を滑り込ませた。
『アニメ、ですか。私たちの世界にも似たような概念はありましたが……実際に運用するとなると、まったく別次元のお話ですよね』
「その通りだ。アニメじゃかっこよく変形して飛んでいくだけだが、実際の操作のピーキーさと、加速時の強烈なGの負荷はアニメには表現されてなかったからな。内臓がひしゃげるかと思ったぜ。俺のようなおっさんにはキツい機能だ」
ひでの愚痴に、鹿島がくすくすと笑う声が聞こえた。
『そんなことおっしゃって、いざという時は見事に乗りこなしてしまうんですから、ひでさんはすごいです。でも、あまり無理はしないでくださいね。体が資本ですから』
「分かってる。しっかり食って、しっかり寝る。それが一番だ。……さてと、OSの最終チェックを済ませておく。アルテミスへの入港まで、何が起きるか分からないからな」
ひではコンソールに電源を入れ、各種計器の数値を目まぐるしく確認し始めた。
敵の脅威は退けたものの、味方であるはずの地球軍の要塞で何が待ち受けているのか。
連合の正規軍ではない自分たちや、避難民の子供たちがどのような扱いを受けるのか。
一抹の不安を抱えながらも、ひでは自分にできる唯一のこと――戦って生き残るための準備を、ただ黙々と進めるのだった。
次なる波乱の予感が、冷たい宇宙の真空を伝って、確実にアークエンジェルへと忍び寄っていた。
アークエンジェルの広大な格納庫内には、機械油の独特な匂いと、微弱なオゾン臭が常に漂っていた。
整備班のクルーたちが工具を手に走り回り、怒号にも似た指示が飛び交う中、ひでは一人静かに自らの乗機であるゼータプラスを見上げていた。
香取と鹿島による遠隔操作でシステムが書き換えられ、機体のフェイズシフト装甲は設定通りに起動している。
本来の鮮やかな白と赤のトリコロールカラーから、無機質で冷たい印象を与えるグレーを基調とし、各所に青の差し色が入ったロービジリティ迷彩へとその姿を変貌させていた。
宇宙空間という果てしない暗黒の中で、この機体色がいかに視認性を低下させ、生存率を引き上げるか。
元自衛官として、迷彩服の重要性を理解しているひでにとって、この変更は単なる気休めではなく、生死を分ける重要なファクターだった。
彼は右手の指にできた銃ダコを無意識に親指で擦りながら、機体の脚部フレームに刻まれた細かい傷跡を見つめていた。
これまでの数少ない実戦で、ゼータプラスもまた無傷ではいられなかった。
被弾は避けているものの、デブリとの微小な衝突や、急激な機動によるフレームへの過負荷は確実に機体を蝕んでいる。
ひでは足元の工具箱からウエスを取り出すと、自らの手で脚部スラスターのノズル周辺の煤を丁寧に拭き取り始めた。
自衛隊時代、演習が終わるたびに小銃を分解し、油を引いて磨き上げていた頃と同じ感覚だった。
自分の命を預ける道具は、自分の手で触れ、その状態を肉体で記憶しておかなければならない。
最新鋭のモビルスーツであろうと、一兵卒が扱う小銃であろうと、その本質に変わりはないとひでは考えていた。
「よし、スラスターの偏向パドルに異常なし。装甲の通電率も安定しているな」
ひでが一人ごちた直後、彼の耳に装着されたインカムから、ノイズ混じりの音声が飛び込んできた。
『ひで少尉、機体の最終チェックは終了しましたか?』
ブリッジに詰めている香取の、冷静で透き通るような声だった。
「ああ、今終わったところだ。装甲の色の変更もバッチリだ。これなら、暗礁宙域に紛れ込めば、敵の光学センサーをいくらか誤魔化せるだろう」
『ええ。レーダー波の吸収率こそ変わりませんが、目視における発見を数秒でも遅らせることができれば、少尉の射撃精度なら十分に先手を取れます』
香取の声には、教官としての確かな分析と、ひでという一人の男に対する絶対的な信頼が込められていた。
彼女がブリッジで火器管制と戦術予測のバックアップを行ってくれるからこそ、ひではこのピーキーな機体を実戦で運用できているのだ。
『ひでさん。予備のエネルギーパックも、カタパルトのすぐ横に配置しておきました。出撃の際は、必ずフル装填の状態で出てくださいね』
続いて、鹿島の優しく気遣いに満ちた声が耳をくすぐる。
彼女の細やかな兵站管理とサポート能力は、この絶望的な航海において、ひでの精神を繋ぎ止める大きな支えになっていた。
「助かるよ、鹿島。お前たちがいてくれなかったら、俺はとっくに宇宙のチリになってただろうな」
『そんな……私たちの方こそ、ひでさんが命懸けで守ってくださるから……』
インカム越しでも、鹿島が少し頬を染めているのが分かるような、甘い声だった。
過酷な状況下にあっても、彼女たちとの他愛のないやり取りが、ひでにとって人間性を保つための数少ない時間だった。
しかし、そんな束の間の平穏は、突如として切り裂かれることとなる。
けたたましい、血を凍らせるような最高レベルの赤色警戒警報が、アークエンジェルの艦内全域に鳴り響いたのだ。
格納庫の照明が通常時の白から、危険を知らせる毒々しい赤へと一斉に切り替わる。
作業をしていた整備兵たちが一瞬動きを止め、次いでパニックに近い怒号を上げながら迎撃準備へと走り始めた。
ひでの全身の筋肉が瞬時に硬直する。
「何があった! 香取、状況を知らせろ!」
ひでがインカムに向かって怒鳴るように叫ぶ。
『後方より高エネルギー熱源接近! 距離三万! この速度……信じられません!』
鹿島の切羽詰まった声が、事態の深刻さを物語っていた。
彼女の索敵能力は、この艦の誰よりも正確で速い。
その鹿島が声を震わせているという事実に、ひでは冷や汗が背中を伝うのを感じた。
「敵の正体はなんだ! ジン部隊の追撃か!?」
『違います! 識別信号解析……ザフトに強奪されたG兵器です! しかも……4機同時です!』
「4機だと!?」
ひでは思わずゼータプラスの装甲を強く叩いた。
ヘリオポリスでザフトの特務隊に奪われた、地球連合軍の最新鋭モビルスーツたち。
ストライクと同等、あるいはそれ以上の性能を持つ化け物どもが、4機同時に襲いかかってくるというのだ。
近接格闘戦に特化したデュエル。
超長距離からの圧倒的な砲撃力を持つバスター。
ミラージュコロイドという悪魔のステルス機能を持つブリッツ。
そして、可変機構と強力なビーム兵器を備えた指揮官機、イージス。
これまでの戦闘では、多くても2機同時の相手が限界だった。
それが4機すべて揃ってのアークエンジェルへの強襲。
それは、明らかな「確殺」の意志を持った部隊編成だった。
ひでの脳裏で、最悪のシミュレーションが高速で演算されていく。
現在の自軍の戦力は、自分のゼータプラスと、ムウの乗るメビウス・ゼロ。
そして、高熱で倒れているキラのストライクだけだ。
ストライクが稼働できない現状で、化け物4機を相手にするなど、自殺行為以外の何物でもない。
ブリッジの混乱が、インカムを通じて手に取るように伝わってくる。
『機関最大戦速! アルテミスの光波防御帯まで、あとどれくらい!?』
マリュー・ラミアス艦長の悲痛な叫びが響く。
『現在の速度でも、到達までにあと3時間はかかります! それまでに敵機が本艦に取り付きます!』
ナタル・バジルール副長の、冷徹さを保とうと必死に努めている声が続く。
『ひで少尉! 敵は陣形を組みながら急速接近中! このままでは第一装甲を突破されます!』
香取の警告が響き渡る中、格納庫の入り口から一人の男が駆け込んでくるのが見えた。
「エンデュミオンの鷹」の異名を持つエースパイロット、ムウ・ラ・フラガ大尉だった。
彼は普段の飄々とした態度はどこへやら、厳しい戦士の顔つきで自らの機体であるメビウス・ゼロへと急いでいた。
「マリュー大尉! 俺が出る!」
ムウはインカムでブリッジに通信を繋ぎながら、ゼロのコックピットへと身を躍らせた。
四つの有線式ガンバレルを装備した特異な形状のモビルアーマーは、すぐさま射出のためのシークエンスを開始する。
『ムウ少佐! 相手は4機のG兵器ですよ! メビウス・ゼロ単機では……!』
マリューの制止の声が響くが、ムウはコックピット内でニヤリと笑ったように見えた。
「まともにやり合おうなんて思っちゃいないさ。あいつらの足を止めるには、根元を叩くしかねえんだよ!」
ムウの狙いは、迫りくる4機のガンダムではなく、その後方で彼らを指揮し、帰還場所となっているザフトの母艦ヴェサリウスへの奇襲だった。
いくらモビルスーツが強力であろうと、稼働時間には限界がある。
母艦を落とすか、あるいは母艦に致命的な脅威を与えれば、彼らは艦を守るために反転せざるを得なくなる。
それは、正面切っての騎士道精神など皆無の、戦争という盤面をひっくり返すための老獪な盤外戦術だった。
「大尉……あんた、まさか単機で敵の母艦を沈めに行く気か?」
ひでがインカムで問いかけると、ムウは軽い調子で返してきた。
『そういうことだ。俺は少し遠回りして、あいつらの背後を突く。艦の防衛は頼んだぜ、少尉。……坊主の分まで、しっかり盾になってやれよ』
「無茶するなよ、大尉。帰ってこなかったら、鹿島の手料理を俺が全部平らげるからな」
『そいつは勘弁だ。最高の晩飯のために、必ず生還してやるさ!』
ムウの言葉と共に、メビウス・ゼロが電磁カタパルトからデブリの海へと射出されていく。
蒼い炎を曳いて暗闇へと消えていくエースの後ろ姿を見送りながら、ひでは奥歯を噛み締めた。
ムウが母艦を牽制してくれている間、このアークエンジェルを守れるのは自分しかいない。
4機のガンダム相手に、どれだけ時間を稼げるか。
ゼータプラスの装甲がどこまで保つか。
ひでは覚悟を決め、ヘルメットを被ろうとした。
その時だった。
「僕が……出ます……」
格納庫の喧騒と警報音を切り裂くように、弱々しくも、はっきりとした声が響いた。
ひでが振り返ると、信じられない光景がそこにあった。
格納庫の入り口に、フラフラと覚束ない足取りで、キラ・ヤマトが立っていたのだ。
彼の顔は高熱で異様なほどに真っ赤に染まり、焦点の合わない目で宙を見つめている。
立っていることすら奇跡のような状態で、彼は自分の体よりも重く見えるパイロットスーツを、細い腕で必死に抱きかかえていた。
その背後には、彼を止めようとして追いかけてきたフレイやミリアリアたちが、泣きそうな顔で立ち尽くしている。
「馬鹿野郎!! お前は立ってるのもやっとじゃないか!!」
ひでは無意識のうちに、自衛隊の教官時代を思わせる凄まじい怒声を発していた。
格納庫の端から端まで響き渡るような大声に、整備兵たちすら一瞬ビクッと体を震わせた。
ひでは大股でキラに歩み寄り、その胸ぐらを掴んで医務室へ引きずり戻そうとした。
しかし、キラはひでの腕を弱々しい力で払い除け、ゆっくりと首を横に振った。
「ダメです……あの4機が相手じゃ、ひでさん一人では……アークエンジェルを守りきれない……」
息も絶え絶えに紡がれる言葉は、ひでの胸を鋭利な刃物でえぐるような痛みを伴った。
キラの瞳には、死への恐怖を越えた、仲間を守るという悲壮な覚悟が宿っていた。
これ以上戦えば、この少年は確実に壊れる。
肉体だけでなく、精神まで完全に擦り切れてしまう。
大人の男として、ここは力ずくで彼を気絶させてでも止めるべきだ。
ひでの理性がそう叫んでいた。
だが、戦場という容赦のない現実は、その理性を冷酷に打ち砕く。
ゼータプラス単機で、デュエル、バスター、ブリッツ、イージスの4機を同時に相手にして生き残る確率は、限りなくゼロに近い。
自分が撃墜されれば、次に待っているのはアークエンジェルの轟沈であり、艦に乗っている数百人の避難民の死だ。
この高熱の子供を、再びあの冷たい鉄の化け物に乗せなければ、全員が死ぬ。
「…………ッ!!」
ひでは言葉にならない咆哮を上げながら、傍らにあった金属製のロッカーを右拳で思い切り殴りつけた。
ガンッ!!という鈍い轟音が響き、分厚い鉄板がひしゃげ、ひでの拳から鮮血が飛び散る。
手の甲の骨が軋む痛みが走ったが、心の痛みに比べれば全く取るに足らないものだった。
自分の無力さが、弱さが、これほどまでに憎かったことはない。
理不尽な世界で大人が子供を守るという当たり前のことすらできない絶望。
ひでは顔を真っ赤にな染めがら荒い息を吐くキラを見つめた。
「……クソったれがッ!」
ひでは血まみれの拳を握り直しゼータプラスのコックピットへと向かって歩き出した。
彼にできるのはこの少年を止めることではなく、彼と一緒に地獄へ落ちることだけだった。
タラップを駆け上がりながらひではインカムの回線を全開にして怒鳴った。
「香取! 鹿島! OSの最終プロテクトを外せ! 機体限界までの稼働を許可する! 推進剤の消費レートを最大にしろ!」
『ひでさん!? それでは機体フレームが保ちません! 空中分解する恐れが……!』
香取の悲鳴に近い声が響くが、ひではそれを冷酷に遮った。
「構わん! 4機の化け物から逃げ切るには、常識的な機動じゃ足りねえんだよ! 俺の操縦についてこれるように、すべてのリミッターを解除しろ!」
『……了解しました。限界駆動モードへ移行。ひでさん……死なないでください』
鹿島の震える声を聞きながら、ひではコックピットシートに体を深く沈め、ハッチを閉鎖した。
目の前のメインモニターが起動し、グレーに染まった自機のステータスが表示される。
その隣のモニターには、ストライクのコックピットに乗り込んだキラの姿が映っていた。
彼はシートベルトを締めるのにも苦労しており、荒い息遣いが通信越しに痛いほど伝わってくる。
「キラ。聞こえるか」
ひでは、努めて冷静な、だが確固たる決意を秘めた声で語りかけた。
『はい……ひでさん……』
「いいか。かっこいい戦い方なんて、一ミリも考えるな。敵を倒そうとするな。生き残ることだけを考えろ。防御に徹しろ。俺が敵の射線をすべて引き受ける」
ひでは操縦桿を強く握りしめ、前方のハッチが開いていく宇宙の深淵を見据えた。
「俺がお前たちの盾になる。お前は、絶対に死ぬな。俺の目の前で、絶対に死なせない」
ひでの声は、誓いであり、呪いのようでもあった。
『……はい。僕も……アークエンジェルを、守ります』
「ひで、ゼータプラス! 出るぞ!!」
ひでの絶叫と共に電磁カタパルトの圧倒的な推力がグレーの機体を虚空へと撃ち出した。
全身の血が後頭部に集まるような強烈なGに耐えながら、ひでは視界に迫り来る四つの高エネルギー熱源を睨みつけた。
青、緑、黒、そして紅。 ザフトのエリートたちが駆る、殺意の具現。
生き残るための遅滞戦闘が、今始まろうとしていた。