電磁カタパルトから虚空へと射出された瞬間の、内臓を押し潰されるような強烈な重力加速度。
それは何度経験しても慣れることのない、肉体への暴力的な負荷だった。
ひではバケットシートに体を深く沈み込ませながら、ヘルメットの中で短く息を吐き出した。
目前に広がるのは、崩壊した資源衛星ヘリオポリスの無数の残骸が漂う、底知れない暗黒の宇宙空間である。
ゼータプラスのメインモニターには、先行して飛び出したストライクの背中が映し出されていた。
高熱で意識が朦朧としているはずのキラ・ヤマトの操縦は、見ていて痛々しいほどに危うい。
ストライクの姿勢制御スラスターが細かく、そして不規則に発光を繰り返し、まるで糸の切れた操り人形のようにデブリの海を彷徨っている。
「キラ。無理に前に出るな。艦の直掩圏内から離れるなよ」
ひでは操縦桿を固く握り締めながら、通信回線を通じて静かに呼びかけた。
『……はい……ひでさん……』
返ってきたのは、熱に浮かされたような弱々しい声と、ひどく荒い息遣いだった。
今のキラには、高度な戦闘機動など到底不可能だ。
ストライクがそこに存在しているだけで、辛うじて艦の防衛線が保たれているに過ぎない。
ひでは奥歯を強く噛み締め、自機のスラスターを吹かしてストライクの斜め前方にゼータプラスを滑り込ませた。
香取と鹿島によってシステムが書き換えられたゼータプラスの装甲は、元の鮮やかなトリコロールカラーから、冷たく無機質なグレーのロービジリティ迷彩へとその姿を変えている。
暗礁宙域の闇とデブリの影に溶け込むようなその色彩は、元自衛官であるひでの生存本能が選ばせた究極の実戦仕様だった。
『ひで少尉。本艦のレーダーに感あり。……来ます!』
ブリッジに詰めている香取の、張り詰めた声がインカムに飛び込んできた。
彼女の報告とほぼ同時に、ゼータプラスの全周囲モニターに四つの凶悪な高エネルギー熱源が赤々と点滅を始める。
拡大された光学映像がサブモニターに映し出された瞬間、ひでの背筋に氷のような悪寒が走った。
そこには、ザフトのエリートパイロットたちが駆る、地球連合軍から強奪された四機の最新鋭モビルスーツが陣形を組んで迫り来る姿があった。
真紅の装甲を持つ指揮官機、イージス。
白と青の近接格闘戦仕様、デュエル。
深緑の重砲撃機、バスター。
そして、漆黒の隠密機、ブリッツ。
一機でも絶望的な戦力差であるというのに、四機が完璧な連携を取りながら、獲物を確実に仕留めるために包囲網を狭めてきているのだ。
『よくもノコノコと出てきたな! 足手まといの機体が1機増えたところで、結果は変わらんのだよ!』
オープンチャンネルから叩きつけられたのは、デュエルのパイロットであるイザーク・ジュールの、傲慢で怒りに満ちた咆哮だった。
デュエルガンダムが背部のスラスターを最大限に吹かし、ビームライフルを連射しながら一直線にストライクへと突っ込んでくる。
その機動は恐るべき精度を誇り、デブリを縫うようにして一瞬で距離を詰めてきた。
『キラ! 下がって!』
アークエンジェルのブリッジから、ミリアリアの悲鳴のような通信が漏れ聞こえる。
キラは反射的にストライクの対ビームシールドを構え、デュエルの猛攻をなんとか防ごうとする。
しかし、高熱で反応速度が著しく低下しているストライクの動きは、イザークの目には止まって見えるほどに鈍かった。
『どうした! 動きが鈍いぞ! そんな操縦で、この俺に勝てるつもりか!』
デュエルがビームサーベルを引き抜き、ストライクのシールドに強烈な一撃を叩き込む。
火花が散り、ストライクの機体が大きくバランスを崩して後方へと弾き飛ばされた。
「クソッ、キラ!」
ひでがゼータプラスのビーム・カノンで援護射撃を行おうと機首を向けた、その時だった。
『キラ、もうやめるんだ! 機体ごと投降しろ!……お前を殺したくはない!』
もう一つの通信が、戦場に響き渡った。
それは、イージスガンダムを駆るアスラン・ザラの、悲痛な叫びだった。
イージスがモビルアーマー形態からモビルスーツ形態へと変形しながら、ストライクの背後に回り込み、その退路を完全に断ち切る。
親友であるアスランからの呼びかけと、イザークの容赦のない猛攻。
熱に冒されたキラの精神は、限界を超えて悲鳴を上げていた。
ストライクはただシールドを掲げて防戦一方に陥り、反撃の糸口すら掴めない状態に追い込まれていく。
『ひでさん! 右前方、デブリの陰から強烈なエネルギー反応! 規格外の数値です!』
鹿島の切羽詰まった声が、ひでの意識を別の脅威へと引き戻した。
ひでが視線を右のサブモニターへと走らせると、そこには深緑の悪魔がその巨体を隠すようにして潜んでいた。
ディアッカ・エルスマンの搭乗するバスターガンダムである。
バスターは、両腰にマウントされた二つの巨大な砲身――350ミリガンランチャーと94ミリ高エネルギービーム収束火線ライフルを、自身の胸の前でガシャンと音を立てて連結させていた。
全長がモビルスーツの全高を優に超えるほどの長大な超高インパルス長射程狙撃ライフルが、ゼータプラスの現在位置を正確にロックオンしている。
「香取! 敵の照準はどこだ!」
『ゼータプラスです! しかし、その延長線上にはアークエンジェルの第一主砲塔が存在します!』
香取の声が、かつてないほどに焦燥に満ちていた。
敵は単なるエースパイロットではない。
戦場の全体像を把握し、一撃で最大の戦果を上げる術を知り尽くした、冷酷な狩人だ。
『チッ、チョロチョロと目障りなハエめ。まとめて消え失せな!』
ディアッカの余裕に満ちた声が通信回線に響いた直後。
バスターガンダムの長大な砲身の先端から、眩いばかりの光が溢れ出した。
「鹿島! 回避プログラムを割り込ませろ!」
『はいっ! スラスター強制同期……今です!』
ひでは操縦桿を力任せに左へと倒し、同時にフットペダルを限界まで踏み込んだ。
ゼータプラスの左側面の姿勢制御スラスターが一斉に火を噴き、機体が空間を強引に横滑りする。
直後、宇宙の深淵を真っ白に塗り潰すような、極太の光の槍がゼータプラスの右バインダーのわずか数メートル横を通り過ぎた。
コックピット内の温度計が一瞬にして跳ね上がり、装甲の表面が異常加熱していることを知らせる甲高いアラートが鳴り響く。
ビームの奔流が通過する際の大質量と熱エネルギーの余波だけで、ゼータプラスの機体は木の葉のように激しく振り回された。
ひでは内臓が裏返るような吐き気を覚えながら、必死に機体の姿勢を立て直そうとする。
極太のビームはそのままゼータプラスの後方へと突き抜け、そこにあった小山のような巨大なデブリに直撃した。
爆発音すらない。
ただ、そこにあったはずの巨大な質量の塊が、圧倒的な熱量によって分子レベルで分解され、跡形もなく「消滅」したのだ。
後に残ったのは、高熱で赤熱した宇宙空間の塵だけだった。
「ヒッ……!」
ひでの喉の奥から、無意識のうちに引きつった声が漏れた。
全身の毛穴が開き、軍服の下に冷たい汗が滝のように流れ落ちる。
フェイズシフト装甲は、実弾に対する無敵の防御力を誇る。
だが、あの狂ったような出力のビーム兵器の前では、いくら装甲が通電していようと何の意味も持たない。
直撃を受ければ、機体ごと一瞬で蒸発し、自分の肉体すらこの宇宙から消え去るのだ。
元自衛官として、戦車砲や対戦車ミサイルの威力を肌感覚で知っているひでにとって、それは常軌を逸した破壊力だった。
「これが……ガンダムってやつかよ……!」
ひでは震える手で操縦桿を握り直し、モニターに映るバスターの威容を睨みつけた。
歩兵がアサルトライフルで、戦略爆撃機に立ち向かっているような圧倒的な絶望感。
だが、恐怖に足をすくませている暇はなかった。
『ひでさん! ストライクのバッテリー残量が危険域に達しています! イザーク機とアスラン機の波状攻撃で、フェイズシフト装甲の維持だけでエネルギーを著しく消耗しています!』
鹿島の悲鳴のような報告がインカムに響く。
キラのストライクは、二機のガンダムによる執拗な攻撃の前に、完全にサンドバッグ状態に陥っていた。
このままでは、あと数分と持たずにエネルギーが尽き、フェイズシフトダウンを引き起こして撃墜される。
「香取、鹿島。……聞いてくれ」
ひでは深く息を吸い込み、自衛官としての徹底した生存戦略のスイッチを切り替えた。
恐怖を理性でねじ伏せ、現場で生き残るための最も現実的な手段を導き出す。
「このままじゃ、キラも艦もやられる。俺が砲撃機(バスター)の注意を引く。あの長距離砲を黙らせない限り、ストライクの援護は不可能だ」
『ひでさん! それは危険すぎます! あの火力を単機で引き付けるなど……!』
香取の悲痛な声が響く。
教官としての彼女の計算では、ゼータプラス単機でバスターと正面から撃ち合う生存率は限りなくゼロに近い。
「正面からは行かない。徹底的に逃げ回りながら、敵の照準を狂わせる。俺が囮(デコイ)になってバスターのヘイトを稼ぐ。その隙に、アークエンジェルの対空砲火でストライクを援護し、艦の防衛線まで後退させろ!」
ひでの決断は、美学もへったくれもない、生き残るためだけの戦術だった。
『……分かりました。ひでさんの意図、了解です。鹿島、ゼータプラスのセンサー情報を本艦のメインコンピューターとリンク。最適回避ルートの常時演算を開始します!』
『はいっ! ひでさん、私たちが絶対にあなたの道を作ります! だから……!』
「ああ、分かってる。絶対に死なねえよ」
ひではゼータプラスの推進剤を爆発的に燃焼させ、機体をバスターガンダムが陣取る宙域へと猛然と加速させた。
グレーの装甲がデブリの影に紛れ、その機影を曖昧にする。
『なんだぁ? あのネズミ、こっちに向かってきやがるのか?』
ディアッカが訝しげな声を上げ、バスターの砲身をゼータプラスへと向ける。
「来いよ、緑のデカブツ。自慢の大砲を、この俺に当ててみやがれ!」
ひでは叫びながら、ゼータプラスの大腿部にマウントされたビーム・カノンを連続で発射した。
狙いはバスター本体ではなく、その周囲の空間や、敵の光学センサーの視界を遮るための牽制射撃である。
ビームの閃光が宇宙空間に散乱し、ディアッカのロックオンセンサーを一時的に撹乱する。
『チッ、チョロチョロと鬱陶しい機体だ! ならば、まとめて吹き飛ばしてやる!』
バスターが再び連結砲身のエネルギーチャージを開始する。
ひでは自衛隊時代に培った、市街地戦闘における歩兵の「制圧前進」の要領を、モビルスーツの機動に応用した。
遮蔽物から遮蔽物へと素早く移動し、移動中には必ず牽制の弾幕を張って敵の照準をブレさせる。
止まれば死ぬ。
ゼータプラスはアークエンジェルの巨体や、漂うヘリオポリスの巨大な外壁の破片をネズミのように這い回りながら、決して一定の直線運動をしないように飛び回った。
『ひでさん! 左舷30度、デブリ群の隙間を抜けてください! その直後、右へ急降下を!』
香取の矢継ぎ早な指示が飛ぶ。
「了解!」
ひでは香取が演算した最適の回避ルートを、這う這うの体でトレースし続ける。
バスターの放つ無数のミサイルと、通常出力のビームライフルの雨が、ゼータプラスの周囲をかすめ飛んでいく。
一つでも被弾すれば致命傷になりかねない綱渡りの機動。
ひでは恐怖で麻痺しそうになる脳をフル回転させ、右手の親指にできたタコが擦り切れるほど操縦桿を握り締めていた。
敵の予測の裏をかき、泥にまみれるようにして生き汚く立ち回る。
それが、エースパイロットではない彼が、この化け物たちの戦場で生き残るための唯一の武器だった。
「鹿島! 次の遮蔽物はどこだ!」
『前方、距離二千に冷却施設の残骸があります! そこへ!』
ゼータプラスが冷却施設の巨大なタンクの裏へと滑り込んだ瞬間、タンクの表面がバスターの砲撃によって一瞬で真っ赤に溶け落ちるのが見えた。
「あと一歩遅ければ、俺が溶けてたな……!」
ひでは荒い息を吐きながら、モニター越しにバスターの次の動きを油断なく監視し続ける。
一人の大人の男の、極限の集中力を要する遅滞戦闘。 だが、敵はバスターだけではなかった。
この宇宙の暗闇には、もう一機の見えざる悪魔が潜んでいることを、ひではまだ知らなかったのである。
第2章【四機の悪魔と、艦娘の目】 後半
ゼータプラスの狭小なコックピットは、限界を超えた機動によって鳴り響く各種の警告音と、オーバーヒート寸前のスラスターが発する低い駆動音の坩堝と化していた。
バスターガンダムの肩部と脚部のミサイルポッドから放たれた無数のミサイル群が、蛇のように複雑に軌道を変えながら漆黒の宇宙空間を迫ってくる。
弾頭の推進剤が放つオレンジ色の光跡が、まるで宇宙空間に引かれた死の網目のようにひでの視界を覆い尽くしていた。
ひでは奥歯が砕けそうなほど強く噛み締めながら、フットペダルを細かく踏み替え、姿勢制御用のバーニアを不規則かつ連続的に吹かしてこれを躱し続けた。
至近距離で爆発するミサイルの閃光が、グレーのロービジリティ迷彩に塗装されたゼータプラスの機体を毒々しく、そして暴力的に照らし出す。
爆発の衝撃波はないはずの宇宙空間だが、飛散するデブリや爆発の熱エネルギーが装甲を叩き、機体全体がミキサーにかけられたように激しく振動していた。
「クソッ、弾幕が厚すぎる! 息をつく暇もねえ!」
ひでは操縦桿を握る手にべっとりと汗をかきながら、誰に言うともなく悪態をついた。
右手の親指にできたタコが操縦桿のグリップと擦れ、微かな痛みを主張しているが、そんなものに構っている余裕はない。
ディアッカ・エルスマンの乗るバスターガンダムは、自機の圧倒的な火力を完全に理解しており、一定の距離を冷酷に保ったまま、こちらを制圧しようとしている。
近付こうとすれば、あの超高インパルスの連結砲火がゼータプラスを消し炭にするだろう。
遠ざかろうとすれば、無数のミサイルとガンランチャーの面制圧によって削り殺される。
こちらはビーム・カノンやバルカンで牽制の射撃を返すのが精一杯であり、反撃の糸口すら掴めない状況が続いていた。
ストライクとアークエンジェルへの射線を塞ぐという「囮」としての役割は十分に果たしているものの、このまま防戦一方では、いずれ運悪く被弾するのは火を見るより明らかだった。
『ちょこまかとネズミみたいに逃げ回るだけが能かよ! 地球軍の新型だか何だか知らねえが、大して面白くもねえな!』
ディアッカの余裕と侮蔑に満ちた声が、オープンチャンネルを通じてコックピット内に響き渡る。
ひでは額に浮かんだ汗をパイロットスーツの袖で乱暴に拭いながら、メインモニターに映る深緑の機体の動きを血走った目で凝視した。
相手の挑発に乗るな、焦りは死に直結すると、自衛隊時代の過酷な訓練の記憶を呼び起こして自分に言い聞かせる。
バスターの弾薬かエネルギーが尽きるのを待つか、あるいは相手が油断して生じる一瞬の隙を突くしかない。
そう考えて、次なる回避ルートの予測を立てていた矢先だった。
インカムから、アークエンジェルのブリッジにいる鹿島の、悲鳴にも似た切羽詰まった声が飛び込んできた。
『ひでさん! 敵の黒い機体……ブリッツガンダムの熱源反応が、レーダーから完全に消失しました!』
「消失しただと!? デブリの陰にでも隠れて、レーダー波を誤魔化したってのか!」
ひでは即座に全周囲モニターの表示を切り替え、周囲の空間へとセンサーの走査範囲を最大出力で広げる。
アークエンジェル周辺の宙域には、ヘリオポリスの残骸が岩礁のように漂っており、身を隠す場所はいくらでもあった。
『いえ、違います! 光学カメラの映像からも、完全に姿が消えました! 質量反応も、電磁波の放射も、赤外線シグネチャーも、すべてがゼロです! 文字通り、存在が消え去りました!』
鹿島の報告に続き、香取の冷静な、しかし明確な焦燥と戦慄を含んだ声がインカムに響いた。
モビルスーツという数十トンもの巨大な質量と高熱を発する物体が、障害物のない宇宙空間で完全に姿を消すなど、従来の常識や物理法則ではあり得ないことだった。
しかし、ひでの脳裏には、かつてヘリオポリスのモルゲンレーテの工場で極秘の機体データを覗き見た際の記憶が、鮮烈なフラッシュバックとなって蘇っていた。
「ステルス機能……ミラージュコロイドか!」
特殊な微粒子を機体の周囲に定着させ、電磁波も可視光線も完全に歪めて透過させ、自らの姿を周囲の景色と完全に同化させるという悪魔のような隠密技術。
レーダーという電子の目にも映らず、人間の生身の目で見ても、背景の宇宙の闇しか見えない。
それは、身を隠す場所など本来存在しない宇宙空間において、完全なる「透明人間」と化すことを意味していた。
見えない敵が、いつ、どこから、どのような武器で襲いかかってくるか分からないという圧倒的なプレッシャーが、ひでの全身に重くのしかかる。
『ひでさん、気をつけてください! バスターの砲火から注意を逸らした隙を突いて、敵は確実にあなたを狙っています!』
鹿島の震える声が、事態の深刻さを物語っていた。
バスターの猛烈な砲撃を秒単位の回避行動で躱しながら、いつ襲い来るか分からない見えない敵の奇襲に備えなければならない。
それは、目隠しをされた状態で、機関銃掃射と音のしない日本刀の斬撃を同時に避けろと言われているに等しい、二重の死の宣告だった。
ひでは限界まで見開いた目で、全周囲モニターの映像を睨みつける。
しかし、そこに映っているのは、無惨に漂う無数のデブリの残骸と、遠くで冷たく瞬く星々の光だけだった。
ブリッツの推進器の光も、装甲の反射も、何も見えない。 コックピット内に響くのは、自機のけたたましい警告音と、ひで自身の荒く、浅い呼吸音だけだ。
その騒音の中でさえ、宇宙空間の絶対的な静寂が、ひでの首筋に冷たい刃をゆっくりと突きつけてきているような、名状しがたい恐怖と錯覚を呼び起こす。
「どこだ……どこから来る……! 上か、下か、それとも……!」
ひでの呼吸がさらに荒くなり、心臓が早鐘のように激しく脈打つ。
バスターの放った大口径のビームを躱すために、フットペダルを踏み込んでゼータプラスの機体を右下方へ大きくスライドさせた、まさにその瞬間だった。
『ひでさん! 空間の歪みを探知! 真後ろです!!』
鹿島の鼓膜を破るような絶叫が、インカムを通じて脳内に直接響いた。
ひでがハッと振り返り、背面のサブモニターへ視線を走らせるよりも早く、全周囲モニターの一部が、まるで真夏の陽炎のように不自然に大きく揺らいだ。
何もないはずの虚空が、突如としてパラパラと剥がれ落ちるようにして、その内側から漆黒の悪魔が姿を現す。
ブリッツガンダム。
ニコル・アマルフィの駆るその隠密機は、ミラージュコロイドの展開を解除しながら、すでにゼータプラスの完全な死角、背後数メートルの距離にまで肉薄していたのだ。
『もらったぁっ!!』
オープンチャンネルから響くニコルの鋭く、確信に満ちた叫び声と共に、ブリッツの右腕に装備された攻盾システム「トリケロス」に内蔵された実体剣、ランサーダートが突き出される。
黒光りする鋭利な槍の穂先が、ゼータプラスのコックピットブロック、すなわちひでの背中を真っ直ぐに串刺しにすべく、無慈悲な速度で迫ってくる。
距離があまりにも近すぎる。
ひでの常人離れした反射神経をもってしても、操縦桿を引き、スラスターを吹かして回避行動を取るには、圧倒的に時間が足りない。
死の恐怖が、脳の処理速度を極限まで引き上げ、周囲の光景がまるでスローモーションのようにひでの脳髄を駆け巡る。
ランサーダートの切先がゼータプラスの装甲に触れる寸前。
やられる、とひでが目を大きく見開いた、まさにその刹那だった。
『システム強制介入! 緊急回避プログラム、作動!!』
香取の凛とした、しかし万感の思いを込めた絶叫がインカムに響き渡った。
ひでが操縦桿を一切動かしていないにも関わらず、ゼータプラスの機体がガクンと、フレームがへし折れるのではないかと思うほど不自然かつ急激に、下方向へと沈み込んだ。
アークエンジェルのブリッジから、香取がメインコンピューターを通じてゼータプラスのOSに遠隔で直接介入し、機体下部の姿勢制御スラスターをリミッター無視の最大出力で強制的に吹かせたのだ。
パイロットの意思と身体の備えを完全に無視した、暴力的なまでの強制機動。
内臓が喉元までせり上がってくるような凄まじいマイナスGがひでの肉体を襲い、目の前が一瞬真っ暗になるブラックアウトを引き起こしかける。
だが、その香取によるコンマ一秒の強制的な沈み込みが、ひでの命を薄氷一枚の差で繋ぎ止めた。
ブリッツの放ったトリケロスの刃は、本来ゼータプラスの背中からコックピットを貫き、ひでを肉塊に変えるはずだった軌道をわずかに外れた。
刃はゼータプラスの頭部を掠め、激しい金属の擦過音と、宇宙空間を焦がすほどの眩い火花を散らす。
衝撃でゼータプラスの頭部に備わっていたブレードアンテナが根元から無惨に斬り飛ばされ、メインモニターの映像に一瞬、激しい砂嵐のようなノイズが走った。
直後、システムが自動的にサブカメラの映像へと切り替わり、視界が回復する。
「しまっ……! ぐぅぅぅっ……!」
ひでは強烈なGによる吐き気と目眩を気力でねじ伏せ、息を呑みながら、間一髪で死地を脱して回転しかけた機体の姿勢を、操縦桿を力任せに引いて立て直す。
パイロットスーツの下の背中を、滝のような冷や汗が流れ落ち、全身の筋肉が恐怖で小刻みに震えていた。
心臓が口から飛び出しそうなほど激しく鼓動している。
『チッ! なぜ避けられた!? あり得ない!』
オープンチャンネルから、ニコルの驚愕と、自身の完璧な計算が狂ったことへの激しい焦燥に満ちた声が漏れ聞こえる。
ミラージュコロイドによる、自軍の母艦すら欺く完璧な奇襲。
レーダーにも映らず、目視も不可能な状態からの、絶対に避けられないはずの必殺の一撃。
それが、なぜ、あの土壇場で読まれ、回避されたのか。
プラントのエリート士官である彼には、その理屈が全く理解できなかったのだ。
「助かった……! 生きてる……! 香取、鹿島! お前ら、どうやって見えねえ敵の接近に気づいたんだ!?」
ひでは機体を後退させてブリッツから距離を取りながら、震える声で、半ば怒鳴るように通信回線に向かって問いかけた。
アンテナを一本失ったことで、通信にわずかなザラつきとノイズが混じっているが、二人の声はひでの耳にはっきりと、そしてこの上なく頼もしく聞こえた。
『ひで少尉。敵の機体がいくらミラージュコロイドで透明になり、電子的に存在を消し去ろうとも、完全にこの宇宙から物理的な存在を消し去ることは不可能です』
香取の声には、先ほどの死の淵を覗き込んだような焦燥はすでに消え失せ、教官としての冷徹な分析力と、自身の能力に対する確かな自信が戻っていた。
『数十トンの質量を持った物体が宇宙空間を移動すれば、必ず周囲に漂う微小なチリや、デブリの粉塵、あるいはガスを押しのけることになります。その物理的な干渉によって生じる微細な「波」の動きは、どんな迷彩技術をもってしても、決して隠蔽することはできないのです』
「波の動き、だと……? 宇宙空間のチリの波を読んだって言うのか?」
ひでは信じられないものを聞いたというように、眉間におもいっきり皺を寄せた。
『はい。私の……いえ、私たち「艦娘」としての、パッシブ・ソナーの感覚です』
鹿島がそれに続く。 彼女の優しく穏やかな声は、戦闘の喧騒の中でも不思議と心に染み渡り、戦場のすべてを見透かすような神秘的で深い響きを帯びていた。
『海に生きる艦艇は、目に見えない深く暗い海中に潜む潜水艦を探し出すために、レーダーではなくソナーを使います。水流のわずかな変化、スクリューが水を掻く音、水圧の変動……。そうした微細な情報を聴き取り、敵の位置を特定するのです。この宇宙空間という名の暗い海でも、私たちの魂に刻まれたその感覚は同じように機能します』
「宇宙空間のチリの動きを、海中の波として感じ取ってるってのか……! そいつは、とんでもねえ荒技だな……!」
ひでは驚愕に目を見開きながらも、口元には自然と獰猛な笑みが浮かんでいた。
異世界から転移してきた彼女たちは、人間の女性の姿をしていながら、その魂の根底には鋼鉄の軍艦としての本能と記憶が深く刻み込まれている。
レーダーや光学センサーといった「電子の目」に頼り切っているコズミック・イラの最新鋭兵器群に対し、彼女たちはより原始的で、泥臭く、しかしそれゆえに絶対に誤魔化しのきかない感覚でこの空間を支配しているのだ。
『敵のブリッツは、こちらの回避に驚愕して後退し、再びミラージュコロイドを展開して姿を消しました。ですが、恐れることは何もありません。幽霊の尻尾は、私たちがしっかりと掴んで離しませんから』
香取の力強く、頼もしい言葉に、ひでは完全に戦意を取り戻した。 恐怖は消え去り、反撃の狼煙がひでの胸の中で激しく燃え上がる。
「上等だ! 見えねえ敵でも、居場所さえ分かりゃあ、ただの的だ! お前たちのその美しい眼を、俺の命を懸けて信じるぜ!」
ひではゼータプラスの操縦桿とスロットルを握り直し、右手にビーム・スマートガン、腰部のバインダーにビーム・カノンを構え、静まり返った虚空を油断なく見据えた。
ミラージュコロイドを展開し、再び完全なステルス状態となって奇襲の機会を窺っているであろうブリッツガンダム。
だが、その見えない悪魔の動きは、アークエンジェルのブリッジに座る二人の女性の研ぎ澄まされた感覚網の中に、一挙手一投足に至るまではっきりと捉えられていた。
『ひでさん、右舷前方、仰角二十度! 距離八百! 大きな波がこちらへ向かって急速に接近してきます!』
鹿島のピンポイントで的確なナビゲートが飛ぶ。
ひでは一瞬の躊躇もなく、何も見えないはずの漆黒の空間へ向けて、ゼータプラスの腰部ビーム・カノンのトリガーを連続して引いた。
二筋の高エネルギーの閃光が、無機質な宇宙を切り裂いて飛んでいく。
『なっ……!? なぜだ!?』
何もないはずの空間で、ビームが目に見えない強固な壁に弾かれたような激しい爆発を起こした。
火花が散り、熱エネルギーの衝撃によってミラージュコロイドの定着粒子が吹き飛ばされ乱れる。
ブリッツの黒い装甲の一部が、ノイズが走ったように一瞬だけ実体化して空中に浮かび上がった。
「そこだッ! 逃がすかよ!」
ひではすかさずビーム・スマートガンを連射し、追撃をかける。
ブリッツは自らの位置が完全に筒抜けになっていることにパニックを起こしたのか、慌てて姿勢を崩し、スラスターを吹かして強引な回避行動を取る。
しかし、その急激な機動が、さらに周囲のチリを大きく巻き上げ、より明確な「波」を作り出してしまうという悪循環に陥っていた。
『左へ逃げました! 距離六百、そのままデブリの陰へと降下しています!』
鹿島が連続して敵の位置と移動ベクトルを特定し、流れるような報告を上げていく。
「ちょこまかと逃げ回るだけが能かよ、黒いお化けさんよぉ!」
ひでは先ほどのディアッカの台詞をそのままそっくり返し、鹿島の誘導に従って、ブリッツが逃げ込む先々の空間へ向けて執拗に牽制の弾幕を張り続けた。
姿は見えなくとも、波の動きを読んで未来位置を予測すれば、自衛隊で培った「置きエイム」と制圧射撃の要領で予測射撃は十分に可能だ。
ビームの雨が、目に見えないブリッツの周囲をかすめ、その退路を塞ぎ、隠密行動を完全に封殺していく。
ステルス機能という最大の、そして唯一無二の武器を無力化されたニコルは、攻め手を完全に失い、シールドを構えて防戦に回るしかなかった。
『信じられない……! なぜ見えているんだ!? レーダーは機能していないはずだ! 地球軍のあの新型は、ミラージュコロイドの無効化システム、あるいは未知の量子センサーまで搭載しているというのか!』
ニコルの底知れぬ混乱と、未知の技術に対する恐怖が通信越しに痛いほど伝わってくる。
彼にとって、ザフトの誇る最新技術であり、完璧なはずの戦術が、全く理解できない原理で根底から覆されたこの事態は、悪夢以外の何物でもなかっただろう。
「俺の眼じゃねえよ。俺の背中を守ってくれてる、世界で一番頼もしくて、美しい女神たちの眼だ。……機械頼みのお坊ちゃんには、一生理解できねえだろうがな」
ひではゼータプラスの機体を巧みに操りながら、誇らしげに、そして勝利を確信したように呟いた。
重砲撃機バスターの圧倒的な砲火を泥臭い機動で躱しつつ、ステルス機ブリッツの神出鬼没な奇襲を完全に封じ込める。
それは、一人の大人の男の極限の集中力と生存本能、そして香取・鹿島という異世界の艦娘たちとの、魂のレベルで結びついた完璧なデータリンクが為せる奇跡の業だった。
コズミック・イラの英知の結晶である最新鋭のガンダムを相手に、異世界の艦娘の魂と、一介の元自衛官の男が、互角以上に渡り合っている。
戦場の絶対的だったはずのパワーバランスが、彼らという想定外のイレギュラーによって、今、大きく揺らぎ始めていた。