第1章【欺瞞の傘】
血を吐くようなザフト軍の執拗な追撃を辛くも振り切り、地球連合軍の特務艦アークエンジェルは、漆黒の宇宙空間に浮かぶ巨大な岩塊へとその舳先を向けていた。
この無骨な岩塊こそが、地球連合軍内における強大な派閥の一つであるユーラシア連邦が誇る、難攻不落の軍事要塞「アルテミス」である。
元々は資源採掘用の小惑星であったものをくり抜いて建造されたその巨大な要塞は、周囲を「アルテミスの傘」と呼ばれる全方位光波防御帯で覆われていた。
いかなる実弾兵器による物理的衝撃も、戦艦の主砲クラスの高出力ビーム兵器すらも完全に透過させず弾き返すという、まさに絶対防御の盾である。
ヘリオポリス崩壊からの果てしない逃避行を続けてきたアークエンジェルにとって、この要塞の存在は唯一の希望の光であった。
虹色に輝く光のベールが、傷ついたアークエンジェルの巨体を迎え入れるようにゆっくりと開き始める。
艦橋のメインモニターに映し出されるその荘厳な光景は、連日の戦闘で極限まで疲弊しきっていたクルーたちにとって、まさに地獄の底で見つけた蜘蛛の糸のように見えたに違いない。
光のベールを抜け、要塞内部の安全な空域へと進入した瞬間、アークエンジェルの艦内には、これまで張り詰めていた死の恐怖から解放された、重苦しくも深い安堵の空気が漂い始めていた。
格納庫の重厚なハッチが閉じられ、要塞の内部ドックへの接舷作業が静かに、そして着実に進められていく。
「……これで、少しは休めるのか」
汗と熱気が充満した狭い空間から解放され、冷たいハンガーの人工的な空気を肺一杯に吸い込む。
ひでは、操縦桿を握り続けていた自らの両手を見つめた。
元の世界で、自衛隊員として小銃の引き金を絞り続けたことでできた右手のタコは、今や未知の機動兵器の操縦桿を強く握りしめるために擦り切れ、新たなマメを作り始めている。
「俺は、こんな宇宙のど真ん中で何をやっているんだろうな……」
誰に聞かせるでもない、自嘲気味な呟きが薄暗いハンガーに零れ落ちた。
ここは自分のいた日本ではないし、自分の知る地球ですらない。
遺伝子操作された人類と自然のままの人類が殺し合う、狂気に満ちた世界だ。
「ひでさん、本当にお疲れ様でした」
背後から、香取が労いの言葉をかけながら、ハンガーの備品棚から見つけてきた清潔なタオルを差し出してくる。
「ああ、すまない。助かるよ」
ひでが振り返ると、そこには香取と鹿島が並んで立っていた。
艦隊これくしょんという未知の世界から転移してきたという彼女たちは、軍属としての厳格な規律を保ちながらも、その成熟した女性としての包容力で、殺伐とした艦内に一輪の華を添えている。
彼女たちの顔にも、度重なる戦闘と極度の緊張による明らかな疲労の色が濃く滲んでいた。
着慣れたはずの制服には幾重にも深いシワが寄り、激しい機動で乱れた髪が汗で額に張り付いている。
それでも彼女たちは、副官としての矜持を保ち、ひでに向けて気丈に、そして優しく微笑んでいた。
「香取も鹿島も、よく耐えてくれた。二人のおかげで、なんとかここまで生き延びられた」
ひではタオルを受け取り、顔に浮いた汗を拭いながら、二人の女性を真っ直ぐに見つめ、心からの感謝を伝えた。
彼女たちのサポートがなければ、あの四機のガンダムと無数のジンを相手に生き残ることは絶対に不可能だった。
「そんな……私たちはまだ安全なブリッジでひでさんのサポートをして、計器やレーダーを見ていただけです。実際に機体を操り、あの恐ろしい敵の攻撃を掻き潜っていたのはひでさんですから」
鹿島が少し頬を染めながら、控えめに首を振る。
彼女の豊満な胸元が、制服越しに小さく、しかし激しく上下していた。
極度の緊張状態から解放されたことによる反動が、今になって彼女の身体に微かな震えとなって現れているのだ。
「いや、お前たちの的確な索敵と火器管制、そして励ましがなければ、俺はとっくに宇宙の塵になってたさ。一人じゃ、あんな化け物みたいな機体たちを相手に冷静でなんていられなかった」
ひでは二人の肩を軽く叩き、その労をねぎらった。
ひでの厚く大きな手のひらから伝わる確かな温もりに、香取と鹿島はどこか心底安心したように、深く息を吐く。
彼女たちの瞳には、この大人の男に対する絶対的な信頼と、仄かな慕情が入り混じった光が宿っていた。
「とりあえず、まずは休息だ。しっかり食って、しっかり寝る、それが生きる秘訣だからな」
ひでの最大のモットーであるその言葉に、香取と鹿島はふっと表情を和らげ、小さく笑い声を上げた。
「ふふっ、ひでさんはいつでもブレませんね。こんな極限の状況でも、お腹の心配と睡眠の心配が真っ先にできるなんて」
香取が口元を上品に隠しながら、くすくすと笑う。
その笑顔は、戦場にあってひでの心を安らげる数少ない清涼剤だった。
「当たり前だ。どんな最新鋭の兵器に乗ろうが、戦うのは結局血の通った人間なんだ。腹が減っては戦えないし、寝不足じゃ判断を誤る。元の世界で、嫌というほど体に叩き込まれた真理だからな」
自衛隊の普通科で、雨に打たれ泥にまみれながら行軍し、睡眠時間を極限まで削って演習を繰り返した日々。
あの過酷で理不尽な経験が、この未知の宇宙戦場においても、ひでを大人として立たせている根本的な基盤だった。
極限状態の中で、ひでのこの世俗的で地に足の着いた言葉は、香取たちにとって何よりの精神安定剤となっていた。
だが、ひでの表情がふと曇る。
「……キラの奴、大丈夫だろうか」
ひでの視線は、ゼータプラスの隣で強固なワイヤーによって固定されている、ストライクガンダムのハンガーへと向けられていた。
激戦の末、医務室へ運ばれたキラ・ヤマトの容態は、ひどく気がかりだった。
まだ十六歳の少年が、民間人でありながら無理やり軍事機密の兵器に乗せられ、人を殺すための戦いを強いられている。
限界を超えてストライクを操縦し続けた彼は、前回の戦闘の直後、ついに高熱を出してコックピットで倒れてしまったのだ。
大人である自分がもっと前に出て、あの少年の背負う理不尽な重荷を少しでも肩代わりしてやらなければならない。
ひでの胸の奥に、重い悔恨と、年長者としての強い責任感が渦巻いていた。
少なくともここが地球連合軍の友軍の要塞であるならば、背後からザフトに撃たれる心配はないはずだった。
軍の正規の医療施設も整っているだろうし、キラもまともな治療を受けられるはずだ。
艦のクルーたちも、これでようやく温かい食事と柔らかいベッドで眠ることができる。
誰もがそう信じて疑わなかった。
しかし、ひでの長年の社会人経験の鋭い嗅覚が、微かな違和感を警鐘として鳴らしていた。
ブリッジに繋がる通路の大型モニター越しに、艦長代理であるマリュー・ラミアスが、アルテミスの司令官であるジェラード・ガルシア少将との通信を繋いでいる音声が漏れ聞こえてきた。
モニターに映し出されたガルシアの顔は、立派な髭を蓄え、軍服の勲章を見せびらかすような、いかにも権威主義的で傲慢な高級将校のそれだった。
鷹揚に構え、言葉の端々には疲弊した友軍への歓迎と労いの意が込められているように聞こえる。
だが、その奥底にあるギラついた眼光、獲物を値踏みするような下卑た視線を、ひでは絶対に見逃さなかった。
アークエンジェルとG兵器を開発したのは、地球連合軍の中でも大西洋連邦に属する機関である。
対して、このアルテミス要塞を統括しているのはユーラシア連邦だ。
同じ地球連合軍という旗印の下にありながら、両者の間には水面下で激しい派閥争いと、技術的優位性の奪い合いが存在している。
一枚岩ではない巨大組織の病理。
ひでは元の世界で、自衛隊という巨大な組織の中で、あるいは一人の社会人として、そういった組織間の縄張り争いや、醜い政治的駆け引き、足の引っ張り合いを幾度となく見てきた。
部署間の激しい対立、限られた予算の奪い合い、そして他者の手柄の横取り。
人間の本質というものは、世界が変わろうとも、宇宙に出ようとも、そう簡単に変わるものではない。
だからこそ、ガルシアの表面上の「友軍を歓迎し、保護する」
という甘い言葉の裏にある、ドロドロとした欲望の匂いを肌感覚で察知していた。
「香取、鹿島。……気を抜くなよ」
ひでは声を潜め、周囲に誰もいないことを鋭い視線で確認してから、二人にだけ聞こえるように忠告した。
「え……?ここは味方の基地ですよね?やっと安全な場所に着いたんじゃないんですか?」
鹿島が不思議そうに首を傾げる。
彼女の純粋な疑問は、この艦に乗る民間人のほとんどが抱いている希望的観測そのものだった。
「味方には違いないが、純粋な味方じゃねえ。あのモニターに映ってる司令官の目を見てみろ。遭難者を助ける善人の目じゃねえぞ。他部署の手柄を横取りしようとする、欲にまみれたハイエナの目だ」
ひでの冷徹で鋭い言葉に、香取の表情がスッと引き締まった。
彼女もまた軍属として、組織の論理というものを深く理解している。
甘い希望が、戦場ではいかに命取りになるかを知っている顔だった。
「大西洋連邦の最新鋭艦アークエンジェルと、未知の機動兵器であるストライク、そしてこのゼータプラス。ユーラシア連邦の将軍からすれば、喉から手が出るほど欲しい最高の手土産だろうな。本国に持ち帰れば、どれだけの出世と権力が約束されるか分かったもんじゃない」
ひでは、自分たちが乗ってきたゼータプラスの巨大な装甲を見上げた。
フェイズシフト装甲を採用し、大気圏突入能力まで備え、さらに未知の変形機構を持つこの特異な機体もまた、ガルシアの強欲な欲望の対象になることは間違いない。
彼らにとって、ひでたち乗組員の命など、機体のオマケ程度の価値しかないのだ。
「武装は、解かない方がいいかもしれませんね」
香取が腰のホルスターに手をやりながら、極めて冷静に状況を分析する。
彼女の瞳もまた、歴戦の教練巡洋艦としての鋭さを取り戻していた。
「ああ。いつでも動ける準備だけはしておけ。いざという時は、俺が二人を必ず守る」
ひでの力強い言葉に、香取と鹿島の瞳に深い信頼の光が宿った。
この大人の男がいれば、どんな理不尽な状況でも必ず生き残れる。
そう確信させるだけの重みが、ひでの広く逞しい背中にはあった。
ひでの悪い予感は、最悪の形で的中することになる。
アークエンジェルがアルテミス要塞の内部ドックに静かに接舷し、固定アームが艦体をホールドした。
エアロックの接続が完了し、重厚な金属音が鳴り響き、外部ハッチが開かれる音がハンガー内に響き渡る。
マリューやナタルたちブリッジクルーは、友軍の歓迎を期待して、あるいは最低限の補給と休息の手配を求めて、メインハッチの前に整列して立っていた。
しかし、開かれたハッチからなだれ込んできたのは、医療班でも補給部隊でもなかった。
重武装を施し、殺気立ったユーラシア軍の兵士たちだった。
「な、何事ですか!?」
マリューが驚愕の声を上げる。
艦長代理としての重すぎる責任感に押し潰されそうになりながらも、なんとか気丈に振る舞ってきた彼女の顔が、想定外の事態への恐怖と混乱で一気に青ざめる。
兵士たちは躊躇いなくアサルトライフルを構え、アークエンジェルのクルーたちに銃口を向けて半円状に包囲した。
「動くな!抵抗すれば容赦なく撃つ!」
部隊を率いる士官が、冷酷な声で命令を下す。
その態度は、疲弊した友軍を迎えるものではなく、完全にテロリストか捕虜を武力で制圧する時のそれだった。
「どういうことだ!我々は地球連合第8艦隊所属、特務艦アークエンジェルだ!友軍に対して銃を向けるとは何事か!」
ナタル・バジルール少尉が、軍人としての毅然とした態度で一歩前に出て、鋭い声で抗議する。
彼女の生真面目さと軍規を重んじる姿勢は、こういう理不尽な状況下では真っ先に反発を生む。
だが、士官はナタルの正当な抗議を鼻で笑った。
「我々はガルシア少将の命令で動いている。貴様らはこれより、アルテミスの保護下に入る。抵抗は無意味だ」
「保護下だと……?銃を突きつけておいて何が保護だ!これは明白な拿捕ではないか!」
ナタルの顔が怒りで朱に染まる。
彼女は腰の拳銃に手を伸ばそうとしたが、それよりも早く、複数の兵士が彼女の頭部にライフルの銃口を突きつけた。
カチャリと、安全装置が外される冷たい音が響く。
「言葉を慎め、少尉。これはあくまで、疲弊し、混乱した友軍への手厚い保護だ。お前たちの安全を確保するための、一時的な措置に過ぎない」
士官の詭弁に、マリューもナタルも言葉を失った。
圧倒的な暴力と、権力という名の理不尽が、彼女たちの正論を完全にねじ伏せようとしていた。
ひではハンガーの巨大なコンテナの陰から、その光景を静かに見つめていた。
香取と鹿島を自らの背後に庇い、いつでも行動を起こせるように全身の筋肉を微細に緊張させている。
「ひでさん……」
鹿島が不安げにひでの背中にすがりつく。
彼女の震える指先が、ひでのシャツを強く握りしめていた。
その手から伝わる恐怖を、ひでは自らの体温で包み込むようにしっかりと受け止める。
「大丈夫だ。今は大人しくしておけ。ここで下手に抵抗すれば、奴らに発砲の口実を与えるだけだ」
ひでは極めて冷静に状況を分析していた。
相手は完全武装の一個小隊以上。
対してこちらは、疲労困憊のクルーと、民間人の子供たちばかりだ。
今ここで銃撃戦になれば、確実に出血を強いられる。
しかも、相手は一応地球連合軍という正規軍の看板を背負っている。
ここで逆らえば、アークエンジェル全体が反逆罪に問われ、完全な大義名分を相手に与えてしまう。
「奴らの狙いは、艦とガンダムのデータだ。俺たちの命までどうこうしようって腹じゃない。まずは出方を見る」
ひでの囁きに、香取もこくりと頷いた。
大人の男としての冷徹な判断力が、極限状況における最善の選択を導き出していく。
「全員、武器を捨てろ!そして速やかに艦から降りるんだ!」
ユーラシア兵の怒号がハンガーに響き渡る。
通路の奥からは、ムウ・ラ・フラガ大尉や、トール、サイ、カズイ、ミリアリアといった学生たちも、銃口を突きつけられて歩かされてきた。
「キャアアアッ!な、何なのよこれ!どうして私たちがこんな目に!」
フレイ・アルスターがパニックを起こし、甲高い悲鳴を上げる。
彼女の悲鳴が、恐怖の連鎖を生み出しそうになる。
「静かにしろ!撃たれるぞ!」
サイが必死にフレイを庇うが、兵士たちは容赦なく銃の台尻で彼らの背中を小突いた。
為す術もなく手を上げるしかない民間人たち。
ムウは軽く両手を上げながら、ハンガーの陰にいるひでと一瞬だけ視線を交わした。
『ここは耐えるしかないな』ムウの瞳がそう語りかけているのを、ひでは正確に読み取った。
理不尽を飲み込む術を知っている、大人同士の言葉なき合意だった。
「……くそっ」
ひでは小さく舌打ちをした。
組織の論理、軍隊の腐敗。
元の世界でも嫌というほど見てきた現実が、この未知の宇宙でも同じように繰り返されている。
人間という生き物は、どこまで行っても愚かで、欲深い。
だが、その愚かさに付き合って無駄死にするつもりは毛頭なかった。
生き残るためには、時には這いつくばってでも機を伺う必要がある。
「行くぞ、二人とも。決して俺から離れるな」
ひでは香取と鹿島に静かに告げると、両手を頭の後ろで組み、ゆっくりとハンガーの影から姿を現した。
「そこにもいたか!早く列に並べ!」
ユーラシア兵がひでたちにも銃口を向ける。
ひでは何も言わず、ただ無表情で兵士の粗暴な指示に従った。
だが、その瞳の奥には、いつ反撃の牙を剥くか分からない、猛獣のような鋭い光が秘められていた。
ゼータプラスとストライクは、主のいないままハンガーに縛り付けられようとしていた。
欺瞞に満ちた絶対防御の傘の中で、アークエンジェルは完全に牙を抜かれ、檻に閉じ込められようとしている。
だが、ガルシア少将はまだ気づいていなかった。
この艦に乗っているのが、ただ権力に従順な羊たちだけではないということを。
そして、彼らが真の脅威であるザフトの影が、すでにこの絶対防御の要塞の足元まで迫っているということを。
「ふざけるな!味方に銃を向ける気か!」
トール・ケーニヒの血を吐くような怒号が冷たい金属の壁に覆われたアルテミスのハンガーに虚しく響き渡った。
彼の腕の中では恋人のミリアリア・ハウが恐怖に身をすくませて激しく震えている。
無理もないことだった。
彼らはつい数日前まで中立国オーブの平和な資源衛星ヘリオポリスで暮らすごく普通の学生だったのだ。
学校に通い友達と笑い合い将来の夢を語り合うそんな当たり前の日常がそこにはあった。
しかしザフトの襲撃という突然の理不尽な戦争に巻き込まれ炎に包まれる故郷から命からがら逃げ延びてきたのである。
宇宙空間の過酷な逃避行の中で幾度となく死線を越え疲労と恐怖に耐え抜いてきた。
そしてようやく辿り着いた安息の地であるはずの味方の軍事要塞で今度は守ってくれるべき友軍の兵士から銃口を突きつけられているのである。
そのあまりの理不尽さと抗いようのない圧倒的な暴力への恐怖は若き彼らの精神をとうに限界まで追い詰めていた。
トールの声には怒りだけでなく裏切られたという深い絶望が入り混じっていた。
「黙れ!貴様らはこれよりアルテミスの保護対象だ!無駄な抵抗をすれば反逆とみなす!」
ユーラシア兵の冷酷で機械的な声と共にアサルトライフルの鈍色の銃身がトールの額に容赦なく押し当てられた。
兵士の目には目の前の若者たちに対する同情など微塵もなくただ命令を執行するための無機質な殺意だけが宿っている。
「や、やめて!」
ミリアリアが悲鳴を上げトールを庇うように彼と完全武装の兵士の間に強引に割って入ろうとする。
彼女の瞳からはポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちていた。
「動くなと言っているだろうが!」
兵士が苛立たしげに声を荒らげ銃の台尻を乱暴に高く振り上げた。
ミリアリアの華奢な肩に向かってその硬く重い金属の塊が非情にも振り下ろされようとした瞬間である。
「そこまでにしておけ、彼女たちはただの民間人だ」
低くしかし驚くほどよく通る落ち着いた声が緊迫した空気を鋭く切り裂いた。
ひでであった。
彼は両手を頭の後ろで組んだ無抵抗の姿勢のままゆっくりと一歩だけ前に出た。
その逞しい背後には香取と鹿島がぴったりと寄り添い兵士たちの挙動を微細な筋肉の動きに至るまで冷徹な視線で監視している。
彼女たちの手はいつでも腰のホルスターに伸びる準備ができていたがひでの背中がそれを制止していた。
「なんだ貴様は!下がれ!」
別の兵士が今度はひでに向かって鋭く銃口を向ける。
だがひでは全く動じる様子を見せずただ静かに兵士の目を見つめ返した。
かつて自衛隊という巨大な組織の中で実戦こそ経験していないものの過酷な演習と理不尽な命令に幾度も耐え抜いてきた経験が彼の精神を鋼のように鍛え上げていたのだ。
上官の理不尽な怒号や泥にまみれながらの長距離行軍そして極限の疲労の中で求められる正確な判断力。
それらの経験に比べれば目の前で威圧的に銃を構える兵士たちの薄っぺらい殺気などひでにとっては取るに足らないものに感じられた。
彼らは自分たちが圧倒的に優位であると錯覚しているただの駒に過ぎない。
「俺はアークエンジェルの乗組員だ、あんたらの司令官の真の目的は俺たちのような下っ端の命じゃないだろう」
「なにを言っている、口を慎め!」
「ここで手荒な真似をして民間人を無駄に傷つければ後で責任を問われて困るのは現場のあんたらの方じゃないのかと言っているんだ」
ひでの静かな指摘はユーラシア兵の痛いところを正確に突いていた。
ガルシア少将の最大の狙いは大西洋連邦の最新鋭艦であるアークエンジェルとそこに積載されている未知の機動兵器のデータである。
無抵抗の民間人やクルーの命を不当に奪うことは大西洋連邦に対する明確な敵対行為となり後々の政治的な言い逃れが極めて難しくなる。
現場の兵士たちが勝手に暴走して民間人を殺傷すればトカゲの尻尾切りのように彼らが処罰されるのは目に見えていた。
兵士の動きがほんのわずかに止まった。
そのコンマ数秒の躊躇いをひでは決して見逃さなかった。
「トール、ミリアリア、少し下がってろ、お前たちは何も悪くない」
ひでは兵士から鋭い視線を外さないまま背後にいる学生たちに優しくしかし有無を言わさぬ声で告げた。
その広い背中から発せられる大人の男としての圧倒的な安心感にトールは悔しそうに唇を強く噛み締めながらもミリアリアの手を引いてゆっくりと後退した。
ミリアリアは震えながらもひでの頼もしい背中を見つめていた。
「……チッ、全員、速やかに移動しろ!妙な真似をすれば次こそ容赦はしない!」
部隊を率いる士官が忌々しげに舌打ちをして再び行進を促した。
自分たちの優位性を言葉で崩されたことへの苛立ちがその荒々しい態度に表れている。
ひでは香取と鹿島に小さく目配せをし大人しく兵士たちの粗暴な指示に従って歩き始めた。
アークエンジェルのクルーたちは完全に武装を解除された上で要塞の奥深くへと連行されていった。
アルテミス内部の通路は冷たい金属の壁に覆われどこまでも無機質で重苦しい空気が漂っていた。
途中の交差する通路でマリュー、ナタル、ムウといった正規の士官たちは別の区画へと引き離されることになった。
「マリューさん!ムウさん!」
ミリアリアが不安げに叫ぶが兵士の銃床で押し戻される。
「心配しないで、絶対に無茶はしないように」
マリューが艦長代理としての責任感から気丈に微笑んで見せるがその顔色は蒼白だった。
「ひで、子供たちを頼んだぜ」
ムウが両手を上げながらひでに向かってウインクをして見せる。
その飄々とした態度の中に込められた大人としての信頼をひでは黙って頷き返すことで受け取った。
おそらくはガルシア少将による直接の尋問と艦のシステムを掌握するためのパスワードの要求が待っているのだろう。
そしてひでたち下士官扱いの者とトールたち民間人の学生グループはさらに奥の区画へと連れて行かれた。
冷たい金属の壁に囲まれた窓のない大部屋へと乱暴に押し込められる。
重い電子ロックの扉が鈍い音を立てて閉ざされる。
その音が彼らの自由が完全に奪われたことを残酷に告げていた。
「キャアアアッ!なんで!なんで私たちがこんな暗くて汚い部屋に閉じ込められなきゃいけないのよ!」
扉が閉まった瞬間これまで必死に恐怖を堪えていたフレイ・アルスターがついにパニックを起こして泣き叫び始めた。
「お願い、ここから出して!パパに連絡させてよ!私のパパは外務次官なのよ!」
彼女は固く閉ざされた鋼鉄の扉を細い両手で何度も叩き狂乱したように叫び続ける。
裕福な家庭で何不自由なく育ち戦争の現実など全く知らなかった彼女にとってこの理不尽な状況は到底受け入れられるものではなかった。
父親の権力がこの軍事要塞の中では全く通用しないという事実を彼女はまだ理解できていないのだ。
「フレイ、落ち着いて!今はパニックになっちゃ駄目だ!」
婚約者であるサイ・アーガイルが必死に彼女の肩を抱いてなだめようとする。
サイの顔にも疲労と恐怖が色濃く浮かんでいたが彼は男としての責任感から必死にフレイを支えようとしていた。
だが極限の恐怖に支配されたフレイの耳にはサイの優しい言葉など全く届いていなかった。
「嫌よ!触らないで!なんであなたが助けてくれないのよ!モビルスーツに乗ってたのはあなたじゃないの!」
フレイの心無い言葉がサイの胸を深く抉る。
モビルスーツの操縦をキラという一人の友人に押し付けてしまったという重い罪悪感はサイをはじめとする学生たち全員の心を常に苛み続けていたのだ。
自分が無力であることへの自己嫌悪がフレイの言葉によってさらにえぐり出される。
フレイの金切り声が反響し暗い監禁部屋の空気は急速に悪化していく。
ミリアリアはトールの胸に顔を埋めて震えカズイは頭を抱えて部屋の隅にうずくまってしまった。
「うるさいわね!少しは静かにできないの!」
他の一般クルーからも怒声が上がり部屋の中は完全にパニック状態に陥ろうとしていた。
「……泣いても喚いても今の現状は何も変わらないぞ」
その時ひでの低く落ち着いた声がフレイの悲鳴や周囲の怒声をかき消すように響いた。
ひでは冷たい床にへたりこみ泣きじゃくるフレイの頭を撫でながら、静かなしかし威厳のある目で見据えていた。
「あなたに何がわかるのよ!私たちは守られるはずだったのに!」
「俺にもわからないことはあるさ、だがこれだけは確実に言える、今の状況で感情を爆発させても自分の首を絞めるだけだ」
ひでの毅然とした態度はパニックに陥る若者たちの中で異質なほどの安定感を放っていた。
「ひでさん……でも私たちこれからどうなっちゃうんですか……殺されるんでしょうか……」
カズイが顔を上げ涙声で震えながら尋ねる。
彼の目には大人であるひでに対するすがるような色が浮かんでいた。
彼らにとってひでは未知の兵器を操り何度も危機を救ってくれた頼れる保護者のような存在になりつつあった。
「殺されはしないさ、奴らの目的はあくまでアークエンジェルとガンダムという兵器だ、俺たちの命なんざ利用価値のないお荷物でしかない、だがだからこそ無駄に刺激して殺されるような真似は避けるべきだ」
ひではゆっくりと立ち上がり不安に怯える若者たちを一人一人見回した。
そして彼らを少しでも安心させるようにわざと大きなため息をついて見せた。
「いいかお前ら、今は無駄に体力を消耗するな、しっかり食って、しっかり寝る、それが生きる秘訣だ、どんな最悪の状況でも生き延びるためにはまず自分の心と体を整えなきゃならない」
その世俗的であまりにも日常的な言葉に学生たちは一瞬きょとんとした顔をした。
死の恐怖が迫る中であまりにも場違いな言葉に聞こえたのだ。
「こんな時にご飯なんて食べられるわけないじゃないですか……!」
フレイが恨めしそうに、しかし顔を赤らめながらひでを睨みつける。
「食べられなくても無理にでも胃に押し込むんだ、水だけでも飲んでおけ、極度の緊張状態が続けば人間はあっという間に倒れる、あのキラのようにな」
ひでの言葉に全員の顔色が変わった。
限界を超えて戦い続けついに高熱を出して倒れてしまった友人の痛ましい姿が脳裏をよぎる。
キラの犠牲の上に自分たちが今生きているという事実が彼らの心を締め付けた。
「ひでさんの仰る通りです、皆様少しでも水分を取って体を休めてください」
ひでの言葉を引き継ぐように香取が部屋の隅に置かれていた備え付けのウォーターサーバーから紙コップに水を注いで配り始めた。
彼女の洗練された所作と軍属としての落ち着き払った態度は周囲の張り詰めた空気を不思議と和らげる力を持っていた。
彼女たち艦娘は艦隊の運用と兵士の管理においてエキスパートでありこうした状況での人の慰撫にも長けている。
「さあフレイさんも、少しお水を飲みましょう、泣き疲れて喉が渇いているはずですよ」
鹿島が優しく微笑みながらフレイの手に水の入ったコップをそっと握らせる。
その豊満な胸元から漂う微かな甘い香りと母性を感じさせる柔らかな声色にフレイは戸惑いながらもコップを両手で包み込んだ。
鹿島の手の温もりがフレイの凍りついた心に少しだけ安心感を与えたようだった。
「……ありがとう」
フレイが震える声で掠れたように礼を言い水を一口含む。
その様子を見てサイやトールたちもようやく肩の力を抜き冷たい床に座り込んで休息を取り始めた。
ひでの大人の男としての揺るぎない態度と香取と鹿島の成熟した女性としての細やかな気配りが崩壊寸前だった若者たちの精神をなんとか繋ぎ止めたのである。
「……助かったよ二人とも」
ひでは壁際に背中を寄りかかりながら小声で二人の副官に礼を言った。
「いいえ、私たちはひでさんのサポートをするのが役目ですから、それにあの子供たちが可哀想で……」
香取が少し目を伏せながら静かに答える。
「しかしマリュー艦長たちは今頃厳しい尋問を受けているでしょうね、ガルシアという男かなり執念深そうですから」
鹿島が周囲を警戒しながらひでの耳元で囁く。
彼女の熱い息遣いが耳をくすぐりひでは僅かに目を細めた。
戦場という異常な空間でありながら彼女たちの女性としての魅力はひでの感覚を静かに刺激し続けている。
「ああ、艦のパスワードを吐かせようと必死だろうな、だがマリューやナタルがそう簡単に口を割るとは思えない、となれば奴らは物理的にシステムのハッキングを仕掛けてくるはずだ」
ひでの推測通りガルシア少将は技術班を総動員してアークエンジェルのメインコンピューターと格納庫に置かれたストライクそしてゼータプラスのOSへの侵入を試みているはずだった。
未知のテクノロジーを独占しようとする強欲な者たちの常套手段である。
「ゼータのシステムは大丈夫だろうな?」
ひでが低い声で確認する。
「ご心配なく、ゼータプラスのOSには私たち艦娘のデータ領域と紐付けたこの世界には存在しない独自の強固な暗号化を施しています、ユーラシアの現在の技術力では数年かけても突破することは不可能です」
香取が自信に満ちた優雅な笑みを浮かべて頷いた。
彼女たちは艦隊これくしょんという別世界の存在でありそのシステム構成はコズミック・イラの常識と完全に異にしている。
いかにユーラシア連邦の技術力が高かろうと規格外の暗号を解読することは絶対にできないのだ。
「それは頼もしいな、なら奴らが焦ってボロを出すのを待とう、必ず隙は生まれるはずだ」
ひでは腕を組み目を閉じて冷たい壁に頭を預けた。
頭の中では次に起こるであろう事態とそこから脱出するためのあらゆるシミュレーションが高速で展開されていた。
自衛隊時代に培った戦術的思考がこの閉鎖空間でも鋭く働き続けている。
絶望的な状況にあっても彼は決して思考を停止させることはなかった。
「ひでさん、少しお休みになってください、見張りは私たちが代わりますから」
鹿島がひでの体を気遣い柔らかな声で提案する。
彼女の視線には上官に対する忠誠だけでなく一人の男性への深い思慕の色が滲んでいた。
「ありがとう、だが今はまだいい、頭を冷やしておく必要があるからな」
ひでは目を開けずに入口の扉の気配に全神経を集中させた。
だがひでの心の中には依然として重い懸念が黒い雲のように居座っていた。
別の区画の医務室に隔離されているであろうキラ・ヤマトのことである。
高熱で倒れたままの少年は今どんな扱いを受けているのか。
無理やり目覚めさせられ薬物を投与されて尋問されているのではないか。
大人の醜い争いに巻き込まれ兵器としてしか見られていないあの少年の孤独を思うとひでの胸は重く締め付けられるようだった。
自分がもっと力を持っていればあの少年をあの呪われたガンダムから降ろしてやれるのだろうか。
冷たく無機質な壁に囲まれたこの空間で時間はただ残酷に過ぎていく。
外の状況は全く分からず味方だと思っていた者たちに裏切られたという事実は彼らの心を深く静かに蝕んでいた。
安全な場所などこの狂った世界にはどこにもないという現実を嫌というほど突きつけられている。
こうして、安息の地であるはずのアルテミスで、ひでたちは「味方」
の手によって捕虜として拘束されるという、理不尽な絶望の底へと突き落とされた。