アルテミス要塞の中枢部に位置する豪奢な司令室はユーラシア連邦の軍事的威信を示すかのように重厚な調度品で飾られていた。
しかしその空間を満たしているのは疲弊した友軍を歓迎する温かな空気ではなく陰湿な尋問室のような冷え切った緊張感であった。
マリュー・ラミアス、ナタル・バジルール、ムウ・ラ・フラガの三人は完全に武装を解除された上で部屋の中央に立たされていた。
彼らを半円状に取り囲むようにアサルトライフルを構えた兵士たちが配備されており逃げ道は完全に塞がれている。
そして彼らの正面に置かれた巨大なマホガニー製のデスクの奥にはこの要塞の絶対的な支配者であるジェラード・ガルシア少将がふんぞり返るように座っていた。
彼は手元のグラスに注がれた高級なブランデーをゆっくりと傾けながら目の前の疲労困憊した将校たちを獲物を値踏みするような下卑た視線で舐め回している。
「地球連合軍第8艦隊所属、特務艦アークエンジェル艦長代理のマリュー・ラミアス大尉だな」
ガルシアがグラスをコツンと置き傲慢な響きを持つ声で口を開いた。
「はい、我々はザフトの執拗な追撃を受け艦の損傷も激しく物資も底を突いております、友軍である貴基地での補給と修復そして負傷者の治療を強く要請いたします」
マリューは極度の疲労で立っているのもやっとの状態であったが艦長代理としての重い責任感から毅然とした態度で要請を行った。
だがガルシアはその言葉を鼻で笑い飛ばした。
「もちろん歓迎するぞ、同じ連合軍の同胞として貴様らの手厚い保護は約束しよう」
「ならばなぜ我々のクルーを不当に監禁し銃を向けるのですか!これは明白な軍規違反です!」
ナタルが一歩前に出て鋭い怒声を響かせた。
生真面目で軍の規律を何よりも重んじる彼女にとって友軍をテロリストのように扱うこの仕打ちは到底許容できるものではなかったのだ。
「口を慎みたまえ少尉、これは保護だと言っているだろう、貴様らはザフトの攻撃により多大な混乱状態にある、その混乱が我が鉄壁のアルテミスに波及するのを防ぐための当然の防疫措置に過ぎない」
ガルシアは悪びれる様子もなく薄ら笑いを浮かべて詭弁を弄した。
その顔には大西洋連邦が極秘裏に開発した最新鋭艦を無傷で手に入れたという隠しきれない歓喜の笑みが張り付いている。
彼の頭の中にはこの獲物を本国に持ち帰り自身がさらなる権力を手にする未来の青写真しか描かれていないのだ。
「詭弁を!閣下の真の目的はアークエンジェルとG兵器のデータでしょう!」
ナタルの正論にガルシアの顔からスッと笑みが消え冷酷な権力者の素顔が露わになった。
「そうだとしたらどうする、大西洋連邦の腰抜け共は莫大な予算を投じて兵器を作っておきながらそれをいとも容易くザフトに奪われるという大失態を演じたのだ、我々ユーラシアがその尻拭いをしてやろうと言っているのだから感謝こそされ文句を言われる筋合いはない」
「なんですって……!」
マリューの顔色が怒りと屈辱で蒼白に変わる。
同じ地球に住む人類の存亡を賭けた凄惨な戦争の最中だというのにこの男の頭の中にあるのは身内の派閥争いと自身の出世のことばかりなのだ。
ヘリオポリスで散っていった者たちの命や戦場を生き抜いてきた自分たちの苦労など彼にとってはただの政治的なカードに過ぎない。
「さあ大尉、アークエンジェルのメインシステムのロックを解除するパスワードを教えたまえ、そしてあのストライクと見たこともない可変機体のOSへのアクセス権限もだ」
ガルシアが身を乗り出し本性を完全に剥き出しにして要求を突きつけてきた。
彼の目は欲に眩みギラギラと醜い光を放っている。
「お断りします、アークエンジェル及びG兵器は大西洋連邦の最高機密です、正式な譲渡命令書がない限りいかなる情報も開示することはできません」
マリューは震える声を必死に抑え込み毅然と拒絶した。
彼女の背負っているものはあまりにも重すぎたがここで屈すればヘリオポリスの悲劇が完全に無駄になってしまう。
「ほう、強情な女だ、だがお前たちが口を割らなくても我が基地の優秀な技術班がすでに物理的なハッキングを開始している、ロックが破られデータが抜き取られるのは時間の問題だぞ」
ガルシアは勝利を確信したように自信たっぷりに言い放った。
「そう簡単にはいかないと思いますけどねえ」
これまで黙って事態を静観していたムウが両手をポケットに突っ込んだまま飄々とした態度で口を挟んだ。
彼の口元には余裕めいた不敵な笑みが浮かんでいる。
「なんだと?貴様はたしかエンデュミオンの鷹とか呼ばれていた男だな」
「ええどうも、それでですね将軍、あのストライクのOSにはナチュラルには扱えない極めて複雑なロックがかかってるんですよ、それにあのゼータとかいう機体に至っては我々大西洋連邦の技術ですらないロックがかかっています、あんたらの技術班の手に負えるようなオモチャじゃありませんぜ」
ムウの言葉は半分がハッタリでありもう半分は紛れもない事実であった。
キラが絶体絶命の危機の中で書き換えたストライクのOSは並の技術者では到底解析不能でありひでが持ち込んだゼータプラスに至ってはコズミック・イラの物理的演算すら超越した領域の暗号化が施されているのだ。
「負け惜しみを、ユーラシアの科学力を舐めるなよ」
ガルシアはムウの言葉を不愉快そうに切り捨てた。
しかしその数分後ガルシアの絶対的な自信はもろくも崩れ去ることになる。
司令室の通信コンソールがけたたましく鳴り技術班の将校からの悲痛な報告がスピーカーから響き渡った。
『閣下!申し訳ありません!アークエンジェルのシステムにはアクセスできましたが機動兵器二機のOSロックがどうしても解除できません!』
「なに!?ストライクはともかくもう一機のデータも抜けないのか!」
ガルシアが苛立たしげにデスクを強く叩く。
『は、はい!ストライクのプログラム言語は我々の知る規格から大きく逸脱しており解読に膨大な時間がかかります!さらにあのゼータプラスという機体ですが……OSの構造そのものがまるでブラックボックスです!論理回路の構成が根本から異なっており解析ツールを接続した途端にシステムが無限ループに陥って基地の端末が次々とダウンしています!』
「ええい!無能の集まりが!物理的に回路をショートさせてでもデータを引きずり出せ!」
ガルシアの怒号が響くがムウはマリューと視線を交わし小さく肩をすくめてみせた。
ひでと彼の部下であるあの不思議な女性たちが施したプロテクトはユーラシアの技術力を完璧に跳ね返していたのである。
同じ頃アルテミスの下層区画にある冷たい金属の壁に囲まれた監禁部屋では重苦しく淀んだ空気が漂っていた。
アークエンジェルの一般クルーと学生たちは冷たい床に座り込み先の見えない不安と死の恐怖に怯えている。
しばらくして重い電子ロックの扉が鈍い音を立てて開き数人のユーラシア兵が食事の入ったカートを押して乱暴に入ってきた。
兵士たちは無言のままプラスチックの容器に入った携帯口糧と水のペットボトルを犬に餌をやるように床に投げ置きすぐに扉の向こうへと消えていった。
「なんだよこれ……冷たいし変な匂いがする……」
カズイが床に転がった茶色い固形物を拾い上げ顔をしかめた。
それは栄養価と保存性だけを追求し味や食感を完全に無視した最低ランクのレーションであった。
「こんなの食べられないわ……私お腹空いてないし……」
フレイが容器を足で軽く押し退け膝を抱えて顔を伏せてしまう。
彼女の頬には乾いた涙の跡が残っておりその精神は依然として深く落ち込んだままであった。
裕福な家庭で育った彼女にとってこのような粗末な食事は口に入れることすら躊躇われる代物なのだ。
「おいお前ら、文句を言わずに口に押し込め」
壁際で腕を組み目を閉じていたひでがゆっくりと目を開け静かにしかし有無を言わさぬ力強い声で命令を下した。
「こんな不味いものどうやって食べるんですか……」
サイがため息をつきながらひでに抗議の視線を向ける。
「味がどうこう言ってる場合じゃないんだよ、しっかり食ってしっかり寝る、それが生きる秘訣だ、どんな不味い代物だろうが今はカロリーを摂取して体力を回復させることだけを考えろ」
ひでは自分の分のレーションの封を無造作に切り迷うことなくその無味乾燥な固形物を口に放り込んだ。
そしてペットボトルの水で無理やり一気に胃の中へと流し込む。
自衛隊の過酷な長距離行軍や演習において食事の味を気にする余裕など一切なかった。
食える時に食い寝れる時に寝る。
その動物的とも言える本能的なサイクルを維持することだけが極限状態において正気を保ち肉体を動かすための唯一の手段なのだ。
大人の男としての圧倒的な実用主義がそこにはあった。
「ひでさんの仰る通りです、いざという時に動けなくなっては困りますからね」
香取が上品な手つきでレーションを小さく割り鹿島と共にゆっくりと口に運んでいく。
彼女たちの優雅な所作にかかればどんなに粗末なレーションでさえも高級な茶会の菓子のように見えてくるから不思議であった。
彼女たちは軍属としてひでの言葉の正しさを誰よりも深く理解しているのだ。
「ほらトールもミリアリアも、半分だけでもいいから食べておきなさい」
鹿島が学生たちの元へ歩み寄り優しく声をかけながらレーションを手渡す。
彼女の豊満な胸元から漂う微かな甘い香りと母性を感じさせる柔らかな眼差しに促されトールとミリアリアは渋々ながらも固形物をかじり始めた。
それを見てサイやカズイそしてフレイもようやく重い腰を上げ食事に手をつける。
ひでの大人の男としての強烈な統率力と香取たちの細やかな気配りがこの暗い部屋の中で彼らの生存本能を辛うじて繋ぎ止めていた。
「しかしひでさん、マリューさんたちはどうなっているんでしょうか、まさかひどい扱いを……」
トールが固形物を飲み込みながら不安げに尋ねる。
彼の脳裏には友軍によって過酷な拷問を受けるマリューたちの恐ろしい想像が浮かんでいた。
「命の危険はないはずだ、奴らの狙いはあくまで兵器のデータだからな、マリューやナタルは口を割らないだろうがそのうち奴らも痺れを切らすだろう」
ひでは冷たい壁に背中を預けながら極めて冷静に状況を分析して聞かせた。
「ゼータプラスのデータは絶対に抜かれませんわ、私と鹿島が軍事レベルの強固なプロテクトを何重にもかけてありますから」
香取がひでの耳元に顔を近づけ周囲の学生たちに聞こえないようにそっと囁いた。
その距離の近さと彼女の甘い吐息にひでは僅かに目を細める。
香取の胸の柔らかな膨らみがひでの腕に僅かに触れており戦場という極限状態にあっても彼女の女性としての魅力がひでの感覚を静かに刺激していた。
「ああ頼りにしてる、問題はキラの方だ、あいつの体調がどこまで回復しているか……」
ひでの最大の懸念は依然として別の区画にある医務室に隔離されているであろうキラのことであった。
限界を超えて戦い高熱を出して倒れた少年を無理やり起こして尋問などしていれば取り返しのつかないことになるかもしれない。
大人の醜い欲望に巻き込まれた少年の孤独を思うとひでの胸の奥がチクリと痛んだ。
「香取、鹿島、この要塞の絶対防御ってのは本当に完璧なのか?」
ひでが低い声で二人の副官に問いかける。
彼の野生の勘とも呼べる研ぎ澄まされた直感は微かな死の匂いを捉え始めていた。
「アルテミスの傘と呼ばれる光波防御帯ですね、原理としては展開されたエネルギーの盾が外部からの物理的及び光学的な攻撃を完全に弾き返すというものです、通常兵器での突破は理論上不可能です」
香取が教官としての正確な知識を披露する。
「理論上はな、だが絶対なんて言葉は戦場には存在しない、これだけ巨大な傘を開いていればどこかに必ず死角や綻びがあるはずだ、そしてザフトの連中がそんな鉄壁の要塞をただ指をくわえて見ているとは思えない」
ひでの言葉に香取と鹿島はハッとした表情を浮かべた。
軍の正規の教育を受けた彼女たちですら絶対防御という言葉の魔力に思考を縛られていたことに気づかされたのだ。
実践の経験こそないもののひでの持つ社会人としての疑り深さは危機管理能力はコズミック・イラの常識を時に凌駕する。
「敵がこの傘を突破する手段を持っていると……?」
鹿島が息を呑んでひでの顔を不安げに見つめる。
彼女は無意識のうちにひでの太腿にそっと手を置きその温もりにすがるように体を寄せていた。
「分からない、だがガルシアとかいうあの司令官は自分の要塞の防御力を過信しきっている、そういう驕りがある組織は足元を掬われやすいんだよ、俺のいた世界でもそういう無能な上司のせいで現場が地獄を見るなんて話は山ほどあったからな」
ひでは皮肉げに口角を歪めた。
絶対の安全圏だと信じ込んでいる時が一番危ない。
それがひでのこれまでの人生で培ってきた経験則であった。
「例えばこの光の傘そのものを光学的にすり抜ける技術があったらどうだ」
「光学的……ですか?」
香取が不思議そうに首を傾げる。
「前の戦闘の最後で俺たちの目の前でフッと姿を消した黒いガンダムがいただろう、あれだよ、周囲の光と同化して姿を消すような機能を持った兵器があればこの傘なんてただの素通りできる門に過ぎない」
ひでの推測に香取と鹿島はハッとして息を呑んだ。
彼女たちもあの激戦の最中センサーからだけでなく肉眼からも完全に消失した機体の不気味な姿をはっきりと記憶していたのだ。
先の戦闘での不可解な現象が今この絶対防御の要塞における最大の脅威として鮮明にリンクしたのである。
「ブリッツといいましたか……あの時の機体がすでにこの要塞の中にいるというのですか?」
鹿島が震える声でひでの顔を見上げる。
「ああ、間違いないだろうな、俺の世界でもあんな技術はSF映画の中だけの話だったさ、だが遺伝子を操作して超人を作り出しあんな化け物みたいな兵器をポンポン作り出す連中だ、常識を疑ってかからないとあっという間に足元を掬われる、見えない敵がすでに俺たちのすぐ懐に入り込んでいると考えた方がいい」
ひでの目は冷たく研ぎ澄まされ獲物を狙う鷹のように暗い監禁室の扉を見据えていた。
絶対防御という驕りに胡座をかいているユーラシア軍は内部からの崩壊という最悪の結末を招くかもしれない。
その時がくれば必ず混乱が起きる。
その一瞬の隙を突いてここから脱出する。
ひでの頭の中ではすでにその冷徹なサバイバルプランが完全に構築されていた。
子供たちが絶望に沈む中、ひではただ一人、鋭い目で監禁室の扉とその外の足音の規則性を観察し続けていた。
今は無力な捕虜だが、僅かでも隙ができればいつでも反撃に出る腹積もりだった。
アルテミスを遠く離れた漆黒の宇宙空間においてザフト軍クルーゼ隊の母艦であるローラシア級ガモフは静かにその巨体を潜ませていた。
艦内の薄暗いハンガーでは出撃の準備を終えた一機の黒いモビルスーツがカタパルトデッキに固定されている。
ヘリオポリスで奪取された地球連合軍の新型機ブリッツガンダムである。
そのコックピットに乗り込もうとしていた若き赤服のパイロットであるニコル・アマルフィに声をかける者たちがいた。
「ニコル、準備はいいか」
銀色の髪を持つアスラン・ザラが心配そうな面持ちで歩み寄ってくる。
彼の背後には腕を組んで不機嫌そうに立つイザーク・ジュールとどこか飄々とした態度のディアッカ・エルスマンの姿もあった。
「ええアスラン、機体の調整は完璧です」
ニコルはヘルメットを小脇に抱え優しく微笑んでみせた。
「アルテミスの傘は厄介だ、いくらお前の機体でも単機での潜入は危険すぎるんじゃないか?」
アスランの言葉には友を案じる真摯な響きがあった。
彼らは同じプラントで育ち共に厳しい軍の訓練を乗り越えてきたかけがえのない仲間であった。
「心配しすぎだぜアスラン、ニコルのブリッツならあんな光の盾なんかお構いなしに通り抜けられるさ」
ディアッカが肩をすくめながら軽口を叩く。
彼の余裕めいた態度はニコルの緊張を解すための彼なりの気遣いでもあった。
「フン、ユーラシアの時代遅れの要塞など俺のデュエルで外から撃ち抜いてやってもいいんだがな」
イザークが好戦的な笑みを浮かべて強がる。
「ありがとうみんな、でもこれは僕の任務だから」
ニコルは三人の顔を順番に見つめ静かに決意を語った。
彼の心の中にはプラントで待つ両親の顔と愛するピアノの美しい旋律が静かに流れていた。
本当ならこんな血生臭い戦場ではなく静かなコンサートホールで大好きなピアノを弾いていたかったという叶わぬ願い。
争いを好まない穏やかで優しい気性の彼にとって人を殺すための兵器に乗ることは本来の彼自身の望みではない。
しかし血のバレンタインの悲劇が彼の運命を大きく狂わせこの漆黒の悪魔に乗ることを彼に決意させたのだ。
無差別に命を奪われた同胞の未来を守るために自分は進んで修羅になるのだと。
自らの手を血で染める覚悟を決めた少年の瞳には悲痛なまでの決意が宿っていた。
「無理だけはするなよニコル、万が一の時はすぐに退け」
アスランが強く肩を叩く。
「分かっています、行ってきます」
ニコルはヘルメットを被りブリッツのコックピットへと素早く乗り込んだ。
重厚なハッチが閉まり外部の音が完全に遮断される。
メインモニターに電源が入り各種計器類が緑色の光を放ち始めた。
『ニコル、アルテミスの傘は外からの物理攻撃には無敵だが内部から発生した事象に対しては極めて脆弱だ、お前のブリッツならあの光のベールを素通りできる、頼んだぞ』
通信回路からクルーゼ隊の隊長であるラウ・ル・クルーゼの冷酷で知的な声が響く。
「了解しました隊長、これよりアルテミスへの潜入を開始します」
ニコルは深く息を吸い込み操縦桿を握る手に力を込めた。
ピアノを愛する彼の細くしなやかな指先がコンソールのスイッチを鍵盤を叩くように滑らかにそして正確に操作していく。
ガモフのカタパルトからブリッツが漆黒の宇宙へと力強く射出された。
「ミラージュコロイド、展開!」
ニコルの声と共にブリッツの漆黒の装甲から目に見えない無数の微粒子が放出され機体全体を包み込んだ。
次の瞬間宇宙空間からブリッツガンダムの姿が完全に消失した。
視覚的にもレーダー上にもそこには何もないただの真空の空間が広がっているだけである。
姿を消した死神はスラスターの出力を最低限に抑え慣性移動を利用しながらゆっくりとアルテミスを覆う虹色の光波防御帯へと近づいていった。
同じ頃アルテミス要塞の内部にある豪華な私室ではジェラード・ガルシア少将が怒りのあまり手にした高級なワイングラスを壁に激しく投げつけていた。
パリーンという鋭い音と共に真紅の液体が美しい壁紙を無惨に赤く染め上げる。
この部屋はマリューたちが拘束されている尋問室とは別の要塞中枢にあるガルシア専用のプライベートな執務室であった。
室内の調度品はどれもユーラシア連邦の威信を示すような一級品ばかりだが今のガルシアの目には全く入っていなかった。
「ええい!無能の集まりが!どうしてあんな子供が動かしていたような兵器のロック一つ解除できないのだ!」
ガルシアは顔を真っ赤にして自身のデスクの前に直立不動で立っている技術班の将校たちに怒鳴り散らした。
彼の頭の中には大西洋連邦から奪い取った最新鋭のガンダムのデータを本国に持ち帰り自身の権力基盤を盤石なものにするという強欲な野心しか存在しなかった。
「も、申し訳ありません閣下!しかしあのストライクと呼ばれる機体のOSは我々の知る規格から大きく逸脱しており解読に膨大な時間がかかります!」
技術将校が額に浮かんだ冷や汗をハンカチで拭いながら必死に弁明する。
「言い訳など聞きたくない!物理的に回路をショートさせてでも強制的にシステムを立ち上げろ!」
ガルシアの怒号が執務室に響き渡る。
彼は軍人というよりは己の利益しか考えない腐敗した政治家そのものであった。
「そ、それが……もう一機のゼータという未知の可変機体ですが……」
「そっちの解析はどうなっている!あの機体はストライク以上に価値があるはずだ!」
ガルシアがデスクに両手をつき身を乗り出して尋ねる。
「それが……OSの構造そのものがまるでブラックボックスなのです!論理回路の構成が根本から異なっており解析ツールを接続した途端にシステムが無限ループに陥って基地のメインフレームの一部がダウンしかけました!」
将校の言葉にガルシアの顔面が怒りと焦りでさらに見苦しく歪んだ。
「ふざけるな!そんな魔法のような話があるか!大西洋連邦の連中が我々ユーラシアの技術を上回っているなどと絶対に認めるわけにはいかんのだ!」
ガルシアにとって技術力の敗北は自身の政治的敗北を意味していた。
プライドばかりが高い彼にはこの事実がどうしても受け入れられないのだ。
「な、なんとしてもあのガンダムを起動させろ!大西洋連邦の鼻を明かしてやるのだ!」
「は、はい!ただちにあらゆる手段を講じて……!」
将校たちがガルシアの怒気を恐れて逃げるように執務室から退室していく。
ガルシアは荒い息を吐きながら新しいグラスにブランデーをなみなみと注ぎ一気に煽った。
喉を焼くアルコールの刺激が少しだけ彼の苛立ちを紛らわせる。
彼は自らの要塞であるアルテミスの絶対防御を微塵も疑っていない。
外敵からの攻撃はあり得ない以上時間はいくらでもあると思い込んでいるのだ。
その傲慢な慢心こそが彼の喉元に突き立てられた見えざる刃の存在を完全に覆い隠していた。
一方アルテミスの下層区画にある冷たい金属の壁に囲まれた監禁室では重苦しい空気が漂っていた。
子供たちが絶望と疲労で床に横たわり浅い眠りについている中ひでだけは冷たい床にあぐらをかき鋭い視線で鋼鉄の扉を睨みつけ続けていた。
彼の意識は扉の外から聞こえるわずかな足音の規則性や警備のシフトの交代のタイミングを正確に測り続けている。
今は無力な捕虜だが僅かでも隙ができればいつでも反撃に出る腹積もりだった。
その時ひでの背後に座っていた香取と鹿島の様子が突然変化した。
二人はまるで何かの波動を受信したかのように同時に顔を上げ何もない虚空を見つめた。
「ひでさん……」
香取が極めて小さな声でひでの背中に呼びかける。
彼女の美しい顔には軍属としての鋭い緊張感が走っていた。
「どうした香取」
ひでは視線を扉に向けたまま低い声で答える。
「要塞の内部に異常なエネルギー反応が……いえ空間そのものに不自然な歪みが生じているのを感じます」
香取の言葉は通常の人間には理解できない類のものであったが彼女たちが艦隊これくしょんという別世界の艦娘であることを知っているひでにとっては極めて重要な情報であった。
「空間の歪みだと?レーダーやセンサーのノイズじゃなくてか?」
ひでが振り返り香取の真剣な目を見つめる。
「はい、光学的なカモフラージュによって姿を隠してはいますが私たちの電探システムに似た索敵感覚には微かな干渉波として伝わってきます、間違いありません、要塞の内部に未知の機体が侵入しています」
香取の断言にひでの目が鋭く細められた。
「やっぱりあの黒いガンダムか?」
鹿島が不安そうに身を乗り出しひでの腕をそっと掴む。
彼女の豊満な胸がひでの腕に押し当てられていたが今はそれを意識する余裕はなかった。
彼女もまた香取と同じ不気味な気配をその肌で敏感に感じ取っていたのだ。
「ブリッツか……あの姿を消す機体だな」
先の戦闘において、香取と鹿島の介入で命からがら対処した機体が思い浮かぶ
「アルテミスの絶対防御の傘をステルスで素通りして直接内部に入り込んできたってわけだ、あのガルシアって司令官の慢心が見事に裏目に出たな」
ひでの口元に冷酷な笑みが浮かぶ。
彼が予測していた要塞の内部からの崩壊という最悪のシナリオが今まさに現実のものとなろうとしているのだ。
「ひでさん、敵機は主動力炉や各部ドックの方向へ向かっているようです、このままでは要塞の機能が完全に沈黙します」
香取が目を閉じ全神経を集中させて見えない敵の動きを正確に追跡する。
「ミラージュコロイドを使っている間は物理的な攻撃はできないはずだ、つまり破壊工作を始める瞬間に必ず姿を現す」
ひでの予測通りその数分後アルテミスの要塞全体を揺るがすほどの巨大な爆発音が響き渡った。
重い金属の扉がビリビリと震え監禁室の照明が警告の赤色に激しく点滅を始める。
けたたましいサイレンの音が鳴り響き外の通路からは兵士たちのパニックに陥った怒号と悲鳴が聞こえてきた。
「な、何なのこれ!どうして警報が鳴ってるの!」
凄まじい爆発音で跳ね起きたフレイが耳を塞ぎながらパニックを起こして叫ぶ。
他の学生たちも何が起きたのか理解できず恐怖に顔を引きつらせていた。
「始まるぞ」
ひではゆっくりと立ち上がり首の骨をポキポキと鳴らした。
彼の全身から放たれる大人の男としての圧倒的な気迫が震える学生たちの視線を完全に釘付けにする。
「ひでさん……どうするつもりですか……?」
サイが震える声で尋ねる。
「どうするも何もない、ここを出てアークエンジェルと機体を取り戻す、マリューたちが自力で脱出しても艦を動かす人間がいなきゃどうにもならないからな」
ひでは冷徹な目で電子ロックの扉を見据えた。
絶対の安全圏が崩壊した今警備の兵士たちの気は完全に外部の敵に向いている。
その一瞬の隙を突いて反撃に出る。
ひでの頭の中ではすでにその冷酷なサバイバルプランが完全に起動していた。