第1章【歴史の狂気】
アルテミスの傘からの脱出劇は、アークエンジェルに束の間の安堵と、それ以上の疲弊をもたらしていた。
要塞崩壊の混乱に乗じて追撃を振り切ったものの、艦の物資状況は絶望的な水準にまで落ち込んでいたのである。
特に深刻だったのが、生命維持に直結する飲料水と冷却水の不足であった。
アークエンジェル内の空気は、常に微かな熱と乾燥を帯びているように感じられた。
食堂の片隅のテーブルで、ひでは配給されたばかりの乏しい食事に目を落としていた。
「また、随分とささやかなメニューになったものだな」
トレイの上に載っているのは、パサパサの合成タンパク質のブロックと、僅かな量の飲料水だけである。
隣に座る香取が、少し申し訳なさそうに微笑んだ。
「仕方ありませんわ、ひでさん」
「アルテミスで十分な補給を受ける予定が、ああなってしまいましたから」
向かいの席の鹿島も、ため息混じりに薄いスープを口に運んでいる。
「水の使用制限は、今日からさらに厳しくなりましたのよ」
「シャワーはもちろんのこと、洗面も最小限に留めるようにと、ナタル少尉から通達が出ていますわ」
ひでは合成ブロックを一口かじり、味のなさに顔をしかめながらも、それを無理やり水で胃に流し込んだ。
「不味いと文句を言っても腹は膨れないからな」
「しっかり食って、しっかり寝る、それが生きる秘訣だ」
「こんな状況だからこそ、口に入れられるものは確実に入れておかないとならない」
ひでは、自衛隊時代の過酷な演習を思い出していた。
補給が断たれた状況下での生存訓練。
食料と水の枯渇が、いかに人間の精神と肉体を急激に蝕むか、彼は身をもって知っている。
「ひでさんの仰る通りですわね」
「私たちも、いざという時のために体力を温存しておかなければなりません」
香取は自らのトレイの上の食事を、一つ一つ丁寧に口に運んでいく。
彼女たちは艦隊これくしょんの世界において、練習巡洋艦として多くの艦娘たちを指導してきた経験を持つ。
そのため、絶望的な状況下にあっても決して取り乱すことはなく、軍属としての高い規律と落ち着きを保っていた。
鹿島もまた、ひでの言葉に頷きながら食事を進める。
「それにしても、この艦の子供たちは大丈夫でしょうか」
「先程も、配給の量について不満をこぼしている子を見かけましたわ」
鹿島が気にしているのは、フレイや、サイといったヘリオポリスの学生たちのことである。
彼らは民間人でありながら、突如として戦争に巻き込まれ、アークエンジェルの運用を手伝わざるを得ない状況に置かれている。
「無理もないさ」
「つい先日まで平和なコロニーで暮らしていた学生たちだ」
「こんなギリギリのサバイバル生活を強いられれば、不満の一つや二つも出る」
ひでは残りの水を飲み干し、空になったグラスを見つめた。
水滴の一つすら残っていないそのグラスは、現在のアークエンジェルの枯渇した状況を象徴しているかのようだった。
「だが、泣き言を言って状況が好転するわけじゃない」
「俺たちは、生き残るために今できる最善を尽くすしかないんだ」
ひでは立ち上がり、トレイを返却口へと向かった。
香取と鹿島もそれに続く。
彼らが食堂を出てブリッジへと向かう通路の空気は、どこか張り詰めていた。
すれ違うクルーたちの顔には疲労の色が濃く、口数も極端に少なくなっている。
ブリッジの自動ドアが開くと、そこにはさらに重苦しい空気が満ちていた。
マリュー・ラミアス艦長は艦長席に深く腰掛け、眉間を指で揉みほぐしている。
その横で、ナタル・バジルール少尉が冷徹な声で報告を上げていた。
「現在の消費ペースを維持したとしても、水はもってあと二日分です」
「冷却水に回せる余裕はすでにありません」
「戦闘状態に突入し、フェイズシフト装甲を展開したり、主砲を連射したりすれば、システムはすぐにオーバーヒートを起こします」
ナタルの報告に対し、マリューは苦渋の表情を浮かべた。
「わかっているわ」
「でも、どうすればいいの」
「地球軍の友軍艦隊と合流するまで、このままの状態で持ち堪えるなんて不可能よ」
ブリッジのクルー席では、トールやミリアリアたちが不安げな表情で顔を見合わせている。
ひでは、ナタルの後ろに歩み寄りながら口を開いた。
「水が尽きれば、人間は三日で使い物にならなくなる」
「それは機械も同じだ」
「冷却水が干上がれば、この艦はただの巨大な鉄の棺桶に変わるぞ」
ひでの低く落ち着いた声に、マリューが顔を上げる。
「ひで少尉……」
「ええ、その通りね」
「だからこそ、一刻も早く補給の手段を見つけなければならないのだけれど」
ナタルがコンソールを操作し、メインモニターに周辺の宙域図を表示させた。
「現在の航路上で、補給が可能な施設は存在しません」
「アルテミスを失った今、我々は完全に孤立しています」
絶望的な観測データが、ブリッジ内に重くのしかかる。
しかし、レーダーとセンサーの監視を担当していたチャンドラが、不意に声を上げた。
「艦長、前方のデブリ帯の中に、大規模な氷の塊を多数確認しました!」
「これは……かつてのプラントの残骸のようです」
その報告に、マリューの目が鋭く光った。
「プラントの残骸……」
「まさか、ユニウスセブン?」
メインモニターの表示が切り替わり、宇宙空間に漂う無数の瓦礫の群れが映し出された。
それは、かつて農業用プラントとして栄え、そして無残に破壊された巨大なコロニーの成れの果てであった。
ひしゃげた外壁、引き裂かれたシャフト、そしてプラント内部にあった大量の水が宇宙空間に放出され、凍りついた氷の塊。
「ユニウスセブン……」
ナタルが忌々しそうにその名を口にした。
「血のバレンタインのグラウンド・ゼロですか」
ブリッジ内の空気が、先程までの水不足の焦りとは違う、得体の知れない冷ややかなものへと変化した。
ひでは、そのモニターに映し出される死の海を見つめながら、静かに息を吸い込んだ。
「そこから氷を回収し、溶かして水を得るというわけか」
ひでの問いに、マリューは重々しく頷いた。
「ええ」
「背に腹は代えられないわ」
「進路をそのままに、デブリ帯に接近」
「使える氷を回収して、タンクを満たします」
マリューの決断に、ナタルも異論は唱えなかった。
生き残るための合理的な判断である。
しかし、その作業がどれほどの精神的重圧を伴うものか、ブリッジの誰もが理解していた。
ひでは、香取と鹿島に目配せをし、ブリッジの後方へと少し下がった。
今のオペレーションに、彼らが直接介入する必要はない。
三人は、通路の壁に寄りかかるようにして、小声で言葉を交わした。
「ユニウスセブン……血のバレンタインの現場、か」
ひでの呟きに、香取が悲痛な表情で目を伏せた。
「ええ」
「この世界に転移してきて、データベースやニュース映像で確認しましたが……本当に、信じられない出来事ですわ」
鹿島もまた、唇を強く噛み締めている。
「民間人が居住する農業用コロニーに、事前の警告もなく核ミサイルを撃ち込むなんて」
「いくら戦争とはいえ、到底許される行為ではありませんの」
香取と鹿島は、艦隊これくしょんの世界における海軍の教練巡洋艦としての記憶と誇りを持っている。
彼女たちの世界でも苛烈な戦いはあった。
深海棲艦という人類の脅威との、文字通りの死闘である。
しかし、相手はあくまで異形の敵であり、人類同士がここまで容赦なく、民間人を巻き込むような大量虐殺を行うという発想は、彼女たちの軍人としての倫理観を大きく逸脱していた。
「二十四万人だ」
ひでは、モニターに映る無数の残骸を見つめたまま、重い声で言った。
「二十四万人もの民間人が、あの一撃で宇宙の塵になった」
「軍事施設への攻撃ならまだ理解できる」
「だが、あれは純粋な報復、いや、ただの絶滅を目的とした狂気だ」
ひでの脳裏には、自分がかつて生きていた世界、現代日本の歴史の授業で学んだ光景がフラッシュバックしていた。
人類が初めて核兵器という悪魔の炎を、同じ人類に対して使用した記憶。
焼け野原となった街、一瞬にして炭化した人々、放射線によって後を引く絶望。
自衛隊員として、国土を守るという誓いを立てたひでにとって、核兵器の使用という現実は、絶対に超えてはならない一線であった。
「狂っている」
「イデオロギーや人種の違いだけで、ここまで徹底的に殺し合えるものなのか」
ひでの拳が、微かに震えていた。
彼はこれまでの人生で、厳しい訓練に耐え、泥にまみれながら国家の防衛という任務に誇りを持ってきた。
しかし、彼が想定していたのは、あくまで国家間の限定的な武力衝突やテロへの対処であった。
「この世界の人間は、タガが外れている」
香取が、ひでの震える拳をそっと両手で包み込んだ。
「ひでさん……」
その手は温かく、ひでの冷え切った心を僅かに和らげた。
鹿島もまた、ひでの肩にそっと寄り添う。
「私たちも、最初は我が目を疑いましたわ」
「でも、これがこの世界で起きている現実なのですね」
「そして私たちは今、その狂気の中で生き残らなければならない」
モニターには、アークエンジェルが徐々にデブリ帯へと接近していく様子が映し出されている。
静寂に包まれた宇宙空間に浮かぶ、巨大な墓標。
あの残骸の一つ一つに、かつて生きていた人々の生活があり、笑顔があり、未来があったのだ。
それが、たった一発の核ミサイルによって全て無に帰した。
ひでは、自衛官時代に培ってきた現実主義と生存本能が、この圧倒的な死の気配の前に悲鳴を上げているのを感じた。
彼が今まで戦ってきたザフト兵との白兵戦や、ゼータプラスでの戦闘は、まだ軍人同士の戦いという範疇に収まっていた。
しかし、このユニウスセブンという場所は、戦争という言葉すら生ぬるい、純粋な殺戮の痕跡である。
血のバレンタイン。
その名が示す通り、それはバレンタインデーという愛を語る日に引き起こされた、血塗られた惨劇。
「……たまらないな」
ひでは、絞り出すように呟いた。
「俺は、自分の命と、お前たちの命を守るためなら、引き金を引くことに躊躇はしないつもりだった」
「だが、この狂った世界で、本当に正気を保ったまま生き残れるのか」
「あの氷の中には、もしかしたら……」
ひではそこまで言って、言葉を飲み込んだ。
氷の塊の中に、亡くなった人々の遺体やその一部が混ざっているかもしれないという想像が、急激に胃をせり上げさせたからだ。
それを回収し、溶かし、濾過して、自分たちは喉を潤すのだ。
それが、この宇宙で生きるということ。
それが、戦争の現実。
ひでは、自分がとんでもない修羅の世界に迷い込んでしまったことを改めて実感し、戦慄を覚えた。
アークエンジェルのブリッジ内は、重く張り詰めた沈黙に支配されていた。
メインモニターには、かつてユニウスセブンと呼ばれた巨大な農業用プラントの残骸が、宇宙の暗闇に無数に浮かぶ光景が映し出されている。
それは、人類の歴史上最も残酷な殺戮の痕跡であり、二十四万人もの命が一瞬にして消え去った巨大な墓標であった。
マリュー・ラミアス艦長は、その光景から目を逸らすことなく、震える声で命令を下した。
「氷塊の回収作業手順を確認します」
ナタル・バジルール少尉が、手元のコンソールを操作しながら冷徹な声で応じる。
「はっ」
「本艦はこれよりデブリ帯の周縁部に接近し、回収可能なサイズの氷塊を選定します」
「その後、艦首のワイヤーアンカーを射出し、モビルスーツの支援によって氷塊に直接固定」
「ウインチを巻き上げることで、本艦の格納庫内に氷塊を収容します」
ナタルの説明は極めて事務的であり、そこに感情の揺らぎは一切感じられなかった。
しかし、その作戦が意味するものを理解しているクルーたちの顔色は、一様に青ざめている。
トールやミリアリアといった学生クルーたちは、恐怖と嫌悪感からモニターを直視できずにいた。
ブリッジの後方で腕を組んでいたムウ・ラ・フラガ大尉が、忌々しそうに舌打ちをする。
「言うのは簡単だがな、少尉」
「あの中は、文字通りプラントの残骸と死体の山だぜ」
「あんな所から拾ってきた氷を溶かして飲むなんて、まともな神経をしてたら正気を保つだけでも一苦労だ」
ムウの言葉は、ブリッジにいる全員の偽らざる本音であった。
血のバレンタインの犠牲者たちの遺骸、あるいはその一部が混ざっているかもしれない氷。
それを生命維持の要として体内に入れなければならないという現実は、人間の根源的な尊厳を激しく揺さぶるものだった。
ひでは、ムウの横で静かに口を開いた。
「フラガ大尉の言う通りだ」
「倫理的に考えれば、死者の眠りを妨げ、その墓場から生きる糧を奪う行為は到底許されるものじゃない」
「だが、やらなければ俺たちは全滅だ」
「水がなければ、明日の命すら繋げないからな」
ひでの低く落ち着いた声が、ブリッジの空気にわずかな波紋を広げた。
彼は元自衛官として、災害派遣の現場で凄惨な光景を何度も目の当たりにしてきた経験がある。
土砂に埋もれた家屋からの生存者捜索、そして変わり果てた姿となった人々の収容。
極限状態においては、死者の尊厳よりも、今を生きている人間の命を最優先にしなければならないという冷酷な現実を、彼は身をもって知っていた。
マリューが、苦渋に満ちた表情でひでを見る。
「ひで少尉……」
「ええ、あなたの言う通りよ」
「私たちは、生き残るためにどんなことでもしなければならない」
「たとえそれが、どんなに罪深い行為であったとしても」
マリューは自らの胸に手を当て、深く深呼吸をしてから、再び艦長としての威厳を取り戻した。
「フラガ大尉はメビウスゼロで出撃し、周辺空域の哨戒と警戒をお願いします」
「ザフトのパトロール部隊が潜んでいる可能性も否定できません」
「キラ少尉のストライク、そしてひで少尉のゼータプラスは、氷塊の選別とワイヤー固定のサポートを」
ムウが軽く敬礼のポーズをとる。
「了解」
「死神の使い番ってわけか」
「嫌な役回りだが、やるしかないな」
ひでも無言で頷き、マリューに敬礼をしてブリッジを後にした。
自動ドアを抜け、格納庫へと続く通路を歩きながら、ひでは自らの心の奥底に渦巻く不快感を押し殺していた。
自衛隊での訓練や経験をもってしても、この異常な状況に完全に心を適応させることは難しい。
二十四万人という途方もない数の人間が、同じ人類の放った核兵器によって一瞬にして消し炭となった。
その狂気の現場に、自らの足で踏み入ろうとしているのだ。
ひでは、右手の指先に残るタコの感触を確かめるように、静かに拳を握りしめた。
「戦争という言葉すら生ぬるい」
「ただの絶滅戦争だ」
通路の角を曲がったところで、ひでは壁に背を預けてうずくまっている一人の少年を見つけた。
あれから熱も下がり、体調をもどしつつあるキラ・ヤマトである。
彼の顔は紙のように白く、肩は小刻みに震え、両手で頭を抱え込むようにして蹲っていた。
周囲を通り過ぎる整備兵たちも、声をかけることができずに遠巻きに彼を見ている。
「どうした、キラ」
ひでの声に、キラはビクッと肩を跳ね上げて顔を上げた。
その紫色の瞳には、恐怖と混乱、そして深い悲しみが入り混じった涙が浮かんでいた。
「ひでさん……」
「僕……怖いんです」
「あそこは、ユニウスセブンは……僕と同じコーディネイターの人たちが、何十万人も殺された場所です」
「そこから氷を……同胞の血や涙が混ざっているかもしれない氷を掘り出して、僕らは生き延びようとしている」
「そんなのって、あんまりじゃないですか」
キラの声は、今にも泣き崩れそうなほどに震えていた。
彼にとって、ユニウスセブンの惨劇は教科書やニュースの向こう側の出来事ではない。
自分が生まれるかもしれなかった場所であり、同じ遺伝子操作を受けた同胞たちの巨大な墓標なのだ。
その墓を荒らし、残骸から水を啜って生き延びようとするアークエンジェルの行動は、心優しい少年であるキラの精神を限界まで追い詰めていた。
ひではゆっくりとキラの隣にしゃがみ込み、彼の目線に合わせて視線を交わした。
「キラ、お前の気持ちは痛いほどよくわかる。同胞の墓を暴き、そこから生きるための水を奪う。それは、人間としての尊厳をかなぐり捨てるような、ひどく惨めで残酷な行為だ」
ひでの言葉に、キラは顔を覆って嗚咽を漏らした。
十六歳の少年に背負わせるには、あまりにも重すぎる現実。
しかし、彼がストライクのパイロットである以上、この重圧から逃げることは許されないのだ。
「だがな、キラ。俺たちは今、生きている。そして、アークエンジェルにはお前の友達も、何も知らない子供たちも乗っているんだ。彼らをここで、喉の渇きに苦しませて死なせるわけにはいかないだろう」
ひでは、自らの右手をキラの肩に力強く置いた。
「死者の尊厳を守るために生者が死ぬなんて、それこそ狂っていると俺は思う。俺たちは生きるためにここに来たんだ。死者のためじゃない、今を生きる生者のためだ」
キラが、涙で濡れた顔を上げてひでを見つめ返す。
「でも……僕には、あんな場所に行くなんて……」
「割り切れとは言わない、吐き気がするなら、吐きながらでも操縦桿を握れ。泣きたいなら、泣きながらでも作業をこなせ、それが生き残った者の責任であり、今を生きる俺たちの戦いなんだ」
ひでの言葉は、一見すると冷酷に聞こえるかもしれない。
しかし、綺麗事では済まされない現実を前にして、少年を甘やかすことは何の救いにもならないことを、ひでは知っていた。
泥にまみれ、血反吐を吐きながらでも、生きるために前に進むしかない。
それが、過酷な訓練を経てきた元自衛官としての、彼なりの最大の優しさであった。
キラはしばらくの間、俯いて肩を震わせていたが、やがて袖で涙を乱暴に拭い、ゆっくりと立ち上がった。
「……はい、やります。僕たちが生き残るために」
まだ声には震えが残っていたが、その瞳には微かな決意の光が宿っていた。
ひでは無言でキラの肩を叩き、共に格納庫へと歩みを進めた。
格納庫では、マードック曹長が怒鳴り声を上げながら整備班を指揮し、慌ただしい作業が続いていた。
「急げ急げ、もたもたしてると、俺たちが干上がっちまうぞ。ワイヤーアンカーの射出テスト、もう一度確認しろ」
金属のぶつかる音や、重機が駆動する音が格納庫内に反響している。
ひでがゼータプラスの駐機ハンガーへと向かうと、そこにはすでに香取と鹿島の姿があった。
二人はパイロットスーツ姿のひでを見つけると、小走りで駆け寄ってくる。
「ひでさん」
香取が、心配そうな眼差しでひでの顔を見上げた。
「これから、あのデブリ帯の中へ入るのですね」
「ああ、作業自体は単なる氷の回収だから難しくはない。だが、あの中には何が潜んでいるかわからないからな。ザフトのパトロール部隊が息を潜めている可能性もあるし、何よりデブリとの接触事故が一番の脅威だ」
鹿島が手元の情報タブレットを操作し、ゼータプラスの機体データを読み上げる。
「ゼータプラスの各システム、最終チェック完了しています。フェイズシフト装甲へのエネルギー供給ラインも異常ありません。ただ、冷却水は本艦と同様にギリギリのラインですの。長時間の高機動戦闘や、ビーム・スマートガンの連続使用は、システムダウンを引き起こす危険性がありますわ、無駄なエネルギー消費は極力避けてくださいませ」
ひではヘルメットを小脇に抱えたまま、鹿島のタブレットの画面を覗き込んだ。
「わかっている、俺は無理な戦いをするつもりはない、安全第一で目標の氷塊を確保して、さっさとこの艦に帰ってくるさ」
香取が一歩ひでに近づき、その胸元にそっと両手を添えた。
彼女の手は微かに震えており、この狂気に満ちた世界に対する恐怖と、出撃していくひでへの深い愛情が入り混じっていた。
「……どうか、ご無事で」
「あの空間には、無念の死を遂げた方々の思いが渦巻いています。その重圧に、ひでさんの心が呑み込まれないようにしてくださいね」
ひでは香取の温かい手を自身の手で優しく包み込み、安心させるように微笑みかけた。
「大丈夫だ、俺には、帰るべき場所と、必ず守り抜くと決めたお前たちがいる。死者たちの怨念なんかに引きずり込まれるほど、俺はヤワじゃない」
ひでの言葉に、香取の表情が少しだけ和らいだ。
彼女は艦隊これくしょんの世界における教練巡洋艦として、多くの艦娘たちを戦地に送り出してきた経験がある。
見送る側の辛さ、そして生還を祈る切実な思いを、彼女は誰よりも深く理解していた。
鹿島もまた、ひでの背中をそっと押すようにして声をかける。
「待っていますわ、ひでさん。美味しいお水が飲めるのを、一番に楽しみにしていますから」
「ああ、任せておけ」
「帰ってきたら、冷たい水を一杯奢ってやる」
ひでは二人に見送られながら、ゼータプラスのコクピットへと身を躍らせた。
狭いシートに身を沈め、各部のハーネスを固定する。
ハッチが重厚な金属音を立てて閉まり、閉鎖された空間に計器類の駆動音と冷却ファンの唸りが響き渡った。
メインモニターに電源が入り、アークエンジェルの薄暗い格納庫の様子が映し出される。
『ゼータプラス、システムオールグリーン』
通信回路から、ブリッジでオペレーターを務めるミリアリアの緊張した声が聞こえてきた。
『カタパルトデッキへの移動をお願いします』
「了解」
ひでは操縦桿を握り、フットペダルを微かに踏み込んだ。
ゼータプラスがスラスターの微噴射を行いながら、リニアカタパルトのデッキへとゆっくりと進み出る。
隣のカタパルトデッキでは、すでにキラの搭乗するストライクが発進態勢に入り、膝を折って待機していた。
正面のハッチが開き、広大な宇宙空間が目の前に広がる。
そしてその先には、これから突入するユニウスセブンの無惨な残骸の群れが、圧倒的な質量をもって迫っていた。
音のない宇宙空間で、無数の墓標が静かに漂う死の海。
そこは、人間の狂気が生み出した地獄の景色そのものであり、直視するだけでも魂が削り取られるようなおぞましさを放っていた。
「行くしかないか」
ひでは深く息を吸い込み、自らの心に巣食う恐怖と嫌悪感を、理性の力で無理やり封じ込めた。
今はただ、生き残るための任務を遂行する一人の兵士になるしかない。
モニターの端で、カタパルトの射出シグナルが赤から黄色へと変わる。
『進路クリア』
『ゼータプラス、発進どうぞ』
シグナルが青に変わると同時に、ひではゼータプラスの操縦桿を握り、護衛のためにカタパルトから発進した。