※この作品はR-18です。

機動戦士ガンダムSEED ~転移者と共に~   作:よっちょれ

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第2章【死者の海】

カタパルトから射出されたゼータプラスは、漆黒の宇宙空間へと滑り出した。

機体のスラスターが微かに光を放ち、無音の世界に青白い尾を引く。

ひでは操縦桿を握り直し、メインモニターに広がる光景を重苦しい眼差しで見つめた。

 

そこには、かつてユニウスセブンと呼ばれた農業用プラントの無惨な残骸が、視界を埋め尽くすほどの規模で漂っていた。

ひしゃげた巨大な金属のフレームや、外壁の破片。

それらが星々の光を乱反射させながら、不気味な静寂とともに宇宙を漂流している。

 

「これが、二十四万人もの命が消えた場所か」

 

ひでは、ヘルメットの中で小さく呟いた。

軍事施設や要塞の残骸ではない。

そこには明らかに、人々の平和な日常が営まれていた痕跡が残されていた。

 

ゼータプラスの高解像度カメラが、デブリの群れの中に漂う様々なものを捉えていく。

千切れた巨大なパイプ、焼け焦げた居住区の隔壁、そして……どこかの家庭の窓枠だったのか、カーテンの切れ端らしき布が金属片に絡みついている。

自衛隊員時代、台風や地震といった自然災害の被災地で、変わり果てた人々の生活の痕跡を数え切れないほど見てきたひでにとっても、この光景は異常だった。

 

『ゼータプラス、ストライク、聞こえるか』

 

通信回路に、先行して空域の哨戒に当たっているムウ・ラ・フラガ大尉の声が響いた。

 

「こちらゼータプラス、感明瞭だ」

 

ひでが応答すると、ムウの声が少しだけトーンを下げて続く。

 

『俺はデブリ帯の外縁を回って、ザフトのパトロールがいないか目を光らせておく』

 

『お前たちは、アークエンジェルの進路の先にある手頃な氷塊を見つけて、ワイヤーを固定してくれ。ただし、あまり奥には入り込むなよ、残骸の密度が高すぎてレーダーもセンサーも使い物にならなくなるからな』

 

「了解した、フラガ大尉も背後には気をつけてくれ、こんな場所で奇襲を受けたら目も当てられない」

 

ひでの言葉に、ムウは軽く鼻で笑うような音を立てた。

 

『わかってるさ、死神の使い番には慣れてるつもりだがこんな悪趣味な墓場は御免だからな』

 

通信が切れ、ひでは再びゼータプラスの操縦に意識を集中させた。

アークエンジェルは微速前進でデブリ帯へと接近しており、艦首のワイヤーアンカーをいつでも射出できる態勢を整えている。

ひではスラスターを細かく吹かし、機体をデブリの群れの中へと滑り込ませた。

 

大小様々な瓦礫が機体を掠めていく。

少しでも操縦を誤れば、ゼータプラスの装甲であってもただでは済まない。

ひでは極度の緊張感の中で、目標となる氷塊を探し始めた。

 

『ひでさん……』

 

不意に、アークエンジェルのブリッジから通信が入った。

香取の声だった。

 

「どうした、香取」

 

『ゼータプラスの生体センサーの数値が少し乱れています。極度の緊張状態にあるようですがお体は大丈夫ですか』

 

彼女の声には、隠しきれない心配の念が滲み出ていた。

ひでは操縦桿を握る手の力を少し抜き、意図的にゆっくりと息を吐き出した。

 

「心配かけてすまない、体調に問題はない。ただ、この空域の異常な雰囲気に、少し当てられただけだ」

 

『無理もありませんわ、ブリッジのメインモニター越しに見ている私たちでさえ、息が詰まりそうになりますもの』

 

鹿島の声も通信に割り込んでくる。

 

『ひでさん、周囲のデブリの軌道計算データをお送りしますわ、これを参考に、安全な航路を確保してくださいませ』

 

「助かる鹿島、お前たちがバックアップしてくれていると思うと心強い」

 

ひでの目の前のサブモニターに、鹿島から送られてきた予測軌道のデータが表示される。

それは、複雑に絡み合いながら移動するデブリの動きを見事に計算し尽くしたものだった。

彼女たちの練習巡洋艦としての高度な情報処理能力と、ひでを支えようとする強い意志が、冷たい宇宙空間にいるひでに確かな温もりを与えてくれた。

 

「よし……行くぞ」

 

ひでは気を取り直し、ゼータプラスをさらに奥へと進めた。

やがて、巨大な外壁の残骸の影に、青白く光る巨大な塊を発見した。

それは、かつてプラント内部にあった湖か、あるいは巨大な貯水槽の水が宇宙空間に放出され、瞬時に凍りついたものだった。

 

「アークエンジェルこちらゼータプラス、目標となる氷塊を発見した大きさは目測で直径十メートルほど、艦に収容するには手頃なサイズだ」

 

ひでの報告に、マリュー・ラミアス艦長がすぐに応答する。

 

『了解しましたゼータプラス、ストライクと協力して氷塊の周囲のデブリを排除してください。本艦はこれよりアンカーを射出します』

 

「了解」

 

ひではゼータプラスの向きを変え、氷塊の周囲を漂う危険な金属片を機体の腕で丁寧に押し退け始めた。

しかし、その作業の最中、彼は氷塊の表面に張り付いている「何か」に気がついた。

それは、凍りついた水の中に閉じ込められた、赤い布切れだった。

いや、布切れだけではない。

その先には、明らかに人間の腕らしきものが、氷の中から突き出していた。

ひでは息を呑み、反射的にゼータプラスの動きを止めた。

 

「……くそっ」

 

ひでは唇を噛み締め、モニターから目を逸らした。

覚悟はしていた。

この惨劇の跡地で水を確保するということは、そういうことなのだと。

 

二十四万人もの命が奪われた場所で、何も混ざっていない純粋な氷など見つかるはずがない。

自分たちは今、死者の骸を溶かして喉を潤そうとしているのだ。

その事実が、再びひでの胃を激しく締め付けた。

 

『ひでさん……』

 

通信回路から、今度はキラの声が聞こえてきた。

ストライクがゆっくりとした動きで、ゼータプラスの隣に並び立つ。

 

「キラか、どうした、動きが鈍いぞ」

 

ひでは努めて平静を装い、いつものような低い声で尋ねた。

しかし、ストライクのカメラアイは氷塊を直視できず、落ち着きなく周囲の虚空を彷徨っていた。

 

『見ましたか……?あの氷の中に……人が……』

 

キラの声は、恐怖と嫌悪感で泣きじゃくる寸前の子供のようだった。

彼もまた、ひでと同じものを、いや、もしかしたらもっと多くの悲惨な光景を、その目撃してしまったのだろう。

同じコーディネイターとして、自分と近い年齢だったかもしれない少年少女たちが、無惨な姿で氷に閉じ込められている。

その光景が、キラの繊細な心をズタズタに引き裂いていた。

 

「……ああ、見た……。だが、見なかったことにしろ」

 

ひでは冷徹に言い放った。

 

『そんな……そんなこと、できるわけないじゃないですか!』

 

キラが悲痛な叫び声を上げる。

 

『ここは僕の同胞が殺された場所なんですよ!罪のない人たちが、何十万人も……。その人たちの血が混ざった水を飲んで、僕らは生き延びるっていうんですか!?そんなの、人間がやっていいことじゃない!』

 

キラの叫びは、ブリッジで通信を聞いている全員の心に重く突き刺さった。

誰もが思っていたことだ。

誰もが目を背けたかった現実だ。

しかし、ひでは決してその感傷に流されるわけにはいかなかった。

 

「キラ、よく聞け」

 

ひでの声は、先程よりもさらに低く、そして強い力を持っていた。

 

「人間がやっていいことかどうか、そんな倫理や道徳はあの核ミサイルが撃ち込まれた瞬間にこの宙域から消え失せているんだ。俺たちは今地獄のど真ん中にいる。そして地獄で生き残るためには悪鬼羅刹にでもなるしかないんだ」

 

ひではゼータプラスの機体をストライクの正面に向け、その双眸でしっかりとキラの機体を見据えた。

 

「お前が泣こうが喚こうがあの氷の中にいる死者は生き返らない。だが、お前がここで立ち止まれば、アークエンジェルに乗っているお前の友達は確実に喉の渇きで死ぬ」

 

「お前は、死者の尊厳を守るために、生きている友達を見殺しにするのか?」

 

ひでの言葉は、残酷なまでに論理的で、逃げ場のない現実をキラに突きつけていた。

自衛官として、極限状況下における優先順位のつけ方を叩き込まれてきたひでにとって、それは唯一の正解だった。

 

『……っ』

 

キラの言葉が詰まる。

彼の中で、同胞への哀悼と、友人たちを救わなければならないという責任感が激しく衝突していた。

 

「泣くのは後だキラ、今はただ目の前の氷を艦に運ぶことだけを考えろ。それが、俺たちの命を繋ぐ唯一の手段だ」

 

ひではそれ以上語ることをやめ、再びゼータプラスを氷塊へと向かわせた。

アークエンジェルの艦首から、太いワイヤーアンカーがゆっくりと射出されてくるのが見える。

 

『アンカー目標に到達します、ゼータプラス、ストライク、固定作業のサポートを』

 

ミリアリアの震える声が通信に響いた。

彼女もまたモニター越しにこの惨状を見て、必死に涙を堪えながらオペレーターの任務を遂行しているのだ。

 

「了解。キラ右側を頼む」

 

ひではゼータプラスの腕を操作し、迫り来るワイヤーアンカーの先端を掴んだ。

そして、氷塊のくぼみを探し、アンカーの爪をしっかりと食い込ませていく。

少し遅れて、ストライクも氷塊の反対側へと回り込み、同じようにアンカーの固定作業を始めた。

機体の動きを通して、キラの躊躇いと恐怖がひでにまで伝わってくるようだった。

 

「しっかり固定しろ、途中で外れたら艦に大穴を開けることになるぞ」

 

ひでが檄を飛ばすと、ストライクはビクッと体を震わせた後、アンカーを力強く氷塊に押し込んだ。

 

『……固定、完了しました』

 

キラの報告を受け、ひではアークエンジェルに通信を入れる。

 

「こちらゼータプラス、アンカーの固定を確認した。いつでも巻き上げ可能だ」

 

『了解しました。これよりウインチを巻き上げます』

 

マリューの声と共に、ワイヤーがピンと張り詰め、巨大な氷塊がゆっくりとアークエンジェルの方へと引き寄せられていく。

ひではゼータプラスを後退させ、その様子を静かに見守った。

 

氷塊が艦の格納庫へと吸い込まれていくたびに、自分たちが越えてはならない一線を越えてしまったような、取り返しのつかない罪悪感が胸に広がっていく。

しかし、それを言葉にして口に出すことは許されない。

大人の男として、プロの軍人として、彼はこの狂った世界で弱音を吐くことを自らに禁じていた。

 

「キラ作業終了だ、周囲の警戒に戻るぞ」

 

ひでが声をかけるが、ストライクは氷塊が引き込まれていった方向を見つめたまま、動こうとしなかった。

 

『……ひでさん』

 

通信越しのキラの声は、ひどく暗く、震えていた。

自分の同胞であるコーディネイターが24万人も死んだ場所に、連合側の兵士として立っている。

その矛盾が、少年の心を蝕んでいた。

 

 

 

アークエンジェルの艦首から伸びた太いワイヤーが、巨大な氷塊をゆっくりと格納庫へと引き込んでいく。

その重々しいウインチの駆動音が、真空の宇宙空間を越えて、ゼータプラスの装甲を微かに震わせていた。

ひでは操縦桿から片手を離し、ヘルメットのバイザー越しに自身の右手のひらをじっと見つめた。

 

そこには、小銃の引き金を長年絞り続けたことでできた、分厚く硬いタコが刻み込まれている。

それは彼がかつて、現代日本の陸上自衛隊において、普通科という最も過酷で泥にまみれる部隊で、国家と国民を守るための訓練に明け暮れていた確かな証であった。

しかし今、彼がその手で握っているのは、命を奪うための引き金ではなく、二十四万人もの死者が眠る墓場から、自分たちが生きるための水を奪い取るという、恐ろしくも悍ましい現実の操作桿である。

 

「……こんな所で感傷に浸っている暇はないな」

 

ひでは自嘲気味に小さく呟き、再び両手でしっかりと操縦桿を握り直した。

 

「キラ、氷の収容は終わった、周辺の哨戒を続けるぞ、ザフトのパトロール部隊や、はぐれた敵機がいつこの空域に現れてもおかしくない。終わったからといって絶対に気は抜くな」

 

通信機越しに声をかけるが、ストライクからの返答はひどく鈍く、そして弱々しいものだった。

 

『……はい、わかっています』

 

キラの声には深い虚無感のような冷たい響きが混ざっていた。

無理もないとひでは思う。

まだ十六歳の普通の学生だった少年が、自分の同胞であるコーディネイターが二十四万人も無残に虐殺された現場を目の当たりにしたのだ。

さらに、その犠牲者たちの血や肉片が混ざっているかもしれない氷を、生きるための水として回収する手伝いをさせられたのである。

 

精神が完全に崩壊してしまわなかっただけでも、彼の神経は十分に持ち堪えていると評価すべきだろう。

ひではゼータプラスのスラスターを細かく吹かし、沈黙したままのストライクを庇うように、少し前方に機体を進めた。

 

『ひでさん、アークエンジェルのレーダーには、今のところ敵影は確認できませんわ』

 

通信回路に、鹿島の落ち着いた、そしてどこか艶のある声が響いた。

彼女のその声を聞くと、ひでの張り詰めていた神経が僅かに和らぎ、冷え切ったコックピットの中に一筋の温もりが差し込んだように感じられた。

 

「了解した。だがこのデブリ帯の中では金属片の乱反射でレーダーもセンサーも万全じゃない、計器だけに頼らず目視での警戒を怠らないようにする」

 

『ええ、お願いしますわ、でもあまり無理はなさらないでくださいね、ひでさんの心拍数先程からずっと高い数値を維持したままですのよ』

 

鹿島はブリッジのコンソール越しに、ひでの生体データに異常がないかを常に監視してくれていた。

艦隊これくしょんの世界で練習巡洋艦として数多くの艦娘を導いてきた彼女の細やかな気配りが、孤独な宇宙空間にいるひでにとって、どれほど大きな精神的支えになっていることか。

 

「心配ない。ただこの場所の空気が少しばかり重すぎるだけだ。早くこの任務を終えて温かい艦に帰還したいものだな」

 

ひでが少しだけ口角を上げてそう答えると、今度は香取の凛とした声が通信に割り込んできた。

 

『ひでさん、アークエンジェル艦内ではただいま回収した氷の融解および浄化作業に入りました。ナタル少尉の指揮のもと、何重もの濾過フィルターを通して安全な飲料水と冷却水を確保する手はずです』

 

「そうか、ご苦労様だ。だが、濾過したところで元の成分が何だったのかを考えればあまりいい気分はしないな」

 

ひでの皮肉めいた言葉に、香取もまた苦しげな吐息を漏らした。

 

『ええ……、でもマリュー艦長も苦渋の決断だったはずです、これをしなければ私たちは明日を生きることもできなかったのですから』

 

アークエンジェルの艦内では、今まさに生命を繋ぐための必死の作業が行われている。

回収された巨大な氷塊を熱で溶かし、不純物を取り除き、放射能汚染や有害物質がないか厳密に検査する。

しかし、物理的な汚れは落とせても、精神的な穢れまでを濾過することはできない。

 

ブリッジでその報告を受けているマリューやナタルも、きっと自分と同じように、胃の腑に重い鉛を飲み込んだような感覚に苛まれているはずだ。

ひではメインモニターに広がる、無数の残骸の海を見渡した。

 

「宇宙空間というのはこれほどまでに広大で美しいというのに、人間という生き物はどこまで行っても争いと殺戮から逃れられないようだな」

 

ひでの呟きに応えるように、先行して哨戒に当たっていたムウ・ラ・フラガ大尉から通信が入った。

 

『まったく同感だぜ少尉、俺もメビウスゼロでこの辺りを飛び回っちゃいるが、あちこちに転がってる残骸の生々しさに吐き気がしそうだ』

 

ムウの声も、いつもの軽口とは裏腹に、隠しきれない疲労と嫌悪感が滲んでいた。

 

「フラガ大尉、そちらの空域に異常はないか」

 

『ああ、今のところはネズミ一匹いやしない、ザフトの連中もこんな自分たちの同胞の墓場をうろつくのは趣味じゃないんだろうさ。あるいは、もうすぐ行われる追悼式典の準備で忙しいのかもな』

 

血のバレンタインの追悼式典。

事件から一年が経とうとしている今、プラント側では大規模な慰霊祭が予定されているという情報を、ひでもデータベースで確認していた。

コーディネイターたちにとって、この場所は決して忘れてはならない悲劇の象徴であり、地球連合軍に対する底知れぬ憎悪の源泉となっている。

 

そんな聖域とも言える場所を、地球連合の軍艦であるアークエンジェルが荒らしているのだ。

もしザフト軍に見つかれば、問答無用で集中砲火を浴びせられることは間違いない。

 

『しかし、こんな場所で生きるための水を拾うとはな、俺たちも随分と業の深いことをしている、死神の使い番にはお似合いの仕事かもしれないが、あのボウズには少々荷が重すぎるんじゃないか?』

 

ムウの言葉は、沈黙を続けるキラのことを指していた。

 

「……ええ、十六歳の少年が背負うにはあまりにも残酷な現実です、ですが彼がストライクのパイロットである以上、この現実から目を逸らすことは許されません」

 

ひでの返答に、ムウは短く息を吐いた。

 

『手厳しいなひで少尉、だがそれが正しい。戦場じゃ泣いてる暇があったら引き金を引かなきゃ生き残れないからな、お前さんがしっかり手綱を握ってやってくれ』

 

「了解しました」

 

通信が切れ、再び宇宙の静寂がゼータプラスのコックピットを包み込む。

ひでは機体のカメラを、後方で静止しているストライクガンダムへと向けた。

キラの乗るその機体は、まるで糸の切れた操り人形のように、宇宙空間にただ力なく漂っているように見えた。

機体の姿勢制御スラスターが微かに作動しているため、完全に機能停止しているわけではないが、パイロットの意思が機体に全く伝わっていないのは明白だった。

 

「キラ」

 

ひでは、あえて感情を抑えた、平坦な声で呼びかけた。

 

『……はい』

 

「機体の姿勢が乱れているぞ、そんな状態では不意のデブリの衝突を避けられない、操縦桿をしっかりと握り直せ」

 

ひでの指示に対し、キラはゆっくりと、本当にゆっくりとストライクの姿勢を立て直した。

しかし、その動きには覇気がなく、ただ機械的に命令に従っているだけだった。

 

『ひでさん……』

 

キラが、絞り出すような声で問いかけてきた。

 

『僕たちは本当にこれでよかったんでしょうか、あんな氷を溶かして飲んで生き延びて……、それになんの価値があるんでしょうか?』

 

「……価値の話をしているんじゃない」

 

ひでは即座に否定した。

 

「俺たちは今価値や意味を問うような高尚な段階にはいない、ただ生きるか死ぬか、その二択を迫られている極限状態だ」

 

『でも……!』

 

キラの声に、再び感情の波が押し寄せてくる。

 

『あの氷の中には人がいたんですよ!僕と同じコーディネイターの人たちが……何の罪もない人たちがあんな無惨な姿で……、僕にはあんな水を飲むことなんてできません!そんなことをするくらいならいっそ……!』

 

「いっそ、死んだ方がマシだと言いたいのか?」

 

ひでの鋭い一喝が、通信回路を通してストライクのコックピットに響き渡った。

キラは言葉を詰まらせ、沈黙する。

 

「いいか?キラ……、お前は今自分一人の命の話をしているつもりかもしれないがそれは大きな間違いだ、お前が死ねばストライクを失ったアークエンジェルは次の戦闘で確実に沈む。お前の友達のトールも、ミリアリアも、サイもみんな宇宙の塵になるんだ。お前は自分の倫理観や感傷を守るために彼らを巻き添えにして死ぬつもりか?」

 

ひでの言葉は、急所を突く鋭い刃のようにキラの心に突き刺さった。

彼は常に、自分の意志とは関係なく戦いに巻き込まれた被害者としての側面を持っていた。

しかし、彼がストライクのパイロットという圧倒的な力を持ってしまった以上、彼の生死はもはや彼個人のものではなくなっているのだ。

 

『……っ』

 

キラの荒い息遣いが聞こえてくる。

 

「俺はお前に立派な軍人になれと言っているわけじゃない、英雄になれと言っているわけでもない、ただ生きて帰れと言っているんだ」

 

ひではゼータプラスをゆっくりとストライクに近づけ、その肩に手を置くような位置で機体を静止させた。

 

「俺はお前たちのように遺伝子を弄られた優れた人間じゃない、軍の士官学校を出たエリートでもなければ特殊部隊のレンジャーでもない、平凡な自衛官だった男だ。泥にまみれて這いつくばって、それでも生き残るための訓練だけを繰り返してきた」

 

ひでの声は、先程までの厳しい口調から一転して、静かで穏やかなものに変わっていた。

それは、上官としてではなく、人生の少し先を歩く一人の「大人」

としての声だった。

 

「だから俺には高尚な理想も正義も語れない、ただ一つだけ確かなことがある、死んでしまえばそこですべてが終わりだということだ。どんなに惨めでも、どんなに汚いことをしても、生き延びさえすればいつかやり直せるかもしれない。涙を流すのも罪を償うのも生きている人間にしかできないことなんだ」

 

ひでの言葉は、綺麗事では決して救われない残酷な現実の中で、もがき苦しむ少年へのせめてもの道標であった。

血のバレンタインという歴史的な狂気。

そして、その跡地から命の糧を奪うという究極の矛盾。

そのすべてを真っ向から受け止め、それでもなお生きることを選択しろと、ひでは説いているのだ。

 

『……生きて、帰る……』

 

キラが、呪文のようにその言葉を反芻する。

 

「そうだ、ヘリオポリスで平和に暮らしていたあの頃には戻れないかもしれない。だがお前にはまだ守るべき友達がいる。そして俺には香取と鹿島がいる。俺たちは守るべきものを守り抜くために、この地獄を生き抜かなければならないんだ」

 

ひでは、自らの言葉がキラの心に届いていることを信じて、静かに通信を切った。

特別な教育を受けていない、軍の歯車の一つでしかなかった男の、不器用で泥臭い励まし。

それは、高度な戦術理論でもなければ、崇高な軍事思想でもない。

ただ、生きることへの執着と、大切なものを守り抜くという強烈な意志から生まれた、嘘偽りのない言葉であった。

 

ゼータプラスのコックピット内で、ひでは深く息を吐き出した。

自身の心拍数が、徐々に落ち着きを取り戻していくのがわかる。

しかし、メインモニターに映る無数のデブリの群れは、未だに無言のプレッシャーを放ち続けている。

 

『ひでさん……』

 

香取の、優しく労わるような声が響いた。

 

『今の通信私たちも聞いていました。ひでさんのその真っ直ぐな言葉きっとキラさんの心に届いていると思いますわ』

 

鹿島も同意するように続く。

 

『ええ、ひでさんは本当に強くて優しい方ですのね。私たちもひでさんと一緒に生き抜くために全力でサポートいたしますわ』

 

二人の女性の言葉が、ひでの疲弊した心に染み渡る。

彼女たちの存在こそが、ひでがこの狂った世界で正気を保ち、戦い続けるための最大の理由であった。

 

「ありがとう香取、鹿島。お前たちがいてくれるから俺はこうして立っていられる。さあ、もう少しだけ周辺を警戒したら艦に戻ろう、美味しいとは言えないかもしれないが冷たい水を一杯飲みたい気分だ」

 

ひではそう言ってゼータプラスの操縦桿を握り直し、ストライクと共にゆっくりとアークエンジェルへの帰投コースに入った。

巨大なデブリの影が、二機のモビルスーツを飲み込むように覆いかぶさってくる。

彼らは命の水を確保し、当面の危機を脱したかに見えた。

しかし、この呪われた宙域が、彼らをそう簡単に逃がしてくれるはずがなかった。

 

「俺が、しっかりしなきゃならない」

 

ひでは小さく、しかし力強く呟いた。

 

「俺はレンジャー部隊でもなければ特殊作戦群の隊員でもない。だが、だからこそ地に足をつけてこの狂った世界で子供たちを守り抜いてみせる」

 

それは、軍のエリートのような特別な教育を受けていない、ただの「大人」としてのひでの言葉。

だが、その言葉も、これから起こる悲劇の前の気休めにしかならなかった。

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