ゼータプラスとストライクがアークエンジェルへの帰投コースに乗った直後、静寂に包まれていた宇宙空間が突如として引き裂かれた。
メインモニターに映る巨大なデブリの影から、幾つもの鋭い光点が飛び出してきたのである。
「艦長、右舷前方デブリの影より熱源反応が多数出現しました。ザフトのモビルスーツ部隊です」
ブリッジでレーダーを監視していたチャンドラが、悲鳴に近い声で報告を上げる。
その言葉に、マリュー・ラミアス艦長の顔色が一瞬にして蒼白になった。
「数はどれくらいなの?」
「モビルスーツが四機、おそらくジンです。ものすごいスピードで本艦に向かって急接近してきます」
ナタル・バジルール少尉がコンソールを叩きながら、冷徹な声で状況を分析する。
アークエンジェルは現在、回収した氷塊の融解と浄化作業の真っ最中であった。
艦のメインシステムのエネルギーの多くが、生命維持のための水処理に回されている。
「総員、第一種戦闘配置」
「ゴットフリート、イーゲルシュテルン起動、急いで迎撃態勢を整えろ」
ナタルの指示が飛ぶが、オペレーターのミリアリアの声は震えていた。
「だ、駄目です。水処理システムから火器管制へのエネルギー転換に時間がかかっています。主砲の出力が上がりません」
マリューが唇を強く噛み締める。
最悪のタイミングでの敵襲であった。
血のバレンタインの跡地という、ザフトにとっての聖域で氷を拾うという行為が、どれほど危険な賭けであったかを思い知らされる。
ゼータプラスのコックピットにいるひでの耳にも、香取と鹿島からの緊迫した通信が飛び込んできた。
『ひでさん敵機接近です。ジンが四機、完全にこちらを捕捉していますわ』
香取の声には焦りが混じっていた。
鹿島もすぐに戦術データを送信してくる。
『アークエンジェルは現在、回避行動もままならない状態です。このままでは直撃を受けますわ』
ひではゼータプラスの操縦桿を強く握り締め、機体を反転させた。
たった今まで氷を確保して安堵していた空気が、一瞬にして死の恐怖へと塗り替えられる。
「了解した。アークエンジェルが動けないなら俺たちが前に出て防ぐしかない」
ひではサブモニターで、後方にいるストライクの様子を確認した。
キラの乗る機体は、敵が接近しているというのに、ビームライフルを力なく下げたまま動こうとしない。
同胞の墓場から命の糧を奪ったという罪悪感が、まだ彼の心と体を縛り付けているのだ。
「キラ。敵襲だ、ボーッとしている暇はないぞ、武器を構えろ」
ひでの声にも、キラからの返答はない。
『……』
ストライクのメインカメラが、ただ虚空を見つめるように明滅しているだけだった。
そこへ、先行して哨戒に当たっていたムウ・ラ・フラガ大尉のメビウスゼロが、急反転して戻ってきた。
『おいおい、最悪のタイミングのお出ましじゃないか。坊主の様子がおかしいなら俺とお前さんでやるしかないぜ、ひで少尉』
「フラガ大尉、数は四機相手は怒り狂っています。まともに撃ち合えばこちらが押し切られます」
ひでの言う通りであった。
ゼータプラスの通信回路が、オープンチャンネルで放たれているザフト軍の通信を拾い上げていたのだ。
『地球軍の野蛮人どもめ』
『貴様ら、自分たちが何をしているのかわかっているのか』
『ここは、我々の同胞が二十四万人も殺された場所だぞ』
『その聖地を足蹴にし、あまつさえ墓を荒らすような真似を……』
『絶対に許さん』
『ここでお前たちを一人残らず消し炭にして、同胞たちの霊前に捧げてやる』
通信機から響くザフト兵達の声は、激しい憎悪と殺意に満ちていた。
それは単なる軍人としての任務ではなく、肉親や友人を殺された怨念そのものであった。
戦争という大義名分すら消し飛ぶほどの、純粋で暴力的な怒り。
ひでは、その痛切な叫びを聞きながら、自らの胸に重い何かがのしかかるのを感じた。
「……相手の言い分はもっともだ、怒るのも当然だろう。だが、だからといってここで殺されるわけにはいかない」
ひでは深く息を吸い込み、元自衛官としての徹底した生存本能を呼び覚ました。
自衛隊の訓練において、最も重要視されるのは無駄死にを避け、味方を守り抜くことである。
華々しい撃墜スコアなどどうでもいい。
今この瞬間、最も重要なのは、動けないアークエンジェルと、戦意を喪失しているキラを守ることだった。
「鹿島、香取。ゼータプラスのセンサーを最大出力に設定してくれ、敵の射線と予測機動をすべてこちらに回してほしい」
『ひでさん、まさか……』
香取が息を呑む気配が伝わってきた。
「アークエンジェルの火器が使えない以上誰かが囮にならなきゃならない。俺が前に出て四機の注意をすべてゼータプラスに引きつける」
『そんな、危険すぎますわ』
鹿島が悲痛な声を上げる。
『いくらフェイズシフト装甲があっても、四機からの集中砲火を浴びれば持ちこたえられません』
「まともに当たるつもりはない、俺の目とお前たちのサポートがあればギリギリで躱せるはずだ」
ひでの言葉には、揺るぎない決意が込められていた。
自分が盾にならなければ、アークエンジェルの装甲は蜂の巣にされ、中にいる多くの子供たちが犠牲になる。
それだけは絶対に避けなければならなかった。
『……わかりました。ゼータプラスの火器管制とセンサーは私たちが完全に掌握します。ひでさんは、回避と機動にのみ専念してくださいませ』
鹿島の声が、震えながらも力強さを取り戻した。
『絶対に、死なせはしませんわ』
香取も力強く同意する。
二人の女性の言葉に背中を押され、ひではゼータプラスのスラスターを全開にした。
機体が急加速し、宇宙空間に青白い光の軌跡を描く。
『行くぜ、少尉』
ムウのメビウスゼロが、有線式のガンバレルを展開しながら敵機へと向かっていく。
『俺が横から牽制を入れる。お前さんは正面から派手に暴れて、連中の目を釘付けにしてくれ』
「了解した」
ひではゼータプラスのビーム・スマートガンを構え、先頭を突っ込んでくるジンに向けて牽制の射撃を放った。
一条のビームが宇宙空間を切り裂き、ジンのわずか数メートル横を掠めていく。
それが合図であった。
『舐めるな、ナチュラルが』
怒り狂ったザフト兵の一人が、ジンに装備された重突撃機銃の引き金を引く。
無数の実体弾が、ゼータプラス目掛けて雨霰と降り注いできた。
ひでは操縦桿を小刻みに動かし、機体を上下左右に振って弾幕の隙間を縫うように回避する。
「右舷からもう一機来ますわ」
鹿島の的確なナビゲートが、ひでの視界の死角を完全にカバーしていた。
「左へロールして回避」
ひでは機体を捻り、二機目のジンが放ったミサイルを間一髪でやり過ごす。
爆発の閃光がゼータプラスの装甲を舐めるが、フェイズシフト装甲によってダメージは最小限に抑えられていた。
しかし、四機を同時に相手にするのは想像を絶するプレッシャーであった。
「くそっ、次から次へと。連中完全に冷静さを欠いているがその分だけ殺意が桁違いだ」
ひでは額に汗を滲ませながら、機体の姿勢制御に全神経を集中させる。
自衛隊の演習で培った、地形を利用した遮蔽物への隠れ身の技術。
この宇宙空間においては、周囲に漂う無数のデブリがその代わりとなる。
「香取、目の前の巨大な残骸の軌道データをくれ」
『はい。現在地の十時の方向、距離五百にプラントの外壁の破片があります』
「よし」
ひではゼータプラスを急降下させ、その巨大な残骸の裏側へと滑り込んだ。
直後、残骸の表面に無数の銃弾が着弾し、火花を散らす。
『隠れても無駄だ』
『そこから引きずり出してやる』
ザフト兵たちが、残骸を迂回するように回り込んでくるのがレーダーに映る。
ひではビーム・スマートガンの出力を調整し、残骸の端から銃口だけを出して、接近してくる敵の足元を狙って発砲した。
直接撃破するのではなく、牽制と威嚇を目的とした射撃である。
『ひでさん、そのまま右へスライドしてください。敵の包囲網が狭まっています』
鹿島の声に従い、ひでは機体を滑らせるように移動させる。
ムウのメビウスゼロが、ガンバレルからオールレンジ攻撃を仕掛け、一機のジンを牽制してくれている。
しかし、残りの三機は完全にゼータプラスを標的と定めていた。
『許さん……、お前たちだけは絶対に許さん』
通信機から漏れ聞こえるザフト兵の怨念の声が、ひでの心を冷たく抉る。
彼らは被害者であり、自分たちは加害者の側に立っているという拭いきれない事実。
それでも、ひでには守るべきものがあった。
アークエンジェルのブリッジでは、マリューたちが必死にシステムを復旧させようと汗を流している。
そして、その後方では、キラがまだストライクの中で蹲っているのだ。
「キラ」
ひでは、回避行動を取りながら、オープンチャンネルではなくストライクの個別の通信回路を開いた。
「俺の声が聞こえるか」
『……』
ストライクからの返事はない。
「お前が戦いたくない理由はわかった。同胞の墓を荒らすような真似をして、心が折れそうになるのも当然だ」
ひでは、飛来するミサイルをバルカン砲で撃ち落としながら、言葉を紡ぐ。
「だがな、今アークエンジェルの艦内では、ナタル少尉やマードック曹長たちが必死になって俺たちが拾ってきた氷を溶かしているんだ」
「トールやミリアリアたちも、配管のチェックやシステムの復旧を手伝っている」
「彼らは、生きるために必死で戦っているんだぞ」
ひでの声は、決して怒鳴っているわけではなかった。
ただ、冷徹なまでに事実を突きつける、大人の声であった。
「お前がここで目を背ければ、彼らの努力はすべて無駄になる。お前が拾った氷で誰も喉を潤すことなくみんな宇宙の塵になるんだ」
『……っ』
ストライクの通信回路から、キラの微かな嗚咽が聞こえてきた。
「俺はお前を無理やり立たせようとは思わない。だが、俺は俺の仕事をする。あの艦に乗っている全員を守るために、俺はこの機体の装甲が削り取られるまで戦う」
ひではゼータプラスをデブリの陰から飛び出させ、再び三機のジンの前に姿を現した。
『出てきたな、ナチュラルめ』
ザフト兵の怒号と共に、激しい銃撃がゼータプラスに集中する。
「鹿島、香取、出力全開だ。一歩も退くな」
『はいっ。フェイズシフト装甲、最大出力で維持しますわ』
二人のサポートを受けながら、ひでは機体を巧みに操り、致命傷となる攻撃だけをピンポイントで避けていく。
しかし、回避しきれない小口径の弾丸が次々と機体をかすめ、装甲の表面を焦がしていく。
「来い、俺が相手になってやる。お前たちの恨みも怒りも全部俺が引き受けてやる」
ひでは徹底して「盾」となった。
作業中の少年たちの命を守るため、ひではあえて敵の憎悪を自分に向ける。
ゼータプラスの装甲表面を、連続する実体弾の嵐が容赦なく削り取っていく。
フェイズシフト装甲のおかげで致命的な破壊は免れているものの、被弾の衝撃は機体を激しく揺さぶり、ひでの身体をシートに何度も打ち付けた。
「くっ」
ひでは奥歯を噛み締めながら、操縦桿を強引に引き倒した。
機体はデブリの狭間を縫うようにして急激なバレルロールを行い、追従してくるミサイル群を間一髪で振り切る。
爆発の閃光が視界を白く染め上げ、センサーが一瞬だけノイズに覆われた。
『ひでさん、右後方からさらに二機が回り込んできますわ』
鹿島の切迫した声が通信回路に響く。
『このままでは完全に退路を断たれます』
「わかっている。だが、ここで俺が退けば、後ろにいるアークエンジェルが蜂の巣だ。一歩も引くわけにはいかない」
ひではビーム・スマートガンの銃身を反転させ、迫り来るジンの影に向けて牽制の射撃を放った。
しかし、怒りに駆られたザフト兵たちは、怯むどころかさらに攻撃の手を強めてくる。
『地球軍の悪魔どもが、我々の同胞の血を吸って、まだ生き延びようというのか。絶対に生かしては帰さん』
オープンチャンネルから響く彼らの声には、純粋な殺意と深い悲しみが入り混じっていた。
彼らにとってここは、無惨に殺された家族や友人の墓標なのだ。
そこを土足で踏み荒らす地球連合の兵士に対して、手加減などするはずがない。
「相手の怒りは痛いほどわかる。だが、こっちにも守らなきゃならない子供たちがいるんだ」
ひではバルカン砲を掃射し、接近するジンのカメラアイを牽制した。
『少尉、無理をするな』
ムウ・ラ・フラガ大尉のメビウスゼロが、有線式のガンバレルを展開して一機のジンを牽制する。
『いくらフェイズシフト装甲でも限界はあるぜ。エネルギーが尽きればただのマトになっちまうぞ』
「承知しています。だが、アークエンジェルの火器管制が復旧するまで、誰かが的にならなければならない」
『まったく、損な役回りばかり引き受けやがって』
ムウの舌打ちが聞こえるが、彼自身も一機のジンを相手に手一杯の状況であった。
宇宙空間に特化したザフトの機動兵器を相手に、旧式のメビウスゼロで渡り合っているだけでも奇跡に近い。
残る三機のジンは、ひでのゼータプラスに集中砲火を浴びせていた。
『ひでさん、機体の冷却材の温度がレッドゾーンに近づいています』
香取の震える声が、絶望的な状況を伝えてくる。
『このまま被弾が続けば、フェイズシフト装甲の維持が困難になりますわ』
「もう少しだけ持たせてくれ、艦長たちが必ずシステムを復旧させてくれるはずだ」
ひでは額から流れる汗を拭う余裕もなく、ただひたすらに機体の回避行動に全神経を集中させていた。
元自衛官としての徹底したサバイバル能力が、彼をギリギリのところで生かしている。
地形や障害物を利用し、相手の射線を予測し、最小限の動きで致命傷を避ける。
それは、華麗なエースパイロットの動きとは程遠い、ただ生き残るためだけの必死の抵抗であった。
しかし、その努力にも限界が近づいていた。
『もらったぞ、ナチュラルめ』
残骸の陰から突如として姿を現したジンが、大型のバズーカをゼータプラスに突きつける。
「しまった」
ひでが回避行動を取ろうとした瞬間、バズーカから巨大な弾頭が放たれた。
直撃を避けるために機体を捻ったが、爆発の衝撃波がゼータプラスの左半身を直撃する。
「ぐっ……」
ひでの身体がシートベルトに激しく食い込み、肺から空気が絞り出された。
コックピット内に、けたたましい警告音が鳴り響く。
『ひでさん、左腕部のフェイズシフト装甲出力低下、関節部の駆動システムにエラーが発生していますわ』
鹿島の悲鳴に近い報告が飛び込んでくる。
「まだ動ける、心配するな」
ひでは痛みをこらえながら操縦桿を握り直し、機体の姿勢を立て直した。
しかし、ジンの追撃は容赦なく続く。
重突撃機銃の実体弾が、フェイズシフト装甲の出力が落ちた左腕部に次々と命中する。
装甲が削り取られ、内部の配線が露出して火花を散らす。
『ひでさんもう限界です。これ以上は機体が持ちませんわ』
香取の声が、今にも泣き出しそうに震えていた。
彼女たちにとって、ひでが傷ついていく姿を見るのは、自分の身が切り裂かれるよりも辛いことだった。
「泣き言を言うな、俺がここで沈めば、お前たちもあの艦の子供たちも全部終わりだ。最後まで戦術データを送れ」
ひでの鋭い一喝に、香取と鹿島はハッと息を呑んだ。
『……はい、申し訳ありませんひでさん、データリンク再構築しますわ』
二人は涙を拭い、再び教練巡洋艦としての高度な情報処理能力をフル稼働させてひでをサポートし始めた。
しかし、状況は確実に悪化していく。
三機のジンが、傷ついたゼータプラスを完全に包囲する陣形を組んだのだ。
『終わりだ地球軍。貴様らの血でこの宙域を少しでも浄化してやる』
三機が同時に武器を構え、ゼータプラスに狙いを定める。
回避の隙間は完全に塞がれていた。
ひでは覚悟を決め、残されたビーム・スマートガンのエネルギーを最大出力に設定した。
「相打ち覚悟で一機でも道連れにする」
ひでが引き金を引こうとしたその瞬間、一条の緑色のビームが、ゼータプラスとジンの間に割り込むようにして宇宙空間を切り裂いた。
それは、アークエンジェルの主砲から放たれたものではなかった。
後方でずっと動きを止めていた、ストライクガンダムのビームライフルから放たれた一撃だった。
「キラ」
ひでがサブモニターに目を向けると、ストライクがスラスターを吹かして、ゆっくりとこちらに向かってくるのが見えた。
その動きはまだぎこちなく、パイロットの迷いが機体を通して伝わってくるようだった。
『……ひでさん……』
キラの声が、通信回路を通じて聞こえてきた。
それは、恐怖と罪悪感に押し潰されそうな、ひどく弱々しい声だった。
「遅いぞキラ。このまま俺が死ぬのを黙って見ているつもりか」
ひではあえて厳しい口調で呼びかけた。
少年を甘やかすことは、この極限の戦場では彼の命を奪う結果にしかならない。
『でも……、彼らは僕と同じコーディネイターです。僕の同胞を殺した地球軍に怒っているだけなんです。彼らに何の罪があるんですか』
キラの言葉は、痛切な悲響を帯びていた。
ユニウスセブンの犠牲者を悼み、その墓場を荒らした地球軍を憎むザフト兵の気持ちが、キラには痛いほど理解できてしまうのだ。
だからこそ、彼らに向かって引き金を引くことができない。
「罪の話などしていない。彼らには彼らの正義があり、俺たちには俺たちの生き残る理由がある。ただそれだけのことだ」
ひではゼータプラスをストライクの前に出し、ジンの攻撃から彼を庇うように位置取った。
『でも僕が撃てば、彼らは死ぬ……。僕の手でまた同胞を……』
「お前が撃たなければ、俺が死ぬ」
「香取が死に、鹿島が死に、アークエンジェルに乗っているお前の友達が全員死ぬ」
ひでの言葉が、ストライクのコックピットに冷たく響く。
「どちらの命を選ぶか、お前が決めろ。死者の墓標の前で過去を悔やんで死ぬか、それとも、生者の未来を守るために罪を背負って生きるか」
「決断しろ‥‥‥、キラ」
ひでの怒号は、キラの心を揺さぶった。
ストライクのカメラアイが明滅し、ビームライフルを構える腕が微かに震えている。
しかし、ザフト兵たちは、キラが迷っていることなど知る由もない。
彼らにとって、ストライクは同胞を殺すために作られた地球連合の忌まわしき悪魔の兵器でしかなかった。
『なんだあの機体は。かまわん、まとめて叩き潰せ』
二機のジンがストライクに狙いを変更し、急接近してくる。
「危ない」
ひではゼータプラスのスラスターを強引に吹かし、ストライクの盾となるべく機体を割り込ませた。
ジンの放った実体弾が、ゼータプラスの背部に次々と命中する。
装甲が砕け散り、深刻なダメージを知らせる警報が鳴り響いた。
「ぐあああっ」
ひでは激しい衝撃に耐えきれず、苦悶の声を上げた。
『ひでさん』
キラの悲痛な叫び声が通信回路に響く。
目の前で、自分を庇って傷ついていく大人の姿。
その光景が、キラの脳裏に焼き付いていた恐怖と迷いを、強制的に打ち払った。
彼の中で、守りたいという強い意志が、同胞を殺すという罪悪感を上回った瞬間であった。
ストライクの動きが、突如として別次元のものへと変化した。
『やめろおおおっ』
キラの絶叫と共に、ストライクが驚異的な反応速度でスラスターを吹かした。
接近してきたジンの動きを完璧に見切り、ビームライフルを寸分の狂いもなく相手のコックピットに向ける。
引き金が引かれ、緑色の閃光が宇宙空間を貫いた。
直撃を受けたジンは、一瞬のうちに火の玉となって爆散した。
残骸が四方八方に飛び散り、ユニウスセブンの新たなデブリとなって宇宙に漂い始める。
『なっ……、一瞬でやられただと』
残された二機のジンが、予想外の反撃に一瞬だけ動きを止める。
その隙を、ムウ・ラ・フラガが見逃すはずがなかった。
『もらったぜ』
メビウスゼロのガンバレルが四方向から一機のジンを包囲し、一斉射撃を浴びせる。
無数の火線が交差する中で、ジンはなす術もなく撃墜された。
瞬く間に二機の味方を失った最後の一機は、恐慌状態に陥ったように後退を始める。
『化け物め、地球軍の悪魔どもが』
ザフト兵の怨念に満ちた叫び声が、通信回路を通じてキラの耳に届く。
ストライクは、逃げていく最後のジンに向かってビームライフルを構えたまま、完全に硬直していた。
『……っ』
キラの手が、引き金の上で震えている。
敵の背中を撃てば、確実にもう一つの命を奪うことになる。
同胞の、自分と同じコーディネイターの命を。
その事実が、再びキラの心を激しく苛み始めていた。
「撃て、キラ」
ひでの低く、冷徹な声が通信に響いた。
「敵に背を向けるな。完全に沈めるまで戦いは終わっていない」
『でも……彼は逃げています……、もう、戦う意思はないじゃないですか……』
キラの懇願するような声に、ひでは唇を噛み締めた。
普通の十六歳の少年であれば、逃げる敵を撃ち殺すことに躊躇するのは当然の人間らしい感情である。
だが、ここは戦場であり、生きるか死ぬかの極限の世界なのだ。
ここで温情をかけて敵を見逃せば、彼らは再び態勢を整え、新たな戦力と共に必ず自分たちの命を狙いに来る。
「甘いことを言うな」
「お前が今、その手を止めれば、あの機体は必ず再びお前たちの命を奪いに戻ってくる。戦場に情けなど必要ない。撃て」
ひでの容赦のない命令が、キラの精神をさらに追い詰める。
ストライクのカメラアイが、逃げ去っていくジンの光点を捉えたまま、動かない。
キラはコックピットの中で、顔を両手で覆い、泣き叫びたい衝動に駆られていた。
『僕には……できません……、これ以上人を殺したくない……』
キラの震える声を聞きながら、ひでは深く息を吐き出した。
彼が今、どれほどの重圧と苦しみの中で戦っているのか、ひでには痛いほど理解できた。
だが、その優しさが、この狂った世界では命取りになるのだという現実を、誰かが教えなければならない。
たとえそれが、少年の心を深く傷つける残酷な行為であったとしても。
「……いいだろう、なら、その甘さがどれほど高くつくか、俺が教えてやる」
ひでは傷ついたゼータプラスの操縦桿を握り、スラスターを吹かしてストライクの横へと並び立った。
「よく見ておけ、これがお前が背負うべき戦場の現実だ」
ひではビーム・スマートガンの照準を、逃走するジンに合わせた。
ゼータプラスの高度なセンサーが、完璧な予測射撃の軌道を算出する。
「鹿島、香取、エネルギーを火器管制に集中しろ」
『はいひでさん、目標捕捉完了しましたわ』
二人のサポートを受け、ひでは一切の躊躇いもなく引き金を引いた。
極太のビームが宇宙空間を走り、逃げ去ろうとしていたジンの背中を正確に貫いた。
一瞬の静寂の後、機体は爆発し、宇宙の闇に消えていった。
『……っ』
ストライクのコックピットで、キラが息を呑む音が聞こえた。
「見たか、キラ」
ひでは、爆発の光の余韻を見つめながら、静かに、しかし力強く言った。
「敵を倒すということは、こういうことだ。お前が手を下さなくても、誰かが引き金を引かなければならない。それがこの戦争という地獄のルールだ」
ひでの言葉は、キラの心に重く、冷たく突き刺さった。
「お前はストライクという力を持ってしまった。その力を使わずに泣いているだけなら、今すぐ機体から降りて誰かに命を預けろ。だが、もしお前が自分の意思で友達を守りたいと思うなら、その綺麗事を捨てろ。手を血で汚す覚悟を決めろ」
キラは何も答えることができなかった。
ただ、ストライクの頭部がうなだれるように下を向き、沈黙を守っているだけだった。
アークエンジェルのブリッジでは、マリューたちがシステム復旧を終え、ようやく安堵の息を漏らしていた。
『キラ君、ひで少尉、フラガ大尉、敵機の全滅を確認しました。ただちに艦へ帰還してください』
マリューの通信が入り、戦闘の終了が告げられる。
「了解した。これより帰還する」
ひではゼータプラスの姿勢を立て直し、アークエンジェルへの帰投コースに乗った。
機体はボロボロで、各部から火花が散っている状態だったが、なんとか飛行することは可能だった。
「キラ、戻るぞ」
ひでが声をかけると、ストライクはゆっくりと顔を上げ、ゼータプラスの後を追うように動き出した。
その動きは、先程の超人的な戦闘時のものとは別人のように、力なく、重苦しいものだった。
『……はい……』
通信回路から聞こえてきたのは、完全に生気を失った、虚ろな声だった。
ひでは、キラの繊細な心が今まさに悲鳴を上げ、限界を迎えようとしているのを痛いほど感じ取っていた。
同胞が殺された墓場で、その墓を荒らし、さらには同胞に引き金を引いたのだ。
彼の精神はすでに崩壊の淵に立たされている。
「……」
ひでは、慰めの言葉をかけるべきか迷った。
大人の優しさとして、彼を抱きしめ、よくやったと褒めてやるのが普通の対応だろう。
だが、ひではその言葉を飲み込んだ。
ここで甘やかせば、彼は必ず次の戦場でその優しさに足を掬われる。
泥臭いサバイバルを生き抜いてきた元自衛官としての本能が、それを強く警告していた。
「泣く暇があったら、自分の機体のチェックをしておけ」
ひではキラの心の崩壊を察知しながらも、敢えて突き放すように叫んだ。
戦場では、感傷に浸った瞬間に次の獲物にされるからだ。