第1章【ピンクの異物】
アークエンジェルの艦内に設定された人工的な夜が明けようとしていた。
薄暗かった照明が徐々にオレンジ色がかった朝の光を模した色温度へと変化し、無機質な金属の壁に温かみのある影を落とし始める。
空気循環システムの低い駆動音が、まるで巨大な獣の寝息のように一定のリズムを刻んでいた。
士官用の個室に備え付けられた簡素なベッドの上で、ひではゆっくりと重い瞼を押し上げた。
疲労は完全に抜けきってはいないが、数時間前までの鉛のように重く冷たい感覚は、嘘のように消え去っていた。
その最大の理由は、今も自身の腕の中で心地よさそうに寝息を立てている、温かな質量の存在だった。
鹿島の滑らかな肌の感触と、石鹸の微かな香りが、ひでの鼻腔をくすぐる。
昨夜、二人は互いの存在を確かめ合うように、幾度も肌を重ね、熱を交換し合った。
死と隣り合わせの宇宙空間で、狂気と絶望に押し潰されそうになっていたひでの心を、鹿島の真っ直ぐな想いと温もりが現世へと繋ぎ止めてくれたのだ。
「……ん……」
鹿島が小さく寝返りを打ち、ひでの広い胸にすり寄ってくる。
その無防備な顔には、過酷な戦場にいることなど微塵も感じさせない、深く穏やかな安堵が浮かんでいた。
ひでは彼女の艶やかな髪を優しく撫でながら、ふと自分の信条を思い返していた。
『しっかり食って、しっかり寝る、それが生きる秘訣』
元自衛官としての過酷な訓練や、これまでの修羅場を潜り抜けてきた中で、ひでが骨の髄まで叩き込まれた真理である。
どんなに絶望的な状況でも、腹を満たし、休息をとることで、人間は再び立ち上がる気力を生み出すことができる。
昨夜の鹿島との時間は、まさに魂の深い部分での「休息」
であり、生きるための活力を全身に漲らせる儀式でもあった。
ひでがそんなことを考えながら鹿島の寝顔を見つめていると、不意に部屋の端末が鋭い電子音を鳴らした。
『ひでさん。通信、入ってます』
スピーカーから響いてきたのは、ブリッジでオペレーターを務める香取の、どこか含みを持たせた声だった。
その音に驚き、鹿島がビクッと肩を震わせて目を覚ました。
「ひ、ひでさん……?今、香取姉さんの声が……」
寝起きのぼんやりとした頭で状況を把握しきれていない鹿島が、ひでの胸元にしがみつきながら上目遣いで尋ねてくる。
ひでは苦笑しながら、端末の音声ボタンだけをオンにした。
「悪いな、香取。起きてるぜ。何か緊急の事態か?」
『ええ、少し厄介な状況になっていまして。……ところで少尉、音声だけでも構わないのですが、念のためカメラもオンにしていただけますか?』
香取の言葉に、ひでは僅かに眉をひそめた。
「カメラ?別に顔を見合わせる必要のある報告じゃないだろ?」
『いえいえ、艦内の風紀を預かる身としては、少尉が「しっかり休息」をとられているか、この目で確認しておきませんと』
その言葉の裏にある明確な意図に気づき、ひでは思わず天を仰いだ。
隣でそのやり取りを聞いていた鹿島も、みるみるうちに顔を真っ赤に染めていく。
「か、香取姉さん……まさか、私たちが同じ部屋にいること……」
鹿島がパニックを起こしかけたその時、ひでの指が間違えてカメラの送信ボタンに触れてしまった。
端末の小さなモニターに、ブリッジの席でニヤリと笑う香取の顔が映し出されると同時に、こちらの状況も向こうに筒抜けになってしまった。
『あらあら……これはこれは。お見苦しいところを失礼いたしました、鹿島。……ふふっ、先日、私が少し取り乱してドジを踏んだのを、鹿島がここぞとばかりにからかってくれたこと、私しっかり覚えておりましてよ。これはその時のほんの意趣返しですわ』
香取の声には、隠しきれないからかいの色がたっぷりと滲んでいた。
『それにしても、昨夜は随分と遅くまで白熱した「作戦会議」をされていたようですわね。鹿島のその艶やかなお肌と乱れた髪を見れば、ひで少尉がどれほど情熱的で優秀な「教官」であったかが手にとるようにわかりますわ』
「ち、違います!これは、その……!香取姉さん、あの時のことそんなに根に持ってたんですかぁ!?」
鹿島は顔を真っ赤にして叫ぶと、恥ずかしさのあまりシーツを頭から被ってベッドの端へと丸まってしまった。
そんな彼女の愛らしい反応に、香取はさらに追い打ちをかける。
『ふふっ、冗談ですよ。あの地獄のようなユニウスセブンの宙域を抜けたのです。若いお二人が慰め合うのは、生物として当然の摂理ですから。それに、ひで少尉の顔色も昨日よりずっと良くなっているようですし、鹿島の献身的な看護の賜物でしょうね』
「おいおい、香取。朝っぱらからからかうのはその辺にしておいてくれ。
鹿島が茹でダコになっちまう」
ひでが呆れたようにため息をつきながら助け舟を出すと、香取は軽く咳払いをして表情を軍人モードへと切り替えた。
『失礼いたしました。本題に入ります。昨日、ユニウスセブンの宙域で回収したあの救命ポッドの少女……目を覚ましました』
その報告を聞き、ひでの目つきも一瞬にして鋭さを取り戻した。
「容態は?暴れたりしているのか?」
『いえ、それが……全く逆なんです。医務室での検査を終えて、現在はVIP用の個室に事実上軟禁しているのですが……』
香取はそこで言葉を濁し、困惑したように眉を寄せた。
『とにかく、一度直接見ていただいた方が早いかと。警備の兵たちが対応に苦慮しているようです。マリュー艦長やナタル少尉も向かっていますが、ひでさんにも同席をお願いします』
「了解した。すぐに向かう」
ひでが通信を切ると、シーツの中から鹿島が恐る恐る顔を出した。
「……香取姉さん、怒ってましたか?」
「いや、ただの冷やかしだ。気にするな。お前のからかい方がよっぽど堪えたんだろうさ」
ひでは笑いながら鹿島の頭をポンポンと撫で、ベッドから起き上がった。
「それより、厄介な客がお目覚めらしい。着替えて、まずは食堂へ行くぞ」
「え?VIPルームへ向かうのではないのですか?」
鹿島が不思議そうに首を傾げると、ひでは制服の袖を通しながらニヤリと笑った。
「俺のモットーを忘れたか?『しっかり食って、しっかり寝る、それが生きる秘訣』だ」
「どんな事態だろうと、腹が減ってちゃ戦はできねえ。さっと飯をかき込んでから現場に向かう。あいつにもそう叩き込んだはずだからな」
そのブレない姿勢に、鹿島は思わずふき出し、緊張でこわばっていた表情を綻ばせた。
「はいっ!すぐに準備します!」
十五分後、ひでと鹿島はアークエンジェルの食堂に足を踏み入れた。
艦内の水不足が解消されたことで、提供される食事も完全な固形レーションから、温かいスープやパンが添えられたものへと改善されていた。
それでも決して豪華とは言えないメニューだったが、ひではそれを黙々と、しかし実に美味そうに平らげていく。
「ひでさん、食べるの早いです……」
鹿島も彼に遅れまいと、支給された食事を口に運ぶ。
周囲を見渡すと、早朝のシフトを終えたクルーや、避難民の大人たちが疲れ切った顔で食事をとっていた。
誰もが、昨日のユニウスセブンでの惨劇を目の当たりにしたショックから抜け出せていない。
亡き同胞の墓場である残骸の海。
そこで行われたザフトとの血みどろの戦闘。
そして、その直後に保護された、敵国プラントの最高評議会議長シーゲル・クラインの娘、ラクス・クライン。
彼女の存在は、すでに艦内に知れ渡っており、食堂のあちこちから不安と怒りの混じったヒソヒソ話が聞こえてきていた。
「おい、聞いたかよ……あのポッドに乗ってた女、プラントのトップの娘らしいぞ」
「なんであんな奴が俺たちの船に乗ってんだよ!ヘリオポリスをぶっ壊した奴らの親玉の娘だろ!」
「殺されちまえばよかったんだ、あんな奴……」
重く、淀んだ空気が食堂全体を覆っている。
ひでは最後の一口を飲み込むと、乱暴に口元を拭って立ち上がった。
「ごちそうさん。さて、厄介事の確認と行くか」
「はい、私も同行します」
鹿島も食事を終え、真剣な表情でひでの後に続いた。
二人が居住区画の奥にあるVIPルームの前に到着すると、そこにはすでに異様な光景が広がっていた。
「ハロー!ハロー!ゲンキ?ゲンキ?」
「な、なんだこいつは……!?ちょ、ちょっと待ってくれ!」
「おい、押さえるな!壊したらどうするんだ!」
通路を跳ね回るピンク色の球体型ロボット――ハロ。
それを追いかけて右往左往しているのは、アサルトライフルで武装したアークエンジェルの警備兵たちだった。
そして、その騒ぎの中心には、ふわふわとしたピンク色の髪を揺らし、華やかなドレスを身に纏った少女が立っていた。
ラクス・クラインである。
「うふふふっ、ピンクちゃん、そんなに急いだら皆様が困ってしまいますわ」
鈴を転がすような、あまりにも場違いで無邪気な笑い声。
彼女の周囲だけ、まるで春の陽だまりのような、緊迫感とは無縁の空気が漂っていた。
警備兵の一人が、額に汗を浮かべながらラクスを部屋に押し戻そうとする。
「あ、あの!困ります、勝手に部屋から出られては……!部屋の中に戻ってください!」
「あら?どうしてですの?私はただ、このお船の中を少しお散歩したいだけですわ」
ラクスは全く悪びれる様子もなく、不思議そうに首を傾げる。
「ここは軍艦なんです!あなたは、一応……その、保護されている身ですから……」
警備兵の言葉に、ラクスは彼らが手にしているアサルトライフルに目を向けた。
「まあ。皆様、とても物騒なものを持っていらっしゃいますのね。平和なフネではありませんの?」
その言葉を聞いた瞬間、ひでのこめかみにピキリと青筋が立った。
「平和なフネ、だと……?」
ひでは低い声で呟くと、ズカズカと警備兵たちを掻き分けてラクスの前へと歩み出た。
「ひでさん……!」
鹿島が制止する間もなく、ひではラクスの目の前に立ち塞がり、その大きな影で彼女を覆い隠した。
「お嬢ちゃん。寝ぼけたことを言ってんじゃねえぞ」
突然現れた大柄な男の凄みに、ラクスはわずかに目を丸くしたが、恐怖の色は全く見せなかった。
「あなたは……?」
「ここは平和な客船なんかじゃねえ。いつ沈むかもわからない、血と硝煙にまみれた最前線の軍艦だ。お前の親父さんたちが差し向けた軍隊から、死に物狂いで逃げ回っている真っ最中なんだよ」
ひでの言葉は、容赦のない事実の羅列だった。
しかし、ラクスはそれを聞いても、まるで遠い国の御伽噺を聞いているかのような、ピンときていない表情を崩さない。
「まあ……そうでしたの。それは大変ですわね。でも、お話の仕方が少し乱暴ではありませんこと?」
その浮世離れした態度は、ひでの神経を逆撫でするには十分すぎるものだった。
(なんだこの嬢ちゃんは。自分がどういう状況に置かれているか、全く理解してやがらねえ)
ひでは奥歯を強く噛み締めた。
彼が自衛官時代に見てきた戦場の子供たちは、もっと怯え、絶望し、生きることに必死だった。
しかし、目の前の少女からは、戦争の悲惨さや死の恐怖といった「現実の重み」が一切感じられないのだ。
それが、コーディネイターのトップ層という温室で育ったゆえの無知なのか、それとも狂気にも似た純粋さなのか、ひでには判断がつかなかった。
「お前がどう思おうが勝手だがな、ここはお前が散歩していいような場所じゃない。大人しく部屋の中に引っ込んでろ」
ひでが腕組みをして睨みつけると、ラクスは少しだけ寂しそうな顔をした。
「せっかく、皆様とお友達になれるかと思いましたのに……残念ですわ」
その時、ひでの背後で、押し殺したような嗚咽と、怒りに満ちた声が聞こえた。
「……ふざけ、ないでよ」
ひでが振り返ると、通路の角の影から、避難民の子供たちや大人たちが、憎悪と恐怖の入り混じった目でこちらを睨みつけていた。
彼らの多くは、ヘリオポリス崩壊の際に家を失い、家族を失い、昨日もユニウスセブンの残骸の中で地獄を見た者たちだ。
その彼らの目の前で、自分たちの故郷を焼いた敵国の、しかもそのトップの娘が、何一つ傷つくことなく「平和なフネではありませんの?」などと呑気なことを言っているのだ。
それがどれほど彼らの心をズタズタに引き裂く暴力であるか、ラクスは全く理解していない。
「ひでさん……皆さんの様子が……」
鹿島が緊迫した空気を察知し、ひでの袖を強く引いた。
これ以上、この無邪気すぎるVIPを彼らの目に晒しておくのは危険だ。
悪意のない言葉が、時として悪意よりも深く人を傷つけることを、ひでは痛いほど知っていた。
「おい、警備の連中。ボーっとしてねえで、さっさとこの嬢ちゃんを中に入れろ。ハロとかいうおもちゃも回収だ」
ひでが鋭く命令すると、警備兵たちはハッとしてラクスをVIPルームへと促した。
「さ、さあ、中へ!お願いしますから!」
「わかりましたわ。ピンクちゃん、戻りますわよ」
ラクスが部屋の中に消え、重い金属の扉が閉まると、通路には再び重苦しい沈黙が降りた。
ひでは遠巻きに見ている避難民たちを一瞥すると、深くため息をついた。
「……やれやれ。とんでもない爆弾を拾い上げちまったな」
アークエンジェルの艦内に、ザフトの追撃とはまた違う、内側からの崩壊を予感させる不穏な火種が、確実にばら撒かれた瞬間であった。
VIPルームの重い金属扉が閉ざされ、ラクス・クラインの姿が見えなくなっても、通路に澱んだ空気は一向に晴れる気配を見せなかった。
むしろ、目に見える標的が消えたことで、避難民たちの行き場のない怒りと恐怖は、どす黒いマグマのように足元でくすぶり続けているようだった。
ひでは、遠巻きにこちらを睨みつけている避難民たちを一瞥した。
彼らの瞳には、明らかな憎悪が宿っている。
それは、自分たちの故郷を焼いたコーディネイターという存在そのものへの憎悪であり、同時に、その元凶の娘を安全な部屋で手厚く保護している地球軍への不信感でもあった。
また、飢え、疲労、そしていつ死ぬかもしれないという圧倒的な恐怖。
それらが限界を超えた時、人は最も身近で、反撃してこない弱者をスケープゴートに仕立て上げて、自己の精神を保とうとするのだ。
今のこのアークエンジェル艦内の状況は、まさにその一歩手前の危険水域に達していた。
「ひでさん……皆さんの目が……とても怖いです」
鹿島が不安そうに身を寄せ、ひでの制服の袖をきつく握りしめる。
彼女もまた、この張り詰めた空気の異常さを肌で感じ取っていた。
「気にするな。あいつらもギリギリなんだよ。だが、ここで俺たちが怯んだら、それこそ一気に暴発するぞ」
ひでは鹿島にだけ聞こえるような低い声でそう言うと、わざと大きな足音を立てて通路の中央へと歩み出た。
その堂々とした体躯と、歴戦の兵士だけが放つ圧倒的な威圧感の前に、避難民たちは気圧されたように一歩、また一歩と後退していく。
「見世物じゃねえんだ。用がねえならとっとと自分の区画に戻りな。それとも、まだこの殺風景な通路で突っ立ってる気か?」
ひでが鋭い声で威嚇するように告げると、避難民たちは互いに顔を見合わせ、逃げるようにして蜘蛛の子を散らすようにそれぞれの居住区画へと戻っていった。
通路に再び静寂が戻り、ひでが小さく安堵の息を吐き出そうとした、まさにその時だった。
「ちょっと待って!今の、本当なの!?」
通路の奥から、静寂を切り裂くようなヒステリックな甲高い声が響き渡った。
ひでと鹿島が驚いて振り返ると、そこには燃えるような赤い髪を振り乱し、血相を変えて駆け込んでくる少女の姿があった。
フレイ・アルスターである。
その後ろからは、サイ・アーガイル、トール・ケーニヒ、ミリアリア・ハウ、カズイ・バスカークといった、ヘリオポリスの学生たちが、必死の形相で彼女を追いかけてきていた。
「フレイ、待ってよ!勝手に飛び出したりしちゃダメだってば!」
サイが息を切らしながらフレイの腕を掴もうとするが、フレイはそれを乱暴に振り払った。
彼女の目は異常なほどに血走り、肩で荒い息を繰り返している。
その様子は、明らかに正常な精神状態を逸脱していた。
「放してよサイ!さっき食堂で大人たちが話してるのを聞いたわ!この船に、あのザフトの……プラントのトップの娘が乗ってるって!」
フレイは警備兵たちの前に立ちはだかり、固く閉ざされたVIPルームの扉を憎々しげに指差して金切り声を上げた。
「あの中にいるんでしょ!?ねぇ、そうなんでしょ!?」
警備兵たちは顔を見合わせ、困惑したように後ずさりする。
民間人の、しかも年端もいかない少女に銃口を向けるわけにもいかず、彼らは対応に完全に苦慮していた。
「あ、いや……それは我々の口からは……」
「隠したって無駄よ!ヘリオポリスをあんなにした奴らの仲間が、どうして私達と同じ船にいるのよ!」
フレイの怒声は、通路の奥に消えかけていた避難民たちの足を再び止めさせた。
彼らは物陰から、フレイの行動を息を潜めて見守っている。
フレイの叫びは、彼らが口に出せなかった本音そのものであったからだ。
「フレイ、落ち着けよ!今は軍の人たちに任せて……」
トールが宥めようと前に出るが、フレイは両手で頭を抱え込むようにして、さらに声を荒らげた。
「落ち着いてなんかいられないわよ!パパは……パパが乗ってる第8艦隊の先遣隊は、まだ合流できてないのよ!もし、この船にその女がいるってザフトにバレたら、絶対にここを攻撃してくるわ!そうしたら私たち、パパに会う前に死んじゃうじゃない!」
フレイの言葉には、自分勝手な響きがあったが、同時にそれがこの過酷な状況下における彼女なりの「生存への恐怖」の裏返しであることを、ひでは理解していた。
彼女にとって、ヘリオポリスの崩壊は自分の日常を理不尽に奪い去った絶対的な悪であり、ザフトはその象徴だった。
そして今、その悪の親玉の娘が、自分の命を脅かす存在としてすぐ隣にいるのだ。
「お願いだから、その子をここから追い出してよ!宇宙に放り出せばいいじゃない!そうすれば、ザフトだって攻撃してこないわよ!」
あまりにも残酷で、直接的なフレイの言葉に、サイやミリアリアたちは絶句した。
いくら敵の娘とはいえ、同じ年頃の少女を宇宙空間に放り出すということは、すなわち死を意味する。
平和なコロニーで育ってきた彼女の口から、そんな恐ろしい言葉が飛び出すとは、誰も想像していなかったのだ。
「フレイ……いくらなんでも、それは……」
ミリアリアが青ざめた顔で呟く。
ひでが舌打ちをして、これ以上騒ぎを大きくさせまいとフレイの前に進み出ようとした、その瞬間だった。
プシュッ……。
無慈悲な電子音と共に、固く閉ざされていたはずのVIPルームの重い扉が、ゆっくりと横にスライドして開いたのだ。
ロックはかかっていたはずだが、内部からの何らかの操作によって解除されたらしい。
そして、開いた扉の隙間から、ふわふわとしたピンク色の髪を揺らし、華やかなドレス姿のラクス・クラインが、不思議そうな顔をして通路へと顔を出してしまった。
「あら?まあ、随分と外が騒がしいですわね。何か楽しい催し物でもやっているのかしら?」
その鈴を転がすような、あまりにも場違いで無邪気な声が通路に響き渡った瞬間、周囲の空気は文字通り氷点下まで凍りついた。
フレイは、目の前に現れた少女を、まるで恐ろしい化け物でも見るかのように見開かれた目で見つめた。
「あなた……が……?」
フレイの口から、掠れた声が漏れる。
自分たちは着の身着のままで逃げ出し、何日も風呂にすら入れず、いつ死ぬかもしれない恐怖に震えながら、固くて味気ないレーションを齧って命を繋いでいるというのに。
目の前の少女は、塵一つ付いていないような美しいドレスを纏い、まるでティータイムの途中で少しだけ外の様子を窺いに来たかのような、平和ボケした無防備な姿だったのだ。
その圧倒的な「不平等」と「無理解」が、フレイの脳裏に、平和だったヘリオポリスの日常が音を立てて崩れ去っていく映像を、鮮明にフラッシュバックさせた。
業火に包まれて崩壊していくコロニーの居住区。
瓦礫の下敷きになっていく見慣れた街並み。
逃げ惑う人々の悲鳴と、吹き飛ばされて宇宙の塵となっていく友人たちの姿。
そして、昨日ユニウスセブンの残骸の中で見た、無数の氷漬けにされた死体。
それら全ての惨劇の元凶が、この少女の父親たちの下した命令なのだという事実。
「……どうして」
フレイの両拳が、血が滲むほどに固く握りしめられる。
「どうして……どうしてあいつが、この船にいるのよ!」
フレイの叫びは、もはや怒りというよりも、魂の底から絞り出された悲鳴だった。
その悲痛な響きに、サイたちも言葉を失い、ただ立ち尽くすことしかできない。
「あ、あの……わたくし、何か皆様のお気に障るようなことをしてしまいましたか?」
ラクスはフレイの凄まじい剣幕に驚きつつも、その憎悪の理由が全く理解できていない様子で、不思議そうに小首を傾げた。
その悪びれない、純粋すぎる無知な反応が、フレイの中で辛うじて繋がっていた理性の糸を、完全に焼き切ってしまった。
「ふざけないでよ!あんたたちが、あんたたちの仲間が、私たちの街をめちゃくちゃにしたんじゃない!」
フレイは両手で頭を抱え、半狂乱になって叫ぶ。
「パパに買ってもらったお気に入りの服も、大事にしてたアクセサリーも、いつも通ってたカフェも……全部、全部燃えちゃったのよ!どうしてあんたはそんな綺麗な服を着て、呑気に笑ってられるのよ!」
「フレイ、落ち着いて!彼女は直接僕たちを攻撃したわけじゃないんだ!」
サイが慌ててフレイの肩を掴み、必死に宥めようとする。
しかし、今のフレイには、どんな正論も、友人の声すらも耳に入らなかった。
「触らないで!彼女のパパが命令したんでしょ!だったら同じよ!人殺しの娘なのよ!」
フレイはサイを力任せに突き飛ばすと、目を吊り上げてラクスへと歩み寄る。
「出てってよ!あんたたちのせいで、私たちはこんな目に遭ってるのよ!あんたなんか、さっさと宇宙に放り出されればよかったのに!」
「……っ!」
ラクスは、生まれて初めて向けられる明確な殺意と、肌を刺すような生々しい憎悪の感情に、思わず顔を強張らせて一歩後ずさった。
彼女の足元で、ピンク色のハロが「アブナイ!アブナイ!」
と間の抜けた電子音を鳴らしながら転げ回る。
「フレイ、やめろって!それ以上はダメだ!」
トールやカズイも慌てて止めに入ろうとするが、恐怖と怒りでリミッターが完全に外れてしまったフレイの力は思いのほか強く、彼らの手をいとも簡単にすり抜けてしまった。
「あんたなんて、死んじゃえばいいのよ!」
フレイは両手を大きく振り上げ、牙を剥き出しにした獣のようにラクスへ向かって突進した。
その鋭く伸びた爪が、ラクスの白い滑らかな頬を無残に引き裂こうとした、まさにその刹那。
ガシッ!!
鈍く、重い音が通路に響いた。
フレイの突進は、まるで分厚いコンクリートの壁に激突したかのように、完全に空中で停止させられた。
背後から伸びてきた、丸太のように太く分厚い腕が、フレイの華奢な身体を背後からガッチリと抱え込み、完璧に拘束したのだ。
「ひいっ……!?」
突然の圧倒的な強い力に、フレイは短い悲鳴を上げて暴れようとする。
しかし、その太い腕はまるで鋼鉄の万力のようにビクともせず、彼女の動きを完全に封じ込めていた。
「……そこまでにしておけ、お嬢ちゃん」
頭上から降ってきたのは、地鳴りのように低く、そして恐ろしいほどに冷徹な男の声だった。
フレイが恐る恐る背後を振り返ると、そこには鬼のような形相をしたひでが、巨大な壁のように立っていた。
その瞳には、先程まで鹿島に向けていたような温かさや余裕は微塵もなく、戦場で数え切れないほどの死線を潜り抜けてきた、生粋の兵士としての凍りつくような威圧感が満ちていた。
「ひ、ひでさん……!」
サイやミリアリアたちが、ひでの放つ圧倒的なプレッシャーに息を呑み、恐怖で立ちすくむ。
「放して……!放してよ!なんで止めるの!こいつは敵よ!私たちの街を焼いた人殺しの娘なのよ!」
フレイは涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、ひでの太い腕の中でもがき、足掻き続ける。
「いい加減にしろ!」
ひでの一喝が、雷鳴のように艦内に響き渡った。
その凄まじい声量と気迫に、暴れていたフレイもビクッと身体を震わせ、通路の奥で様子を見ていた避難民たちも一斉に息を潜めた。
ひでは暴れるフレイを軽々と片腕で抱え込んだまま、静かに、しかし有無を言わさぬ厳しい声で言い放った。
「いいか、よく聞け。俺はお前たちの怒りも、憎しみも、否定する気はねえ。ヘリオポリスを焼かれた恨みは、当然持つべき感情だ」
ひでは鋭い鷹のような視線で、通路に集まった子供たち、そして大人たちを一人一人睨みつけた。
「だがな、武器を持たねえ民間人……ましてや何も知らない小娘一人に、集団で寄ってたかってリンチをかけるような真似は、俺が絶対に許さねえ」
「な、なんでよ……!こいつは……」
「お前ら、自分が何をやろうとしていたか分かってんのか?」
ひではフレイの言葉を遮り、さらに強い口調で畳み掛ける。
「憎い敵の身内だからって、こんな子供を八つ裂きにして宇宙に捨てるか?それでお前らの死んだ家族や友達が喜ぶとでも思ってんのか?」
その言葉は、彼らの心に突き刺さる鋭く重い刃だった。
大人たちは気まずそうに目を伏せ、サイやトールたちも唇を噛み締めて顔を背ける。
「俺たちは軍人だ。戦場で敵のモビルスーツと殺し合うのが仕事だ。だが、それは民間人を守るためであって、丸腰のガキを盾にしたり、憂さ晴らしのサンドバッグにするためじゃねえんだよ」
ひではそこで言葉を切り、腕の中で泣きじゃくるフレイを静かに見下ろした。
「……お嬢ちゃん。お前の家が焼けたのも、友達が死んだのも、全部事実だ。お前がこいつを憎むのは当然だ」
ひでの声のトーンが、ほんの少しだけ柔らかくなる。
そこには、大人として子供たちを守れなかったことへの、彼なりの深い自責の念が込められていた。
「だがな、その怒りに任せてこいつを傷つければ、お前はただの人殺しになる。お前たちから全てを奪った、ヘリオポリスを焼いた連中と、同じ穴の狢に成り下がるんだ。お前の親父さんは、そんな娘の姿を見たいと思うか?」
「……う、うわああぁぁぁんっ!」
父親の言葉を出され、フレイはついに堪えきれなくなり、ひでの太い腕にすがりついて大声を上げて泣き崩れた。
彼女も本当は分かっていたのだ。
目の前の少女に直接の罪がないことも、彼女を傷つけたところで死んだ人々が生き返るわけではないことも。
ただ、どこにもぶつけようのない巨大な恐怖と絶望を、誰かにぶつけずには、自分の精神を保つことができなかっただけなのだ。
鹿島が静かに歩み寄り、泣き崩れるフレイの背中を優しく撫でる。
「大丈夫です……泣いてもいいんです。今は、たくさん泣いてください」
鹿島の温かく寄り添うような声に、フレイの泣き声はさらに大きくなった。
サイやミリアリアたちも、痛ましい表情でフレイの周りに集まり、彼女を慰めるように肩を抱く。
ひではそんな子供たちの姿を、苦々しい思いで見つめていた。
そして、未だに事態の深刻さを完全に呑み込めていない様子で、戸惑ったように立ち尽くしているラクスへと視線を向ける。
「……おい、そこのお嬢ちゃん」
ひでが低い声で呼びかけると、ラクスはビクッと肩を震わせた。
「お前が温室育ちの世間知らずだろうが、平和ボケしていようが、俺はどうでもいい」
ひでは一歩だけラクスに近づき、その大きな手で彼女の横の金属の壁をドンと叩いた。
「だがな、お前のその『何も知らない』って顔が、ここにあるどれだけの傷を無神経にえぐっているか、少しは想像してみろ。ここは、お前の綺麗事や無邪気さが通用する場所じゃねえんだ」
「……」
ラクスは何も答えられず、ただ大きな青い瞳でひでの厳しい顔を見つめ返すだけだった。
彼女の心の中に、初めて「自分が無自覚に他者を深く傷つけているかもしれない」
という、未知の戸惑いと痛みが生まれた瞬間だったかもしれない。
「警備の連中、今度こそこの嬢ちゃんを一歩も外に出すな。扉には厳重に鍵をかけろ。もしまた外に出たら、責任者はお前らだぞ。分かったな?」
ひでが警備兵たちに鋭く命令を下すと、彼らは弾かれたように敬礼し、慌ててラクスを部屋の中に押し戻し、分厚い金属の扉をガチャンと重い音を立てて完全にロックした。
通路に集まっていた避難民たちも、ひでの放つ気迫と正論に完全に押されるように、一人、また一人と無言でその場を立ち去っていく。
後には、鹿島に慰められながら泣き続けるフレイと、それを沈痛な面持ちで見守る学生たちだけが残された。
ひでは壁に深く寄りかかりながら、無意識にポケットからタバコを取り出そうとして、艦内が禁煙であることを思い出し、小さく舌打ちをした。
ヘリオポリスの崩壊から始まり、砂漠のような水不足の危機、そしてユニウスセブンでの血みどろの惨劇。
次々と襲いかかる過酷な状況は、訓練を受けた軍人でさえも正気を保つのが難しいほどだ。
ましてや、つい数日前まで平和な学生生活を送っていた彼らにとって、その重圧とストレスは計り知れないものだろう。
(……フレイの奴だけじゃない)
ひでは、自室で休んでいるであろうキラの顔を思い浮かべる。
キラもまた、自らの意志とは関係なくガンダムに乗せられ、かつての親友であるアスランと殺し合いをさせられている。
その心は、今この瞬間も悲鳴を上げ、少しずつ、しかし確実に擦り減っているはずだ。
狂った戦争のストレスが、子供たちの心を確実に蝕み始めているのを、ひでは肌で感じ取っていた。