フレイの悲痛な叫びと、それを力でねじ伏せざるを得なかったひでの苦渋の決断から少し時間が経過した。
アークエンジェルの艦内は、相変わらずの重苦しい空気に包まれていた。
避難民たちの居住区画からは人の気配が薄れ、それぞれが与えられた狭いスペースで、押し殺したように息を潜めている。
ひでは一人、士官用の通路から外れ、ヘリオポリスの学生たちが身を寄せている区画へと足を向けていた。
彼の足取りは、いつもの力強い響きとは違い、どこか重く、躊躇いがちであった。
向かっている先は、ストライクガンダムの専任パイロットとして、事実上この艦の命運を一人で背負わされている少年、キラ・ヤマトの私室である。
簡素な金属の扉の前に立つと、ひでは小さく息を吐き出し、乱暴に頭を掻いた。
まだ十代の、本来なら戦いとは無縁の平和な世界で生きるべき子供を戦場に立たせ、あまつさえ人殺しを強要することは、ひでの奥底にある最も触れられたくない倫理観をひどく逆撫でするものだった。
ひでは迷いを振り切るように、扉の横のコールボタンを押した。
「……キラ。俺だ、ひでだ」
部屋の中から返事はなかった。
しかし、扉のロックは解除されているらしく、電子パネルは緑色に点灯している。
ひでは意を決して扉を開け、薄暗い部屋の中へと足を踏み入れた。
部屋の隅にある粗末なベッドの上で、キラは膝を抱えるようにしてうずくまっていた。
照明は落とされ、モニターの微かな光だけが彼の青白い横顔を照らしている。
キラの身体は、まるで極寒の雪原に放り出されたかのように、小刻みに、しかし絶え間なく震え続けていた。
彼の両手は、自分の腕を強く抱きしめ、何か恐ろしいものから逃れようとするかのように固く組み合わされている。
「……」
ひでは無言のまま、部屋に備え付けられたパイプ椅子を引き寄せ、キラのベッドの傍らにどっかりと腰を下ろした。
静寂が、二人の間に重く横たわる。
キラの耳には、今もあの恐ろしい音がこびりついて離れないのだ。
ユニウスセブンの無惨な残骸の海。
怒り狂って襲いかかってきたザフトのジン。
ビームサーベルが敵機の装甲を溶かし、コックピットを焼き尽くす瞬間の、あの断末魔の叫びと、命が消滅する生々しい感触。
『コーディネイターの裏切り者がぁっ!』
通信機越しに響いたあの呪詛の声が、キラの脳髄で無限にループし、彼の精神を内側からズタズタに引き裂いていた。
同胞を殺した。
自分が生き残るために、友人たちを守るために、自分と同じ遺伝子を持つ見知らぬ誰かの命を、この手で完全に終わらせてしまった。
その事実が、キラの人間としての根源的な部分を破壊し始めていた。
「……すまなかったな」
重い沈黙を破ったのは、ひでの低く、かすれた声だった。
キラはビクッと肩を震わせ、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳は虚ろで、焦点が定まっておらず、ひどく怯えた色を浮かべている。
「あの時、お前に引き金を引くよう強要して」
ひでは自分の両手を膝の上で組み、深く頭を垂れたまま言葉を紡ぐ。
「俺は本来、子供に銃を持たせたり、戦場に立たせたりするような真似は、反吐が出るほど嫌いなんだ。大人のエゴでお前たち子供の未来を奪う奴らと戦うために、俺は軍人になったようなもんだからな」
ひでの声には、隠しきれない激しい自嘲と、深い後悔が滲んでいた。
「だが、現実はどうしようもなくクソッタレだ。俺たち大人が不甲斐ないせいで、お前たちを守り切れないせいで、お前をあの機体に乗せちまってる。大人の尻拭いを、お前みたいな子供に押し付けている」
キラは何も言わず、ただひでの言葉をじっと聞いている。
「昨日、お前が敵を討つのを躊躇った時、俺はお前に『撃て』と怒鳴った。お前のその優しい心を踏みにじって、無理やり人殺しに仕立て上げたのは、他の誰でもない、俺だ」
ひでは顔を上げ、キラの虚ろな瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「だがな、キラ。それでも俺は、あの時お前に撃たせなきゃならなかった」
ひでの声が、わずかに強さを帯びる。
「戦わなきゃ、この船は沈む。お前の友達も、あの避難民の子供たちも、皆宇宙の塵になって死ぬ。俺たちが生き残るためには、襲ってくる奴は全て討ち果たさなきゃならないんだ。それが、この狂った世界で生き残るための、唯一で残酷なルールだ」
その言葉は、キラの優しさを真っ向から否定する冷酷な真実だった。
しかし、ひでは決してそこから目を逸らすことは許さなかった。
「お前は優しい。敵であっても、人の命を奪うことに耐えられない。それは、人間として絶対に失っちゃいけない正しい感情だ」
ひでは組み合わせていた手を解き、キラの震える肩に、その大きな手をそっと置いた。
その手はひどく温かく、そして力強かった。
「だから……俺が、お前に『戦え』と命令する」
「ひで、さん……?」
キラの口から、掠れた声が漏れる。
「お前がこれから戦場で命を奪うのは、全部俺の命令だ。お前はただの兵器として、俺の指示に従っただけだと思え。お前が手を下した命の重さも、その罪悪感も、全部俺の責任にしてくれて構わない」
ひでは、キラの目を逸らさずに、一言一言を魂に刻み込むように語りかける。
「『あのヒゲのオッサンに脅されて、仕方なくやったんだ』……そうやって、俺が全部悪いことにしてくれて構わないんだ」
それは、ひでがキラに提示できる、不器用で、泥臭く、しかし最大の優しさだった。
キラの心を押し潰そうとしている「人殺しの罪悪感」を、ひでが全て肩代わりして背負うという明確な宣言。
大人として、せめて子供の心を守るための、彼なりの防波堤であった。
「……そんなの」
キラの瞳から、大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちた。
「そんなの……ずるいですよ。ひでさんだって、苦しいのに……僕だけ、逃げるなんて……」
「馬鹿野郎。大人はな、子供の苦しみを背負ってやるために存在してるんだ。俺の背中は、お前の罪くらい軽く背負えるほど広いつもりだぜ」
ひではわざとらしくニヤリと笑い、キラの頭をガシガシと乱暴に撫で回した。
「わかってくれたら、これは俺からの絶対の『命令』だ。今すぐそのベッドから起きて、食堂に行ってメシを食ってこい」
ひでは立ち上がり、キラを見下ろした。
「しっかり食って、しっかり寝る。それが、こんな地獄を生き抜くための唯一の秘訣だ。腹が減ってちゃ、泣く気力も湧いてこないだろうが」
その言葉に、キラは袖で乱暴に涙を拭い、小さく、しかしはっきりと頷いた。
「……はい」
「よし。俺はブリッジに戻る。ナタルの奴が、またおっかない顔で俺を探してる頃だろうからな」
ひではそう言い残すと、背中越しに軽く手を上げ、足早に部屋を後にした。
扉が閉まり、再び部屋に静寂が戻ったが、先程までの凍りつくような孤独感は薄らいでいた。
キラはゆっくりとベッドから降り、まだ少し震える足に力を込めて立ち上がった。
ひでが背負ってくれた重みのおかげで、彼は辛うじて、再び前を向いて歩き出す気力を取り戻すことができたのだ。
キラが部屋を出て、居住区画の通路を歩いていくと、徐々に人々のざわめきが聞こえてきた。
食堂に近づくにつれて、その声は大きく、そしてどこか切羽詰まったような響きを帯びているのがわかった。
キラが食堂の入り口に足を踏み入れると、そこには異様な光景が広がっていた。
「だから!僕には無理だって言ってるだろ!」
「お願いだよ、カズイ!他に頼める人がいないんだってば!」
食堂の中央で、警備兵の一人がカズイにすがりつくようにして頼み込み、カズイが必死にそれを拒否している。
その横のテーブルでは、ミリアリアやトール、サイが困惑した表情で座っており、さらにその奥には、サイの肩に寄りかかって虚ろな目をしているフレイの姿があった。
フレイは先程の騒ぎでひでに一喝された後、完全に精気を失い、まるで糸の切れた操り人形のように座り込んでいる。
「何があったの?」
キラが近づいて声をかけると、カズイたちは弾かれたように振り返った。
「あ、キラ!お前、起きて大丈夫なのか?」
サイが気遣わしげに声をかけてくるが、それよりも先に警備兵がキラの方へと駆け寄ってきた。
「君、パイロットのヤマト君だね!頼む、君からも彼らを説得してくれないか!」
「説得って……一体何の話ですか?」
キラが不思議そうに首を傾げると、警備兵は手にした食事のトレイを困ったように掲げてみせた。
そこには、温かいスープとパン、それにフルーツの缶詰が乗せられている。
「実は……VIPルームに軟禁している、あのプラントの議長の娘のことなんだが……」
警備兵が声を潜めて、周囲を気にしながら説明を始める。
「食事の時間が来たんだが、避難民の誰一人として、あの子に食事を運ぼうとしないんだ。当然といえば当然だが……」
「兵士の僕らが行ってもいいんだが、あの子、僕らが銃を持っているのを見ると、不思議そうな顔をして首を傾げるだけで、全く話が通じないんだ。それに……」
警備兵はチラリと、虚ろな目をしているフレイの方を見た。
「さっき、あそこで座ってる女の子が半狂乱になって襲いかかろうとした事件があってね。ひで少尉に止められて事なきを得たが、艦内の空気は最悪だ」
「僕らが下手に刺激して、またあの子が外に出ようと騒ぎ出したら、今度こそ避難民が暴動を起こしかねない。だから、同じ学生である君たちなら、少しは警戒されずに済むかと思って……」
警備兵の言葉に、カズイが苛立ったように声を荒げた。
「だからって、なんで俺たちが敵の親玉の娘の世話をしなきゃならないんだよ!フレイのあの状態を見ろよ!今、俺たちがあの女に近づいたら、フレイがどうなるか……!」
カズイの言う通りだった。
今、このヘリオポリスの学生たちのグループの中で、ラクス・クラインの存在は完全なタブーとなっていた。
フレイの傷ついた心に寄り添うためには、ラクスを徹底的に「敵」として排斥するしかない。
そんな空気が、彼らを縛り付けていた。
「それはわかるが……このまま絶食させるわけにもいかないんだ。軍の規定で、捕虜であっても人道的な扱いは……」
警備兵がしどろもどろになっていると、不意に、横からスッと手が伸びてきて、その食事のトレイを奪い取った。
「……僕が行きます」
その声に、食堂にいた全員の視線がキラに集まった。
「キ、キラ!?」
サイが驚いて立ち上がる。
「お前、何言ってんだよ!わかってるのか、相手はザフトの……」
「わかってるよ。でも、このままじゃ困るんでしょ?」
キラはトレイを持ったまま、無理に作ったような作り笑いを浮かべた。
「それに……彼女はコーディネイターだ。だったら、同じコーディネイターである僕が行くのが、一番自然じゃないかな」
「……っ」
『同じコーディネイター』
という言葉が出た瞬間、サイたちの中に一瞬だけ、気まずい沈黙が落ちた。
彼らは普段、キラが自分たちとは違う人種であることを意識しないように努めている。
しかし、こういう決定的な場面において、その越えられない壁が冷酷なまでに浮き彫りになってしまうのだ。
キラ自身も、そのことを痛いほど自覚していた。
だからこそ、彼は自らその役割を買って出たのである。
自分は、彼ら「ナチュラル」とは違う。
ヘリオポリスを焼き、ユニウスセブンで殺し合ったザフト軍と同じ、遺伝子を操作された存在なのだから。
「助かるよ、ヤマト君……恩に着る」
警備兵がホッとしたように息を吐き、キラにVIPルームへのパスカードを手渡す。
「キラ……」
トールやミリアリアが何かを言おうとしたが、キラはそれに小さく首を振って答え、食堂の奥にあるVIPルームへと歩き出した。
背中に突き刺さるような友人たちの視線と、フレイの冷たく虚ろな視線を感じながら。
居住区画の最奥、物々しい警戒が敷かれたVIPルームの前に到着すると、見張りの兵士がキラの顔を見て小さく頷いた。
「ご苦労。中は全く音がしないが……気をつけてな」
兵士がロックを解除すると、重い金属の扉が低い駆動音を立ててゆっくりとスライドしていく。
キラは小さく深呼吸をして、食事のトレイを両手でしっかりと持ち直し、部屋の中へと足を踏み入れた。
部屋の中は、驚くほど静かだった。
窓に見立てた壁面の巨大なモニターには、果てしなく広がる宇宙の暗闇と、無数の星々が映し出されている。
そして、そのモニターの前に、フワフワとしたピンク色の髪を揺らしながら、一人で外をじっと見つめている少女の背中があった。
「あの……」
キラが声をかけると、少女の足元にいたピンク色の球体ロボットが反応した。
「ハロ!ハロー!オキャクサン!オキャクサン!」
その声に、少女はゆっくりと振り返った。
ラクス・クライン。
プラントの最高評議会議長シーゲル・クラインの娘であり、この戦争の元凶とも言える存在の血を引く少女。
しかし、振り返った彼女の大きな青い瞳には、敵意も、恐怖も、そして罪悪感すらも全く存在しなかった。
ただ、純粋な好奇心と、柔らかな光だけが宿っている。
「まあ。お客様ですの?」
鈴を転がすような、どこまでも透き通った声。
それは、キラがこれまで戦場で見聞きしてきた怒号や悲鳴、金属が軋む音とは全く違う、ひどく平和で甘い響きを持っていた。
キラは一瞬だけ言葉に詰まり、トレイを持ったまま立ち尽くしてしまう。
先程ひでから「自分が責任を持つ」と言われたことで少しだけ心が軽くなっていたはずなのに、目の前にいる無垢な存在を直視した瞬間、再び自分の手がひどく血に濡れているような錯覚を覚えたのだ。
「お食事、お持ちしました……」
キラはどうにか声を絞り出し、部屋に備え付けられた小さなテーブルへと歩み寄った。
「ありがとうございます。皆様、とてもお忙しそうですのに、ご親切にどうも」
ラクスはふんわりと微笑み、上品な所作でテーブルの席に着く。
彼女が全く自分を疑っていないことに、キラは逆に戸惑いを感じていた。
自分が、彼女の同胞であるザフトのパイロットを何人も焼き殺してきた人間だというのに。
「……怖くないんですか?」
トレイを置き、背を向けて立ち去ろうとしたキラの口から、無意識のうちにそんな言葉がこぼれ落ちていた。
「え?」
ラクスが不思議そうに首を傾げる。
「ここは、地球軍の軍艦です。あなたは、敵国に捕らわれた捕虜なんですよ。
さっきだって、あんな風に襲われそうになったのに……」
キラは振り返り、ラクスの瞳を真っ直ぐに見つめた。
どうしても理解できなかったのだ。
どうしてこの少女は、こんな地獄のような状況下で、そんなに穏やかに微笑んでいられるのか。
ラクスはキラの問いに少しだけ目を伏せ、そして再びふわりと微笑んだ。
「そうですね……あの赤い髪の方は、とても悲しそうで、怒っていらっしゃいました。私が、何か彼女から大切なものを奪ってしまったような、そんな目をされていましたわ」
ラクスはスプーンを手に取り、温かいスープを見つめながら静かに語る。
「でも、怖くはありません。だって、あなたからは、あの時のような恐ろしい感情は伝わってきませんもの」
「え……?」
「あなたは、とても悲しい目をしていらっしゃいます。まるで、迷子の子供のように」
ラクスはキラの心の奥底を見透かすような、深い青の瞳で彼を見つめ返した。
「あなたは……誰ですか?」
その純粋すぎる問いかけが、キラの胸の奥にある柔らかい部分を、鋭利な刃物のように深くえぐり取った。
「……キラです。キラ・ヤマト」
キラはどうにか声を絞り出し、自分の名前を告げた。
「キラ様、ですね。私はラクス。ラクス・クラインと申しますわ。どうぞよろしくお願いいたしますね」
ラクスはスプーンを優雅に動かしながら、ふんわりと微笑んだ。
その笑顔には、敵対する勢力に捕らわれている捕虜という悲壮感は微塵も存在しない。
ただ、新しくできた友人に向けるような、無防備で温かな親愛の情だけが込められていた。
キラは自分の名前を「様」付けで呼ばれたことに戸惑いながらも、ラクスの食事の様子をぼんやりと見つめてしまった。
軍のレーションをベースにした決して美味とは言えない食事のはずだが、ラクスが食べるとまるで高級レストランのフルコースのように見えてくるから不思議だ。
彼女の周囲だけ、この血生臭いアークエンジェルの艦内とは全く別の、平和で穏やかな時間が流れているようだった。
しかし、その圧倒的なまでの「平和の象徴」
のような存在感が、今のキラにとっては逆に残酷な拷問のように感じられた。
「……キラ様は、地球軍の兵隊さんなのですか?」
スープを一口飲んだラクスが、不思議そうな顔でキラを見上げて尋ねてきた。
「え……?いや、違います。僕は……ただの学生でした。ヘリオポリスに住んでいた、ただの……」
キラは言い淀み、視線を床へと落とした。
ヘリオポリス。
ラクスたちプラントの軍隊であるザフトが襲撃し、崩壊させてしまった中立コロニー。
その事実を突きつければ、この無垢な少女はどう反応するのだろうか。
少しでも罪悪感を見せるのだろうか、それとも、自分には関係のないことだと微笑むのだろうか。
キラの心の中に、ほんの一瞬だけ、フレイと同じような暗い怒りの火種が生まれかけた。
しかし、ラクスの次の言葉が、その小さな火種をあっさりと吹き消してしまった。
「そうでしたの……。あの中立コロニーが、あのような凄惨な事態になってしまったこと、私もとても心を痛めておりますわ。キラ様も、大切なものをたくさん失ってしまわれたのですね」
ラクスの言葉には、嘘偽りのない純粋な悲しみが込められていた。
彼女は本当に、心からヘリオポリスの人々のことを可哀想に思っているのだ。
自分の父親たちが下した命令のせいで起きた悲劇であるという直接的な責任感は薄いのかもしれないが、他者の痛みに寄り添おうとするその優しさは、間違いなく本物だった。
「……僕の友達も、みんなこの船に乗っています。帰る場所を失って、ずっと怯えながら」
キラはぽつりと、自分の置かれている状況を口にしていた。
「だから僕は……彼らを守るために、戦っているんです」
「戦っている……?学生であるキラ様が、モビルスーツに乗って、戦っていらっしゃるのですか?」
ラクスは驚いたように大きな青い瞳を見開いた。
「はい。この船には、もうまともに動かせるパイロットがいないから。僕が、あのストライクガンダムに乗って……ザフトと戦うしかないんです」
自分で言いながら、キラは自分の声がひどく震えていることに気がついた。
敵のトップの娘に対して、自分が敵のモビルスーツを撃墜している張本人であることを告白しているのだ。
もしラクスがここで激高し、「人殺し」と罵ってきたなら、キラはどんなに楽になれただろうか。
憎悪をぶつけられれば、自分もまた「君たちのせいじゃないか」と反論し、怒りという感情で自分を麻痺させることができたかもしれない。
先程ひでが言ってくれた「全部俺の命令だ」という言葉を盾にして、心を閉ざすこともできただろう。
しかし、ラクスの反応は、キラの予想を全く裏切るものだった。
「まあ……。では、キラ様は、ずっとあのような恐ろしい戦いの中で、お友達のために一人で傷ついていらしたのですね」
ラクスの瞳に、深い哀れみと、慈しみの色が浮かんだ。
「だから……あのような、迷子の子供のような悲しいお顔をされていたのですわね」
「……っ!」
キラの目から、再びボロボロと涙がこぼれ落ちた。
ラクスはキラを責めなかった。
同胞を殺した憎き敵のパイロットとしてではなく、過酷な運命に翻弄され、無理やり戦場に立たされている一人の傷ついた少年として、キラの悲しみを丸ごと受け止めてくれたのだ。
それは、キラが心の底でずっと誰かに言ってほしかった、絶対的な肯定の言葉だった。
「僕は……僕は……戦いたくないのに……」
キラは両手で顔を覆い、しゃくり上げながら泣き崩れた。
ユニウスセブンの残骸の中で感じた、命が消えていくあの恐ろしい感触。
ビームサーベルが装甲を焼き切る音。
断末魔の叫び声。
それらが濁流のように脳裏に押し寄せ、キラの精神を限界まで追い詰めていく。
「泣いてもよろしいのですよ、キラ様。悲しい時は、たくさん泣いて、心の重荷を降ろさなければなりませんわ」
ラクスは席を立ち、泣き崩れるキラのそばに歩み寄った。
そして、戸惑うことなく、その華奢な腕でキラの頭を優しく抱きしめた。
「……あ、あの……」
キラは驚き、体を強張らせた。
敵国の少女に抱きしめられているという異常な状況。
彼女の柔らかな身体の感触と、微かに漂う甘い花の香りが、キラの混乱した思考をさらにショートさせていく。
「大丈夫ですわ。あなたは、とてもお優しい方。その優しさが、あなた自身を深く傷つけてしまっているのですね」
ラクスの手は、母親が子供をあやすように、キラの背中をゆっくりと一定のリズムで撫でていく。
その温もりに触れ、キラの心の中に凝り固まっていた黒い氷のような罪悪感が、少しずつ溶け出していくのを感じた。
ひでの乱暴で力強い優しさとは全く違う、全てを包み込んで許してくれるような、絶対的な母性。
キラは気づけば、ラクスのドレスの裾を強く握りしめ、子供のように声を上げて泣き続けていた。
自分が同胞を殺してしまったという恐ろしい現実も、フレイたちから向けられる重い期待も、明日にはまた戦場に出なければならないという恐怖も。
今この瞬間だけは、全てを忘れて、この温かい胸の中で甘えていたかった。
同じ頃、そのVIPルームの様子を、別室の監視モニター越しに冷徹な視線で見つめている二つの影があった。
ひでと、鹿島である。
「……厄介なことになったな」
ひでは腕組みをしたまま、低い声で唸った。
モニターの画面には、ラクスに抱きしめられ、子供のように泣きじゃくるキラの姿が鮮明に映し出されている。
音声は入っていないが、二人の間にどのような感情のやり取りが行われているかは、歴戦の兵士であるひでには手に取るようにわかった。
「厄介、ですか?私は、あの子がキラくんの心の傷を癒やしてくれているように見えますが……」
鹿島が不思議そうにひでの横顔を見上げる。
彼女の目には、戦争という過酷な現実の中で生まれた、少年と少女の美しくも悲しい心の交流として映っていた。
先程ひでの部屋で泣いていたキラの痛々しい姿を思い出し、鹿島はラクスの優しさに少しだけ安堵すら覚えていたのだ。
「癒やし、ね。確かに一時的な鎮痛剤にはなるだろうさ。だがな、あの嬢ちゃんは本物の純粋培養だ。自分が置かれている立場も、戦争の現実も、何もわかっちゃいねえ」
ひでは忌々しそうに舌打ちをした。
「悪意も憎悪も、恐怖すら知らねえ。そんな無菌室で育ったような純粋さが、今の限界ギリギリのキラにどう作用するか……お前にはわかるか?」
「それは……キラくんの荒んだ心を、優しく包み込んでくれるのではないでしょうか?」
鹿島の純粋な問いに、ひでは重いため息をついて首を振った。
「逆だ。無知すぎる善意ってのは、時として悪意よりもタチが悪いんだよ」
ひでの鋭い視線が、モニターの中のラクスを射抜く。
「あの嬢ちゃんは、自分がザフトのトップの娘であり、キラがザフトの兵士を殺しているという現実を、頭では理解していても、心では全く理解していない。だからあんな風に、無条件で敵のパイロットを慰めることができるんだ」
「でも、それは素晴らしいことでは……」
「今はな。だが、明日になればまた戦闘が始まる。キラはあのガンダムに乗って、あの嬢ちゃんの同胞を殺しに行かなきゃならねえんだぞ」
ひでの厳しい言葉に、鹿島はハッとして言葉を失った。
「あの温もりを知っちまった後で、キラは今まで通り引き金を引けると思うか?敵を殺すたびに、あの嬢ちゃんの悲しむ顔が脳裏をよぎるようになるぞ。戦場でそんな迷いを生じさせたら、一瞬で命取りになる」
ひではギリッと奥歯を噛み鳴らした。
「俺がわざわざ泥を被って、『俺の命令で殺したと思え』って逃げ道を作ってやったのに、あの嬢ちゃんの無自覚な優しさが、その防波堤を根こそぎぶっ壊そうとしてるんだ。
キラは再び、自分の意志で同胞を殺すという地獄の苦しみに直面させられることになる」
ひでの懸念は、あまりにも的確で、そして残酷な現実を突いていた。
ラクスの優しさは、キラの心を救うと同時に、兵士としてのキラを完全に機能不全に陥らせる猛毒となる可能性を秘めている。
敵国の歌姫が放つ、無垢で純粋な光。
それは、血と硝煙にまみれた戦場において、あまりにも眩しすぎて、直視した者の目を潰してしまう劇薬なのだ。
「そんな……それじゃあ、キラくんは……」
鹿島の声が震える。
彼女もまた、キラという少年がどれほどの重圧を背負わされているかを間近で見てきた一人だ。
彼がこれ以上傷つく姿を、見たくはなかった。
「どうにかして、二人を引き離さなければ……!」
鹿島が焦ったようにモニターに手を伸ばそうとするが、ひではそれを静かに制した。
「やめとけ。今さら引き離したところで、もう遅い。それに、あの嬢ちゃんを隔離すれば、今度は艦内の避難民の不満が爆発する」
ひでは深く息を吐き出し、モニターから視線を外した。
「結局のところ、キラ自身が乗り越えるしかねえんだ。あの嬢ちゃんの優しさに押し潰されるか、それとも、それを守るために本物の鬼になるか……」
ひでの声には、大人として子供を守りきれない無力感と、深い悲哀が滲み出ていた。
彼がどれだけ盾になろうとも、キラ自身がパイロットとして戦場に立ち続ける限り、この呪縛から逃れることはできないのだ。
「ひでさん……」
鹿島は、ひでの大きく分厚い右手を、自分の両手でそっと包み込んだ。
その手は、命を奪い、そして同時に守ってきた、兵士の無骨な手だ。
しかし今、その手は微かに、本当に微かにだが、怒りと無力感で震えているように鹿島には感じられた。
「私たちは……何もしてあげられないのでしょうか」
鹿島の悲痛な問いかけに、ひでは何も答えなかった。
ただ、鹿島の温かい手を、強く、力強く握り返しただけだった。
「……」
モニターの中では、泣き疲れたキラが、ラクスに何かを語りかけ始めているようだった。
ラクスはそれに優しく微笑み返し、自分のポケットからピンク色の小さな紙を取り出すと、器用な手つきで何かを折り始めている。
それは、かつて平和だった地球で、子供たちがよく作っていた「折り紙」
のようだった。
戦場には全くそぐわない、平和でささやかな交流の光景。
しかし、ひでの目には、それがキラの精神を縛り付ける、美しくも恐ろしい鎖のように見えて仕方がなかった。
ひでは鹿島の手に視線だけで応えながら、ギリギリの精神状態で戦う少年の危うさに、深く静かな懸念を抱いていた。