アークエンジェルのブリッジを重く支配していたのは、極限状態の疲労と、それ以上に重苦しく澱んだ絶望的な沈黙だった。
メインモニターに映し出されているのは、相変わらず無慈悲に広がる暗黒の宇宙と、遠くで冷たく瞬く星々の光だけだ。
しかしこの静寂の裏側には、常に獲物を狙う残忍な狩人であるザフトの追撃部隊、クルーゼ隊の影がべったりと張り付いている。
アークエンジェルの巨体は、今はまだ周囲に散乱するヘリオポリスやユニウスセブンのデブリの影に隠れて息を潜めているが、それも時間の問題でしかなかった。
空調の低い駆動音さえもが、今の極限状態にあるクルーたちにとっては神経を逆撫でする不快なノイズに聞こえてしまう。
誰もが重くひび割れた唇を固く閉ざし、血走った目で自分のコンソールから視線を逸らさずに、ただじっと耐えるだけの時間が過ぎていく。
艦長席に深く腰掛けたマリュー・ラミアスの表情は、連日の戦闘による深刻な睡眠不足と、常に命がけの決断を迫られる重圧によって、痛々しいほどに青ざめていた。
彼女の美しい瞳の周りには濃い隈が深く刻み込まれ、本来の凛とした顔立ちは見る影もないほどにやつれ果てている。
彼女は元々、地球連合軍においてモビルスーツの開発や運用システムを専門とする、一介の技術士官に過ぎなかった。
戦闘艦の指揮など士官学校のシミュレーション訓練でしか経験したことがなく、ましてや実戦の最前線で何百人もの部下や民間人の命を左右するような局面に立たされることなど、これまでの人生で想像すらしていなかったのだ。
それが今や、成り行きとはいえ地球連合軍の最新鋭戦艦アークエンジェルの艦長席に座り、絶望的な逃避行の全責任を一身に背負わされている。
自分の采配がほんの少しでも遅れたり、一歩でも判断を間違えれば、この艦に乗る全員が一瞬にして宇宙の塵となる。
その圧倒的な恐怖と責任の重さが、見えない巨大な手となって常に彼女の華奢な肩に重くのしかかっていた。
マリューは制服の背中に冷たい汗を滲ませながら、コンソールの硬い縁を指の関節が真っ白になるほど強く握りしめている。
睡眠薬も胃薬も全く効かず、胃の奥底が刃物で抉られるようにキリキリと痛み、強烈な吐き気すら覚えるほどのプレッシャーが、休むことなく彼女の内臓を雑巾のように絞り上げていた。
そんな息の詰まるような重苦しい空気の中、副長席に座るナタル・バジルールが、背筋を硬く凍らせたまま手元のコンソールを鋭く叩いた。
カチャカチャという無機質でリズミカルなタイピング音が、ブリッジの張り詰めた静寂を不気味に切り裂く。
彼女の顔にもまた、マリューと同じように深い疲労の色が色濃く浮かんでいたが、その瞳だけは異様なほどに冷たく、そして獲物を狙う鷹のように鋭い光を放っていた。
ナタルはバジルール家という、地球連合軍の中でも屈指の名門軍人一家に生まれ、幼い頃から厳格な軍事教育を受けて育ってきた。
いかなる絶望的な状況下にあっても決して個人的な感情に流されず、常に大局を見据え、艦とクルーの生存を最優先とする冷徹な戦術眼を保ち続けること。
それが彼女の軍人としての絶対的なアイデンティティであり、彼女の細い身体を過酷な戦場で支え続ける唯一の強靭な背骨であった。
「……艦長」
ナタルの発した鋭く低い声が、ブリッジの澱んだ空気に冷たい波紋を広げた。
その声に反応して、マリューがびくっと肩を震わせ、重い瞼をゆっくりと持ち上げる。
ブリッジの壁際には、腕を組んで目を閉じているひでと、その少し離れた場所で無精髭を撫でながら宙をぼんやりと見つめているムウ・ラ・フラガ大尉の姿があった。
ムウもまた、メビウス・ゼロでの度重なる出撃で疲労困憊であったが、エースパイロット特有の研ぎ澄まされた危機察知能力で、ブリッジの空気がさらに一段階悪化しようとしているのを敏感に感じ取っていた。
「現在、VIPルームに収容している救命ポッドの少女、ラクス・クラインの素性について、最終的な裏取りが完了しました」
ナタルの感情を一切排した冷徹な声が、ブリッジにいる全てのクルーたちの背筋に氷のような冷たいものを走らせる。
「生体認証データの解析、および地球連合軍のメインデータベースとの照合結果、間違いありません」
ナタルは手元の端末からメインモニターへと視線を移し、淡々と、しかし決定的な事実だけを冷ややかに告げた。
「彼女はプラント最高評議会議長、シーゲル・クラインの一人娘です」
その報告と共に、ブリッジの巨大なメインモニターの端に、ふんわりとしたピンク色の髪を揺らす少女の顔写真と、詳細なパーソナルデータが次々と表示されていく。
年齢、血液型、プラントにおける圧倒的な社会的地位、そして何より、コーディネイターの社会において絶大な支持を集める平和の歌姫としての影響力。
それは、本来ならこの血生臭く薄汚れた最前線の戦場にいるはずのない、あまりにも場違いで、あまりにも無垢な情報の塊だった。
ブリッジクルーたちの間に、どよめきにも似た小さな息を呑む音がさざ波のように広がる。
ヘリオポリスを容赦なく崩壊させ、自分たちの平和な日常と故郷を奪い去った憎きザフト軍。
そのザフト軍を束ねる最高指導者の血を直接引く人間が、今まさに自分たちの足元の部屋で、何の危機感もなく無邪気に微笑んでいるのだ。
その事実のあまりの重さと現実感のなさに、誰もが言葉を失い、ただモニターに映る少女の愛らしい顔写真を幽霊でも見るかのように呆然と見つめていた。
オペレーターのトノムラが、信じられないものを見るような目でモニターのデータを何度も何度も確認し、キーボードの上に置いた手を震わせている。
パルもまた、自分の額から滝のように流れ落ちる冷や汗を拭うことも忘れ、コンソールの下で両手を固く握り締めていた。
彼らの心の中には、故郷を焼かれた激しい憎しみと、どうしてこんな少女がここにいるのかという強烈な戸惑いが、どす黒い渦となって入り交じっていた。
「やれやれ……とんでもない貧乏くじを引いちまったってわけか」
重苦しい沈黙を破ったのは、壁際に寄りかかっていたムウの、どこかおどけたような、しかし笑っていない声だった。
「エンデュミオンの鷹と呼ばれた俺も、まさか敵の親玉の愛娘をエスコートする羽目になるとは想像もしてなかったぜ」
ムウは肩をすくめながら、ゆっくりと艦長席の後ろへと歩み寄った。
「プラントの最高評議会議長、シーゲル・クライン。あいつはザフトの強硬派であるパトリック・ザラとは違って、地球との和平の道を模索している穏健派のトップだ」
ムウはエースパイロットとしての豊富な経験と、軍上層部の政治的な動向に関する知識を披露するように、言葉を紡いでいく。
「その穏健派のトップの娘が、最前線で地球軍の新型艦に保護されている……いや、あちらから見れば『拉致されている』という状況だ」
ムウの言葉は、ただでさえ重いマリューの肩に、さらに国際政治という巨大な岩を乗せるようなものだった。
「もしこの嬢ちゃんに万が一のことがあれば、プラント内部の穏健派は完全に発言力を失い、ザラ派が実権を握って地球への全面攻撃が激化するだろうよ」
「大尉の言う通りです」
ナタルがムウの言葉を引き継ぐように、マリューの方へ身体の向きを変えた。
彼女の声には、敵国の少女をどう扱うかという倫理的な迷いや躊躇といった揺らぎは一切感じられない。
ただ純粋に、自艦の生存確率を上げるための軍事的な合理性だけを追求する、冷徹な刃物のような響きがあった。
「これより、本艦の生存を最優先とした、彼女の具体的な処遇について検討に入ります」
ナタルは姿勢を正し、さらに一段と厳しい口調で言葉を継いだ。
「艦長、現在の我々の状況は、控えめに言っても文字通り風前の灯火です」
ナタルはモニターに表示されたアークエンジェルの物資残量グラフと、索敵機能の深刻な低下を示す赤いエラー表示を指し示しながら、淡々と絶望的な事実を一つ一つ列挙していく。
「Nジャマーの強力な影響により、通常のレーダーによる広域索敵は完全に封じられ、こちらから敵の動きを事前に把握することは極めて困難な状態に陥っています。宇宙の暗闇に潜む敵を、目視と熱源探知という原始的な手段でしか見つけられない恐怖は、すでにクルーたちの精神を限界まで消耗させています。加えて、推進剤も弾薬もすでに危険水域を大きく割り込んでおり、もし次に長時間の戦闘が発生すれば、我々は確実に防戦一方となります」
「我々の現在の最終目標は、味方である地球連合軍の第8艦隊と無事に合流することです。しかし、合流ポイントに到達する前に、あの執念深いクルーゼ隊に捕捉されれば、本艦の撃沈はもはや免れない絶対の運命となります彼らは執拗です。先日のユニウスセブン宙域での凄惨な戦闘を見てもわかる通り、彼らは我々という目障りな新型艦を確実に仕留めるために、あらゆる卑劣な手段を講じてくるでしょう」
ナタルの言葉は、誰もが心の奥底で恐れ、直視したくないと目を逸らそうとしていた絶望的な現実を、白日の下に無慈悲に暴き出すものだった。
誰も彼女の正論に反論することができない。
事実として、アークエンジェルは度重なる戦闘で満身創痍であり、次に大規模な戦闘が起きれば、そのまま暗黒の宇宙の底へと沈没してもおかしくない極限状態だったのだ。
「……わかっているわ、ナタル少尉」
マリューがひどく疲れた声で、割れるように痛むこめかみを両手で押さえながら先を促す。
「現状が絶望的な状況であることは、私も痛いほど理解しているわ。それで、あなたの提案は一体何なの?」
マリューの苦しげな問いに対し、ナタルは一瞬だけ言葉を切り、ブリッジの隅でずっと目を閉じていたひでの方をチラリと見た。
ひでは目を開け、眉間に深い皺を刻み、鋭い眼光でナタルを静かに睨み返している。
ナタルはすぐにその視線をひでからマリューへと戻し、ブリッジ全体に響き渡るようにはっきりと、そして力強く宣言した。
「彼女の存在は、我々にとって現在持ちうる最大のカードです」
ナタルはメインモニターに映るラクスの無邪気な写真を見据えながら、その恐るべき戦術を口にした。
「大尉も先ほど仰ったように、プラント最高評議会議長の実娘が、この地球軍の戦艦に乗っているという事実は、ザフト軍にとって絶対に触れてはならない最大のタブーです。そしてそれは同時に、彼らに対して対話の拒否を許さない、極めて強力な『大義名分』となります。大義名分があれば、いかに冷酷なザフトのクルーゼ隊であっても、迂闊に我々へ手出しはできなくなります」
「彼女を本艦の『盾(人質)』として利用すべきです」
ナタルのその言葉が口から出た瞬間、ブリッジの空気がさらに一段、絶対零度まで温度を下げたように感じられた。
それは、戦術としてのただの提案ではなく、軍人として、そして何より人間として守るべき最後の一線を踏み越えるための、悪魔の囁きそのものだった。
民間人を、しかも敵国のトップの年端もいかない娘を人質にして、自分たちの身の安全を相手に保証させる。
それは、国際法や戦時国際法といったあらゆる文明的なルールを無視した、極めて卑劣で許されざる行為である。
オペレーター席の香取が、思わずといった様子でキーボードを叩く手を完全に止め、弾かれたようにナタルを振り返った。
彼女の目は驚愕に見開かれ、信じられないほど恐ろしいものを見たかのように、その肩を小刻みに震わせていた。
「盾、ですか……?」
香取の恐怖で震える声が、静寂のブリッジに痛ましく、そして哀れに響き渡る。
「それは、あの女の子を……人質にするということですか?」
香取の震える問いに対し、ナタルは表情一つ変えることなく、冷徹な事実として答えた。
「言葉の選び方はどうあれ、戦略的な目的は全く同じです。彼女が艦橋、あるいは外部のカメラから確実に視認できる位置にいることをザフト側に通告すれば、クルーゼ隊は迂闊な攻撃を絶対に仕掛けられなくなります」
「もし彼らが構わず攻撃の手を緩めなければ、彼らが敬愛する議長の娘を殺したのは、他ならぬ彼らザフト軍自身だという事実がプラント全土に知れ渡ることになる。そんな巨大すぎる政治的リスクを、現場のいち指揮官が個人の判断で取れるはずがありません」
ナタルのその言葉に、ムウが深く息を吐き出しながら口を挟んだ。
「なるほど、計算上は完璧な正論だ。バジルール少尉の言う通り、普通の指揮官なら確実に攻撃を躊躇するだろうな」
ムウは顎に手を当て、鋭い視線をメインモニターに向けた。
「だがな、相手はあのラウ・ル・クルーゼだぜ?あいつは普通の軍人じゃない。目的のためなら味方ごと撃つような冷血漢だ。議長の娘だろうがなんだろうが、俺たちアークエンジェルとストライクを仕留めるためなら、平気でトリガーを引いてくる可能性だって十分にあるぞ」
ムウの指摘は、ナタルの完璧な計算に一つの不確定要素を投げかけるものだった。
しかし、ナタルは一歩も引かなかった。
「大尉の懸念も理解できます。しかし、何もしなければ確実に我々は撃沈されます。クルーゼ隊の攻撃を数分、いや数秒でも遅らせることができるのであれば、そのカードを切るのが指揮官の責務です」
「クルーゼ隊が攻撃を躊躇しているその間に、我々は合流ポイントへの全速離脱を図るか、あるいは彼らと有利な条件で補給の交渉を行うことが可能となります。これは、これ以上の無駄な血を流さずにこの絶望的な状況を打破できる、我々に残された唯一にして最善の戦術です」
ナタルの構築した論理は、軍人として、そしてこの艦とクルーを守る責任を負う副長として、極めて合理的であり、一切の隙のない完璧なものであった。
情を捨て去り、倫理や道徳を完全に脇に置き、冷徹な生存の計算の上に立てば、これ以上に確実な生存策は存在しない。
ブリッジにいる誰もが、本当は死にたくないのだ。
昨日もユニウスセブンの残骸の海で、数え切れないほどの多くの命が無惨に失われるのを目の当たりにしたばかりだ。
ナタルの言う通りにあの少女を利用すれば、自分たちは無事にこの地獄から抜け出し、生き残れるかもしれない。
そんな甘く、そして恐ろしい誘惑が、ブリッジクルーたちの心の中にどす黒い染みのように急速に広がり始めていた。
生き残るためなら、多少の手を汚しても許されるのではないか。
相手は自分たちの平和な故郷を一方的に奪い去った、憎きコーディネイターの親玉の娘なのだから、人質にしても神様から罰は当たらないのではないか。
そんな利己的で醜い感情が、極限の恐怖によって次第に正当化されようとしていた。
しかし、そのあまりにも非人間的で冷酷な提案に対し、ブリッジの壁際で静かに話を聞いていたひでが、ゆっくりと目を見開き、重い身体を動かし始めた。
「おい……今、なんて言った、ナタル少尉」
ひでの低く、まるで地鳴りのような太い声がブリッジの空間に響き渡った。
彼は組んでいた太い腕を乱暴に解き、一歩、また一歩と、ナタルの座る副長席へとゆっくり近づいていく。
その巨大な体躯から放たれる圧倒的な威圧感は、戦場での恐ろしいモビルスーツ戦にも決して劣らないほどの凄まじいものだった。
ひでの重い軍靴の足音が、硬い金属の床を一つ打ち鳴らすたびに、ブリッジの空気がビリビリと物理的な振動を伴って震える。
オペレーターのトノムラやサイも、その異様な気迫に完全に呑まれ込み、息をすることすら忘れたように座席に縛り付けられて固まっていた。
ひでの瞳には、先ほどキラの私室で見せていたような、傷ついた少年を包み込む慈愛の色は微塵も残っていなかった。
ただ、人間として絶対に譲れない一線を平然と踏み越えようとする者への、底知れない怒りだけがどす黒く宿っていた。
「ひで少尉」
ナタルが、迫り来るひでの威圧感に対抗するように鋭い声で牽制する。
「ここは軍の首脳陣による、重要な意思決定の場です。一介の特務少尉が、感情のままに口を挟む場面ではありません。発言には注意を……」
「注意しろだと?」
ひではナタルの言葉を、まるで邪魔な虫を払うかのように乱暴に遮った。
「寝ぼけたこと抜かしてんじゃねえぞ」
ひではナタルのコンソールのすぐ目の前まで詰め寄り、その見下ろすような鋭い眼光で彼女の冷たい瞳を真っ直ぐに射抜いた。
「お前は今、あの何も状況がわかっちゃいない無垢な小娘を人質にして、自分たちの身の安全を図ろうって、そう言ったんだな?」
ひでの声が、腹の底から湧き上がる怒りで低く唸りを上げる。
「相手が敵の親玉の娘だろうが何だろうが、武器一つ持たねえ丸腰の民間人をわざわざ矢面に立たせて、ザフトの連中に『撃つな』とみっともなく命乞いをする」
「それが、お前の言う誇り高き軍人の仕事なのか?」
ひでの放った問いかけは、軍人としての根源的な存在意義と誇りを根底から問うものであった。
元自衛官であったひでは、過酷な訓練の中で、国民を守るための盾になることこそが自分の唯一の使命であると骨の髄まで教え込まれ、それを誇りとして生きてきた。
たとえ自分が泥に塗れて死ぬことになろうとも、守るべき対象である民間人を自らの保身のために犠牲にすることだけは、絶対に許されない。
それが、ひでがこれまで数々の修羅場や血生臭い紛争地帯を潜り抜けてこられた、精神的な支柱であった。
だからこそ、民間人を盾にして生き延びようとするナタルの極めて合理的な提案は、ひでの魂を根底から侮辱し、踏みにじるものであった。
「冗談じゃねえ。軍隊が丸腰の民間人を盾にし始めたら、そいつはもう軍隊じゃない。ただの武装テロ集団だ」
「理想論でこの艦が守れるとでもお思いですか!?」
ナタルの声が、ブリッジの冷たい金属の壁に甲高く、そして悲痛に反響した。
彼女はコンソールの縁に両手を強く叩きつけるようにして立ち上がり、見上げるほどの巨体であるひでの眼光を、一歩も退かずに正面から睨み返した。
彼女の細い肩は、ひでから向けられる隠しきれない激しい怒りと、副長としての重圧によって小刻みに震えている。
しかし、小柄な彼女がひでを見上げるその真っ直ぐな姿勢には、一切の退きも恐怖の感情も存在していなかった。
彼女の細い肩には、この満身創痍の艦に乗る全てのクルーの命と、地球連合軍という巨大な組織の規律が、見えない巨大な重りとなって乗しかかっているのだ。
彼女の白い頬は激しい怒りによって赤く紅潮していたが、その瞳にはバジルール家という名門軍人家系の誇りと、軍規と生存こそが絶対であるという鋼の信念が赤々と燃えていた。
「Nジャマーの影響下で、我々は常に撃沈の危機に瀕しているんですよ!」
ナタルの叫ぶような言葉もまた、艦の生存を第一に考える軍人としての、決して揺らぐことのない残酷な真実だった。
彼女は決して、他人の痛みがわからない冷酷なだけの血も涙もない人間ではない。
彼女だって、民間人の少女を盾にして命乞いをするような卑劣な真似など、本当は死んでもしたくはなかったのだ。
自分の提案が、軍人としての誇りを捨て、人道に反する外道の行いであることなど、誰よりも彼女自身が一番よく、痛いほどに理解している。
それでもなお、彼女は自ら進んで泥を被り、悪魔に魂を売ってでも、この艦に乗る数百人の命を明日へ繋ごうとして必死に足掻いていた。
通信も索敵も完全に封じられたこの暗闇の宇宙で、いつ、どこから襲いかかってくるかわからない敵の恐怖に怯え続ける絶望的な日々。
残された物資はすでに底を尽きかけ、クルーたちの肉体的・精神的な疲労もとうに限界を超えている。
ここでひでの言うような綺麗な理想論を語って全滅の道を選べば、自分たちの命だけでなく、身を粉にして懸命に戦ってくれているキラや、艦の奥で震えている避難民たちの命も、全てが冷たい宇宙の塵となって無意味に消え去ってしまう。
だからこそ、ナタルはあえて誰からも憎まれる冷徹な戦術を主張し続けていたのだ。
「我々がここで理想に殉じて美しく全滅すれば、あそこにいる避難民の子供たちも、戦ってくれているキラ君も、全員が死ぬことになるのです!」
ナタルの声が、張り裂けんばかりの痛切な響きを帯びてブリッジに木霊する。
「ザフトはもはや、手段を選んでなどいないことは明白です。彼らは民間人がいようがお構いなしに、我々を殲滅するためだけに無慈悲な攻撃を仕掛けてくるのです。平和だったヘリオポリスの無惨な崩壊を、あの地獄のような惨状を忘れたとは言わせません」
ナタルは一歩も引かずに、ひでの分厚い胸ぐらに迫るような勢いで言葉を叩きつける。
「彼らを守るためなら、全員を生かして地球へ帰すためなら、私はどんな泥でも被る覚悟があります。それが、この艦を預かる副長としての、私の譲れない責任なのです!」
ナタルの主張は、命を預かる指揮官としての切実で悲痛な叫びであった。
彼女の冷徹な論理に反論することは、すなわち「艦の全滅という現実を受け入れる」
ということを意味してしまう。
ブリッジのオペレーターたちも、ナタルのその悲痛な覚悟に胸を打たれ、再び激しい迷いの表情を浮かべ始めていた。
「まあ待てよ、二人とも。頭を冷やせ」
一触即発の空気を割るように、ムウが二人の間に割って入った。
彼は両手を軽く上げて、これ以上の衝突を宥めるような仕草を見せる。
「ナタル少尉の言うこともわかる。生き残るためなら使える手は全部使う、それが戦場の鉄則だ」
ムウはナタルを一瞥してから、今度はひでの方へ向き直った。
「だがな、ひでの言うことも最もだぜ。俺たちは一応、正規の軍隊だ。ただでさえ素人の子供たちに最新鋭のモビルスーツを押し付けて戦わせてるってのに、その上、敵の娘を盾にするような卑怯な真似までやってみせろ。あいつらの心が完全に壊れちまうぞ」
ムウの言葉は、戦術論と倫理観の中間で揺れるクルーたちの心理を的確に代弁するものだった。
「俺はエンデュミオンで仲間をたくさん失ってきた。だからこそ生き残ることの価値は誰よりもわかってるつもりだ。だがな、誇りを捨てて得た命ってのは、後からじわじわと自分の首を絞める毒になるんだよ」
ムウの静かな、しかし確かな重みを持った言葉が、ブリッジの空気を少しだけ落ち着かせる。
しかし、ひでの怒りはそれだけでは収まらなかった。
ムウの言葉に後押しされるように、ひではさらにナタルへと迫った。
「だからといって、子供に『外道に落ちた大人』の背中を見せるのが教育かよ!」
ひでの怒声が、再びブリッジの空間を激しく震わせた。
ひでの脳裏には、先ほど薄暗い自室のベッドで一人丸まり、自分が焼き殺してしまった敵兵の幻影に怯えてボロボロと泣いていたキラの姿が、痛ましいほど鮮明に焼き付いていた。
そして、無機質な通路で憎悪と悲しみに顔をぐしゃぐ歪め、誰にもぶつけられない絶望の叫びを上げていたフレイの姿も。
彼らは皆、本来なら戦争の悲惨さなど知らずに、平和なコロニーで友人たちと笑い合って生きていくはずの、ごく普通の子供たちだった。
その彼らのささやかな日常を理不尽に奪い去り、血で血を洗う戦火のど真ん中に無理やり放り込んだのは、他でもない自分たち大人たちの身勝手な都合だ。
「ザフトも地球軍も、俺から見りゃただの人殺しの集まりだ」
ひでは顔を酷く歪め、心の底からの嫌悪感を隠そうともせずに、吐き捨てるように本音をぶちまけた。
「大義だの正義だの、戦争なんてものは、結局のところ、どっちが正しいだの悪だのと言い繕ったところで、ただの薄汚い殺し合いに過ぎねえんだよ」
ひでの言葉は、地球軍の軍人としては絶対にあってはならない、軍という組織の存在意義そのものを真っ向から否定する暴言であった。
しかし、自衛官時代に凄惨な紛争地帯の最前線を経験し、大義名分のもとに行われる戦争の無意味さと残酷さを骨の髄まで知っているひでにとって、それは決して誰に媚びて譲ることもできない絶対的な真実だった。
「その泥沼に、あの嬢ちゃんを利用してまで浸かる気か!」
ひでの声が、激しい怒りから、奥歯を噛み締めて絞り出すような悲痛な響きへと変わる。
「俺たちは、すでにキラの奴に、一生消えねえような重い業を背負わせちまってるんだ。俺たち大人の不甲斐ない尻拭いをさせるために、あんな優しすぎる子供をあのガンダムに乗せて、自分と同じ同胞を殺させてるんだぞ。あいつの心は、もう限界ギリギリのところで悲鳴を上げてる。いつ壊れてもおかしくねえ状態なんだ。それだけでも、俺たち大人の魂は十分に泥まみれで汚れてるはずだ」
ひではナタルからゆっくりと視線を外し、ムウと、そしてマリューを見渡すように顔を向けた。
「その這い上がれない泥沼に、あの何も知らない嬢ちゃんを人質として利用してまで、さらに首まで浸かる気か!」
ひでは自らの分厚い胸を大きな拳で強く叩き、魂の底から血を吐くように叫んだ。
「無垢な小娘まで利用して、外道に落ちて腐りきった大人の醜い背中を、これ以上あいつら傷ついた子供たちに見せつけようってのか」
「そんな汚い真似をして自分たちだけが生き残ったとして、明日あいつらに、どんな顔をして『人間の未来を信じろ』なんて偉そうに言えるんだよ。俺たちは、あいつらが絶望しそうな時に、胸を張って道を示せる大人でいなきゃならねえんだ!」
ひでの魂からの悲痛な叫びは、ブリッジにいる全ての大人たちの胸の奥深くに、鋭い刃のように深く、そして容赦なく突き刺さった。
生き残ることはもちろん軍隊として至上命題だ。
しかし、人間としての尊厳や誇りを完全に捨て去り、子供たちの前でテロリストと同じ行為に手を染めてまで得た命に、果たしてどれほどの価値があるというのか。
子供たちの未来を守るために戦っているはずが、気づけばその子供たちの心を永遠に絶望させて壊してしまうような真似をしようとしているのではないか。
「少尉は黙っていてください!あなたの甘さが、艦を危機に晒すんです!」
ナタルはひでの人間としての正論を、軍人としての致命的な甘さであると強引に切り捨てようとした。
彼女の心の中にも、ひでの言う通りに人としての矜持を保ちたいという人間としての良心は確かに存在している。
しかし、その良心に従うことは、即ちこのアークエンジェルの無惨な沈没と全員の死を意味するという冷酷な現実が、彼女の心を石のように頑なにさせていた。
ひでとナタルの意見は、完全に平行線を辿っていた。
どちらも間違っていない。
どちらも、この艦と人々を守り抜きたいという、狂おしいほど強い思いから出た言葉なのだ。
だからこそ、この血を吐くような議論に妥協点など存在しなかった。
軍人としての冷徹な生存戦略と、人間としての絶対に譲れない倫理観。
二つの相容れない正義が真っ向から激突し、ブリッジの空気は今にも火花が散って爆発しそうなほどに張り詰めていた。
「……二人とも、やめなさい」
マリューが、喉から血が滲むような絞り出す声で二人の激しい言い争いに割って入った。
彼女は艦長席に崩れ落ちるように座ったまま、両手で顔を深く覆い、ひどく疲れた、重い重いため息をついた。
「艦長……」
ひでがマリューの方を静かに向く。
「マリュー艦長、一刻も早いご決断を」
ナタルもまた、マリューに鋭い視線を向けて指揮官としての決断を強く迫った。
マリューは、艦長としての責任と人間としての倫理の間で完全に板挟みになり、明確な決断を下せずにいた。
彼女の心は、二つの正義の間で激しく引き裂かれ、血を流していた。
ナタルの言う通りにラクスを人質にすれば、クルーゼ隊の攻撃を確実に防ぎ、第8艦隊と合流できる確率は飛躍的に高まるだろう。
艦長として、艦の生存を何よりも最優先に考えるならば、ナタルの非情な提案を採用するのが指揮官として正しい選択だ。
しかし、ひでの言う通り、丸腰の民間人を盾にするような卑劣な真似をすれば、自分たちはもはや軍隊ではなくなり、非道なテロリストと全く同じになってしまう。
そんな卑怯な行為を、彼女の根底にある優しい人間性がどうしても激しく拒絶していた。
彼女は、本来戦う義務のないキラにガンダムの操縦を強要してしまったことだけでも、すでに夜も眠れないほどの深い罪悪感に苛まれているのだ。
これ以上、自分の魂を汚し、子供たちの目を真っ直ぐに見られなくなるような真似だけはしたくなかった。
「私は……」
マリューは顔を覆っていた手をゆっくりと離し、生気のない虚ろな目で宙を見つめた。
「私は、どうすればいいの……」
艦長としての明確な指示を出すことができず、マリューはただ迷子の子供のように弱々しく呟くことしかできなかった。
そのマリューの決断力のない態度は、全責任を負って非情な提案をした副長であるナタルにとってはひどく歯痒く、そして指揮官としてあまりにも頼りないものに映った。
「艦長!今は個人の感傷に浸っている場合ではありません!」
ナタルが苛立ちを隠せずに声を荒げる。
「即座に決断し、行動に移さなければ、我々はここで全滅するのですよ!」
「わかっているわよ!わかっているけど……!」
マリューもまた、自分の限界を超えるプレッシャーに感情をコントロールできずに声を震わせた。
大人たちの見苦しく醜い議論は、先の見えない絶望的な逃避行がもたらす極限の苛立ちを、無残なまでに浮き彫りにしていた。
ブリッジのオペレーターたちは、自分たちが命を預ける上官たちが声を荒げて言い争い、艦長が涙目で決断を下せずに苦悩する姿を、ただ青ざめた顔で黙って見つめることしかできない。
彼らの心の中には、確かな絶望と、言い知れぬ死への不安が急速に、そして確実に広がっていた。
自分たちの命運を握る大人たちが、こんなにもバラバラで、迷いに満ちている。
そんな状況で、果たして自分たちは生き残ることができるのだろうか。
「……もういい」
ひでは、ふと自らの放った言葉の棘の鋭さに気づき、小さく舌打ちをした。
ナタルもマリューも、決して個人的な悪意でこんな非道な提案をしているわけではない。
彼女たちもまた、生き残るという絶望的な重圧の中で、必死に答えを探してもがいているだけなのだ。
それを頭では理解していながら、己の感情をコントロールしきれなかった未熟さに、ひでは激しい自己嫌悪を覚えた。
「少し、頭を冷やしてくる」
ひでが、先ほどよりもいくぶんか毒の抜けた、しかしまだ硬さの残る声でぽつりとこぼした。
彼はナタルとマリューの言い争いから静かに視線を外し、ブリッジの出口の扉へと背を向けた。
「これ以上ここにいたら、俺はあんたたちに、もっと取り返しのつかない酷い言葉をぶち撒けちまいそうだ」
「ひで少尉……」
マリューがすがるように弱々しく呼び止めるが、ひでは振り返らなかった。
「俺は俺のやり方で、守るべきものを守る。あんたたちも、自分たちの信じる道を決めてくれ」
ひでの広く分厚い背中は、激しい怒りだけでなく、どうしようもない現実に対する深い無力感と自嘲に満ちていた。
ムウもまた、ため息をつきながらひでの後を追うように歩き出す。
「ま、俺もモビルスーツ乗りだからな。政治の駆け引きよりは、現場で泥水すする方が性に合ってる。艦長、腹はくくっておくこったな」
ムウが最後にそう言い残して自動扉を抜けると、プシュッという電子音が息を潜めて静まり返ったブリッジに虚しく響いた。
ひでとムウが退出して扉が閉まった後も、ブリッジには重苦しく冷たい沈黙がただ降り積もるだけだった。
ナタルの冷徹な提案も、ひでの激しい反発も、マリューの深い葛藤も、何一つ解決を見ないまま。
アークエンジェルは、内部に醜く深い亀裂を抱え込んだまま、果てしない暗黒の宇宙空間を、ただあてもなく漂うように航行を続けていた。
いつ襲いかかってくるかわからない死の恐怖と、自分たち自身の心に潜む暗い闇に怯えながら。