冷たい水が、火照った顔を容赦なく打ち据える。
アークエンジェルの士官用洗面所で、ひでは蛇口から勢いよく吐き出される冷水を両手ですくい、何度も何度も自分の顔に叩きつけていた。
水滴が顎からポタポタと滴り落ちるのも気にせず、ひでは洗面台の鏡に映る自分の顔を険しい目で見つめ返す。
そこには、怒りと焦燥、そして深く重い自己嫌悪に歪んだ、ひどく見苦しい大人の顔があった。
ブリッジでの激しい言い争いが、未だに耳の奥でガンガンと不快に鳴り響いている。
ナタル・バジルールが提案した、ラクス・クラインを人質にしてクルーゼ隊の攻撃を防ぐという冷徹な戦術。
それに対して、ひでは自衛官としての絶対に譲れない倫理観から猛烈に反発し、激しい怒りに任せて彼女たちを口汚く罵ってしまった。
『軍隊が丸腰の民間人を盾にし始めたら、そいつはもう軍隊じゃない』
『ただの武装テロ集団だ』
自分の放った言葉は、確かに軍人としての矜持であり、人間として守るべき絶対の正論であったと今でも信じている。
しかし、あの極限状態のブリッジで、艦の生存という重すぎる責任に押し潰されそうになりながらも必死に足掻いているマリューやナタルに対して、あそこまで感情的に叩きつけるべき言葉だったのだろうか。
彼女たちだって、好き好んで民間人の少女を盾にするような外道の行いを提案したわけではないのだ。
他の誰かが言わなければならないから、誰かが提案してでも決断しなければ全滅するからこそ、血を吐くような思いで口にしたはずなのだ。
それを頭では痛いほど理解していながら、自分だけが高みに立って正義を振りかざし、彼女たちを一方的に断罪してしまった。
ひでは備え付けのタオルで顔を乱暴に拭うと、重い足取りで洗面所を後にした。
冷水のおかげで、少しは頭の熱も引いた。
もう一度ブリッジに戻り、今度は感情的にならずに、大人として冷静な代替案を提示して話し合わなければならない。
そう心に決めて通路を歩き出したひでの視界に、不意に一つの見覚えのある人影が飛び込んできた。
ブリッジへと続く薄暗い通路の途中に設けられた、外部を映し出す観測用の小さな窓。
その窓の前に立ち、果てしなく広がる暗黒の宇宙と、遠くで冷たく瞬く星々の光をじっと眺めている背中。
ナタル・バジルールであった。
彼女はブリッジでの激しい口論の後、持ち場を長く離れるわけにもいかず、ここで一人で心を落ち着かせようとしていたのだろう。
ひでに対して一歩も退かずに冷徹な正論を叩きつけてきた時の、あの全身から立ち昇るような激しい気迫は、今の彼女からは微塵も感じられなかった。
むしろ、その背中はひどく華奢で、今にも見えない巨大な重圧に押し潰されて崩れ落ちてしまいそうなほど、弱々しく、そして孤独に見えた。
ひでは立ち止まり、しばらくその背中を見つめていたが、意を決してゆっくりと彼女の方へ歩み寄った。
彼の重い軍靴の足音が通路に響き、ナタルが背後からの気配に気づく。
しかし、彼女はこちらを振り返ることなく、視線を窓の外の暗闇に向けたまま微動だにしなかった。
「……悪かった」
ひでが、ナタルの少し後ろに立ち止まり、ポツリと短くこぼした。
「先ほどのブリッジでのことだ」
ひではナタルの隣に並んで立ち、彼女と同じように窓の外の宇宙を見つめた。
「俺の言ったことは間違っちゃいないと思ってる。だが、言い方ってもんがあった。「あんたたちだって、好きで悪魔みたいな提案をしたわけじゃないってことくらい、俺にだってわかってる。艦を預かる立場として、全員を生かして帰すために、必死に答えを探してただけなんだよな。それなのに、俺は自分の感情を抑えきれずに、あんたたちをテロリスト呼ばわりして傷つけた。本当に、申し訳なかった」
ひでは深く頭を下げ、飾らない言葉で自分の非を素直に詫びた。
「……気にしないで……」
ナタルは依然としてこちらを向かず、窓の外を見たまま、表情一つ変えずに淡々と答えた。
「ひで少尉の言うことは、軍人として、そして人間としての完全な正論です。私の提案は、国際法にも人道にも反する、卑劣で許されざる行為であることに間違いはありません。ひで少尉が激怒するのは当然のこと」
ナタルの言葉には、反発や怒りの色は一切なく、ただ冷たい事実だけを述べるような響きがあった。
しかし、それに続く彼女の言葉が、ひでの予想を完全に裏切るものだった。
「……私も、気持ちはひで少尉と同じです」
その予期せぬ告白に、ひでは思わず目を見張り、隣に立つナタルの横顔を凝視した。
「同じ、だと……?」
ひでが信じられないというように問い返す。
「ええ。私も、丸腰の民間人を、しかもあのような何も知らない少女を盾にするような行為など、絶対に許されるべきではないと思っています」
ナタルの声が、微かに、本当に微かに震えた。
「そのような誇りを捨てた行いは、地球連合軍の軍人として、そしてバジルール家の人間として、最大の恥辱です」
ひでは、彼女の言葉の裏にある深い意味を理解しようと思考を巡らせた。
彼女は常に冷静な判断を下し、たとえそれが感情的に受け入れることができない残酷なことであっても、軍としての合理性を最優先してきた。
よくよくこれまでのナタルの発言や判断を振り返ってみれば、彼女は常にアークエンジェルが撃沈されないこと、そしてクルー全員が生き残るための最良の献策だけを行っていた。
民間人を守るため、艦を守るため、彼女は自分の感情を徹底的に殺し、最も確率の高い生存ルートを計算し続けてきたのだ。
それは、彼女なりの不器用で、しかし強烈な「守るための戦い」であった。
「じゃあ……なぜあんな提案をしたんだ?」
ひでは、理解が追いつかないままに尋ねた。
「自分の魂が汚れるとわかっていて、どうしてあんな卑劣なカードを切ろうとしたんだ」
その問いに、ナタルは初めてひでの方へゆっくりと顔を向けた。
彼女の瞳には、今にも零れ落ちそうなほどの悲痛な思いが満ちていた。
「我々が生き残らなければ、一体だれがこの艦の民間人を守るのです?」
その言葉は、悲鳴にも似た、切実すぎる指揮官としての覚悟であった。
ナタルはそう言うと、耐えきれないように再び窓の外へと顔を戻した。
言葉は鋭く強く感じるが、その華奢な背中は、今にも折れてしまいそうなほどに弱々しく震えていた。
ひでは、彼女のその背中を見つめながら、心の中にズキリとした痛みを覚えた。
「納得はしてなかったのか……」
ひでが、自分の心の中に浮かんだ思いを、そのままポツリと口にした。
「出来るわけないでしょう?あんな卑劣な手段」
ナタルが、不意に少し強い語調で、感情を露わにして答えた。
「しかし、それでは生き残れないことくらい、あなたにもわかっているはずです!このままNジャマーの影響下で逃げ続けていれば、いずれ確実に捕捉され、撃沈されます!「綺麗事を並べて全員で死ぬよりは、誰かが泥をかぶってでも、生き残るための最善の策を提示しなければならないのです!」
「……ならば、誰かが泥をかぶってでも言わなくてはいけない。だから、私が言うのです」
ナタルは、必死に自分に言い聞かせるように言葉を紡ぐ。
その言葉を伝えながらも、彼女の細い肩は、隠しきれないほどに大きく震えていた。
ひでは、彼女のその震えの意味を痛いほどに理解した。
ナタルの生家のバジルール家は、代々続く誇り高き軍人の家系だと聞いている。
きっと彼女の中にある強烈なプライドが、泥をかぶる覚悟があったにしても、あんな卑劣な提案は、絶対に許せないのだろう。
軍としての合理性を追求するあまり、人間としての尊厳を切り捨てようとしている自分自身が、許せないのだろう。
誰よりも誇りを重んじる人間が、誰よりも誇りを捨てる決断を下さなければならない。
その自己矛盾と自己嫌悪が、彼女の精神を内側から食い破ろうとしているんだ。
ひでは、深く息を吐き出すと、ゆっくりと手を伸ばした。
「……つらかったな」
その短く、思いを込めた言葉と共に、ひでは窓の外を眺めて震えているナタルの頭に、そっと大きな手を置いた。
そして、子供をあやすように、その艶やかな短い髪を優しく撫でた。
「なっ……!?」
突然の接触に、ナタルは驚愕に目を見開き、弾かれたように身体を強張らせた。
「や、やめてください!上官に対して、なんという無礼な……!」
ナタルは激しく拒絶の言葉を口にする。
しかし、彼女の身体は逃げようとはせず、ひでの温かい手を振り払うこともしなかった。
まるで、ずっと誰かにそうされることを待っていたかのように、その場に縫い付けられて動けないでいた。
「………つらいときは、つらいというべきだ」
ひでのその言葉が引き金となった。
ナタルの身体の震えが、まるで押し殺していた号泣が外に溢れ出そうとするかのように、泣いているかのように一気に大きくなった。
彼女は必死に唇を噛み締め、両手で自分の腕を抱きしめるようにして、崩れ落ちそうになるのを耐えている。
軍人の誇り、バジルール家の誇りとして、あんな卑劣な提案をすることは絶対に許せなかったはずだ。
それでも、この艦に乗る民間人やクルーという護るべきもののために、自分の心に無理やり蓋をして、悪魔になるしかなかった。
それがどれほど、彼女の魂を傷つけ、つらく苦しいことであったか。
ひでは、自分の愚かさを激しく恥じた。
キラだけでなく、ここにも心が壊れそうになっている人間がいることを痛感する。
彼女を一人にしてはいけない。
自分だけでも、彼女の本当の理解者にならなくてはならない。
ひでは、これ以上彼女に一人で重荷を背負わせるわけにはいかないと、強い決意を抱いた。
そして、頭を撫でていた手をゆっくりと離すと、今度は激しく震えるナタルの背後へと回り込んだ。
「ひで、少尉……?」
ナタルが戸惑う声を上げるよりも早く、ひでは彼女の細く華奢な身体を、後ろからその太く力強い両腕でしっかりと抱きしめた。
「あっ……!」
ナタルの口から、短い悲鳴のような声が漏れる。
ひでの厚い胸板に背中を預けさせられ、その鋼のような両腕にすっぽりと包み込まれる。
それは、彼女がこれまでの人生で一度も経験したことのないyおうな、圧倒的で絶対的な安心感と温もりの暴力であった。
「今は、我慢しなくていい」
ひでは、ナタルの耳元で、低く、どこまでも優しい声で囁いた。
「艦長も誰も見ていない。ここは俺とお前だけだ。だから、泣けるうちに泣けばいい」
「……っ」
「この先も、俺とお前は軍人としての考え方の違いで、何度も激しくぶつかることがあるだろう。お前はまた、泥をかぶってでも冷徹な判断を下そうとするはずだ。だがな、お前の心が本当は血の涙を流して泣いていることを……」
ひでは、抱きしめる腕の力を少しだけ強め、彼女の震えを自分の身体全体で受け止めた。
「他の誰もが理解していなくても、俺だけは理解する。俺だけは、お前の本当の心を知っている。だから、一人で全部背負い込むな」
その言葉は、ナタルがずっと心の底で求めていた、絶対的な肯定と救済であった。
冷徹な鉄の仮面を被り、副長としての重圧に耐え続けてきた彼女の張り詰めた糸が、ついにプツリと音を立てて切れた。
ナタルはゆっくりとこちらを振り向くと、ひでの広い胸に顔を深くうずめた。
「うぅ……っ……あぁぁっ……!」
そして、これまで押し殺してきた感情の全てを吐き出すように、声にならない声を上げて激しく嗚咽し始めた。
その涙は、ひでの制服の胸元を熱く濡らし、彼女の震える肩はとめどなく上下に揺れている。
ひでは何も言わず、ただ泣きじゃくるナタルをさらに強く、大切に抱きしめ続けた。
冷たく暗い宇宙の只中で、二人の体温だけが、互いの傷ついた魂を静かに温め合っていた。
ひでの腕の中で、ナタルがひとしきり涙を流し終えるまで、どれくらいの時間が経っただろうか。
ひでは彼女の背中を優しく撫で続け、ナタルの震えが徐々に治まっていくのを静かに待っていた。
やがて、ナタルは小さく息を吸い込むと、ひでの胸から顔を上げ、慌てて目元を自分の制服の袖で乱暴に拭った。
「……申し訳ありません。見苦しいところを……」
ナタルの声はまだ少し鼻声だったが、その瞳には再び、あの冷徹な副長としての強い光が戻りつつあった。
「気にするな。誰にだって、心のガス抜きは必要だ。俺の胸くらい、いつでも貸してやるさ」
ひではわざとらしく肩をすくめ、からかうように笑ってみせた。
「……感謝します。。ですが、このことは他言無用でお願いします。副長たる者が、このような弱みを見せたなどと知られれば、部下に対する示しがつきませんので」
ナタルは咳払いをして、乱れた制服の襟元を正す。
その態度はすでに、いつもの厳格なナタル・バジルールそのものだった。
しかし、彼女の耳元がほんのりと赤く染まっているのを、ひでは見逃さなかった。
「わかってる。これは俺とお前だけの秘密だ。さて、そろそろブリッジに戻らないと、マリュー艦長が過労で倒れちまうかもしれないからな」
ひでがそう言って歩き出そうとした、その時だった。
「……ひで少尉。お待ちください」
ナタルが、何か重大なことを告げるような、低く張り詰めた声でひでを呼び止めた。
「ん?なんだ?」
ひでが振り返ると、ナタルは鋭い視線でひでを真っ直ぐに見据えていた。
「先ほどの私の提案……ラクス・クラインを盾にするという戦術ですが」
ナタルの言葉に、ひでは再び眉をひそめ、身構えた。
「まだその話をするのか?俺の考えは変わらねえぞ」
「わかっています。ですが、私の考えも変わりません」
ナタルは一歩も引かずに、きっぱりと言い切った。
「私は副長として、この艦の生存確率を1パーセントでも上げる義務があります。感情に流されて全滅するわけにはいかないのです」
「……」
「ですから、私は艦長に、改めてあの戦術を進言します」
ナタルのその言葉は、ひでにとって到底受け入れがたいものであった。
先ほどまで自分の腕の中で泣き崩れ、その行為の非道さに苦しんでいたはずなのに、彼女はそれでもなお、自ら泥を被る道を選ぼうというのだ。
「お前……本気で言ってるのか?」
ひでの声に、再び怒りが滲む。
「本気です。私は、バジルール家の人間として、そしてこのアークエンジェルの副長として、私の成すべきことを成すまでです」
ナタルの瞳には、もはや迷いはなかった。
己の魂がどれほど汚されようとも、護るべきものを護り抜くという、彼女なりの悲壮な覚悟がそこにはあった。
ひでは、そんな彼女の覚悟の重さに、何も言い返すことができなかった。
「……勝手にしろ」
ひでは短く吐き捨てると、今度こそ振り返ることなく、ブリッジへと続く通路を早足で歩き出した。
重苦しい足取りでブリッジに戻ると、そこは先ほどひでが退出した時よりも、さらに息の詰まるような淀んだ空気に支配されていた。
マリューは艦長席で頭を抱えたままだし、オペレーターたちも沈痛な面持ちで自分のモニターを無言で見つめている。
ムウだけが、どこか所在なげに壁に寄りかかり、腕を組んで天井を仰いでいた。
ひでが無言で自分の定位置に戻った直後、背後の自動扉が開く音がして、ナタルがブリッジに姿を現した。
彼女の顔には、先ほどまでの涙の跡など微塵も残っておらず、完璧な冷徹さを取り戻した副長の仮面が張り付いている。
ナタルは迷うことなく自分の席に着くと、真っ直ぐにマリューの方を向いた。
「艦長」
ナタルの鋭い声が、ブリッジの沈黙を切り裂く。
「先ほどの提案についてですが……」
ナタルが再びあの非道な提案を口にしようとした、まさにその時だった。
「……お待ちください!」
レーダー管制を担っていた香取が、不意にコンソールを叩く手を止め、ヘッドセットの奥の「音」に意識を集中させるように、片手でヘッドホンを強く押さえた。
「どうしたの、香取准尉!何かあったの!?」
マリューが弾かれたように顔を上げ、香取の方を見る。
香取は目を閉じ、全神経を聴覚に集中させているようだった。
彼女は、旧日本海軍の練習巡洋艦「香取」の魂を受け継ぐ艦娘だ。
機械のセンサーに頼るだけでなく、彼女自身の持つ人外の感覚器官――艦娘としての『耳』が、今のこの暗闇の宇宙で、ある微かな振動を捉えていたのだ。
「……マリュー艦長」
香取が、震える声で報告を始めた。
「本艦の進行方向、広大なデブリ帯の向こう側から……微弱な振動波を『聴取』しました」
「聴取……?レーダーに反応があったのではないの?」
マリューが怪訝そうに聞き返す。
「はい。Nジャマーの影響で、レーダーにはノイズしか映っていません。ですが、私のパッシブ・ソナーが、ある特定の音紋を捉えました」
香取は目を開き、確信に満ちた強い視線でマリューを見た。
「これは……地球軍の推進器特有の、エンジン音です!」
「Nジャマーの影響下で……友軍の音を捉えたというの?」
マリューが信じられないというように目を見張る。
「はい。距離はまだありますが、この宙域の複雑な潮目を縫って、間違いなく友軍の艦隊がこちらへ近づいています!」
香取のその報告は、暗闇の底に突き落とされていたアークエンジェルのクルーたちにとって、まさに天から降り注いだ一筋の光明であった。
艦娘の持つ異能が、絶望の淵から希望の糸を見つけ出した瞬間だった。
「本当か、香取!」
ひでが身を乗り出して叫ぶ。
「間違いありません。音紋データベースと照合中……一致しました!地球連合軍の艦艇です!」
香取の報告に、ブリッジの空気が一気に活気づく。
「香取が特定した座標データを受信!光学センサーの出力を、当該ポイントに最大まで絞ります!」
索敵を担当するトノムラが、弾かれたようにコンソールを叩きまくる。
メインモニターの映像が切り替わり、粗いノイズの向こう側に、徐々にいくつかの小さな光点が見え始めた。
そして、その光点が拡大されるにつれ、はっきりとその艦影が映し出された。
「……見えました!モニターに映像を出します!」
トノムラの叫びと共に、モニターのノイズが晴れ、そこに地球軍の青い旗印を掲げた数隻の特装艦の姿が鮮明に映し出された。
それは、アークエンジェルのような最新鋭の流線型フォルムではなく、武骨で角張った、いかにも旧式といった風情のネルソン級宇宙戦艦と、ドレイク級宇宙護衛艦の編隊であった。
しかし、今の彼らにとって、それはどんな最新鋭艦よりも頼もしく、美しく見える希望の姿だった。
「地球軍・第八艦隊の先遣隊です!本艦との合流ポイントを指定する、暗号通信を受信しました!」
通信管制を担当する鹿島が、歓喜のあまり声を裏返らせながら報告する。
「やった……!やったぞ!」
「助かった……これで助かるんだ!」
パルやサイたちオペレーターが、互いに顔を見合わせて歓声を上げる。
マリューもまた、安堵のあまり深く椅子に背中を預け、大きな息を吐き出した。
「第八艦隊の先遣隊……。これでようやく、民間人を安全な場所へ降ろし、本艦も本格的な補給を受けることができるわ」
マリューの言葉に、ブリッジの誰もが喜びを爆発させた。
ナタルもまた、小さく息を吐き出し、張り詰めていた肩の力をわずかに抜いているのがわかった。
彼女の冷徹な提案を実行に移す前に、ギリギリのところで友軍が駆けつけてくれたのだ。
それはナタルにとっても、これ以上自らの魂を汚さずに済むという、大きな救いであったに違いない。
「……すぐにお前たちの方から、第八艦隊へ暗号で応答を返せ。現在地と、本艦が深刻な物資不足に陥っていることを伝えろ」
ひでが、浮かれるクルーたちを落ち着かせるように、低く落ち着いた声で指示を出す。
「了解しました!」
鹿島が弾むような声で応え、素早くコンソールを操作する。
ブリッジが歓喜に包まれる中、ひでは一人、静かに腕を組んだままメインモニターに映る旧式艦の姿を見つめていた。
(第八艦隊の先遣隊、か……)
ひでの瞳には、他のクルーたちのような手放しの喜びの色はなかった。
むしろ、その表情は先ほどよりもさらに険しく、深い懸念に満ちていた。
確かに、正規軍と合流できれば、避難民の保護と物資の補給という当面の問題は解決する。
しかし、モニターに映るあの鈍重なドレイク級やネルソン級の艦隊で、果たしてあの悪魔のようなクルーゼ隊を退けることができるだろうか。
敵は、ジンとは比べ物にならない圧倒的な性能を持つ、四機のガンダムを擁しているのだ。
旧式艦のビーム砲やミサイルでは、フェイズシフト装甲を持つガンダムには傷一つつけられない可能性が高い。
もし、この合流ポイントをクルーゼ隊に捕捉されれば、アークエンジェルだけでなく、あの先遣隊ごと全滅させられる危険性すらある。
(喜ぶのは、まだ早すぎる……)
ひでは奥歯を強く噛み締め、誰にも悟られないように小さく舌打ちをした。
一方その頃。
第八艦隊先遣隊接近の知らせは、艦内放送を通じてアークエンジェルの各区画へと瞬く間に広がっていった。
医務室のベッドで、毛布を頭から被って塞ぎ込んでいたフレイ・アルスターの耳にも、その歓喜の報告は届いていた。
「……えっ?」
フレイは弾かれたように毛布を跳ね除け、ベッドから身を起こした。
その時、医務室の扉が開き、ひでが静かに中へと入ってきた。
彼の後ろには、心配そうにフレイを見守るキラやサイ、トールたちの姿もある。
「……ひでさん」
フレイが、涙で腫れた赤い目でひでを見上げる。
「お嬢ちゃん。いい知らせだ」
ひではフレイのベッドのそばまで歩み寄ると、努めて穏やかな声で告げた。
「今、こちらに向かっている第八艦隊の先遣隊……その旗艦であるネルソン級『モントゴメリ』には、大西洋連邦の外務次官である、ジョージ・アルスター氏が乗っているそうだ」
「……え……?」
フレイは、ひでの言った言葉の意味がすぐには理解できず、呆然と彼を見つめ返した。
「お前の、親父さんだ。娘が乗っているかもしれないこの艦を救出するために、軍の先遣隊に無理を言って同乗してきたらしい」
ひでから直接その事実を告げられ、フレイの大きな瞳から、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ち始めた。
「お父様が……」
フレイの両手が、震えながら口元を覆う。
「お父様が……私を、助けに来てくれた……!」
フレイは、まるで迷子になっていた小さな子供のように、声を上げて激しく泣きじゃくった。
ヘリオポリスが崩壊し、家も友人も全てを失い、死の恐怖に怯え続けてきた彼女にとって、父親という唯一の絶対的な庇護者の存在は、何よりも代えがたい希望の光だったのだ。
「よかったね、フレイ!」
ミリアリアが駆け寄り、泣き崩れるフレイの肩を抱きしめる。
サイやトールたちも、もらい泣きをしながら互いに顔を見合わせて喜び合っている。
キラもまた、フレイの久しぶりの笑顔を見て、心の底から安堵の息を長く吐き出した。
自分がガンダムに乗って血みどろの戦いをしてきたことも、決して無駄ではなかったのだ。
こうして、皆の笑顔を守り、安全な場所へと送り届けることができる。
その事実が、キラの傷ついた心を少しだけ癒やしてくれていた。
「もう少しの辛抱だ。あの先遣隊と合流できれば、お前たちはこの窮屈な軍艦から降りて、安全な場所へ行ける」
ひではフレイの赤い髪を乱暴に撫でると、静かに医務室を後にした。
艦内には、ヘリオポリス崩壊以来、初めてとなる明るく希望に満ちた空気が満ち溢れていた。
誰もが、この地獄のような逃避行がもうすぐ終わると信じ、来るべき救出の瞬間に向けて準備を進めている。
しかし、ひでだけは違った。
彼は一人、誰もいない暗い通路を歩きながら、胸の奥底で警鐘のように鳴り響く、嫌な予感を拭い去ることができずにいた。
(……静かすぎる)
ひでは、分厚い金属の壁越しに、外の宇宙空間の気配を探るように目を閉じた。
あの執念深いラウ・ル・クルーゼが、第八艦隊の先遣隊が近づいていることに気づいていないはずがない。
彼らは確実に、アークエンジェルと先遣隊が合流するその瞬間を、暗闇の中で息を潜めて待ち構えているはずだ。
獲物が一番油断し、隙を見せるその一瞬を。
(来るぞ……必ず、あいつらは来る)
希望に満ちて浮き足立つアークエンジェルへと、ひたひたと、しかし確実に、死神である四機のガンダムの足音が迫っている。
ひでは、来るべき絶望的な激戦を予感し、無意識のうちに自分の拳を固く、血が滲むほどに握り締めていた。