※この作品はR-18です。

機動戦士ガンダムSEED ~転移者と共に~   作:よっちょれ

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第3章【閃光に消える父】

「やめろぉぉぉっ!!」

 

キラ・ヤマトの喉の奥から絞り出された、血を吐くような絶叫が接触回線に乗って宇宙空間へと響き渡った。

エールストライカーパックに搭載された高出力のメインスラスターが、安全マージンを完全に無視した限界突破の出力で、蒼白い炎を狂ったように噴き上げている。

ストライクガンダムの機体各所から、構造材が軋むような不気味な警告音が絶え間なく鳴り響いていた。

 

コックピットのメインモニターには、レッドゾーンを大きく振り切った機関温度と推力オーバーの数値が、異常を知らせる赤い光と共に激しく点滅している。

しかし、キラはそのシステムからの切迫した警告を全て意識から締め出し、ただ目の前で紅蓮の炎に包まれようとしている地球連合軍の宇宙戦艦モントゴメリへと、ストライクの右腕を限界まで伸ばし続けていた。

あの傷ついた旧式の船には、ヘリオポリスから共に逃げてきた同級生であり、今まさにアークエンジェルの艦内で自分の父親の無事を祈って泣き叫んでいるフレイ・アルスターの父親が乗っているのだ。

 

絶対的な庇護者である父親の助けを求める彼女の悲痛な金切り声が、キラの脳裏に粘りつくようにこびりついて離れない。

僕が助けなければならない。

僕がこの最強の機体の力を使って、あの船と彼女の父親を守らなければ、フレイの心は完全に壊れてしまう。

その強迫観念にも似た重い使命感と、友人を救いたいという純粋な願いが、キラに極限の加速と機動を強いていた。

 

だが、祈りや願いといった人間のあやふやな感情は、質量の法則が絶対的に支配する冷酷な宇宙空間においては、何の奇跡も起こしはしない。

ストライクガンダムの指先から、集中砲火を浴びるモントゴメリまでの絶対的な物理的距離。

それは、どれほどキラが最高のコーディネイターとしての潜在能力を引き出し、機体を酷使しようとも、一瞬でゼロになるようなものではなかった。

キラの必死に伸ばした手は、ただ虚無の暗黒を空しく、そして滑稽なまでに掴むだけである。

 

「アハハハハッ!遅いんだよ、地球軍の腰抜けが!」

 

イザーク・ジュールの狂気とサディズムを孕んだ高笑いが、接触回線を通じてキラの鼓膜を容赦なく叩き据えた。

モントゴメリの艦橋付近へと完全に肉薄したデュエルガンダムが、その手に握った高出力のビームライフルを、まるで無抵抗な罪人を処刑する執行人のように冷酷に構える。

 

「さっさと沈め、ナチュラルの野蛮人ども!血のバレンタインの報いを受けろ!」

 

イザークの青い瞳には、農業コロニーであるユニウスセブンに核を撃ち込み、罪のない同胞たちを大量虐殺した地球連合軍に対する底知れぬ憎悪と、今まさにその復讐の第一歩を果たすことへの暗い悦びが満ちていた。

デュエルガンダムの銃口から、灼熱のエネルギーの塊が容赦なく、そして正確無比な連射となって放たれる。

対空防御網を完全に失い、推進器も破壊されて宇宙の藻屑となるのを待つばかりだったモントゴメリの分厚い装甲に、その極太のビームが次々と深く突き刺さった。

 

「悪いな、これでチェックメイトだ」

 

ディアッカ・エルスマンの冷静で、まるで単調な作業をこなすような声がそれに続く。

モントゴメリの後方に陣取っていたバスターガンダムが、二つの大型火器を連結させた超高インパルス長射程狙撃ライフルから放たれた極太のレーザーに加えて、両肩に装備された多目的ミサイルポッドのハッチを一斉に開いた。

無数のミサイルが白い推進剤の尾を引いて宇宙空間に放たれ、複雑な軌道を描きながら、逃げ場のないモントゴメリへと文字通り雨あられのように降り注ぐ。

 

「……あっ……!」

 

キラは、ストライクガンダムのメインモニターに大きく映し出されるその凄惨な光景に、呼吸を忘れて瞳を極限まで見開いた。

イザークの放ったビームの直撃によって、モントゴメリの強固なはずの艦橋の装甲がまるで飴細工のようにドロドロに溶解していく。

そして、その溶解して脆弱になった部分へと、ディアッカの放った無数のミサイルが次々と吸い込まれるように着弾していったのだ。

 

次の瞬間だった。

音のない真空の宇宙空間で、フレイの父であるジョージ・アルスター外務次官を乗せた地球軍の戦艦は、残酷なほど鮮やかで、視神経を焼き切るかのような強烈な閃光に包み込まれた。

艦内を満たしていた人工的な酸素と、メインの機関部に残されていた膨大な推進エネルギーが一気に引火し、その巨大な質量が内側から限界を超えて弾け飛んだのだ。

 

爆発による凄まじい衝撃波は、目に見えない破壊の波となって周囲の空間に漂うデブリを吹き飛ばし、その強烈な光は、キラの視界を文字通り真っ白に染め上げた。

かつては威容を誇っていた巨大な宇宙戦艦は、文字通り木端微塵に爆散し、無数の真っ赤に焼け焦げた金属片となって、冷たく果てしない宇宙の闇へと撒き散らされたのである。

そこには、緊急用の脱出艇が射出された形跡も、生存者がノーマルスーツ姿で宇宙空間に投げ出された様子も、何一つとして残されてはいなかった。

ただ、絶対的な死と徹底的な破壊の痕跡だけが、無残なデブリの塊となって音もなく漂っているだけだった。

 

「……あ……ああぁぁぁぁっ!!」

 

アークエンジェルの静まり返ったブリッジに、人間のものとは思えない、内臓を吐き出すような悲惨で凄絶な絶叫が木霊した。

通信コンソールのメインモニターにすがりつくようにしがみつき、父親の乗ったモントゴメリの最期をその特等席で克明に見届けてしまった、フレイ・アルスターの叫びだった。

 

「お父様……!お父様ぁぁぁっ!!」

 

彼女はモニターの硬いガラス面に血が滲むほど強く爪を立て、狂ったように何度も何度も、ただ一人の肉親である父親の名を呼び続けた。

つい数分前まで、第八艦隊の力を使って必ず自分を迎えに来てくれると信じて疑わなかった、優しく、そして力強い絶対的な庇護者。

それが、自分には到底理解することも受け入れることもできない、戦争という理不尽で無慈悲な暴力によって、目の前で跡形もなく消し去られたのだ。

平和なコロニーで蝶よ花よと育てられてきたフレイの脆弱な精神は、そのあまりにも巨大な喪失と絶望を前にして、完全に限界を超え、音を立てて崩壊し始めていた。

 

「嘘よ……嘘!お父様が、こんなところで死ぬわけないじゃない!私を迎えに来てくれるって、約束したのに!」

 

フレイの瞳孔は恐怖と混乱で大きく見開き、その美しい瞳からは涙が枯れることなくとめどなく溢れ出し、ブリッジの冷たい床を濡らしていく。

 

「フレイ、落ち着いて!フレイ!」

 

同じくヘリオポリスから避難してきた親友のミリアリア・ハウが慌てて駆け寄り、彼女の華奢で震える肩を後ろから抱きしめようとする。

 

「触らないでよッ!!」

 

フレイは、ミリアリアの優しい手を狂乱したように激しく振り払い、そのまま糸が切れた操り人形のように、ブリッジの金属の床へと力なく崩れ落ちた。

両手で顔を覆い、しゃくりあげるように泣き叫び、床に突っ伏して身悶えするその姿は、周囲にいる全ての者の心を冷たく鋭い刃で抉るようだった。

 

「……なんてことだ」

 

トール・ケーニヒが、信じられないものを見たというように顔面を蒼白にしながら呟く。

 

「こんなの、あんまりだよ……」

 

カズイ・バスカークもまた、恐怖と絶望に震えながら、その場にへたり込んでしまった。

 

「……」

 

マリュー・ラミアス艦長は、血の気が引いた唇から血が滲むほど強く噛み締め、メインスクリーンに映る無残なデブリの海から目を背けることができなかった。

味方の艦が、そして民間人の肉親が乗った艦が沈んでいくのを、ただ見殺しにすることしかできなかった。

指揮官としての取り返しのつかない重責と、一人の人間としての無力感が、彼女の心を重く、そして黒く押し潰していく。

 

「艦長、感傷に浸っている暇はありません。敵のモビルスーツ部隊はまだ健在です」

 

ナタル・バジルール少尉が、努めて冷徹で事務的な声を作り、マリューに向かって進言する。

彼女の鋭い眼差しもまた痛ましく揺れており、隠しきれない焦燥が見え隠れしていたが、軍人としての厳しい規律が彼女の精神を辛うじて支えていた。

 

一方、激戦の宇宙空間に放り出されたままのストライクガンダムのコックピットでは、キラが信じられないものを見るような虚ろな目で、メインモニターの端で赤い炎を上げて燃え尽きていくモントゴメリの残骸をただ見つめていた。

 

「なんで……なんで、間に合わなかったんだ……」

 

キラの口から、掠れた、生命力の一切感じられない力のない声が漏れ出る。

モントゴメリに向かって伸ばしたストライクの右手は、まだそのままの姿勢で宇宙の虚空を掴んだまま、まるで呪いをかけられた彫像のように硬直していた。

操縦桿を握る手から完全に力が抜け、彼の頭の中には、アークエンジェルのブリッジから通信回路に乗って聞こえてきたフレイの悲惨な絶叫が、呪詛のように何度も何度も反響する。

 

僕が遅かったからだ。

僕が、アスランとの戦いに感情を乱され、手間取ってしまったからだ。

僕がもっとうまく、もっと完璧にこの機体を操れていれば、お父さんを助けられたはずなのに。

僕がフレイの希望を、自らの手で打ち砕いてしまったんだ。

強烈な自責の念と、底なしの罪悪感が、キラの心臓を氷のように冷たい手で鷲掴みにした。

 

『キラ少尉!応答してください!戦闘空域のど真ん中で機体を停止させては駄目です!』

 

ブリッジから通信を繋いできた香取の、切羽詰まった、しかし軍属としての冷静さを保とうとする必死の声がコックピットに響く。

だが、その彼女の懸命な声すらも、今のキラの耳には遠くの雑音のようにしか聞こえていなかった。

 

「僕が……僕のせいで……」

 

キラの紫色の瞳から、大粒の涙がとめどなく溢れ出し、ヘルメットのバイザーの内側を冷たく濡らしていく。

自分の力で守りたかったものを、目の前で理不尽に奪われ、守れなかったという絶望が、まだ16歳でしかない少年の心を真っ黒に塗り潰していた。

 

その頃、モントゴメリの沈没宙域から少し離れた暗黒の空間で、ひでの搭乗するゼータプラスもまた、残酷すぎる現実に直面し、もがき苦しんでいた。

ニコル・アマルフィの駆るブリッツガンダムの、ミラージュコロイドによる悪魔のようなステルス奇襲と、トリケロスからの絶え間ない死角からの牽制によって、完全にその場に足を止められていたのだ。

 

「……ッ!!」

 

ひではメインモニターに映し出された、モントゴメリが木端微塵に爆散する、目を焼くような強烈な閃光を見て、奥歯が本当に砕けそうになるほど強く、ギリギリと歯を食いしばった。

 

『ひで少尉……モントゴメリ、轟沈しました。周辺宙域に生存者の反応は、ありません』

 

鹿島の、深い悲しみと無念さを必死に押し殺した、微かに震える声が通信機から流れてくる。

電子戦を担当し、誰よりも早く正確なデータを受け取る彼女にとって、その絶望的な死の宣告をひでに伝えることは、どれほどの苦痛だっただろうか。

その報告を聞いた瞬間、ひではゼータプラスの狭いコックピットの中で、己の太ももに力任せに拳を叩きつけた。

 

「くそったれがあぁぁッ!!」

 

ひでの口から、手負いの獣のような荒々しい咆哮が漏れ出る。

元自衛官として、これまで厳しい訓練に何度も耐え抜き、有事の際には必ず誰かの命を守れる存在でありたいと、そう願って生きてきた。

32歳という大人の男として、キラのような未来ある子供たちにこれ以上の重荷を背負わせず、自分が泥にまみれて盾になって見せると、そう固く誓ったはずだった。

 

だが、現実はどうだ。

圧倒的な基本性能を持つ敵モビルスーツの洗練された連携の前に、自分は手も足も出ず、護衛すべき友軍の艦が目の前で一方的になぶり殺しにされ、沈められるのをただ指をくわえて見ていることしかできなかったのだ。

自衛隊時代に叩き込まれた歩兵としての定石、地形や遮蔽物を利用した生存の戦術、各個撃破のセオリー。

そんな長年の経験から導き出されたものは、この上下左右もない宇宙空間と、コーディネイターという超人類が操るガンダムという圧倒的な質量の暴力の前では、紙切れほどの役にも立たなかった。

 

しっかり食って、しっかり寝るのが生き残る秘訣だと、偉そうに若者に語っていた自分の薄っぺらさが、ひでの大人の男としてのプライドを粉々に打ち砕き、嘲笑う。

 

「俺は……俺はなんて無力なんだ……ッ!」

 

ひでは操縦桿を握り潰さんばかりの力で握り締め、血の滲むような声で低く呻いた。

モニターの端で、モントゴメリを完全に沈めきったデュエルとバスターが、悠然と機体を反転させているのが見える。

そして、彼らが今度は、ショックのあまり宇宙空間で完全に孤立し、動きを止めているストライクガンダムの方へと、その凶悪な銃口を向けようとしているのが、センサーの反応で明確に読み取れた。

 

『ひでさん!敵機のターゲットが、ストライクに集中しつつあります!キラ少尉の機体、全く動いていません!』

 

香取の悲痛な報告が、ひでの沈みかけ、絶望に呑まれそうになっていた意識を、強引に現実に引き戻した。

 

「坊主……!何やってんだ、馬鹿野郎が!」

 

ひでは己の圧倒的な無力感と絶望を、無理やり胸の奥底の冷たい箱に押し込め、再びゼータプラスのスロットルに両手をかけた。

今は、過去の訓練とのギャップに打ちひしがれたり、守れなかった命を嘆いて後悔している暇など一秒たりともない。

死んだ人間は、どうやっても生き返らないのだ。

ならば、今生きている命を、これ以上失わせるわけにはいかない。

目の前の暗闇の空間が不自然に歪み、再びブリッツガンダムが音もなく姿を現し、右腕のランサーダートをゼータプラスに向けて構えるのが見えた。

 

「どけぇぇぇッ!ガキの遊びに付き合ってる暇はねぇんだよ!!」

 

ひでは自らに対する怒りを全てビームライフルに込め、ブリッツに向けて乱射しながら、機体の推力を限界まで上げて強引に突進した。

フレイの悲痛な叫び声が、キラの底知れぬ絶望が、そして散っていったモントゴメリの乗員たちの無念の念が、宇宙の冷たい闇の中で重く、苦しく渦巻き続けていた。

 

 

 

先遣隊を全滅させたイザークたちは、次なる獲物であるアークエンジェルへと一斉に向き直る。

味方を失い、ひでとキラの機体も限界を迎え、アークエンジェルは完全に包囲された。

 

「これまでか……!」

 

マリューが血の滲む思いで唇を噛んだその時、ナタルが冷徹な声で進言する。

 

「艦長!最終手段です。『ラクス・クライン』をブリッジへ!」

 

ナタルのその鋭い言葉は、絶望に包まれていたブリッジの空気を、さらに冷たく凍りつかせた。

 

「なっ……何を言ってるんですか、バジルール少尉!」

 

通信コンソールの前で顔面を蒼白にしていたトールが、信じられないものを見るような目でナタルを睨みつける。

 

「ラクスさんを盾にするっていうのか!?そんなの、卑劣なテロリストと同じじゃないか!」

 

「そうだ!いくら敵だからって、戦えない民間人の女の子を弾除けにするなんて、絶対におかしいですよ!」

 

カズイも悲鳴のように叫び、ミリアリアも言葉を失ってナタルを見つめている。

ヘリオポリスの学生たちにとって、ラクス・クラインは敵国の重要人物である以前に、つい数日前に救助した無力で可憐な一人の少女でしかなかった。

彼女を自分たちの命と引き換えの盾として差し出すという非道な発想は、彼らがこれまで信じてきた平和な世界の倫理観を根底から破壊するものだった。

 

「……民間人を盾にするの……!?」

 

マリューもまた、震える声でナタルに問いかける。

地球連合軍の士官として、そして大人の女性として、その選択はあまりにも卑劣で、決して許されるべきものではないという強い抵抗感が彼女の心を縛っていた。

 

「艦長!この艦と、乗っているすべての命を守るためです!誇りだけで生き残れるほど、この戦場は甘くありません!」

 

ナタルは周囲からの痛烈な非難の視線を一身に浴びながらも一歩も引かず、冷徹な視線でマリューを真っ直ぐに射抜いた。

生真面目で軍規を何よりも重んじる彼女にとっても、民間人を人質に取るという行為は軍人の誇りを著しく汚す、吐き気を催すような選択であるはずだ。

だが、ナタル・バジルールという有能な副長は、自らのちっぽけな誇りよりも、アークエンジェルの沈没を防ぎ、一人でも多くの乗員の命を長らえさせるという「軍人としての絶対的な使命」を優先したのだ。

 

『ナタル……本気か。軍人として、いや大人として、一番切っちゃいけない最低のカードだぞ』

 

通信回線を通じて、ひでの低く、怒りと無念さを押し殺したような声がブリッジに響いた。

ゼータプラスの狭いコックピットの中で、ひでもまた重い葛藤に苦しんでいた。

元自衛官として、民間人を守るための盾となることこそが自分の存在意義であると信じてきた。

その自分が、無力な少女を敵の前に立たせ、自らの生存のための弾除けにする。

これほど男としてのプライドを粉々に打ち砕く屈辱は他になかった。

 

「分かっています、ひで少尉。しかし……本艦はすでに撃沈の瀬戸際です!今このカードを切らなければ、ここにいる全員が、そして貴方やキラ少尉も宇宙の塵となります!」

 

ナタルの悲痛な、しかし決意に満ちた叫びに、ひでは奥歯をギリリと噛み締めた。

口の中に鉄の味が広がる。

 

戦場における残酷なリアリズム。

しっかり食って、しっかり寝る。

そしてどんな泥を啜ってでも生き残る。

 

それが、自分がキラたちに偉そうに説いてきた極限状態での絶対的な生存戦略ではなかったか。

自衛隊で教え込まれた綺麗な理想論など、この宇宙空間の絶望的な戦力差の前では何の役にも立たない。

誇りを捨ててでも、明日へ命を繋ぐことこそが今最も優先されるべきなのだ。

 

『……マリュー艦長。ナタルの言う通りだ。胸糞悪くて吐き気がするが、今はそれが、俺たちが生き延びるための最善にして唯一の手だ』

 

ひでの絞り出すような、血を吐くような苦渋の同意が、ブリッジに重く響き渡る。

 

『子供たちにこれ以上の地獄を見せないために、大人の俺たちが泥を被るしかない。決断してくれ、艦長!』

 

その言葉を受けても、マリューは自らの信念と軍人としての誇りの狭間で激しく葛藤し、血の滲んだ唇を震わせるばかりで、どうしても非道な命令を口にすることができなかった。

 

「私には……そんなこと……!」

 

マリューが両手で顔を覆い、決断を保留しようとしたその時だった。

 

「……時間がありません。艦長の許可を待たず、私の独断で実行します!」

 

ナタルはマリューの躊躇を切り捨てるように鋭く宣言し、振り返った。

 

「香取准尉!今すぐ客室のラクス・クラインをブリッジへ連行しろ!これは副長としての命令だ!」

 

突然の冷酷な命令に、艦隊これくしょんの世界から転移してきた香取もまた、教練巡洋艦としての誇りと非情な命令の狭間で一瞬表情を強張らせた。

しかし、迫り来る艦の危機とひでの苦渋の決断を理解し、無言のままブリッジを後にした。

しばらくして、香取に連れられたラクス・クラインがブリッジに姿を現した。

 

ピンク色の美しい長い髪と、窮屈な軍艦には似つかわしくない優雅なドレス姿。

周囲の血生臭い戦場や、絶望に打ちひしがれる人々の空気とは完全に切り離されたような、純真無垢な微笑みを浮かべている彼女の姿は、この絶望的な状況下ではあまりにも異質だった。

 

「あら?皆様、とても怖いお顔をされていらっしゃいますわ。どうかなさいましたの?」

 

ピンク色の球体型ペットロボット「ハロ」を抱きかかえながら、不思議そうに首を傾げるラクスに、トールたち学生は顔を背け、誰もまともに目を合わせることができない。

マリューが何かを言おうと口を開きかけたが、ナタルはそれを制するように一歩前へ出た。

 

「ラクス・クライン。申し訳ありませんが、貴女にはこれから、我々の盾になっていただきます」

 

ナタルは自らの行為への強い嫌悪感を心の奥底に封じ込め、極めて事務的で冷徹な声で告げた。

 

「鹿島准尉!ザフトの全周波数帯域へ向けて、暗号化なしのオープンチャンネルを開け!映像も同時に送信だ!」

 

『……了解しました。全周波、開きます!』

 

鹿島の微かに震える声が響き、指先がコンソールを叩くと、アークエンジェルの通信回路が全方位に向けて強制的に解放された。

 

「ザフトの各機、および敵旗艦へ通達!」

 

ナタルの毅然とした、一切の感情を排した冷徹な叫びが宇宙空間に響き渡る。

 

「本艦は現在、プラント最高評議会議長シーゲル・クラインの息女、ラクス・クラインを保護している!」

 

その言葉と共に、メインスクリーンに映し出されたラクスの可憐な姿が、戦域にいる全てのザフト軍モビルスーツのモニターへと強制的に割り込まれた。

 

「これ以上の攻撃を行うのであれば、彼女の安全は保障できない!即時の攻撃停止と、戦闘宙域からの撤退を要求する!」

 

その通信が発せられた瞬間、圧倒的な優位に立っていたザフト側のモビルスーツ部隊は、まるで時間を止められたかのように一斉にその機動を停止させた。

 

『……ラクス!?なぜ、君がそんなところに!』

 

孤立したストライクガンダムにトドメを刺そうと、モビルアーマー形態でスキュラの砲口を向けていたアスラン・ザラは、コックピットの中で信じられないものを見たように驚愕の声を上げた。

彼の視線の先、メインモニターの端に強制表示されたウインドウには、紛れもなく自分の婚約者であるラクス・クラインの姿が映っていたのだ。

 

「なぜだ!なぜラクスが、地球軍の船なんかに乗っているんだ!」

 

アスランの思考は完全にショートし、操縦桿を握る手が激しく震え出す。

今まさに自分が撃ち落とそうとしていたあの忌まわしい足つきの中に、自分が絶対に守らなければならない大切な人がいる。

もしあのままスキュラを撃ち込んでいれば、自分はこの手でラクスを跡形もなく消し去っていたかもしれないのだ。

その恐ろしい想像がアスランの背筋を極寒の冷気で凍らせ、彼は反射的にイージスガンダムの攻撃態勢を完全に解除し、ストライクから距離を取った。

 

『馬鹿な……!アークエンジェルに、ラクス様が乗っているだと!?』

 

モントゴメリを沈め、意気揚々とアークエンジェルのブリッジへ狙いを定めていたイザーク・ジュールもまた、激しい戸惑いと怒りにその整った顔を歪めた。

 

「ええい、地球軍の卑怯者どもめ!プラントの姫君を人質にとるなど、軍人の風上にも置けぬ恥知らずな真似を!」

 

イザークはデュエルガンダムの操縦桿を力任せに叩きつけ、怒りに任せて咆哮するが、そのビームライフルの銃口をアークエンジェルに向けることは決してできなかった。

彼らにとって、ラクス・クラインはプラントの未来と平和を象徴する極めて重要な存在であり、万が一にも自分たちの攻撃で傷つけるようなことがあれば、ザフト軍人としての責任を問われるだけでは済まされないのだ。

 

『おいおい、冗談キツいぜ……』

 

後方からアークエンジェルの推進器を破壊しようと狙撃のチャンスを窺っていたディアッカ・エルスマンも、バスターガンダムの超高インパルス砲を下ろして深いため息をついた。

 

「いくらなんでも、お姫様ごと撃ち抜く趣味は俺にはねえよ。こいつは完全にチェックメイトだぜ」

 

冷静な彼も、この地球連合軍のなりふり構わない非情な手口には完全に毒気を抜かれ、戦闘の意志を急速に喪失していた。

 

『なんてことだ……僕たちは、ラクス様を攻撃していたというのか』

 

ひでのゼータプラスをミラージュコロイドのステルス機能で追い詰めていたニコル・アマルフィも、ブリッツガンダムの動きを止め、震える声で呟いた。

 

そして、後方から戦況を冷静に見つめていた母艦ヴェサリウスのブリッジ。

ラウ・ル・クルーゼは、自らのモニターに映し出されたラクスの姿を見て、仮面の奥の瞳を鋭く細めた。

 

「ほう……地球軍の寄せ集め部隊も、なかなか面白いカードを切ってくるではないか」

 

彼の口元には、状況の厄介さを楽しむような不気味な笑みが浮かんでいた。

 

「だが、ここで議長の娘を我々の攻撃で失うようなことがあれば、本国での私の立場が非常に危うくなるな。……それに、あの小娘にはまだ利用価値がある」

 

クルーゼは小さく舌打ちをすると、オープンチャンネルで全軍に向けて冷徹な命令を下した。

 

『全機、直ちに攻撃を停止せよ。本日の狩りはこれまでだ』

 

その通信は、アークエンジェルのブリッジにもはっきりと届いていた。

 

『地球軍の諸君。貴官らの見事なまでの非道な戦術に敬意を表し、我々は一時撤退しよう。だが、ラクス・クラインの身に万が一のことがあれば、プラント全軍が貴官らを地の果てまで追い詰めることになると忠告しておく』

 

クルーゼの撤退命令を受け、イザークやアスランたちは渋々ながら機体を反転させ、アークエンジェルの包囲網から離れていく。

アスランは最後までアークエンジェルを、そしてその中にいるであろうラクスの姿を思い描きながら、無念さと混乱に唇を噛み締め、ヴェサリウスへと帰投していった。

 

アークエンジェルは、ラクス・クラインという非情のカードを使うことで、辛うじて全滅の危機を免れた。

しかし、その代償はあまりにも大きかった。

 

モントゴメリの轟沈と、目の前で父親を失ったフレイの精神崩壊。

そして、民間人の少女を盾にしたという、地球軍としての、そして人間としての誇りを決定的に傷つける卑劣な行為。

圧倒的な戦力差を見せつけられ、己の無力さを呪うひでとキラ。

 

彼らは、深い傷と消えない罪悪感を心の奥底に抱え込んだまま、いつ終わるとも知れない血生臭い宇宙の旅を、再び続けなければならなかったのである。

 

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