宇宙空間を覆い尽くしていた無数のビームの閃光が止み、絶望的な破壊の嵐は嘘のように静まり返った。
アークエンジェルのブリッジ内にけたたましく鳴り響いていた第一種戦闘配置のサイレンも、今は重苦しい沈黙へとその座を明け渡している。
圧倒的な戦力差でこの艦を包囲していたザフトのモビルスーツ部隊は、ラクス・クラインという絶対的な人質を前にして完全に矛を収め、ヴェサリウスと共に撤退していった。
だが、全滅の危機から辛うじて脱したというのに、ブリッジの誰一人として歓喜の声を上げる者はいなかった。
メインスクリーンには、先遣隊の旗艦モントゴメリが木端微塵に砕け散った後の、無惨なデブリの残骸だけが音もなく漂っている。
地球連合軍の軍人たちも、ヘリオポリスから避難してきた学生たちも、ただ押し潰されそうなほどの無力感と罪悪感に苛まれ、虚ろな視線でその冷酷な現実を見つめることしかできなかった。
「……全敵機の撤退を確認」
ナタル・バジルール少尉が、極めて事務的な、しかしどこか虚勢を張ったような冷徹な声で報告する。
「本艦の包囲網は完全に解かれました」
「……ご苦労様」
マリュー・ラミアス艦長は、艦長席に深く身を沈めながら、絞り出すように短く応えた。
彼女の美しい顔は疲労と自責の念で蒼白に染まり、組まれた両手は白く鬱血するほどに強く握り締められていた。
民間人の少女を盾にして生き延びたという事実は、地球軍の将校としての彼女の誇りをズタズタに引き裂き、一生消えない泥のような汚点として心に刻み込まれたのだ。
そんな重苦しく冷え切ったブリッジの空気の中で、ただ一人、全く異質な存在感を放っている者がいた。
「皆様、本当に良かったですわね」
ピンク色の長い髪を揺らし、ペットロボットのハロを抱きかかえたラクス・クラインが、純真無垢な微笑みを浮かべてマリューたちを見回した。
「争いが終わって、誰も傷つかなくて済みましたもの」
その言葉には悪意など微塵も含まれておらず、純粋な平和への安堵だけが込められていた。
だが、そのあまりにも無自覚で無邪気な言葉は、目の前でたった一人の肉親を殺された少女の心に、致命的な最後の一撃を振り下ろすこととなった。
「……どうして」
ブリッジの冷たい金属の床にへたり込み、両手で顔を覆っていたフレイ・アルスターが、呪詛のような低い声を漏らした。
「フレイ……?」
心配そうに寄り添っていたミリアリア・ハウが、ビクッと肩を震わせてフレイの顔を覗き込む。
フレイはゆっくりと顔を上げ、焦点の定まらない、薄暗い狂気を宿した瞳でラクスを、そしてマリューとナタルを順番に睨みつけた。
「どうして……どうしてなのよ!!」
フレイが突然弾かれたように立ち上がり、金切り声を上げてナタルに向かって飛びかかろうとした。
「落ち着いて、フレイ!」
トール・ケーニヒとサイ・アーガイルが慌てて彼女の細い腕を掴み、必死に羽交い締めにして止める。
「離してよッ!離して!」
フレイは髪を振り乱し、トールたちの腕の中で獣のように激しく暴れ回った。
「どうして、私がお父様を助けてってお願いした時に、その女を使わなかったのよ!」
フレイの血を吐くような叫びが、静まり返ったブリッジに痛ましく響き渡る。
「その女を最初から盾にしていれば、あいつらだって攻撃を止めたはずじゃない!」
「そしたら……そしたら、お父様は殺されずに済んだのにッ!」
その痛烈な非難の言葉に、マリューもナタルも反論することはできなかった。
結果論ではあるが、フレイの言う通り、もっと早く軍人の誇りを捨ててラクスというカードを切っていれば、モントゴメリの轟沈という最悪の事態は防げたかもしれないのだ。
大人が体面や大局を気にして判断を遅らせた結果、一人の少女の父親が見殺しにされたという事実は、決して揺るがない。
誰もが重い沈黙を守る中、フレイの荒い呼吸だけがブリッジに響く。
やがて、彼女の視線はラクスから離れ、通信モニターの端に映るストライクガンダムの姿へと、ゆっくりと移っていった。
(……どうして、キラはあいつらをすぐに倒してくれなかったの?)
極限の悲しみと絶望に染まったフレイの脳内で、思考がどろどろと黒く濁り、歪んだ形へと変質していく。
自分はあんなにお願いしたのに、キラは敵のモビルスーツ一機すらまともに撃ち落としてくれなかった。
そして、このピンク色の髪の女がアークエンジェルに乗っていると知った途端、敵のモビルスーツは攻撃を止めたのだ。
(そうよ……キラは、コーディネイターだから)
フレイの瞳の奥で、猜疑心と憎悪の暗い炎がチロチロと燃え上がり始める。
(あいつらはみんな、同じバケモノの仲間なんだわ。この女が乗っていることを知っていたから、キラは本気で戦わなかったのよ。お父様を見殺しにしたのは、あいつらコーディネイターのせいだ)
完全に理屈の飛躍した、狂気に満ちた被害妄想であったが、今のフレイにとってそれは、自分の崩壊しそうな精神を保つための唯一の絶対的な真実となっていた。
(許さない……絶対に許さない。キラのことも、あの女のことも、すべてのコーディネイターも)
フレイの表情から、先程までの泣き叫ぶような悲痛さが消え失せ、代わりにぞっとするような冷たく暗い微笑みが浮かんだ。
(私が……私のこの身体を使ってでもキラを利用して、残らず根絶やしにしてやるわ)
この日を境に、純粋だった箱入り娘の心に、自らを破滅へと導くことになる深く歪んだ復讐の種が、完全に根を下ろしたのである。
同じ頃、アークエンジェルの広大な格納庫でも、ブリッジに負けないほどの重苦しく陰惨な空気が漂っていた。
戦闘を終えたゼータプラスとストライクガンダム、そしてメビウス・ゼロが次々と着艦し、マードック曹長率いる整備班が無言で機体の固定と冷却作業に追われている。
いつもなら、無事の帰還を喜ぶ怒号のようなやり取りが飛び交うはずの格納庫だが、今は誰もが押し黙り、視線を下に向けていた。
ストライクガンダムの胸部装甲が開き、コックピットのハッチが完全に解放されたが、パイロットであるキラ・ヤマトは一向に降りてくる気配がなかった。
薄暗いコックピットの中からは、少年の張り裂けんばかりの痛々しい嗚咽だけが、定期的に漏れ聞こえてくる。
「……坊主」
メビウス・ゼロから降りたムウ・ラ・フラガ大尉が、心配そうにストライクの足元まで歩み寄り、声をかけた。
だが、キラからの返事はなく、ただ自分の無力さを呪うような激しい泣き声だけが返ってくるだけだった。
ムウは深くため息をつき、それ以上言葉をかけるのをやめて目を伏せた。
大人である自分たちでさえ、この理不尽な結果に言葉を失っているのだ。
初めて実戦を経験したばかりの少年に、この過酷な現実を受け入れろと言うのは、あまりにも酷な話だった。
ストライクの隣のハンガーでは、白銀の装甲を黒く焦がしたゼータプラスが固定作業を終えていた。
コックピットハッチが開き、パイロットスーツ姿のひでが、重い足取りでタラップを降りてくる。
彼はヘルメットを脱ぎ捨てると、格納庫の冷たい金属の壁に向かって歩み寄り、立ち止まった。
「……ッ!!」
ひでは突然、ノーマルスーツの硬いグローブを外した素手で、分厚い隔壁に向かって力任せに右拳を叩きつけた。
ガンッ、という鈍く重い音が格納庫に響き渡る。
「クソッ……!クソッ!」
ひでは歯を食いしばり、顔を歪めながら、何度も何度も同じ場所に拳を打ち付けた。
皮膚が裂け、壁の金属パネルにべっとりと赤い血が滲むが、彼はその物理的な痛みなど全く感じていないようだった。
(一足遅ぇんだよ、手札を切るのが!!)
ひでの胸の中で、煮えたぎるような怒りと、底知れぬ後悔が激しく渦巻いていた。
大人が大局を最優先し、軍人としてのちっぽけな誇りを守ろうと躊躇した結果、モントゴメリは沈み、フレイという一人の少女の心は完全に壊れてしまった。
自衛隊時代、国民の命を守るための盾となることこそが自分の使命だと、そう信じて過酷な訓練に耐えてきた。
この狂った世界に放り込まれてからも、自分は大人の男として、子供たちに犠牲を被らせないための防波堤になるのだと決意していたはずだった。
だが、その大人の経験則も、生き残るための戦術も、この絶望的な戦力差と圧倒的な暴力の前では、紙屑ほどの役にも立たなかった。
結局のところ、自分たち大人は何も守れず、一番卑劣な民間人の少女を盾にするという手札を、一番最悪のタイミングで切るしかなかったのだ。
大人の庇護すらも容易く打ち砕くこの戦争の悪意に、ひではかつてないほどの激しい怒りと、手足をもがれたような絶対的な無力感を覚えていた。
「……ひで少尉」
不意に、背後から静かで落ち着いた声がかけられた。
拳を振り上げたまま固まっていたひでが振り返ると、そこにはブリッジでの任務を終えた香取と鹿島が立っていた。
二人の表情にも、先程までブリッジで繰り広げられていた地獄のような光景の余韻が、深い悲しみとして色濃く残っている。
「……お前らか。悪いが、今は少し一人にしておいてくれ」
ひでは血の滲んだ右手を隠すように下ろし、顔を背けて荒々しく言い捨てた。
大人の男として、情けなく壁を殴って自傷しているような無様な姿を、副官である彼女たちに見せたくなかったのだ。
だが、香取と鹿島はひでのその拒絶の言葉を聞き入れることなく、静かな足取りで彼に歩み寄った。
そして、何も言わずにひでの左右に立ち、まるで彼の崩れそうな身体を支えるように、そっと身を寄せた。
「……香取?」
香取は、ひでの血が滲んだ右手を両手で優しく包み込み、自分の胸元へと引き寄せた。
「一人になんて、させませんよ」
香取の瞳からは一筋の涙がこぼれ落ちていたが、その眼差しはどこまでも優しく、そして強かった。
「ひでさんがどれほど悔しい思いをしているか、私たちには痛いほど分かります。守りたかったものを目の前で失う辛さは……私たちも、知っていますから」
かつて艦隊これくしょんの世界で、数多の艦娘たちが理不尽な暴力によって深海へと沈んでいくのを見送ってきた彼女の言葉には、嘘偽りのない深い共感と痛みが込められていた。
「私たちはひでさんの副官です。貴方が背負う罪も、絶望も、無力感も、すべて一緒に背負わせてください」
左側に立つ鹿島もまた、ひでの太い腕を両腕でぎゅっと抱きしめ、自分の温かい頬を彼の肩に押し当てた。
「ひでさんは、一人じゃありません。私たちが、ずっと傍にいます」
二人の成熟した女性の温かい体温と、花のようないい香りが、ひでの張り詰めていた神経をゆっくりと解きほぐしていく。
どれほど残酷な現実を突きつけられても、こうして自分の痛みを分かち合い、無条件で寄り添ってくれる存在がいる。
その事実が、ひでの凍りつき、壊れそうになっていた心を、ギリギリのところで繋ぎ止めてくれた。
「……悪いな」
ひでは深く、長く息を吐き出し、天井を仰ぎ見た。
「大人が子供の前でこんな情けない姿、見せられねえのにな」
自嘲気味に笑うひでの声は、微かに震えていた。
香取はひでの血の滲んだ手を愛おしそうに撫で、鹿島はさらに強く彼に抱きついた。
フレイの完全な精神崩壊。
かつての親友アスランと刃を交え、守るべきものを守れなかったキラの深い絶望。
そして、民間人を盾にするという最低の手札を切らざるを得なかった、この戦争の底知れぬ悪意。
それらすべてを取り返しのつかない深い闇として抱え込んだまま、傷ついたアークエンジェルは、あてのない血塗られた逃避行を続けるべく、宇宙の暗黒の中を静かに進んでいく。
アークエンジェルの艦内は、先遣隊との合流という希望から一転、最も泥臭く卑劣な手段で生き延びたという重苦しい罪悪感に沈んでいた。
各区画を繋ぐ金属の廊下は、いつにも増して無機質で冷たく、すれ違うクルーたちの表情には深い疲労と後悔の色が濃く滲んでいる。
ひでは、血が滲み、薄く皮が剥けた右手をズボンのポケットに乱暴に突っ込んだまま、目的もなく艦内を歩いていた。
格納庫で香取と鹿島に慰められ、自暴自棄になりかけていた心はいくらか落ち着きを取り戻したが、その代わりに冷静になった頭には、ある一人の女性の顔が浮かんでいた。
ナタル・バジルール。
この絶望的な状況下で、誰よりも早く、そして冷徹に「民間人を盾にする」
という最低の手札を切った副長。
マリュー・ラミアス艦長が自らの良心と軍人としての誇りの狭間で葛藤し、決断を下せずにいたあの時、ナタルはすべての責任と汚名を自ら被る覚悟で、独断でラクス・クラインをブリッジへ引きずり出した。
ひでもまた、その決断を支持せざるを得なかった。
自衛隊員として、大人の男として、子供たちを守るために泥を被る覚悟はできていたつもりだったが、実際にその引き金を引いたのは、真面目で軍規を何よりも重んじるはずの彼女だったのだ。
(一番辛かったのは……あいつだろうに)
ひでは、かつて彼女と激しく衝突し、その頑なな軍人としての仮面の下に隠された「生き残るための苦悩」を知った時のことを思い出していた。
ナタルは決して、血も涙もない冷血漢ではない。
誰よりも地球連合軍の軍人であることに誇りを持ち、だからこそ、その誇りを自らの手で汚さなければならなかった苦痛は、計り知れないものがあるはずだ。
自分の無力さを嘆いている暇があるなら、泥を被ってくれた彼女の心を気遣うべきではないのか。
ひでは立ち止まり、長く重い息を吐き出した。
そして、香取と鹿島にフレイ・アルスターの精神的なケアと監視を頼むと、ナタルの姿を探して再び歩き出した。
彼女がいる場所には、心当たりがあった。
以前、ひでがナタルと激しく言い争った後、彼女が一人で壁に寄りかかり、感情を押し殺すように佇んでいた、あの第一ブリッジ裏の薄暗い非常用通路。
艦のメイン動線から外れ、クルーの行き来がほとんどないその場所は、彼女が唯一「冷徹な副長」という重い鎧を脱ぎ、一人の人間として息を継ぐことができる、シェルターのような空間だった。
ひでの予想は的中した。
薄暗い非常灯だけが照らす通路の奥。
冷たい金属の壁に背中を預け、腕を組んで俯いている見慣れた軍服のシルエットがあった。
「……こんなところで油を売ってていいのか、副長殿」
ひでは、努めて普段通りの、少しぶっきらぼうな口調で声をかけた。
ナタルはビクッと肩を震わせ、弾かれたように顔を上げる。
「ひで少尉……。別に、油など売っていません。次の戦闘に向けた、火器管制の再計算を頭の中で反芻していただけです」
ナタルは即座に背筋を伸ばし、いつもの鋭い眼差しと厳しい声色を取り繕おうとした。
だが、その声はひどく掠れており、薄暗い照明の下でも、彼女の目の端が微かに赤く腫れているのが分かった。
あの気丈で生真面目な彼女が、一人で泣いていたのだ。
その事実が、ひでの胸をチクリと刺した。
「嘘つけ。計算なら鹿島の電子頭脳か、メインコンピューターにやらせとけ。
お前がそんなに顔色悪くしてまで抱え込むことじゃない」
ひではナタルの強がりをあっさりと切り捨て、彼女の隣に並ぶようにして、自分も同じ壁に背中を預けた。
「……私の顔色など、今の戦況には何の関係もありません」
ナタルは視線を逸らし、組んだ両手にさらに力を込める。
その指先が、微かに震えているのをひでは見逃さなかった。
「関係大ありだ。俺たち大人が余裕ぶってなきゃ、子供たちはもっと不安になる。……それに、俺だってお前の顔色が悪いと、調子が狂うんだよ」
ひでの不器用な言葉に、ナタルは少しだけ目を見開いた。
「少尉が……調子を狂わせる?」
「ああ。俺は前線の歩兵上がりだからな、後ろで指示を出すお前がしっかり立っててくれないと、安心して背中を預けられねえんだ」
ひではズボンのポケットから右手を出し、首の後ろをポリポリと掻いた。
擦り剥けて血が滲んだ拳が見えたが、ナタルはそれに気づきながらも、あえて触れなかった。
「……私は、副長としての職務を全うしただけです。マリュー艦長が決断を下せなかった以上、誰かがやらなければならなかった。ただ、それだけのことです」
ナタルの言葉は、自分自身に言い聞かせるような、冷たく硬い響きを持っていた。
「あの状況下で、ラクス・クラインを盾にするのは、軍事的な観点から見れば『最適解』でした。敵の指揮系統を混乱させ、確実な撤退を引き出せたのですから。……軍規に照らし合わせれば、民間人の不当な利用として軍法会議ものですがね」
自嘲気味に笑うナタルの横顔は、見ていて痛々しいほどに張り詰めていた。
彼女は自分の下した決断が、どれほど卑劣で誇り高い軍人として許されない行為であるかを、誰よりも深く理解している。
それでもなお、この艦と乗員を守るために、自ら進んで泥を被ったのだ。
「最適解、か」
ひでは小さく呟き、天井を仰ぎ見た。
「そうだな。結果的に俺たちは生き残った。お前のあの独断がなけりゃ、俺も坊主も、今頃は宇宙の塵になってただろう。……助かったよ、ナタル」
「……っ」
ひでのその真っ直ぐな感謝の言葉に、ナタルは息を呑み、強く唇を噛み締めた。
彼女が一番恐れていたのは、自分の下した非道な決断によって、周囲から、特に同じ大人の軍人として認めているひでから、軽蔑されることだったのかもしれない。
「でもな」
ひでは顔を戻し、ナタルの横顔を静かに見つめた。
「お前一人で、その『最適解』の泥を被る必要はねえんだよ」
「……何を、言っているのですか」
「あの時、通信でお前に同意したのは俺だ。俺も、生き残るためにあの少女を盾にするという最低のカードを切ることに、はっきりと賛同した。だから、あのクソったれな決断の責任の半分は、俺にある」
ひでの言葉に、ナタルの瞳が大きく揺さぶられた。
「少尉は……あの時、前線で命を懸けて戦っていたではありませんか!ブリッジの安全な場所から、他人の命を天秤にかけた私とは……!」
「同じだよ」
ひでは、ナタルの言葉を優しく、しかし力強く遮った。
「前線で引き金を引くのも、後ろで非情な命令を出すのも、命の重さを背負うってことには変わりねえ。お前は、自分の誇りを捨ててでも、俺たちを守ってくれた。……だから、もう一人でそんな悲しい顔をするな」
ひでは、おずおずと右手を伸ばし、ナタルの華奢な肩にそっと触れた。
ナタルの身体がビクッと強張ったが、ひではそのまま彼女の肩を優しく、そして力強く引き寄せた。
「……少尉……」
「今は、無理して強がらなくていい。こんなクソみたいな状況で、平気な顔をしてられる方がどうかしてるんだ。……泣きたいなら、俺の胸でも貸してやる。大人の特権ってやつだ」
ひでの少しぶっきらぼうな、しかし不器用な優しさに満ちたその言葉に、ナタルの中で限界まで張り詰めていた軍人としての糸が、ついにぷつりと切れた。
「……私は……私は……!」
ナタルはひでの胸に顔を埋め、これまで必死に押し殺してきた感情を、堰を切ったように溢れ出させた。
「私は、軍人として……誇り高くありたかった!あんな、無力な少女を盾にするような……卑怯な真似など、絶対にしたくなかった……っ!」
ナタルの嗚咽が、薄暗い非常用通路に響き渡る。
生真面目で、誰よりも軍規を重んじ、士官学校を優秀な成績で卒業したエリート。
彼女が思い描いていた「理想の軍人像」は、今日この日、自らの手によって完全に粉々に打ち砕かれたのだ。
「分かってる。お前が誰よりも軍人らしくありたかったことなんて、俺が一番よく分かってる」
ひでは、自分の胸の中で子供のように泣きじゃくるナタルの背中を、大きな手でゆっくりと、優しく撫でた。
「でもな、ナタル。泥にまみれて、誇りを捨ててでも、生きて帰すのが俺たち大人の仕事だ。お前は間違ってない。お前は立派に、この艦の副長としての責任を果たしたんだ」
「ひで……少尉……っ」
ナタルはひでの軍服を強く握り締め、彼の体温にすがりつくようにして泣き続けた。
冷徹な副長としての仮面の下に隠されていた、傷つきやすく、しかし誰よりも責任感の強い一人の女性の素顔。
ひでは、そんな彼女の弱さも、痛々しいほどの生真面目さも、すべて丸ごと受け止めるように、彼女の体を強く抱きしめ返した。
(この戦争は、本当に最悪だ)
ひでは、ナタルの髪の匂いを感じながら、心の奥底で暗く毒づいた。
フレイという少女の精神を完全に破壊し、キラという少年に親友と殺し合う絶望を与え、そしてナタルという誇り高い大人の心をここまでズタズタに引き裂いた。
圧倒的な暴力と、種族間の終わりの見えない憎悪。
この狂った世界で、自分たち大人はどこまで泥を啜り、どこまで子供たちを守り切ることができるのだろうか。
答えの出ない問いが、ひでの胸を重く締め付ける。
「……すまない。取り乱してしまいました」
しばらくして、ナタルは小さく鼻をすすると、ひでの胸からゆっくりと顔を上げた。
彼女の目はまだ赤かったが、その表情には、先程までの張り詰めたような絶望感は薄れ、どこか憑き物が落ちたような安堵の色が浮かんでいた。
「気にすんな。軍服の染みくらい、どうってことねえよ」
ひでは苦笑しながら、自分の胸元を軽く叩いてみせた。
「……少尉は、本当に不思議な人ですね」
ナタルは、ひでの少し照れたような顔を見つめ、微かに口角を上げた。
「いつもは泥臭くて、軍人としての規律もへったくれもないようなことばかり言うのに……こういう時は、誰よりも頼りになる」
「そりゃどうも。最高の褒め言葉として受け取っておくよ」
ひでが肩をすくめると、ナタルは少しだけ真面目な顔になり、真っ直ぐにひでの目を見つめた。
「少尉。……いえ、ひでさん」
ナタルが初めて、階級ではなく彼の名前を呼んだ。
「今日、私が下した決断は、一生消えない罪として私の心に残り続けるでしょう。ですが……貴方が半分背負ってくれると言うのなら、私はこれからも、この艦を守るためにどんな非情な決断でも下すことができます」
彼女の言葉には、軍人としての冷徹な覚悟と、ひでに対する絶対的な信頼が込められていた。
「ああ。俺が全部背負ってやる。だからお前は、迷わず前を向いて、このアークエンジェルの副長でいてくれ」
ひでは力強く頷き、ナタルの肩をポンと叩いた。
深い絶望と、消えない罪悪感。
しかし、その泥まみれの闇の中で、同じ痛みを分かち合い、互いの背中を預け合える「大人同士の絆」が、確かに芽生え始めていた。
崩壊した少女の狂気、少年の絶望、そして大人の苦い決断を乗せて、アークエンジェルは果てしない宇宙の闇を進み続ける。
その先に待ち受ける運命が、どれほど残酷なものであろうとも、彼らはもう、立ち止まることは許されないのだった