ヘリオポリスの地下深くに極秘裏に建造された、地球連合軍とモルゲンレーテ社の共同開発施設である巨大な地下秘密ドック。
本来ならば最高レベルのセキュリティシステムに守られ、厳しい選抜を通過した正規のクルーたちによって、歴史的な出航の準備が整然と進められているはずのその場所は、今や言葉を失うほどの凄惨な地獄絵図と化していた。
ドックを外界から遮断するための分厚いチタン合金の隔壁は、ザフト軍の特殊部隊が仕掛けた指向性爆薬によって無惨に内側へと引き裂かれ、黒焦げた金属の断面から白煙が噴き出している。
通路の床やコンソールの上には、地球連合軍の青い軍服を着た兵士や、白衣を着たモルゲンレーテの技術者たちの遺体が、足の踏み場もないほど無数に転がっていた。
彼らは皆、自分たちがその手で造り上げ、これから乗り込むはずだった最新鋭の艦を目の前にして、警報が鳴り響く中で背後からアサルトライフルで銃撃され、あるいは手榴弾の爆発に巻き込まれて無念の命を落としたのだ。
壁には無数の弾痕が穿たれ、流れ出た大量の血液が、無機質な鉄の床に黒赤色の水溜まりを作っている。
死の静寂と、鼻を突く硝煙、そして生臭い血の臭いが充満するその死の通路を、息を殺し、軍靴の音を響かせながら駆け抜ける数名の男女の姿があった。
「急げ。生存者がいるなら一人でも多く拾い上げろ。だが、決して歩みを止めるな」
先頭を走る女性士官、地球連合軍少尉ナタル・バジルールが、血に塗れた凄惨な通路を冷徹な視線で見据えながら、後続の兵士たちに鋭く指示を飛ばす。
彼女の美しく切り揃えられた黒髪は爆発の煤で汚れ、整った顔立ちには極度の緊張と疲労が張り付いていた。
だが、その鋭い双眸には、恐怖に飲まれることのない軍人としての揺るぎない意志と、確かな理性の光が宿っていた。
ナタルの後ろには、操舵手を務めるアーノルド・ノイマン曹長や、通信士のジャッキー・トノムラ、そして数名の生き残りの下士官たちが、肩で息をしながら必死に続いている。
「少尉、ダメです。この区画にいた士官たちは全滅です。艦長も……副長も……全員、やられています」
ノイマンが、床に倒れている上官たちの血まみれの認識票を震える手で確認しながら、絶望に満ちた掠れ声で報告した。
彼が指差した先には、本来この最新鋭艦を指揮するはずだった艦長や、各部門の責任を担うはずだったベテランの将校たちが、物言わぬ屍となって冷たい床に横たわっていた。
ザフト軍の襲撃はあまりにも正確で、そして軍事的に極めて合理的だった。
彼らは巨大な艦の奪取、あるいは破壊という最終目的を達成する前に、艦の運用能力と指揮系統を完全に麻痺させるため、上級士官たちをピンポイントで的確に排除したのだ。
それは、これからこの艦を動かそうとする者にとって、手足を切断されたにも等しい絶望的な状況を意味していた。
「……現状は完全に理解した。我々だけで、この艦を動かすしかない」
ナタルの声は氷のように冷たかったが、その内側には有能な上官たちを失った激しい怒りと、軍人としての悲しみが熱く渦巻いていた。
だが、生粋の軍人である彼女は、私的な感情を強靭な精神力で完全に押し殺し、今この瞬間に最優先で為すべき任務だけを思考の直線上から決して外さなかった。
立ち止まって仲間の死を悼む時間は、戦場には一秒たりとも存在しないのだ。
「生き残った者は速やかに艦へ向かえ。これより、本艦はマニュアル操作による強行起動シークエンスへ完全に移行する」
ナタルの冷徹な号令とともに、生き残った数名のクルーたちが、ドックの中央に鎮座する巨大な影へと向かって再び走り出す。
その影こそが、地球連合軍がその威信と莫大な予算をかけて極秘裏に開発した、最新鋭強襲機動特装艦、アークエンジェルであった。
全長三百メートルを超えるそのあまりにも巨大な船体は、暗い地下ドックの中でもその威容を暴力的なまでに誇示するように、滑らかな白と赤の装甲を鈍く光らせている。
まだ一度も実戦を経験していない、真新しい無垢な巨艦。
だが、その分厚い装甲の腹の中には、地球連合軍の最新鋭テクノロジーと、単艦で要塞を落とせるほどの未曾有の火力が限界まで詰め込まれているのだ。
「エアロック手動解放。ブリッジへと急ぐぞ」
ナタルが先陣を切ってタラップを駆け上がり、アークエンジェルの強固なハッチのロックを解除して艦内へと飛び込む。
艦内はメインジェネレーターが起動していないため、予備電源の薄暗い非常灯だけが不気味に点滅しており、死の底のように静まり返っていた。
本来であれば何百人ものクルーが通路を行き交い、出航の熱気と活気に満ちているはずの広大な艦内を、ナタルたちは自身の軍靴の足音だけを響かせながら、中枢であるブリッジへと急ぐ。
「CIC、システムダウン状態を確認。メインジェネレーターはスタンバイモードのままです。動力系に損傷はありません」
ブリッジに飛び込んだノイマンが、真っ暗な操舵席に滑り込みながら、計器の物理的なバックアップ電源を立ち上げて報告する。
広大なブリッジには、彼ら数名の生き残りしかおらず、ずらりと並んだ空席のコンソールの多さが、現状の異常さと絶望感を無言で物語っていた。
ナタルはブリッジの中央に立ち、本来であれば自分が座ることなど絶対に許されない、一段高い場所に設けられた艦長席を静かに見上げた。
彼女の階級は少尉に過ぎない。
平時の軍隊において、尉官がこの巨大な最新鋭艦の艦長席に座ることなど、明らかな越権行為であり軍法会議にかけられてもおかしくない事態だ。
しかし、上級士官が一人残らず全滅し、ただ一人残された最高階級の将校が自分である以上、この三百メートルの巨艦と、数名の部下たちの命の全責任は、彼女の華奢な双肩に完全にのしかかっているのだ。
ナタルは目を閉じ、肺の奥深くまで冷たい空気を吸い込んで、短く鋭く息を吐いた。
そして、全ての迷いを断ち切るように覚悟を決め、重厚な艦長席へと確かな足取りで歩み寄る。
彼女はそのシートに、深く、そして力強くその身を沈めた。
「これより、本艦の指揮は軍の規定に基づき、生存している最先任将校である私、ナタル・バジルール少尉が執る」
ナタルの凛とした、しかし鋼のような重さを持った声が、ブリッジの冷たい空気を震わせた。
その声には、理不尽に死んでいった上官たちの無念を晴らし、必ずこの艦を宇宙へと飛ばして軍の負託に応えるという、強烈で絶対的な意志が込められていた。
「各員、直ちに所定のステーションへ着け。システムの立ち上げを急げ。これよりアークエンジェルを起動させる」
ナタルの絶対的な命令に、ノイマンやトノムラたちが、不安を振り払うかのように力強く応じる。
「了解。メインジェネレーター、臨界へ向けて出力上昇を開始します」
ノイマンがコンソールのスイッチを次々と弾くように切り替えていく。
ブリッジ内の電源が、薄暗い非常灯から眩いメインの照明へと一気に切り替わり、本来の明るさが空間を満たした。
同時に、艦の最深部から、床を通じて腹の底に響くような重低音の振動が伝わってくる。
眠っていた巨大な鉄の心臓に火が灯り、熱い血液としての電力が、艦の隅々の神経回路へと送り込まれていくかのような、圧倒的な生命の胎動だった。
『機関室よりマードック。メインジェネレーター、出力安定。配電盤に異常なし。いつでもいけるぜ、少尉』
通信機のスピーカーから、機関班長のコジロー・マードック曹長の野太く頼もしい声が聞こえてくる。
彼もまた、機関室で多くの部下たちを失いながらも、艦の心臓部を死守し抜いた百戦錬磨の生き残りの一人だった。
「ご苦労、マードック曹長。引き続き監視を頼む。出航の準備を急いでくれ」
ナタルが冷静に返答し、眼前に広がる巨大なメインモニターを見据える。
モニターには次々とシステムの起動状況やOSのロード画面が表示され、異常なしを示すグリーンのランプが次々と点灯していく。
「航法システム、オンライン。慣性制御、正常値に固定完了。火器管制システム、ロード終了しました。主砲ゴットフリート、副砲バリアント、共にセーフティの解除が可能です」
「ラミネート装甲への通電テスト、オールクリア。各部の水密隔壁、完全閉鎖を確認しました」
生き残った数名のクルーたちが、本来であれば数十人で行うべき複雑な作業を必死にこなしながら、次々と報告を上げる。
彼らの額には大粒の冷や汗が浮かび、指先はコンソールの上でかすかに震えていたが、その目には生き残るための必死の光が宿っていた。
「外部センサー、起動しました。映像、メインモニターへ回します。……少尉、地上の状況が入ってきます」
レーダー管制を担当するトノムラが、コンソールを凝視しながら緊迫した声で告げる。
メインモニターの画面がノイズ混じりに切り替わり、ヘリオポリス地上の映像が鮮明に映し出された。
そこには、無惨に崩壊しつつある工場区画の惨状と、その上空を圧倒的な機動力で舞い、実弾の雨を降らせている白銀のモビルスーツ、シグーの姿があった。
そして、そのシグーの攻撃を地上から必死に防ごうとしている、白と灰色の二機の機体の姿がはっきりと映し出される。
「あれは……ストライクか。もう一機の灰色の機体は……ゼータプラスです。」
「ストライクが動いているだと?正規のパイロットは戦死したはずだ。一体誰が乗っている。まさか、マリュー・ラミアス大尉か」
ナタルがモニターを凝視し、驚きの声を上げる。
マリュー・ラミアス大尉は、このG兵器開発プロジェクトの技術的な責任者であり、ナタルの直属の上官にあたる人物だ。
彼女が生き延びてモビルスーツを稼働させ、ザフトと交戦しているのなら、一刻も早く艦を発進させて援護に向かわなければならない。
「全周波数をスキャン……通信、繋がります。オーディオのみですが、局地回線開きます」
トノムラが通信コンソールを操作すると、激しいノイズに混じって、マリュー・ラミアスの切羽詰まった声がブリッジに響き渡った。
『こちらマリュー・ラミアス大尉!アークエンジェルの生存者はいるか!誰でもいい、応答して!』
マリューの声には、地上での戦闘の激しさと、追い詰められた絶望的な焦燥が色濃く滲んでいた。
「こちらアークエンジェル。ナタル・バジルール少尉です。大尉、ご無事でしたか。緊急のため詳しい状況の説明は省略しますが、現在、本艦は規定により私が一時的に指を執り、マニュアルによる起動シークエンスに入っています」
ナタルの感情を交えない冷徹な報告に、通信の向こう側でマリューが息を呑む気配がはっきりと伝わってきた。
信頼する上官たちが全滅したという事実は、マリューにとっても己の足元が崩れ落ちるような重い衝撃だったはずだ。
『……そう。分かったわ。バジルール少尉、直ちに本艦を発進させなさい。私たちは現在、ザフトのクルーゼ隊と交戦中よ。このままではストライクも、民間人たちも持ちこたえられないわ!』
「民間人……?大尉、状況が掴めません。ストライクに乗っているのは大尉ではないのですか?あの灰色の機体は一体何者です」
『詳しい事情を説明している時間はないわ!とにかく、急いで!』
マリューの悲痛な叫びとともに、近くに爆弾が着弾したのか、通信が激しい爆音にかき消されて途絶えた。
ナタルは通信が切れたモニターを険しい顔で見つめ、奥歯を強く噛み締めた。
上官が危機に瀕していること、そして本来守るべき民間人が最前線の戦火に巻き込まれているという事実。
軍人として、これ以上一刻の猶予も許されない状況だった。
「ノイマン、発進の準備はどうなっている」
「艦のシステム自体はオールグリーンです。ですが、少尉……」
ノイマンが振り返り、苦渋に満ちた絶望的な表情でコンソールを指差した。
「地上へと繋がる第一、第二ゲートが完全にロックされています。ザフトの爆破による物理的損傷の影響か、あるいはコロニー自体の崩壊によるシステムエラーか……マニュアル操作でもピクリとも開きません」
「なんだと?」
ナタルは立ち上がり、手元の戦術モニターを信じられない思いで確認した。
ノイマンの言う通り、アークエンジェルが地上へ出るための唯一の出口である巨大な鋼鉄のハッチは、完全にシステムから切り離され、物理的に閉ざされたままになっていた。
このままでは、ドックという名の巨大な棺桶の中で、地上の上官や民間人たちがザフトに無惨に殺されていくのを、ただ指をくわえて待つことしかできない。
「……ゲートの電子的な強制解除は不可能か」
「パスコードを打ち込んで解析する時間も、物理的に修理に向かう時間もありません。完全に手詰まりです」
ノイマンが悔しそうにコンソールを力任せに叩く。
最新鋭の巨大な剣を手に入れながら、それを鞘から抜くことができない。
ブリッジに絶望の空気が漂いかけた、その時だった。
「非常事態である」
ナタルの冷徹で、金属的な響きを持った声が、その空気を一刀両断にした。
彼女は艦長席の背もたれに真っ直ぐに背筋を伸ばし、氷のような、狂気すら孕んだ視線で正面の閉ざされたゲートを睨みつけた。
「これより、本艦は主砲をもって障害を物理的に排除し、強行発進を行う」
「主砲で……っ!?少尉、正気ですか!ここはコロニーの内部ですよ!主砲の最大出力をこんな閉鎖空間で撃てば、反動や誘爆でドックごと崩落する危険があります!」
ノイマンが血相を変えて振り返り、声を荒げた。
宇宙空間に浮かぶ脆いコロニーの内部で、戦艦の主砲を撃つなど、自殺行為に等しい暴挙だ。
だが、ナタルの決意は微塵も揺らがなかった。
「他に方法があるなら直ちに言ってみろ、曹長」
ナタルの鋭い眼光に射抜かれ、ノイマンは返す言葉を失う。
「マリュー大尉と民間人が、地上で我々の援護を今この瞬間も待っている。ここで被害を恐れて立ち止まることは、軍人としての死を意味する。……全責任は、指揮官である私が取る」
ナタルの言葉には、軍人としての異常なまでの責任感と、己の命と艦を賭してでも任務を遂行するという、狂気にも似た壮絶な覚悟が込められていた。
「ノイマン、艦の固定ボルトを全解除。機関最大出力。主砲発射と同時にスラスターを全開にし、一気にゲートを突破する」
「……了解しました。固定ボルト、解除。スラスター、臨界点までスタンバイ」
ノイマンもまた、操舵手としての腹を完全に括った。
彼は操舵輪を強く握り締め、正面の閉ざされた巨大なゲートを見据える。
彼の手のひらには、びっしりと汗が滲んでいた。
「火器管制、一番、二番ゴットフリート起動。地上ハッチの中央へ照準を合わせろ」
ナタルの命令に従い、アークエンジェルの両舷に装備された二基の巨大な主砲、225cm2連装高エネルギー収束火線砲『ゴットフリートMk.71』が、重厚な駆動音とともに装甲の中からせり上がり、その巨大な砲身を正面のゲートへと向ける。
「ゴットフリート、照準固定完了。エネルギー充填率、百パーセント。いつでもいけます」
火器管制担当のクルーが、上擦った裏返りそうな声で報告する。
ブリッジ内の照明がわずかに暗くなり、主砲へ膨大なエネルギーが艦の心臓から直接注ぎ込まれていることを示していた。
コンソールのアラートが赤く点滅し、発射の準備が整ったことを告げる耳障りな電子音が鳴り響く。
「総員、衝撃に備えよ」
ナタルは深く息を吸い込み、両手でシートの肘掛けを強く握り締め、軍人としての魂を込めて叫んだ。
「ゴットフリート……てえっ!」
ナタルの号令とともに、アークエンジェルの二基の主砲から、灼熱のエネルギーの奔流が放たれた。
極太の赤いビームが、暗い地下ドックの空間を瞬時に焼き尽くしながら、分厚い鋼鉄のゲートへと容赦なく直撃する。
目を焼くような凄まじい閃光と、鼓膜が破れるかと思うほどの轟音がブリッジを包み込み、発射の衝撃波がアークエンジェルの巨大な船体を激しく揺さぶった。
熱線はゲートの何重にも重なるチタン装甲を瞬時にドロドロに溶解させ、そのままドックの分厚い天井、ひいてはヘリオポリスの大地そのものを貫いていく。
溶けた金属と岩盤が火の粉となってドック内に降り注ぐ中、ナタルがさらに叫んだ。
「機関最大!突破する!」
「うおおぉぉぉっ!」
ノイマンがスロットルレバーを限界まで押し込み、操舵輪を引き絞る。
アークエンジェルのメインスラスターが蒼白い炎を爆発的に噴き出し、三百メートルの巨体が重力を振り切って猛然と前進を開始した。
主砲のビームによって穿たれた巨大な大穴へ向かって、アークエンジェルが強引に突入していく。
船体のラミネート装甲が周囲の岩盤や溶解した金属に激しく擦れ、凄まじい摩擦音と火花が散る。
ブリッジは地震のように激しく揺れ、クルーたちはシートベルトに身を任せながら、歯を食いしばって必死に耐えていた。
「抜けろ……抜けろぉっ!」
ノイマンの絶叫とともに、アークエンジェルの白い艦首が、ついに暗い地下ドックの束縛を抜け出した。
ヘリオポリスの崩壊しつつある大地が内側から爆発するように割れ、巨大な白き天使が、その圧倒的な威容を戦火の地表へと現した。
第2話【その名はガンダム】
第4章【未知の熱線と、泥臭い戦術】
後半
白銀の悪魔と化したシグーの圧倒的な機動力を前に、キラのストライクとひでのゼータプラスは完全に防戦一方に追い込まれていた。
ザフトの精鋭部隊を率いるラウ・ル・クルーゼの操縦技術は、単なる反射神経や機体性能の次元を遥かに超えている。
空間のどこに死角があり、どこから撃てば最も敵が嫌がるかを完全に熟知した、戦場の支配者としての無駄のない動きだった。
未完成の機体を強引に動かしているひでにとって、それは理解の範疇を超えた超常現象にすら見えた。
先ほど初めて撃ち放ったビーム・カノンが、工場の分厚い鉄骨を一瞬で蒸発させたという事実が、ひでの脳裏にこびりついて離れない。
もしあの熱線がゼータプラスに直撃すれば、装甲ごと自分たちの肉体は一瞬で気化し、痛みを感じる暇すらなくこの世から消滅するのだ。
だが、ひではその身の毛もよだつようなビームの恐怖を無理やり頭の奥底へと叩き出した。
ここで恐怖に飲まれて足が止まれば、それは即ち死を意味するからだ。
ひでの脳髄に、自衛隊の普通科で泥水をすすりながら教官から叩き込まれた、歩兵としての生存本能が蘇る。
「真っ向勝負なんかするか。瓦礫の裏に隠れろ」
ひでは喉が裂けんばかりの声を上げ、不格好にゼータプラスを横っ飛びさせた。
機体の重量が地面を激しく叩き、センサーが捉えた工場の巨大な柱の陰に機体を強引に隠す。
あんなバケモノみたいな速度で飛び回る相手に、開けた空間でまともに撃ち合えば、一瞬で溶かされて終わるだけだ。
ひでは柱の裏に機体を密着させ、激しく息を切らしながら隣の二人に怒鳴った。
「香取、敵の移動方向を予測しろ。鹿島、敵そのものじゃなく、敵が移動する空間に火網を張れ」
「了解しました。メインカメラの映像とシグーの推力ベクトルを統合し、三次元の予測進路を割り出します」
「はいっ。香取さんのデータを受信、バルカンとビームの射撃座標を空間上に固定します」
右腕に密着する香取と、左脚にしがみつく鹿島が、ひでの意図を完璧に理解して即座にコンソールを叩く。
ひでの指示は、地上戦の歩兵戦術における指向射撃の完全な応用だった。
あらかじめ敵が来る場所に銃口を向け、面で制圧するという泥臭い戦術である。
ゼータプラスが巨大な柱の陰からカメラと腕部だけをわずかに覗かせ、香取が予測したシグーの進行方向の空間へ向けて、牽制のビームとバルカンの弾幕を容赦なくバラ撒く。
「ほう。もう一機は、随分と泥臭い戦い方をする。素人かと思ったが、厄介だな」
シグーのコックピット内で、クルーゼはゼータプラスの徹底して被弾を避ける臆病な、しかし極めて生存に特化した戦術にわずかな煩わしさを覚えた。
直撃はしないものの、移動したい空間に的確に置かれる弾幕は、シグーの自由な機動を確実に制限している。
クルーゼは舌打ちをし、あの灰色の機体を後回しにして、攻撃の矛先を再び未熟な動きを見せるストライクへと向けた。
クルーゼの猛攻に晒されたストライクは、ビームライフルを撃ち返しながら必死に後退する。
「ひでさん、ストライクのエネルギー残量がレッドゾーンに突入しました。被弾による装甲のエネルギー消費が激しすぎます」
鹿島がモニターを見つめながら、悲痛な声を上げる。
彼女の言う通り、ストライクの純白の装甲が明滅を始め、フェイズシフトダウンの兆候を見せていた。
ストライクのエネルギーが完全に限界に近づき、クルーゼがトドメを刺そうとシグーの銃口を向けたその時だった。
「そこまでだぜ、仮面ヤロウ」
通信回線に、飄々としながらも鋭い殺気を孕んだ男の声が突如として割り込んできた。
直後、ヘリオポリスの外宇宙に繋がる暗いコロニーシャフトから、オレンジ色に輝くスラスター光を引いて、異形の機体が猛スピードで乱入してくる。
四つの巨大なポッドと、細長い機首を持ったモビルアーマー、メビウス・ゼロである。
地球連合軍の誇るベテランにしてエースパイロット、エンデュミオンの鷹ことムウ・ラ・フラガの到着だった。
メビウス・ゼロの機体から、四基の樽型の兵装であるガンバレルが、有線ケーブルを伸ばしながら一斉に射出される。
それぞれのガンバレルが独立した推力で空中の全く異なる座標へ散開し、シグーを中心とした完全な球状の包囲網を瞬時に形成した。
「行けよぉっ」
ムウの叫びと共に、四基のガンバレルから一斉にビームが放たれ、シグーを全方位からオールレンジ攻撃で包囲する。
それに対し、クルーゼのシグーもまた、常人には目で追うことすら不可能な速度で機体を捻り、四方向からのビームを紙一重で回避しながら重突撃機銃で反撃を放つ。
空間の上下左右という概念が完全に消失した、次元の違う超高速の三次元攻防だった。
「なんだあれは。これが、この世界の『本物』の戦争か」
ひではゼータプラスを隠している柱の陰からその異常な光景を見て、背筋にぞっとするような冷たい汗がとめどなく流れるのを感じた。
有線で繋がれた四つの砲台を別々の方向に飛ばし、同時に敵を狙い撃つなど、人間の脳の処理能力でできるはずがない。
「ひでさん、あのオレンジ色の機体の軌道、常軌を逸しています。四つの砲台が完全に独立した射角を維持しています」
香取が眼鏡の奥の瞳を限界まで見開き、コンソールのデータに戦慄する。
「あれをたった一人の生身の人間がコントロールしているというのですか」
「大艦巨砲の海戦でも、あんな全方位からの同時飽和攻撃なんてありえません。まるで空中に四隻の駆逐艦が同時に展開しているようです」
鹿島もまた、自身の艦娘としての常識が根底から覆される光景に、顔色を青ざめさせていた。
だが、ひではただ畏怖して立ち尽くしているつもりはなかった。
右手に握った操縦桿に、ギリッと音が鳴るほどの力を込める。
「ぼーっと見てる場合じゃない。あのオレンジ色の味方機を俺たちも援護するぞ」
ひでの怒鳴り声に、香取と鹿島がハッとして我に返る。
「ストライクの坊主はもうエネルギーの限界だ。俺たちがあの四つの砲台と一緒に弾幕を張って、シグーの逃げ道を物理的に塞ぐんだ。香取、鹿島、いけるか」
「はい。メビウス・ゼロのガンバレルの射線をリアルタイムでトレースし、火網の空白地帯を割り出します」
香取が即座にコンソールを叩き、凄まじい速度で弾道計算を始める。
「空いている空間に、私たちのバルカンとビームを叩き込みます。ひでさん、いつでもトリガーを引けるように準備をお願いします」
鹿島もまた、香取のデータを火器管制システムに同期させていく。
三人の意識が再び極限まで研ぎ澄まされ、ゼータプラスが柱の陰から機体を大きく乗り出した。
「香取、右斜め上の空間だ。あそこが薄い」
「了解しました。照準、自動補正かけます」
「鹿島、ビームのチャージはどうなっている」
「次の一発で限界です。外せませんよ、ひでさん」
「任せろ。外れる場所には撃たない」
ひではストライクやメビウス・ゼロのように、空中を舞ってシグーを追い詰めることはできない。
だからこそ、ムウのガンバレルがシグーの前後左右を塞ぐのなら、ひではその包囲網からシグーが抜け出そうとする退路の空間に向けて、歩兵らしい指向射撃を徹底的に浴びせかける。
ズガガガガッというバルカンの連射音と、ビーム・カノンの強烈な閃光が、コロニーの空間を交差する。
ひでという自衛隊の歩兵が持つ地べたを這うような意地と、ムウ・ラ・フラガという天才の空間認識能力が、偶然にも一つの完璧な火網を形成した意地の共闘だった。
「ちっ。下でチョロチョロと、鬱陶しいハエめ」
クルーゼが忌々しげに舌打ちをするのが、通信のノイズ越しに聞こえるかのようだった。
シグーはムウのガンバレルとひでの弾幕に完全に動きを制限され、決定的な反撃のチャンスを失っていた。
焦燥したクルーゼがシグーの機首を翻し、一時的に距離を取ろうとしたその時だった。
「ひでさん。マリュー大尉から極秘回線で通信が入りました」
鹿島の切羽詰まった声が、コックピット内に響く。
「脱出用の艦が地下ドックから発進します。直ちに合流せよとのことです」
「脱出用の艦だと。どこから出てくるんだ」
ひでが交戦の興奮から我に返り、周囲のモニターを見渡した直後だった。
コロニーの人工大気を震わせる、鼓膜が破れるほどの凄まじい地鳴りが彼らの足元から響き渡った。
ドドドドドッという重低音が全身の骨を揺るがし、工場区画の大地そのものが激しく隆起する。
「な、なんだ。地震か」
「違います、ひでさん。地下から凄まじい質量の熱源が急速に上昇してきます」
香取が青ざめた顔でレーダーの数値を読み上げる。
「質量、約三万トン。全長三百メートル以上。信じられない大きさです」
その直後、地下の秘密ドックを塞いでいた強固な装甲ゲートが、内側からの圧倒的なビームの直撃によって木っ端微塵に吹き飛ばされた。
マグマのように真っ赤に溶解した鉄の塊と、砕け散ったコロニーの岩盤が、火山弾のように空高くへと巻き上げられた。
もうもうと立ち込める真っ黒な爆煙と、灼熱の炎を掻き分けるようにして、その信じられないほど巨大な物体が姿を現す。
鋭く前方に突き出た二つの巨大な艦首。
無機質な工場地帯には似つかわしくない、純白と赤に彩られた流線型の美しい装甲。
それはまるで、地獄の業火の中から這い出てきた、巨大な白鳥のような特装艦、アークエンジェルであった。
三百メートルを超えるその巨大な白き艦体が、重力をねじ伏せるようなスラスターの轟音と共に、コロニー内部の空間へとゆっくりとその威容を現したのだ。
「な、なんだありゃあ」
ひでは、メインモニターの半分以上を埋め尽くすその圧倒的な巨艦の姿に、完全に言葉を失った。
「戦艦。いや、宇宙を飛ぶ空母ですか。信じられない質量です」
香取が眼鏡の奥の瞳を限界まで見開き、その信じがたいスケールの兵器に釘付けになる。
大日本帝国海軍の練習巡洋艦としての誇りを持つ彼女でさえ、全長三百メートルという大和型戦艦をも凌ぐ巨体が、海ではなく宙に浮いているという事実に圧倒されていた。
「なんてこと。あの巨大な質量の塊が、重力に逆らって浮上しているなんて。私たちの世界の常識では、到底考えられません」
「美しい。なんて大きくて、美しい艦なんでしょう」
鹿島は、同じ艦としての魂を持つ本能からか、畏怖と同時に恍惚とした感嘆の声を漏らした。
彼女の目は、恐怖ではなく、未知なる巨大な力への純粋な感嘆で輝いている。
「あんなものが、本当に空を飛ぶっていうのか」
地上を制圧する歩兵であるひでにも、大海原を駆ける艦娘である二人にも、その宇宙を飛ぶ巨大な白鳥の姿は、常識を粉砕する異世界の象徴そのものであった。
だが、感嘆している猶予はなかった。
「艦が出たぞ。キラ、無理するな。艦の防衛に回るんだ」
ひでは圧倒されそうになる意識を強引に引き戻し、通信機に向かって怒鳴った。
ひでの通信に応じ、装甲の色が消えかかりエネルギーの尽きかけたストライクガンダムが、シグーとの交戦を離脱して大きく後退を開始する。
ひでもまた、ゼータプラスの背部スラスターを不器用に吹かしながら、アークエンジェルの広大なフライトデッキへと向けてゆっくりと降下していく。
「香取、鹿島。あの艦に降りるぞ。着艦のサポートを頼む」
「了解しました。アークエンジェルの誘導電波を受信。進入角を調整します」
「足元の障害物に注意してください、ひでさん。最後まで気を抜かないで」
眼下には、炎に包まれて崩壊していくコロニーの凄惨な内部が広がっている。
初めて目にした、鉄を蒸発させる光学兵器の圧倒的な恐怖。
そして、重力すら無視して三次元空間を飛び交う、常識の全く通じない狂った戦場。
自分たちが平和な日本から、取り返しのつかない恐ろしい異世界へと放り込まれたのだという実感が、ひでの三十代の重い心臓を冷たく締め付けていた。