戦記エロゲーの最強悪役貴族に転生したので暴虐のかぎりを尽くそうと思ったのに、なぜかヒロインたちに激重感情を抱かれるようになった 作:佐間野 隆紀
めちゃくちゃ痛い。鼻が折れたかもしれない。
信じられない思いでとりあえず顔をペタペタと触ったが、不思議と鼻血は出ていなかったし、鼻自体も綺麗に形を保ったままだった。
だが、とにかく痛い。まるで顔の真ん中が陥没したみたいだ。
(な、なんだ!? なにがどうなってる!?)
涙目になりながら自分の顔をさすっているうちに、明らかにそれまでとは状況が異なっていることに気づいた。
まず、体が自由に動く。
先ほどまでと違って、意識もはっきりしている。
慌てて顔を上げると、エルザのほうも少し困惑した様子でこちらを見下ろしていた。
まさかこうもあっさり自分の正拳突きが通じるとは思ってもいなかったのだろう。奇遇だな。俺もさ。
(ヤバい……なんだか分からんが、とにかくヤバい気がする……!)
困惑こそしているようだが、エルザから敵意が消えた様子はない。
つまり、状況はまだ継続中だ。
何故かは分からないが、俺はイェルバウトの体を乗っ取ってしまったらしい。
この調子だと魅惑のエロシーンを堪能するどころか、本来のシナリオに反してこの場でエルザに殺されてしまう危険性すらある。
「ふん、どうやら化けの皮が剥がれたようだな」
幾分か動揺らしき様子を見せていたエルザだが、どうやら俺の様態が変わったことにはすぐに気づいたらしく、まるで自身の勝利を確信したかのように口の端を歪めている。
その指先には鉤爪を想起させる鋭い爪が伸び、ひとたび腕を振るえば防具を身につけていない今の俺など容易く切り裂いてきそうだ。
楽しい夢も、これで終わりか……。
そんなことを暢気に考える一方で、何故か心臓だけがやけに嫌な騒ぎかたをしていることに気づく。
先刻、エルザの正拳突きをもらったときは死ぬほど痛かった。それはつまり、この一撃だって迂闊に受けてしまえば、あるいは――。
(いやいや、所詮は夢だろ……?)
床を蹴るエルザ。眼前に迫る鋭い爪。狙いは最初の一撃と同じく眼球だ。そのまま脳まで貫こうという算段だろう。
この一撃を受けて、それで夢は終わり。明日からまた地獄のような仕事の日々がはじまるのだ。
——でも、人生ってそういうものだから。
頑張っても、努力しても、俺のような凡人の前に続くのは大して楽しくもない退屈な日々。
たまの休みには昼間っから酒を飲んでゲームをして、そして、休みが終わればまたあくせく働いて。
そんな味気ない日々を恨めしく思いながらも、けっきょくなにも為せぬまま終わっていく。
どうせ足掻いたところで無駄だって、心の何処かで最初から諦めてしまっているから。
(だから、憧れるんだよな……)
不思議と、時間の流れが遅くなったような感覚がした。
眼前まで迫ったエルザの鋭い爪が、まるでそっと睫毛に触れてくるかのようにゆっくりと眼球までの距離を詰めてくる。
(狂君イェルバウト、か……)
ふと、想いを馳せる。
イェルバウトはルノバルゼオ大陸の西方に位置するラコーツ地方の辺境伯だ。
魔族たちの領地である西部半島と密接するその地で王国への侵攻を防ぐ役割を担う傍ら、近隣の魔族には自ら戦を仕掛けることもあるかなり武闘派な貴族だった。
物語の中終盤まではこのイェルバウトと近隣の諸侯の間で起こった貴族同士の内紛に、ゲーム本来の主人公であるアルトリウスが巻き込まれていくという形で進行する。
狂君。人間であれ魔族であれ自分の意に沿わぬ者はその圧倒的な力で斬り伏せていくその姿から、周囲の諸侯からイェルバウトはそう呼ばれ畏れられていた。
しかし、そういった冷酷無情な一面が強調される一方で、真に強き者こそが世を統べるべきであるという信念を持った男でもあった。
己が利用できるものはなんでも利用し、戦場ではときに搦手を用いながらも、最後は圧倒的な武力による正面からの制圧を好む。
戦に勝ち続けることで己の正当性を証明し、それ故に多くの者から恨みを買うも、それらすべてを受けとめた上で己が覇道を突き進む。
その姿は、まさに悪のカリスマと呼ぶに相応しいものだった。
シナリオ上、最終的には王家とそれに仕える神殿騎士たちの協力を得たアルトリウスの前に屈してしまうが、そんな最後の瞬間でさえ自らの行いを顧みることなく、それでいてアルトリウスの強さを讃えながら没していく姿は敵役ながら見事としか言いようがなかった。
(このまま終わってしまっていいんだろうか……)
――つい、そんなことを思ってしまう。
俺は決してイェルバウトではない。
だが、この体は他ならぬ彼のものだ。たとえこれが夢の中であったとして、俺は今、彼の体を借り受けているのだ。
もちろん、だからといって俺にできることなんてなにもない。俺にイェルバウトのような覇道は歩めない。
――だからといって。
このまま情けなく無様に殺されてしまっては、稀代の名悪役であるイェルバウトを俺の手で汚すことになってしまう。
「……甘いっ!」
ほとんど直感で身を捻り、エルザの爪を躱す。
掠めた爪の先が浅く耳を割いたが、かまわず俺はエルザの体に突進すると、そのままの勢いで思い切り背後の壁に叩きつけた。
「ゴホッ……!?」
強烈に背中を打ちつけたエルザが唾液を飛ばしながら呻き、その場に崩折れる。
無論、放っておけばすぐさま復帰してまた反撃に出てくるだろう。
本来であればそれすらも圧倒的な力で持って制圧するのがイェルバウトなのだろうが、中身はただの一般人な今の俺にこれ以上のことは不可能だ。
(そうだ、拘束具……!)
俺は床に落ちていた拘束具を拾い上げると、よろめきながらも立ち上がろうとしているエルザの腕を掴んで強引に拘束具を取り付ける。
先程の突進の威力からして身体能力自体はイェルバウトのものと変わりないようだから、両手さえ拘束してしまえば俺のような素人でもこの場は凌げるはずだ。
「ふっ……さすがは魔狼将。少し侮りすぎたようだな」
――と、ひとまずイェルバウトっぽい台詞も吐いておく。
なんだかこれはこれで面白い体験だった。
コスプレというか、なりきりというか、こんなふうに自分の好きなキャラを演じることなんてこれまでの人生で初めての経験だ。
どうせ夢なのだとしても――否、夢だからこそ、しっかりと俺なりにイェルバウトを演じきってみせようじゃないか。
「くそっ……もういい、殺せ……!」
再び拘束されたことで、エルザはすっかり抵抗を諦めたようだ。
さすがにまだ俺が弱体化したことまでは気づいていないようで、両手が使えない状態ではどう足掻いても勝ち目がないと判断したのだろう。
戦意を喪失してくれたこと自体は好都合だが――。
(ど、どうする……? ヤるのか……?)
ここにきて、再び俺は逡巡していた。
だ、だって、この先にやることって言ったらさァ……!