グットルムの目から見える世界は地獄だった。
少年の右手はまだ、シグルドの首裏へ深く突き刺さっているフェンリル・ファングを握ったままだ。
抜けない。抜かせてもらえない。
シグルドの背中の装甲が、ガクン、ガクンと重く痙攣する。
人工筋肉の束が暴れ、喉の奥から、野獣とも機械ともつかない低い唸りが漏れた。
それは苦痛の声だった。反撃でも怒号でもない。
中枢を焼かれている肉体が発する生理的な声だった。
グットルムの血の涙が止まらない。
頬から顎へ伝い、ぽたぽたとシグルドのチタン装甲の上へ落ちる。
(ごめん。ごめん、シグルド。頼む、起きてくれよ――)
声にならない悲鳴が喉の奥で千切れる。
警告音はなおも増殖し、室内の端末画面には文字化けしたエラーログが洪水のように流れ始めている。
義体と脳を繋ぐ認証層が崩れ、保護プロセスが焼き切れ、インターフェースの各所が同時多発的に死んでいく。
フェンリル・ファングの針内部で、最後の薬液が押し込まれる。
制御された指が柄を捻り、ポートの内部がさらに裂けた。
冷却ガスが噴き出す。
だが、もう規則正しい音ではない。
どこかひび割れた、乱れた息に似ていた。
致死性ウイルスの奔流が、シグルドの電脳を内側から焼き尽くしていく。
網膜ディスプレイには、目まぐるしく明滅する赤色の警告文字と、判別不能な電子ノイズの嵐が吹き荒れていた。
延髄ポートから侵入したウイルスが、神経接続の中枢を食い破り、電脳と義体を繋ぐ橋を一本ずつ燃え落としていく。
重装甲義体F-1-Xの各関節は、過負荷によって激しく火花を散らし、スリープ・ポッドの拘束具を幾度も叩きつけては鈍い金属音を室内に響かせた。
千本、いや万本の焼けた針金を脳髄へまとめて突き込まれるような激痛の中、シグルドは強制的な覚醒を強いられた。
本来、この至近距離で自身に致命傷を与えた敵に対し、シグルドの肉体は瞬時に反撃を繰り出すよう設計されている。
実際に、右腕の奥底では、独自の防衛プロトコルが獲物を両断すべく牙を剥きかけていた。
だが、シグルドはその殺戮の衝動を、残された僅かな意志の力で捻じ伏せた。
麻痺し始めた頸椎の奥を高電圧が走り、頭蓋の内側で何かが焼き切れる音がする。
背中の人工筋肉が勝手に膨張し、装甲が軋むのも構わず、彼はゆっくりと背後を振り返った。
そこには少年が立っていた。
血の涙を流していた。両目の端から赤い筋が頬を伝い、床の油膜へと滴り落ちている。
泣き顔などという綺麗なものではない。だが、その歪んだ顔には見覚えがあった。
ジャンク屋の薄暗い工房で、ろくな飯も食わずにシグルドの首裏ポートのノイズを削っていた時の、あの不器用でまっすぐな少年グットルムの顔だった。
ただ違うのは、今、その右手が凶刃フェンリル・ファングを握り締め、シグルドの延髄へと深く突き立てたまま固定されていることだった。
突こうとしているのではない。抜けないのだ。
少年の細い腕は万力のように強張り、口が動き、喉が震えているのに声にならない。
ただ息だけが漏れ、そのたびに血の涙がまた一筋、落ちる。
シグルドはそこで、すべてを理解した。
シグルドは少年の目を見た。
少年もまた、涙に濡れた視界の向こうからシグルドを見ていた。
そこで交わされたものは、会話ではなかった。
シグルドの瞳に浮かんだのは、自分を刺した少年への怒りでもなければ、命を奪われることへの殺意でもなかった。
なんでだ。
なんで、もっと早く俺に助けを求めなかった。
なんで、一人でこんな目に遭うまで黙っていた。
グットルムの口が震える。
「……ぁ……」
声にならない。
だが、シグルドには言いたいことが分かった。
ごめん、と叫んでいる。
違う、と否定している。
助けてくれ、と泣いている。
すべてが一緒くたになって、喉の奥で潰れている。
シグルドの視界の端で、エラーログがまた赤く弾けた。
数字が上がっていく。
脳が焼けていく。
もう長くはない。
シグルドは、もはや光を失いかけ、電子の霧に呑まれようとしている瞳を細めた。
そして、血の涙を流し続ける少年に向けて、微かに微笑んだ。
それは、戦場に生き、人殺しとして歩んできた野獣が、最期の瞬間に見せた、人間としての表情だった。
それを見た瞬間、グットルムの目がいっそう大きく見開かれ、血の涙がぼろぼろと零れた。
シグルドは喉を鳴らし、掠れた声を押し出した。
「……泣くな。どうせこのガラクタは、もう寿命だったんだ」
慰めにもなっていない。
赦しの言葉としてはあまりに不器用で、遺言としては短すぎる。
だが、壊すことしかできない男に言えるのは、その程度のことしかなかった。
シグルドの視界が急速に揺れ、意識が剥がれていく。
痛みさえ輪郭を失い、警告音が水の底で鳴っているかのようにくぐもっていく。
その深淵なる暗転の底で、ふと、別の熱が脳の奥に灯った。
焼けるような幻肢痛。
忘れた頃に蘇るあの熱。
女の声のようなもの。
泣き声にも、笑い声にも聞こえる、遠いノイズ。
――ずっと待っていた。
そんな気がした。
誰かがそう言った気がした。
あるいは、焼け切れる神経が見せた幻だったのかもしれない。
シグルドはもう、それを確かめたいとも思わなかった。
グットルムの血の涙が、また一滴、肩へ落ちる。
熱い。
その熱だけは、まだ感じられた。
脳を巡る電気信号がウイルスによって完全に焼き切れ、シグルドの意識は永遠の闇へと沈んだ。
首が力なく垂れ下がる。
肩のダクトが小さく白い息を吐いたあと、シグルドの瞳から、光が抜けた。
シグルドの意識が落ちきった瞬間、部屋の空気が変わった。
それまでメンテナンス・ルームを支配していたのは、死にかけの熱だった。
血の匂い。焼けた配線の匂い。冷却ガスの白い息。大切な人を刺した少年の絶望。
今、そのどれとも違う別の何かが目を覚ました。
ピッという、あまりにも短い、無機質な電子音。
次の瞬間、シグルドの右前腕の内部で、重い金属同士が激しく噛み合う音が響いた。
ガシャンッ!
それは脳の指令ではない。筋肉の反射でもない。
だが、獣が眠りの底で歯を剥く時の音を、鋼鉄で作ればきっとこうなるだろう。