「またやったのかよ、あんたは!」
甲高い声が、雨音の向こうから飛んできた。
路地の奥から駆け寄ってきた少年は、ハッカーのグットルムだった。痩せた肩を濡らし、薄いジャケットの襟を立てている。
スラムでジャンク屋を営みながら、独学でハッキング技術を磨いているドブネズミだ。
頬はこけているが、若い眼だけが妙に生き生きとしている。首筋には、どこかで拾ったらしい安物のインターフェースが無骨に埋め込まれていた。
街の底で生き延びるために、自分の体を少しずつ工具に変えていった少年の顔だった。
彼はシグルドの足元に転がった死体を見ても眉一つ動かさず、むしろシグルドの義体の関節部分を覗き込んで小言を並べ始めた。
「ジョイントの調整代、いくらすると思ってるんだ? 俺が安く請け負ってなきゃ、あんた今頃スクラップ置き場で寝てるぜ」
「……悪いな。腕が勝手に動いちまった」
シグルドは微かに苦笑し、少年に促されるまま、ミズガルズの路地裏から、隠されたリフトを使って地下街ニヴルヘイムへと下っていく。
そのまま二人は薄暗いジャンク屋の奥にあるグットルムの工房へと足を運んだ。
店の表は廃モニターと錆びた義手の山だが、奥にはグットルムの巣のような工房がある。
裸電球、工具、開きっぱなしの端末、油で黒ずんだ作業台。
壁には分解された脚部パーツと、どこから盗んできたのか分からない高級メーカーの神経ケーブルが吊るされていた。
シグルドは無言で腰を下ろした。
巨体を折り曲げるようにして椅子に座ると、首の後ろを守る分厚い防弾カラーが機械仕掛けの鈍い音を立てて開く。延髄に繋がるメンテナンス・ポートが露出した。
普段は厳重に守られている場所だが、今はスリープ状態のために開放されている。
そこが、最強の義体の下にある生身へ通じる、最も無防備な唯一の弱点だった。
最強の野獣が、最弱の少年にあっさりと自分の命を預けている。
誰かが見たら笑うか、震えるか、そのどちらかだろう。
グットルムは手垢のついたコネクタを、シグルドの剥き出しになった神経直結ポートに差し込んだ。
「動くなよ」
「いつも動いてねえだろう」
「体じゃなくて、気持ちだよ」
少年の指先が端末を叩く。雑ではあるが、迷いがない。
診断コードがモニターに流れ、シグルドの視界の端でも整備ログが立ち上がった。
「右腕の反応速度、また上がってる。なんだこれ。脳の信号を待ってないぞ」
「勝手に育つんだろ、野良犬みてえにな」
「笑えねえよ。いつかあんたより先に、その腕の方が人を殺すぞ」
「今も似たようなもんだ」
グットルムは少し黙った。
それから、モニターに映るノイズの向こう側を見つめて言った。
「でも、俺がもっと腕を上げりゃ平気だ。最新の制御チップと、まともな冷却系が手に入れば、あんたの義体はまだ伸びる。そしたら二人で、上の階層へ行こうぜ」
少年は目を輝かせていた。
その瞳は、この街のどこにもない色をしている。
「ヴァルハラなら、酸性雨も降らないし、空気だって肺が痛くならないくらい綺麗なんだろ?」
「上を見るな、小僧」
シグルドが言った。
「酸性雨が
グットルムは口を尖らせたが、シグルドはほんのわずかに笑った。
笑うといっても、口の端がひび割れる程度のものだった。
悪くない、穏やかで不器用な時間だった。だからこそ、それは長く続かなかった。
突如として鳴り響いた高優先度の暗号通信によって、静寂は切り裂かれた。
シグルドの視覚素子に、強制的なポップアップが表示される。
無機質な認証コード。企業の最上位回線。
視界の片隅に強制展開されたウィンドウに映っていたのは、真っ白なクリーンルームを背景にした、青白く冷徹な顔立ちの男だった。
寸分の乱れもない髪。雨にも油にも縁のなさそうな、冷たい美貌。特注のスーツに包まれたその姿は、人間というより無菌室で育てた刃物に見えた。
ファフニール社の若手幹部であり、シグルドの義兄弟にして名目上の飼い主、グンナルである。
『上の階層へ上がってこい、我が
声まで冷えていた。
酸性雨すら凍りつかせるほどに無機質で、傲慢な声だった。
「……ヴァルハラ、か」
シグルドは煙を吐き、接続されていたケーブルを無造作に引き抜かせた。
防弾カラーを閉じる。首の後ろの柔らかい場所が、再び鋼鉄の奥へ隠れる。
「今夜は遅くなる」
少年の憧れる空は、シグルドにとってはただの、血と硝煙にまみれた戦場に過ぎない。
シグルドは立ち上がると、都市の天上層ヴァルハラへと続く高速エレベーターの乗り場へ向かうために、重い足取りで店の入口に歩き出した。
背後では、何も知らないグットルムが、彼を見送るように立ち尽くしていた。
シグルドは振り返らなかった。
隠されたリフトを使って再び地表層ミズガルズへ上がると、街はまだ酸性雨に沈んでいた。
上の世界からの呼び出しは、たいてい碌な仕事を連れてこない。
それでも行くしかないのは、ここでは食うために誰かの地獄を請け負うしかないからだ。
見上げれば、酸性雨が眼球を焼く。だから下を向いて歩く。泥と血と排気ガスの底で、せめて足を取られないように。
酸性雨が、鋼鉄の義体の傷跡をじわじわと濡らしていく。
ニードヘッグの夜は、まだ始まったばかりだった。