※この作品はR-18です。

野獣の電脳に火を放て   作:一丸壱八

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第3話 戦闘移行(フェーズ・シフト)

 高速エレベーターは、唸り声ひとつ上げなかった。

 それが、シグルドには気に入らなかった。

 上へ行く機械というものは、もっと油に汚れていて、重量に抗う悲鳴を上げるのが筋というものだ。

 だが、ファフニール社の天上層行きは違った。

 分厚い防弾ガラスの箱は、音もなくミズガルズのスモッグを突き抜け、酸性雨の幕を置き去りにして上昇していく。

 足元では、黒ずんだ都市がゆっくり沈んでいった。ネオンは濁った水たまりの中でこそ派手に見える。上から眺めれば、どれもこれも壊れた基板の上で瞬いている安物のLEDと大差なかった。

 排気塔の群れが吐き出す煙だけが、まだしぶとく空へしがみついている。

 

 分厚い灰色の層を抜けた瞬間、視界を塞いでいた濁りが消え、暴力的なまでの純白と青空が飛び込んできた。

 空気の色が変わった。

 毒も煤も匂いもない。ただ冷えて、乾いている。

 まるで人間の肺ではなく、滅菌済みのガラス器具に呼吸をさせられているかのようだった。

 

 エレベーターの扉が開く。

 天上層ヴァルハラ。

 そこには雨の音がなかった。巨大なプレス機の音が腹に響くこともなかった。

 磨き抜かれた白と銀の回廊が、どこまでも無機質に伸びている。壁も床も継ぎ目が見えない。

 空調の風はあるはずなのに、その気配すら感じさせない。

 静かすぎて、血の巡る音まで監視されている気がして、シグルドは肩を回した。

 重装甲義体F-1-Xの人工筋肉が、低く濁った駆動音を返す。その場に似つかわしくない音だった。

 肩の排熱ダクトから白い冷却ガスがひと筋こぼれ、きれいな床の上で一瞬だけ生き物のようにのたうってから消えた。

 

 回廊には案内も警備もいない。

 この階層の人間は、自分たちが檻の向こう側にいると信じきっている。猛獣は首輪をつけて招かれてくると。

 最奥のオフィスへ踏み込むと、さらに別世界だった。

 広さを感じさせるものが何もない。

 壁一面の強化ガラスの向こうには、雲海の上の夜景が青白く広がっている。

 飾り気はほとんどなく、あるのは金と権力を持つ人間だけが好む、息苦しいほどの余白だけだった。

 

 その中央に、グンナルが立っていた。

 冷たく光る照明の下で、男は刃物みたいに整って見えた。

 特注スーツには皺ひとつなく、氷みたいな灰色の生地が細い体躯を隙なく包んでいる。

 青白い肌にはインプラントの痕跡も見当たらない。化粧で消したのではなく、最初からそんなものは存在しないと主張している顔だった。

 

「来たか、我が義弟」

 

 グンナルの声音は柔らかい。だがその柔らかさは、喉元に当てたナイフの背で撫でられるのと同じ種類のものだった。

 シグルドは部屋の中央まで歩き、そこで止まった。

 義体用の重量ブーツが床を踏みしめる。ミズガルズの泥は持ち込んでいないが、血とオイルの匂いまでは落とせなかった。

 むしろわざと少し残してきた。

 

「どれだけ空調を回しても、アンタの怯えた匂いまでは濾過しきれないみたいだな、義兄さん」

 

 シグルドは口の端だけで笑った。

 

「血の匂いを嗅ぎ慣れてない、綺麗な犬の匂いだ」

 

 一瞬、グンナルの目の奥が細くなった。

 怒りではない。侮辱を受けた人間の反応にしては、冷えすぎている。

 檻の隙間から猛獣の牙を見たときに感じる、理性の底に沈んだ生物学的な怯え。

 だがグンナルはそれを、次の瞬間には完璧に消した。

 

「地上の排気ガスは、人間の知性を随分と退行させるらしい。野生動物のような嗅覚だ」

「アンタら上の連中みたいに、ホルマリン漬けの標本になるよりはマシだ」

「標本は優秀だ。飢えもせず、裏切らず、仕様(スペック)通りに動く」

 

 グンナルは机上のホログラムを起動した。

 ミズガルズ上端の旧工場区画が赤く塗られ、その周辺に熱源反応が点々と点滅する。ヴァルハラの真下に貼りつくように広がるその一帯は、かつて義体フレームの組立ラインが並んでいた場所だ。

 

「武装テロリストが廃工場に立てこもっている。人数は三十名。ファフニールの機密データを持ち出し、取引材料にしようとしている下劣な鼠どもだ」

「それで、俺に駆除しろと」

「データの奪還、そして全員の処分だ。簡潔でいいだろう」

 

 グンナルは指を滑らせた。

 表示が切り替わり、工場内部の見取り図と推定武装が並ぶ。

 アサルトライフル、即席爆弾、強化外骨格。

 数だけ見れば、小隊規模の投入が妥当だ。だが、グンナルにそんなつもりはないらしい。

 

「単機で行け」

「ずいぶん景気がいいな」

「君一人で足りる。余計な部隊を混ぜれば、奪還すべきデータまで蜂の巣だ。君は力任せに見えて、手加減くらいは覚えたはずだが?」

「どうだかな。最近は首を飛ばすより、柱ごと叩き折る方が性に合ってる」

 

 グンナルがわずかに肩をすくめる。その動作が、妙に芝居じみていた。

 

「勘違いするなよ、我が義弟。君のその暴力は極めて優秀なハードウェアだが、ハードウェアはシステムを設計できない。君はただ、私の組んだコードの通りにその腕を振るえばいい」

 

 その言葉の奥に、自分には持てない圧倒的な暴力を持つ相手に向けられる、エリートゆえの憎悪が混じっていた。

 グンナルはそれを香水のごとく薄く伸ばして隠しているが、シグルドの鼻は誤魔化せなかった。

 シグルドはホログラムの赤い点を眺めた。

 上の連中はいつだって、人を殺す理由に数字と正義の上着を着せる。

 

「全員処分、か」

「慈善事業ではないのでね」

「アンタの口から出ると、慈善って言葉まで病気に聞こえる」

 

 グンナルは唇の形だけで笑った。

 

「報酬は弾む。君の冷却系もそろそろ更新時期だろう。地下の小僧では手に入らない純正パーツを回してやってもいい」

 

 グットルムの顔が一瞬、シグルドの頭をよぎった。

 痩せた指先。油で汚れた端末。上へ行こうぜ、と笑っていた眼。

 シグルドはそれを表情に出さなかった。

 

「そうだな。吠えろと言われりゃ吠えるのが犬だ」

 

 シグルドは背を向けかけ、そこで一度だけ振り返った。

 

「義兄さん。檻の鍵は、ちゃんと握っとけよ。噛まれたあとで躾の話をしても遅い」

 

 グンナルの頬が、ごくわずかに強張った。

 次の瞬間には、また完璧な無表情に戻る。

 

「案ずるな。君は私の資産(アセット)だ、シグルド。壊れる時も、私が決める」

 

 シグルドは答えず、オフィスを出た。

 回廊の静けさが背中に貼りついてくる。

 ヴァルハラは楽園ではない。

 血も泥も知らない連中が、自分たちの腐臭まで消毒して眠っているだけの墓場だった。

 

 発進デッキは、オフィスの下にあった。

 周囲には整備アームと認証ゲート、最低限のオペレータ端末だけ。

 ここでは美術品みたいに整ったヴァルハラの意匠も薄れ、ようやくファフニール社らしい工業の骨格が覗いていた。

 

 シグルドはポッドに乗り込んだ。

 内部は一人用に最適化され、座るというより、兵器を梱包するための型に身体を差し込む構造になっている。

 背中と肩がロックされ、足首に固定具が噛みつく。

 頭上からアームが降り、首の後ろの防弾カラーの外側へ診断端子を接続した。

 無機質なシステム音声がポッド内に響く。

 

『全システム、オールグリーン。F-1-X、戦闘モードへ移行(フェーズ・シフト)』

 

 視界の隅に、システムチェックの文字列が走る。

 人工筋肉が、身体の内側でゆっくりと膨らんだ。太いワイヤーと樹脂繊維が束になって軋む感覚は、生身の頃の深呼吸と少し似ている。

 胸郭の内側で反応炉が低く唸り、熱が四肢へ流れていく。

 肩と背中のダクトから白い冷却ガスが断続的に噴き出した。

 ポッド内部が一瞬、冬の屠殺場を思わせる白煙に満ちる。

 

 シグルドは自分の右腕を見た。

 艶消しのガンメタル装甲。彼は銃器を携えていない。

 この義体そのものが歩く凶器であり、右腕の内蔵区画には、神話の魔剣グラムの名を冠する超振動モノ・ブレード「G-R-M」が黒い鉄塊として眠っている。

 遠くの相手に言い訳をしてやるための銃など要らない。

 シグルドが欲しいのは、骨を断つ感触と、重さで黙らせる確かな破壊の手応えだけだった。

 

 ターゲットは廃工場に立てこもった重武装の三十名。数字だけなら、やってやれない仕事ではない。

 だがグンナルが絡むと、たいてい数字の裏にもうひとつの顔がある。今回もそうだろう。

 それでも構わないとシグルドは思った。

 どうせ自分の役目は最初からひとつしかない。壊すことだ。

 

 ポッドの外殻が閉じる。

 狭い暗闇が、装甲の匂いとともに下りてきた。

 発射前カウントが始まる。

 

 五。

 人工筋肉のテンションを上げる。

 四。

 冷却ラインの圧を確認する。

 三。

 首の可動域、視覚素子、平衡感覚を同期。

 二。

 右前腕のロックを解除。

 装甲の下で、G-R-Mが目を覚ます気配がした。

 一。

 

『バイタルチェック終了。エンドルフィン合成完了。疼痛閾値、最大値へ再設定』

 

 そのとき、不意に電脳の奥底が焼けた。

 幻肢痛。

 

(……私を、見つけて……)

 

 電子ノイズに混じって、覚えのない女の声が脳裏をかすめた気がした。

 欠落した記憶が、これから始まる破壊の宴を予見しているかのようだった。

 

「……クソッ」

 

 シグルドは低く唸り、その甘い熱を無理やり意識の底へ押し戻した。

 発射前カウントが終わると同時に、ポッドの底が抜け、シグルドの身体は重力に従って真っ逆さまに突き落とされた。

 重力が全身を押さえつける。

 天上層は一瞬で遠ざかり、鋼鉄の筒の外側を、都市の夜がものすごい勢いで上へ流れていく。

 耳を劈(つんざ)く風切り音と、ポッドの外殻を激しく叩きつける酸性雨。

 魔剣は、神々の住処から地上へ降る。

 ただ、それを振るうのは神ではなく、泥と血の底から呼び出された、一匹の野獣だった。

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