高速エレベーターは、唸り声ひとつ上げなかった。
それが、シグルドには気に入らなかった。
上へ行く機械というものは、もっと油に汚れていて、重量に抗う悲鳴を上げるのが筋というものだ。
だが、ファフニール社の天上層行きは違った。
分厚い防弾ガラスの箱は、音もなくミズガルズのスモッグを突き抜け、酸性雨の幕を置き去りにして上昇していく。
足元では、黒ずんだ都市がゆっくり沈んでいった。ネオンは濁った水たまりの中でこそ派手に見える。上から眺めれば、どれもこれも壊れた基板の上で瞬いている安物のLEDと大差なかった。
排気塔の群れが吐き出す煙だけが、まだしぶとく空へしがみついている。
分厚い灰色の層を抜けた瞬間、視界を塞いでいた濁りが消え、暴力的なまでの純白と青空が飛び込んできた。
空気の色が変わった。
毒も煤も匂いもない。ただ冷えて、乾いている。
まるで人間の肺ではなく、滅菌済みのガラス器具に呼吸をさせられているかのようだった。
エレベーターの扉が開く。
天上層ヴァルハラ。
そこには雨の音がなかった。巨大なプレス機の音が腹に響くこともなかった。
磨き抜かれた白と銀の回廊が、どこまでも無機質に伸びている。壁も床も継ぎ目が見えない。
空調の風はあるはずなのに、その気配すら感じさせない。
静かすぎて、血の巡る音まで監視されている気がして、シグルドは肩を回した。
重装甲義体F-1-Xの人工筋肉が、低く濁った駆動音を返す。その場に似つかわしくない音だった。
肩の排熱ダクトから白い冷却ガスがひと筋こぼれ、きれいな床の上で一瞬だけ生き物のようにのたうってから消えた。
回廊には案内も警備もいない。
この階層の人間は、自分たちが檻の向こう側にいると信じきっている。猛獣は首輪をつけて招かれてくると。
最奥のオフィスへ踏み込むと、さらに別世界だった。
広さを感じさせるものが何もない。
壁一面の強化ガラスの向こうには、雲海の上の夜景が青白く広がっている。
飾り気はほとんどなく、あるのは金と権力を持つ人間だけが好む、息苦しいほどの余白だけだった。
その中央に、グンナルが立っていた。
冷たく光る照明の下で、男は刃物みたいに整って見えた。
特注スーツには皺ひとつなく、氷みたいな灰色の生地が細い体躯を隙なく包んでいる。
青白い肌にはインプラントの痕跡も見当たらない。化粧で消したのではなく、最初からそんなものは存在しないと主張している顔だった。
「来たか、我が義弟」
グンナルの声音は柔らかい。だがその柔らかさは、喉元に当てたナイフの背で撫でられるのと同じ種類のものだった。
シグルドは部屋の中央まで歩き、そこで止まった。
義体用の重量ブーツが床を踏みしめる。ミズガルズの泥は持ち込んでいないが、血とオイルの匂いまでは落とせなかった。
むしろわざと少し残してきた。
「どれだけ空調を回しても、アンタの怯えた匂いまでは濾過しきれないみたいだな、義兄さん」
シグルドは口の端だけで笑った。
「血の匂いを嗅ぎ慣れてない、綺麗な犬の匂いだ」
一瞬、グンナルの目の奥が細くなった。
怒りではない。侮辱を受けた人間の反応にしては、冷えすぎている。
檻の隙間から猛獣の牙を見たときに感じる、理性の底に沈んだ生物学的な怯え。
だがグンナルはそれを、次の瞬間には完璧に消した。
「地上の排気ガスは、人間の知性を随分と退行させるらしい。野生動物のような嗅覚だ」
「アンタら上の連中みたいに、ホルマリン漬けの標本になるよりはマシだ」
「標本は優秀だ。飢えもせず、裏切らず、
グンナルは机上のホログラムを起動した。
ミズガルズ上端の旧工場区画が赤く塗られ、その周辺に熱源反応が点々と点滅する。ヴァルハラの真下に貼りつくように広がるその一帯は、かつて義体フレームの組立ラインが並んでいた場所だ。
「武装テロリストが廃工場に立てこもっている。人数は三十名。ファフニールの機密データを持ち出し、取引材料にしようとしている下劣な鼠どもだ」
「それで、俺に駆除しろと」
「データの奪還、そして全員の処分だ。簡潔でいいだろう」
グンナルは指を滑らせた。
表示が切り替わり、工場内部の見取り図と推定武装が並ぶ。
アサルトライフル、即席爆弾、強化外骨格。
数だけ見れば、小隊規模の投入が妥当だ。だが、グンナルにそんなつもりはないらしい。
「単機で行け」
「ずいぶん景気がいいな」
「君一人で足りる。余計な部隊を混ぜれば、奪還すべきデータまで蜂の巣だ。君は力任せに見えて、手加減くらいは覚えたはずだが?」
「どうだかな。最近は首を飛ばすより、柱ごと叩き折る方が性に合ってる」
グンナルがわずかに肩をすくめる。その動作が、妙に芝居じみていた。
「勘違いするなよ、我が義弟。君のその暴力は極めて優秀なハードウェアだが、ハードウェアはシステムを設計できない。君はただ、私の組んだコードの通りにその腕を振るえばいい」
その言葉の奥に、自分には持てない圧倒的な暴力を持つ相手に向けられる、エリートゆえの憎悪が混じっていた。
グンナルはそれを香水のごとく薄く伸ばして隠しているが、シグルドの鼻は誤魔化せなかった。
シグルドはホログラムの赤い点を眺めた。
上の連中はいつだって、人を殺す理由に数字と正義の上着を着せる。
「全員処分、か」
「慈善事業ではないのでね」
「アンタの口から出ると、慈善って言葉まで病気に聞こえる」
グンナルは唇の形だけで笑った。
「報酬は弾む。君の冷却系もそろそろ更新時期だろう。地下の小僧では手に入らない純正パーツを回してやってもいい」
グットルムの顔が一瞬、シグルドの頭をよぎった。
痩せた指先。油で汚れた端末。上へ行こうぜ、と笑っていた眼。
シグルドはそれを表情に出さなかった。
「そうだな。吠えろと言われりゃ吠えるのが犬だ」
シグルドは背を向けかけ、そこで一度だけ振り返った。
「義兄さん。檻の鍵は、ちゃんと握っとけよ。噛まれたあとで躾の話をしても遅い」
グンナルの頬が、ごくわずかに強張った。
次の瞬間には、また完璧な無表情に戻る。
「案ずるな。君は私の
シグルドは答えず、オフィスを出た。
回廊の静けさが背中に貼りついてくる。
ヴァルハラは楽園ではない。
血も泥も知らない連中が、自分たちの腐臭まで消毒して眠っているだけの墓場だった。
発進デッキは、オフィスの下にあった。
周囲には整備アームと認証ゲート、最低限のオペレータ端末だけ。
ここでは美術品みたいに整ったヴァルハラの意匠も薄れ、ようやくファフニール社らしい工業の骨格が覗いていた。
シグルドはポッドに乗り込んだ。
内部は一人用に最適化され、座るというより、兵器を梱包するための型に身体を差し込む構造になっている。
背中と肩がロックされ、足首に固定具が噛みつく。
頭上からアームが降り、首の後ろの防弾カラーの外側へ診断端子を接続した。
無機質なシステム音声がポッド内に響く。
『全システム、オールグリーン。F-1-X、戦闘モードへ
視界の隅に、システムチェックの文字列が走る。
人工筋肉が、身体の内側でゆっくりと膨らんだ。太いワイヤーと樹脂繊維が束になって軋む感覚は、生身の頃の深呼吸と少し似ている。
胸郭の内側で反応炉が低く唸り、熱が四肢へ流れていく。
肩と背中のダクトから白い冷却ガスが断続的に噴き出した。
ポッド内部が一瞬、冬の屠殺場を思わせる白煙に満ちる。
シグルドは自分の右腕を見た。
艶消しのガンメタル装甲。彼は銃器を携えていない。
この義体そのものが歩く凶器であり、右腕の内蔵区画には、神話の魔剣グラムの名を冠する超振動モノ・ブレード「G-R-M」が黒い鉄塊として眠っている。
遠くの相手に言い訳をしてやるための銃など要らない。
シグルドが欲しいのは、骨を断つ感触と、重さで黙らせる確かな破壊の手応えだけだった。
ターゲットは廃工場に立てこもった重武装の三十名。数字だけなら、やってやれない仕事ではない。
だがグンナルが絡むと、たいてい数字の裏にもうひとつの顔がある。今回もそうだろう。
それでも構わないとシグルドは思った。
どうせ自分の役目は最初からひとつしかない。壊すことだ。
ポッドの外殻が閉じる。
狭い暗闇が、装甲の匂いとともに下りてきた。
発射前カウントが始まる。
五。
人工筋肉のテンションを上げる。
四。
冷却ラインの圧を確認する。
三。
首の可動域、視覚素子、平衡感覚を同期。
二。
右前腕のロックを解除。
装甲の下で、G-R-Mが目を覚ます気配がした。
一。
『バイタルチェック終了。エンドルフィン合成完了。疼痛閾値、最大値へ再設定』
そのとき、不意に電脳の奥底が焼けた。
幻肢痛。
(……私を、見つけて……)
電子ノイズに混じって、覚えのない女の声が脳裏をかすめた気がした。
欠落した記憶が、これから始まる破壊の宴を予見しているかのようだった。
「……クソッ」
シグルドは低く唸り、その甘い熱を無理やり意識の底へ押し戻した。
発射前カウントが終わると同時に、ポッドの底が抜け、シグルドの身体は重力に従って真っ逆さまに突き落とされた。
重力が全身を押さえつける。
天上層は一瞬で遠ざかり、鋼鉄の筒の外側を、都市の夜がものすごい勢いで上へ流れていく。
耳を
魔剣は、神々の住処から地上へ降る。
ただ、それを振るうのは神ではなく、泥と血の底から呼び出された、一匹の野獣だった。