※この作品はR-18です。

野獣の電脳に火を放て   作:一丸壱八

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第6話 炎の壁(ムスペル・ICE)

 血の匂いは、ヴァルハラには存在しないはずだった。

 少なくとも、建前の上では。

 天上層を循環する空気は、ファフニール社の規格票に記載された理想値のまま清浄に保たれている。

 粒子濃度、湿度、温度、細菌数、アレルゲン。

 どれも許容誤差の内側で眠っている。

 通路は白く、窓は青白く、床は靴底の汚れひとつ許さない。

 人間が呼吸して暮らす場所というより、それは死体を腐らせないための巨大な保存庫のようだった。

 

 だが、グンナルの隠し部屋だけは違っていた。

 彼の広大なオフィスのさらに奥。装飾壁と見分けのつかないパネルの一枚が音もなく滑り、生体認証された者だけが通れる細い通路が現れる。

 その先にあるのは、取締役権限を持つ者ですら知らない、外界から完全遮断された違法コンソール・ルームだった。

 

 白と銀のミニマリズムで統一された表のオフィスと違い、こちらは照明を極端に落としてある。

 壁面には黒い吸音材。床には配線を隠した重い鉛板。

 中央には、拘束具のついた一脚の接続シートが置かれている。

 それは、最新鋭の手術台と中世の拷問椅子を掛け合わせたような異様な形状をしていた。

 

 グンナルは、特注のシルクシャツの袖口を整え、締めたネクタイを緩めないまま、指先でコンソールを起動した。

 立ち上がった空中のモニター画面には、一般ネットワークから切り離された暗号層の海が、幾重にも折り重なって表示されている。

 ダークウェブという言葉では生ぬるい。

 ここは、企業が企業を合法的に暗殺する時にだけ潜る、無数の数字の屍肉置き場だった。

 

 グンナルの標的は、明確だった。

 巨大重層工業都市ニードヘッグの地下深く、地下街ニヴルヘイムの最深部にある旧データセンター。

 その中枢に幽閉された初期型兵器級量子AI、ブリュンヒルド。

 そして彼女を守る、致死性の軍用防壁――ムスペル・ICE。別名、炎の壁。

 その呼称は、決して大げさな比喩ではない。

 かつてシグルドを盾にしてすら届かなかったあの炎を、今度こそ自分自身の完璧に洗練された電脳だけでねじ伏せ、過去の屈辱を上書きしてやる。

 

 グンナルは接続シートに身を沈め、こめかみと頸部のジャックへ冷たいケーブルを接続した。

 視界の端に、真っ赤な警告が滝のように並ぶ。

 

『UNAUTHORIZED ROUTE(未承認ルート)』

『NEURAL OVERLOAD WARNING(脳神経負荷上限超過の恐れ)』

『CORPORATE LIABILITY WAIVED(企業免責領域)』

 

 彼はそのすべてを無視した。

 こういう警告は、システムに守られるしかない弱者のためにある。

 自分のような、すべてを論理で支配する選ばれた人間に向けられたものではない。

 そう信じてきたし、実際その冷徹な自負こそが彼を若くして幹部の座へと押し上げてきたのだ。

 

 呼吸を整えて、心拍を落とす。

 認識を、細く鋭い刃のように削り上げる。

 接続(ダイブ)。

 

 ――瞬間、世界が燃えた。

 可視化されたネットワーク空間は、通常ならば青や緑の幾何学的な回廊として知覚される。

 だが、ムスペル・ICEの前では違った。

 そこにあったのは理路整然とした構造物ではなく、純粋で暴力的な灼熱だった。

 赤い、というより白い。

 白熱した巨大な鍛造炉の中へ、生身の脳髄を直接突っ込んだような異常な熱量が、視覚ではなく神経系を真っ直ぐに直撃する。

 無数の電子ノイズが言語野へ太い釘を打ち込み、圧縮された悲鳴にも似た高周波が、グンナルの洗練された電脳を容赦なく引き裂いた。

 

「っ――が、はっ……あ、がぁぁぁッ!」

 

 グンナルの細い体が、接続シートの上で跳ねた。

 鼻の奥で、血管が切れた生々しい感触がある。

 次の瞬間、温かく鉄臭い液体が唇へ流れ込んだ。

 脆く生々しい人間の血であることを突きつけるような鮮紅色のそれが、クリーンルーム育ちの青白い唇を汚し、シルクのシャツへ点々と落ちる。

 

 彼は歯を食いしばり、必死に侵入コードを再構成しようとした。

 だが、ムスペル・ICEはそれを待たない。

 熱と、圧力と、絶対的な拒絶。

 企業内のどんな高度な防壁とも違う。これは論理や数式ではない。

 生き物の原始的な免疫反応に近かった。

 よそ者を検知した瞬間、その存在そのものを跡形もなく焼き払うためだけに組まれた、獰猛で理不尽な殺意。

 

「開け……! 開けぇッ!」

 

 グンナルは呻(うめ)き、コンソールの上で指を踊らせた。

 認証コード、権限偽装、管理者署名の多層被覆。

 彼の電脳は高度に最適化されている。

 企業戦争で幾つもの情報中枢を落としてきた処理能力がある。

 理論上、この世に突破できない壁などないはずだった。

 

 だが、電子の炎はあざ笑うように燃え上がるだけだった。

 白熱したノイズが、脳神経のさらに奥へ突き刺さる。

 視界が激しく明滅し、平衡感覚が狂う。

 胃が完全にひっくり返り、喉の奥から酸っぱい液体が込み上げた。

 グンナルは耐えきれずコンソール脇へ身を折り、吐瀉物を床へぶち撒けた。

 数時間前に胃に流し込んだ高級なヴィンテージ・ワインと胃液、そして鼻血が混ざり合った、薄いピンク色に泡立ったそれ、違法ルームの黒い鉛板の床に汚く広がる。

 直後、強制切断。

 脳神経保護の緊急シークエンスが作動し、グンナルの視界が一気に暗転した。

 

 拘束具が外れた時、彼は床に膝をついていた。

 鼻血が顎を伝い、先ほど自分が吐き出した吐瀉物の酸臭が、微かに漂っている。

 無機質に管理されたヴァルハラの空気の中で、その臭いだけが不愉快なくらい生々しかった。

 グンナルは荒い息を押し殺した。

 肩が震えている。

 それが痛みのせいなのか、それとも絶対的な屈辱のせいなのか、自分でも判別できなかった。

 

「……この、私が」

 

 喉の奥で、掠れた言葉が切れた。

 ムスペル・ICEは、ただ高性能な防壁ではない。

 あれは野性だ。理屈で整形される前の、むき出しの拒絶反応。

 クリーンルームで育ち、最適化と洗練によってのみ鋭くした自分のエリート電脳では、あの狂った熱を受け止めることができなかった。

 自分が一生をかけて積み上げてきた論理も権力も、あの炎の前では脆いガラス細工でしかない。

 グンナルは、吐瀉物の飛んだ口元を手の甲で拭った。

 指先に自分の血がつく。

 その赤が、ひどく醜く見えた。

 

 それと同時に、ひとつの記憶が熱を帯びて浮かび上がる。

 泥水と血に塗れた男。

 どれだけ殴っても折れず、どれだけ壊しても前へ出る野獣。

 論理ではなく、質量と傷跡だけで生き延びてきた義弟。

 シグルド。

 グンナルは床に片手をついたまま、ゆっくりと笑った。

 笑みというには冷えすぎた、刃のような歪みだった。

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