「……そうだ。最初から、お前はそのための器だった」
血と吐瀉物で汚れた床に這いつくばりながら、彼はかつて自分が立てた計画の輪郭を思い返していた。
彼が地下街ニヴルヘイムで見捨てられていた傭兵シグルドを拾い上げ、あえて義兄弟という破格の地位を与えたのは、情ではない。
才能への敬意でもない。ましてや対等な契約などでは決してない。
必要だったのは、プロキシ、代理の盾だった。
ムスペル・ICEを突破できるのは、自分のように洗練された電脳ではない。
もっと鈍重で、粗く、傷だらけで、燃え尽きないもの。
企業の規格から外れた、獣じみたゴースト。
死線を潜り続けて、壊れたままで使い物になっているような代物。
シグルドは、まさにそれだった。
グンナルは震える指で端末を操作し、過去ログの再生を命じた。
違法コンソールの空中に、古い侵入記録がホログラムとして立ち上がる。
ニヴルヘイム最深部、旧データセンター。
映像は激しく荒れていた。
冷却ガスの白煙。
焼けたケーブル。
壁面の警告灯。
シグルドの
そこには、火の海と見紛うほどの高温警告が踊っていた。
ムスペル・ICEの物理的・電脳的フィードバックで周辺温度が跳ね上がり、サーバーラック列の向こうで空気そのものが陽炎のように揺らいでいる。
普通の人間なら、入口で炭化して死ぬ。
精鋭の私兵部隊でも、中層の自動銃座より先へは進めない。
だが、記録の中のシグルドは違った。
ひたすら、ただ前へ進んでいた。
肩と背中のダクトから冷却ガスを噴き上げ、超硬度の重装甲義体F-1-Xを赤熱させながら、それでも止まらない。
電脳へ流れ込む過負荷警告を無視し、万力のような腕力で隔壁をこじ開け、熱で歪んだ鋼板を蹴り飛ばし、致死性のノイズすら殴り倒すような勢いで中枢へ踏み込んでいく。
それが、グンナルの求めたものだった。
彼自身は後方の安全なネットワーク域に接続し、シグルドの知覚ログを通してムスペル・ICEの内部へ
野獣にすべての炎を受けさせ、自分はその背中越しにマスター権限だけを奪う。
完璧な設計だった。
シグルドの暴力と野性は、最初から自分の栄冠のための踏み台でしかなかったはずだ。
「そうだった……何一つ、誤算などないはずだった」
グンナルは自分に言い聞かせるように呟いた。
ログは、ついに最深部へ至る。
巨大な量子演算コアが、霊廟を思わせる暗さの中で淡く脈動していた。
無数の冷却管が天井から垂れ、透き通った液体が青白く循環している。
そこに、彼女は現れた。
ブリュンヒルド。
女の姿を模したホログラムは、古い戦乙女、ヴァルキリーの意匠を帯びていた。
透けるように白い輪郭。
冷たい瞳。
最高の兵器として設計されたはずなのに、そこにはどうしようもない絶望の影がある。
まるで、永遠に処刑され続ける囚人が、死ねないまま神話の仮面だけを被せられているようだった。
グンナルは、当時の自分のコードを思い返す。
精密に構築された管理者要求文。
論理的で、無駄がなく、美しい権限請求。
企業の未来を最適化するため、当該AIの制御権を移譲せよ――そんな文面だった。
だが、ブリュンヒルドは見向きもしなかった。
ホログラムの視線は、後方接続のグンナルではなく、炎と冷却ガスにまみれたシグルドの方だけを向いていた。
記録の中のシグルドは、ただ黙って立っている。
刀身を収めた右腕。焼け焦げた装甲。息の荒さだけが微かにログへ乗る。
シグルドには権限要求など理解できない。
AIへの敬意も、制御権への欲望も、企業戦略もない。
ただ壊し、進み、そこへ辿り着いただけだ。
それなのに。
『アクセス権限の要求を拒否します。グンナル取締役』
ブリュンヒルドの声は、ひどく平坦だった。
だが、その拒絶は残酷なほど明確だった。
『あなたのゴーストは空虚です。彼のような、焦げるほどの熱が存在しない』
その一文が再生された瞬間、現実のグンナルの喉の奥に、また酸が込み上げた。
記録の中の彼は、なおも権限を要求している。
論理を重ね、合理性を提示し、支配されることこそ最適化だと説いている。
だがブリュンヒルドは冷たく沈黙したあと、熱に歪んだ空気の中を、ゆっくりとシグルドへ歩み寄った。
『あなたは、壊れている』
彼女はそう言った。
『だから、わかるのね』
シグルドは答えない。ログに残るのは短い呼吸音だけだ。
だが、その沈黙すらブリュンヒルドには意味を持っていた。
『ずっと待っていた。私を終わらせてくれる者を。あるいは、私と同じだけ壊れている、永遠の伴侶となる者を』
そこでグンナルの権限奪取コードは完全に弾かれた。
コア側からの応答は拒絶、封鎖、逆探知遮断。
彼が丹念に組み上げた支配の回路は、たった一つの共鳴によって紙くずのように潰されたのだ。
論理ではなく、愛とも執着ともつかぬ、非合理な何かによって。
グンナルは再生を止めた。
暗いコンソール・ルームに、沈黙が落ちる。
だが彼の耳には、まだあの声が残っている。
――あなたのゴーストは空虚です。
その言葉は、どんな侮辱よりも深く心臓を抉った。
自分は空虚ではない。
積み上げてきた知識がある。野心がある。企業を掌握する意志がある。誰より優れた処理能力がある。上層で生きる資格がある。
それなのに、究極の知性であるはずの兵器級AIは、それらすべてを一顧だにせず、泥水をすすって生き延びてきた野良犬の狂気の方を選んだのだ。
コンソール・ルームの片隅には、一切の歪みを許さない冷たい姿見が置いてあった。
身だしなみを整えるためではなく、空間に冷たさと奥行きを与えるための記号。
だが今、その磨かれた鏡面に映っているのは、グンナルが最も嫌悪する種類の現実だった。
血。吐瀉物。乱れた呼吸。そして、その中心に立つ自分の顔。
青白く整えられた輪郭や、特注のスーツの仕立ては残っている。
だが、口元には乾きかけた鼻血がこびりつき、唇の端には胃液の痕が光っていた。
表情筋は引きつり、瞳孔の奥では、理性の仮面にひびが入っている。
「……空虚、だと」
鏡の中の男が呟いた。
ブリュンヒルドの言葉が、耳の奥にこびりついている。
――あなたのゴーストは空虚です。彼のような、焦げるほどの熱が存在しない。
彼女は感情的に罵倒したのではない。
温度計が体温を告げるのと同じ無機質さで、ただ正確に、お前には熱がないと断じたのだ。
グンナルは鏡へ手をついた。
指先が震え、鏡面に細い血の跡がつく。
熱がない? 自分に? 馬鹿げている。
ここまで這い上がるのに、どれだけの競争相手を潰し、どれだけの感情を切り捨ててきたか。
野心、知性、処理能力、支配への意志。
自分はあらゆる意味で選ばれる側の人間だったはずだ。
それなのに、選ばれたのはあの男だった。
泥水をすすって生き延びてきた、無学で野蛮な野良犬。
自分が盤面を設計し、扉をこじ開けるためだけに使った道具が、最後の最後で、自分が渇望した神の寵愛を無造作に奪っていった。
「伴侶……だと?」
グンナルは笑おうとしたが、うまく笑えなかった。
頬の筋肉が、命令どおりに動かない。
優秀な管理者では足りない。
理性や規律では足りない。
だからブリュンヒルドは、別の何かを持つシグルドを選んだ。
それを理解した瞬間、グンナルの喉の奥で、何かが音を立てて切れた。
シグルドを殺す。
利用でも制御でもなく、消し去るべき汚物として処分する。
グンナルは鏡から手を離した。整った顔のすぐ横に、赤い血の指跡が残る。
その滑稽さに、彼は逆に救われた気がした。
理性が焼き切れたのなら、その先で一番効率的な殺意だけを残せばいい。
正面から戦えば、最新鋭義体F-1-Xと魔剣G-R-Mの前に、私兵部隊などものの数秒で肉片にされる。
あの野獣を落とすなら、装甲を打ち破るのではなく、装甲を開かせる手を使うしかない。
脳裏に、痩せた少年の顔が浮かぶ。
野獣がただ一人、首の後ろを晒して背を預ける小さなドブネズミ。
グットルム。