深夜の地下街ニヴルヘイム。
重い湿気と排気ガスの臭いが立ち込めるメンテナンス・ルームには、静寂が横たわっていた。
唯一、室内の沈黙を破るのは、スリープ・ポッドに沈んだ巨大な戦闘義体F-1-Xから漏れ出る音だけだ。
シューッ。
短く吐いて、止まる。また吐いて、止まる。
膨大な熱量を処理するための冷却ガスが、一定の周期で規則的に吐き出され、暗闇の中に白い蒸気の尾を引いている。
その無機質な呼吸音は、さながら死を待つ野獣の最期の喘ぎのようにも聞こえた。
シグルドは、ポッドの中でうつ伏せに近い姿勢で、深い昏睡状態にあった。
全身の九割を鋼鉄へと換装した彼にとって、ここだけは唯一、装甲を脱ぎ捨てることのできる聖域だ。
普段は重厚な防弾カラーによって厳重に守られている首の後ろ――延髄のメンテナンス・ポートが、調整のために物理的なシャッターを開き、無防備にその回路基部を晒している。
分厚い装甲に包まれた全身の中で、そこだけが剥き出しの急所だった。
ここに異物を打ち込まれれば、いくら野獣じみた義体でも助からない。
シグルドはそれを知っている。
知っていて、ここでは眠る。
背中を預けていい相手がいる時だけ、怪物は怪物であることをやめる。そういう、不器用な眠り方だった。
突如、重い鋼鉄の扉が、油の切れた蝶番を軋ませてゆっくりと開いた。
いつも聞き慣れた音のはずだった。だが今夜、その音はやけに遠い。
部屋の静寂に薄い刃を差し込むような、不吉な響き方をした。
入ってきたのは、グットルムだった。
足を引きずっている。引きずるというより、膝と足首の噛み合いが一拍ずれていた。
足裏が床を離れる瞬間、必要以上に爪先が跳ね、着地のたびに骨へ直接響くような硬い音がする。
腕は不自然に振り子のように揺れ、首はほんの少し右へ傾いたまま戻らない。
打ち込まれたフェンリルに神経を焼かれ、埋め込まれた行動制御チップに筋肉を引かれて歩かされている肉体。
だが、意識だけは死んでいなかった。
無慈悲なほどに鮮明だった。
グットルムには見えていた。
聞こえていた。
分かっていた。
目の前にあるのは、いつものメンテナンス・ルームだ。
冷却ガスの匂いも、油の染みた床の感触も、全部知っている。
あの巨体が無警戒に延髄ポートを晒すのは、自分の前だけだった。
身体は勝手にそこへ向かっていく。
やめろ。
止まれ。
戻れ。
頭の中でどれだけ絶叫しても、足は止まらない。
膝が曲がる。足首が持ち上がる。次の一歩が出る。
まるで自分の神経に別の人間の指が入り込んで、中から糸を引いているみたいだった。
(逃げてくれ……! シグルド、起きてくれ!)
声にならない。
喉は震えているのに、舌が命令を聞かず、口元は痙攣するばかりだ。
意識はこんなにも鮮明なのに、身体だけが奪われている。その事実が、何より恐ろしかった。
右手には、凶刃が握られていた。
フェンリル・ファング。
錆びた鉄片と工業用の太い注射器を無理やりダクトテープで束ねたような、悪意そのもののような端子だった。
打ち込むための刃であり、穿孔と同時に致死性ウイルスを流し込むための毒の牙だ。
それが掌に食い込む。
手を開け、と念じる。
だが右手は固まり、柄へ食い込んだ爪がじわじわと剥がれても、少しも緩まない。
一歩。
また一歩。
歩くたびに、少年の虚ろな瞳から何かが零れた。
床へ落ちた雫は、暗がりの中でも黒く濃かった。
熱と薬と過負荷で毛細血管が切れ、涙に混じった血が頬を伝っている。
ぽたぽたと落ちるたび、床の油膜に赤い輪が浮いては崩れた。
血の涙だった。
自分の意思がまだ死んでいない証拠のように、それだけが勝手に溢れ続ける。
(あんたは、こんな所で寝るなよ……)
心の中で、グットルムは泣きながら毒づいた。
なんでこんなふうに首の後ろを晒してる。
なんで俺なんかに預ける。
なんで、俺を信じた。
シグルドは信じていたのだ。
地下のドブネズミのような少年でも、少なくとも自分の背中を食い破ることだけはしないと。
その信頼を、自分の意志ではなく別の悪意に利用されている。
裏切る自由さえ奪われた状態で、大切な人の喉笛に噛みつかされようとしている。
同じ頃、天上層ヴァルハラの違法コンソール・ルームでは、別の静寂があった。
黒い壁。落とされた照明。
その中央で、グンナルは最高級のワイングラスを傾けながら、少年の視覚素子から送られてくる映像を特等席で眺めていた。
滲んだ視界と揺れる焦点。
白い冷却ガスを噴き上げて眠る野獣の首裏。
自分の完璧な論理を拒んだ野獣が、自身が慈しんだ弱き者に背後から食い破られる――その最高のショーを、彼は陶酔した瞳で見つめている。
怒りも焦燥もない。ただ、精密に組んだ計画がいま肉体を通して実行されていく様を、冷えた愉悦で観察している。
支配とはこういうことだ、とでも言いたげに。
ポッドは目前だった。
整備アームの金属光沢がぼんやり見える。
冷却ガスの白い筋が、シグルドの肩口から規則的に流れている。
眠っている。深く、何も知らずに眠っている。
その首裏、開いた防弾カラーの奥に、延髄ポートの黒い受け口が見えた。
そこへ刺せ、と身体が命じられている。
グットルムの膝が軋んだ。
肩が後ろへ引かれる。
ゆっくりと右腕が上がる。
これは自分の動きじゃない。
肉体の可動域を最短距離で使い、急所を穿つために最適化された、プログラムされた暴走だ。
フェンリル・ファングの錆びた刃先が、裸電球の下で鈍く光る。
グットルムの顎はがちがちと鳴っていた。
喉の奥では壊れた笛のような声が漏れている。
だが、どれだけ泣こうが、どれだけ拒もうが、身体は指示に忠実だった。
裏切る相手を殺せる位置へ、正確に一歩一歩運んでいく。
血の涙がまた一筋、床へ落ちた。
右手がさらに限界まで高く振り上がる。
肩の筋肉が外から引かれる。
狙いはぶれずに、延髄ポートへ、寸分の狂いもなく吸い寄せられていく。
(やめろ!)
頭の中で、最後の叫びを上げた。
(やめろやめろやめろ! 俺にこの人を殺させるな――!)
だが静かな地下室には、少年の関節が軋む低い音と、冷却ガスの音だけが響いていた。
シューッ……。シューッ……。
その規則正しさが、処刑のカウントダウンのように夜を刻んでいた。
グットルムの右手が、限界まで持ち上がった。
肩の関節が悲鳴を上げて、肘が軋む。
手首の腱が、人間の可動域を超えた角度で引き絞られる。
普通の人間なら、ここまで腕を振り上げる前に痛みで力が抜けるだろう。
だがグットルムの肉体は、痛みで止まる権利すら失っていた。
脳の奥へねじ込まれた制御チップが筋肉のひとつひとつを乱暴に掴み、最短軌道で殺傷動作へ固定している。
フェンリルに焼かれた神経は、沈黙したまま暴力的なコマンドに従うしかなかった。
ポッドの傍らに立つグットルムの影が、淡いモニターの光に伸びて、横たわる野獣の巨体を不気味に侵食していく。
その少年の
グンナルはワイングラスを傾けながらスクリーンを見つめていた。
彼にとって、自分を拒絶したAIに選ばれた野獣が、無価値なドブネズミの手によって屠られる瞬間こそが、何よりの美酒だった。
グットルムの右手に握られているのは、洗練された電子兵器などではない。
黒ずんだ刃先が裸電球の下で鈍く光り、グットルムはその汚れた金属の面に、自分の赤い涙が細く映るのを見た。
(やめろ! やめろ、俺の腕! 下ろすな、刺すな……!)
頭の中で絶叫が渦巻く。だが、声にはならない。
シグルドはまだ眠っていた。
ポッドに深く沈み、巨体を整備アームへ預け、首裏の防弾カラーを開いたまま。
延髄ポートの黒い受け口が、むき出しのまま静かにそこにある。
次の瞬間、脳髄の制御チップが冷酷な信号を発した。
『EXECUTE KILL PROTOCOL(殺害手順実行)』
少年の腕が、一切の躊躇なく、シグルドの首裏へ向かって全力で振り下ろされた。