「はぁ? 持ち帰られたぁ⁉︎」
漆喰が壁に塗られた居酒屋の個室に、私の仰天した声が響く。打ち明けたいことがあると口にした彼女は、かなり恥ずかしそうにその言葉を口にした。
「ちょっと晴香、声が大きい」
「あっ……ごめん、つい」
私の正面にちょこんと座る高校からの親友、斎藤葵は周囲を気にするように一度だけ視線を巡らせてから、困ったように笑った。昔から落ち着いている印象を持つ彼女が、珍しく狼狽している。
「そんなに驚くことじゃない、よくある話でしょ」
「いや、そうかもしれないけどさ……」
私はグラスを持ち上げたまま次の言葉を探したが、葵の口から出たその一言がうまく頭に収まらない。
「合コン?」
「うん。友だちに誘われて」
そう言って、葵は枝豆を一つ摘まむ。その動きに恥じらいや躊躇いはなく、妙に落ち着いていて特別なことを話しているようには見えなかった。
「二次会まで行って、気づいたら終電なくてね」
「……それで?」
「それで、そのまま」
経緯は案外あっさりとしていた。
私の知る限り、これまで葵に彼氏がいたという事実はない。ということは、とデリカシーのない一言が口を伝って出た時にはもう手遅れだった。
「え、ちなみにそれって……初めて?」
「そうだけど……改めてまじまじ言わないでもらえるかな」
「だって、あまりに突然なんだもん。何かあったの?」
「別に何もないよ。ただ、もう大学四年生だから。彼氏の一人くらいは欲しいと思ってもおかしくないでしょ。晴香だって酔っ払ったらたまに愚痴ってるじゃん」
「私そんなこと言ってた?」
「忘れたとは言わせないよ」
「ウソでしょ……」
葵の反応からして、私が管を巻いているのは事実らしい。いくら親友の前とはいえ、今後は飲み方に気を付けようと反省した。
ただ、突然のカミングアウトにまだ気が動転している。根掘り葉掘りとまではいかないけれど、色々と聞かないわけにはいかなかった。
「ちなみに、どこの人なの?」
「同じ大学の先輩だよ。今はもう社会人だけど、一緒に行った同級生の知り合いらしくって」
「超優良物件じゃん! 葵んとこの大学だったら良い会社入ってんだろうし」
「会社で選んだわけじゃないよ。まあ、私には勿体無いと思うけど」
「そんなことないよ。お互いもう大人だから、どんどん恋愛しないと」
とかなんとか、自分のことを棚に上げて言ってみる。
実際、葵は可愛い。私と違って背も小さくて、変な男に捕まらないか友人として不安だった。ただ、幸せを噛みしめているなら何も問題はないだろう。
空になった皿とグラスを下げに来た店員にカシスオレンジのおかわりを頼む。葵はハイボールを注文した。
「晴香はどうなの?」
「どうって?」
「そういう話、ないの?」
「私を誰だと思ってるの? あるわけないでしょ」
実際、そんな想像したこともないし、葵みたいに偶然良い出会いがあったこともない。
「でもバイト先に仲のいい男の子はいるんでしょ」
「いるけど……あの子多分彼女いるよ。なんか軽そうだし」
「晴香はそういうの、苦手そうだもんね」
実際チャラそうな男は苦手だ。でも、顔が浮かんだその子はまた別な気がしている。
顔が熱い。酔いが十分に回った証拠だ。グラスについた結露をなぞりながら、壊れた蛇口のように愚痴が飛び出た。
「あーあ。葵は私と同じ喪女仲間だと思ってたのにな」
「ひどーい」
頬を膨らます葵の反応に笑みが溢れる。
それでも一度感じてしまった不安と焦燥感に蓋をして、私は氷が溶けてすっかり薄くなったカシスオレンジを一気に飲み干した。
◇◆◇
「小笠原さん。3番のお客さんの注文忘れてるよ」
「あっ、すみません! すぐ訊いてきます」
月末の金曜日。バイト先の居酒屋はさながら戦場のようだ。時間制を敷いていても交代でどんどんと新規の客が来店する。これでは厨房もフロアもてんてこまいだ。
「先輩、ここやっとくんで8番卓のセッティングお願いします」
「ごめん、朋也くん。ありがとう!」
「無問題っす」
すれ違いざまに、彼は器用に持ち場をチェンジをして通路の奥に消えていった。
駅前の居酒屋でバイトを始めたのは3年ほど前。きっかけは時給の良さに惹かれた同級生に誘われ、ほいほいと付いて回る形で始めた。その後、私を誘った同級生は半年ほどで辞めたが、性に合っていたのか今に至るまで続いている。
そして半年ほど前、彼が入店した。
機関銃のように矢継ぎ早に注文が飛んでいた店内も11時を越えれば落ち着いてくる。裏手に引っ込んだ私は、一息つきながら来月のシフトを考えていた。
「先輩お疲れ様でーす」
「おつかれさま。さっきはチェンジありがとね」
「気にすることじゃないですよ。あの客、絶対小笠原先輩のことナンパしようとしてましたし」
「気づいてたんだ」
「まあ、あれだけ露骨だと」
実際、あのテーブルに座った大学生の3人グループは、注文を聞きにきた私の顔や胸を見て、値踏みするような視線を送ってきた。それ自体はこのバイトをやってるうちに慣れてしまったが、セクハラ発言だけはまっぴらごめんだった。
「先輩、そういうの慣れてなさそうですし」
「あー、そうやってバカにするんだ。朋也くんもあの客と一緒だよ」
「ひっど。それは心外っすよ」
「じゃあもっと先輩を敬ったらどうなの?」
「んー、まあ、考えときます。さ、休憩終わりっすよ」
「まったくもう、話を逸らすな」
軽口を叩く彼、朋也くんは去年の今頃このバイトに入ってきた。私は就活ど真ん中だったこともあって、彼を知ったのはしばらく経ってからだった。最初こそ、彼は私を先輩として見てくれていたと思う。しかし、ある出来事を境にこんなゆるい関係になってしまった。
今考えれば、ある出来事というほど大げさなものではなかった。
ただ、タイミングと場所と、私の気分が少しだけ噛み合った夜だった。
その日も、バイト終わりにコンビニへ寄った。
金曜日のシフトを終えたあとは、ちょっとしたご褒美を選ぶのがいつの間にか習慣になっていた。いつもなら迷わずスイーツコーナーへ向かうのに、その日は酎ハイ缶が並ぶ冷蔵棚の前で足が止まった。
居酒屋では度数の低そうなフルーツ系の酎ハイを一杯か二杯。それ以上は飲まないし、そもそも家で飲むこともほとんどない。
でも、その日はなぜかアルコール度数7%のハイボール缶に目が行った。
未知の領域である度数に手を伸ばして、それでも怖さが勝ってカゴから戻そうとしたその時だった。
「なに悩んでるんですか」
背後から声がして心臓が跳ねた。
「ひゃっ……!」
自分でも情けないくらい素っ頓狂な声が出た。振り返ると、そこにいたのは朋也くんだった。
「そんな驚きます?」
「だ、だって……」
まさか、こんなところで会うとは思っていなかった。
彼は手ぶらだった。たまたま買い物に来ていたようで、面白そうに私を見ている。
「先輩、完全に不審者ムーブしてましたよ」
「してないし。ちょっと考え事してただけ」
「お酒コーナーで?」
視線が、私の手元に向く。
慌ててカゴを引き寄せたけれど、もう遅い。
「へえ、先輩ハイボールとかいけるんすか?」
「の、飲んだことないよ」
「ですよね。弱そうですし」
こいつ、完全に私のことをバカにしている。ただそれは図星だった。就活で溜まった鬱憤を晴らそうと葵と入った居酒屋で盛大に失敗してから数ヶ月。お酒に関しては完全に腰が引けてしまっていた。
「はい」
私を押し退けて彼が手に取ったのはアルコール度数9%のストロング系の酎ハイだった。それを私のカゴにぽん、と放り込んだ。
「ちょっと!」
「いいじゃないですか」
「どこがよ!」
「先輩、絶対こういうの自分じゃ選ばないでしょ」
否定できなくて、黙る。
それが気に入ったのか、彼は小さく笑った。
「飲み過ぎたらちゃんと水飲んでくださいね。後輩からのアドバイスっす」
「なっ……!」
まったく敬う様子のない、彼は支払いを済ませてさっさと出ていってしまった。残されたのはカゴに入ったハイボールだけ。興味本位で買って飲んでみた。彼の第一印象は、強烈なアルコール臭と翌朝の頭痛によって脳天に刻まれた。
あの夜からだった。バイト終わりに、コンビニで少し話してから帰るのが当たり前になったのは。
この日は午後から雨の予報だった。
けれど、家を出る頃には空は明るく、完全に外れたと思った私は結局傘を持たずにバイトへ向かった。天気予報も、たまには役に立たないと思いながら。
バイトに入る前、スマホを何気なく開いたのがよくなかった。インスタのタイムラインに流れてきた葵のアイコンをタップすると、どこかのレストランの写真が投稿されていた。その奥にいるスーツの男性。顔ははっきり写っていないけれど、距離感と構図、キャプションで分かった。
こういうのを匂わせって言うのだろう。ただ自然な一枚で、ツーショットでもなんでもないのに幸せそうな顔をする葵の顔がありありと想像できた。
ただ、それは思った以上に私のメンタルに響いた。
今まで曖昧だったものが急に輪郭を持って迫ってくる。そんな感じ。
「……私、何をがっかりしてんだろ」
失恋したわけじゃないのに、この喪失感。いや、置いて行かれたという悔しさだろうか。そんな情けない感情をシャットダウンするかのようにスマホを鞄に投げ込んで、制服に着替えた。
それでも、バイト中もさっき見た画面が頭の端から離れなかった。
嫌な想像はコンディションにも悪影響を及ぼすようで、この日の私は明らかに調子が悪かった。
「小笠原さん、7番テーブル、もうオーダー通ってる?」
「あっ……すみません!」
慌てて伝票を確認して厨房へ走る。自分でも分かるくらい空回りしていた。さっきもグラスを割りかけたし、つくづく不器用な自分を呪いたくなる。
「先輩、大丈夫っすか」
すれ違いざまに、朋也くんが小声で言う。
今日に限って、彼の瞳はちゃんと私を見ていた。
「だ、大丈夫だよ」
「……大丈夫な人の顔じゃないですよ」
こそっと耳許で図星を突かれる。言い返す元気もなくて曖昧に笑った。
閉店作業に入る頃には、心も体も疲れ切っていた。顔に出ないよう取り繕っても小さな溜息は無意識のうちに出ている。いつまでも引き摺っていることが原因なのは分かっている。でも、こういう日もあると割り切る事でしか、今日を乗り切る糸口は見えなかった。
「先輩、今日は何にするんですか?」
「うーん。朋也くんは?」
「俺は──」
バイト終わりの労いタイム。駅前のコンビニにはイートインスペースがあって、並んで座ったテーブルに戦利品を並べる。
朋也くんは肉まんとおにぎり。私は迷った末に、サンドイッチとホットのカフェラテを選んだ。
「先輩、今日はお疲れですね」
「そうかな」
「ええ、いつもの危なっかしさに上乗せして危なっかしかったので」
口におにぎりを運びながら、朋也くんが言う。
「いちいち言わなくていいよ。自分でも分かってるから」
「いや、言わないと気づかないかなって」
「ちゃんと気づいてるよ」
声が少しだけ沈んでしまって、しまったと思う。でも、もう取り繕う気力もなかった。
「……なんかありました?」
私は一瞬言い淀んだ。どこまで話すべきか分からなかった。
コンビニの大きな窓に映るのは、横断歩道を渡ってくる人の波。もう落ち込んでいるのもバレてるし、目の前でうねる波に身を任せてみた。
「……友だちにね、彼氏できたんだ」
それだけ言うと、朋也くんは「へえ」と短く返した。変に同情もしないし、いつものように茶化しもしなかった。
「先輩もそういうの気にするタイプだったんですね」
「自分でも意外だよ」
サンドイッチを一口齧る。正直味がよく分からなかった。
「でもまあ、今すぐどうにかなる話でもないでしょ」
「そうかな?」
「そうっすよ」
朋也くんは、少しだけ言葉を探すみたいに間を置いた。その沈黙が少し意外だった。やがて、彼は外を眺めながら言った。
「その友だちが彼氏できたからって、先輩の価値が下がるわけでもないじゃないですか」
思わずサンドイッチを持つ手が止まった。
「……そんなの、分かってるよ」
「でも分かってても気になるんでしょ」
視線が合う。茶化す感じはなくて、妙に落ち着いた目をしていた。
「先輩って、ちゃんと考えてから動く人じゃないですか。だから今まで何もなかっただけで、遅れてるとか取り残されてるとかじゃないと思いますよ」
意外な評価に言葉が出ない。気遣いで出た言葉じゃないことくらい、私でも理解できた。その証拠に、彼の言葉は胸の奥にすとんと落ちた。
「俺からみたら、先輩はずっと自分で選ばないと気が済まないタイプっす」
図星だった。誰かに流されるのが嫌で、でも自分から踏み出すのも怖かった。私の奥底には常に臆病なもう一人が棲みついている。矛盾した面倒な性格をしていると思う。
でも、彼の言葉にも思うところがある。
──高校二年の夏。入部したばかりの一年生が、理想と現実のギャップに悩まされて大量の退部者を出した。そんなガタガタだった吹奏楽部の部長に手を挙げたのは確かに自分だった。学内不祥事のような扱いも受け、部長会議でも針の筵だったから事ある毎にメンブレしていたけど、全国に行けた時に私は初めて自分を褒めた。
それは香織も、あすかも、葵だって認めてくれたことだった。
私は、小さく息を吐いた。
「……朋也くんって、意外と人のことちゃんと見てるよね」
「今さら気づきました?」
「もっと適当な人だと思ってた」
「ひっど」
いつもの冗談みたいな響きを持った抗議に笑みが溢れる。
今、私は彼に絆されている。気が付けば、無意識に心のガードを解いていた。
ふと、ガラス越しに外を見ると、アスファルトが濡れているのに気づいた。道行く人も傘を差し始めている。
「あ、雨だ」
「え、嘘⁉︎」
そしていつの間にか本降りになった。困った。予報が外れたと思って傘を家に置いてきてしまっていた。
「傘、忘れちゃった……」
「俺もです」
朋也くんと顔を見合わせてため息をつく。大慌てな私に対して彼はどこか呑気だった。
「ま、駅まで走っていけばすぐ着くでしょ」
「先輩、電車間に合うんですか?」
まさかと思って時刻表アプリを開く。最寄駅へ向かう電車は、10分程前に出発した後だった。
「うそぉ……」
「……すみません。話し過ぎちゃいましたかね」
彼はそう言いながらも本気で困っているような表情ではなかった。それが私の焦燥感を余計に掻き立てた。傘は忘れるし、変にメンブレもするし、終電は逃すし。結局最後まで締まらない一日だった。
「どうしよう。流石にお風呂にも入りたいし、メイクもこのままは絶対にまずいだろうし……」
タクシーを拾うにも今頃駅前のロータリーは行列が出来ているだろう。それに今月は少しピンチで、タクシー代を捻出する余裕もない。
私が負の思考に沈む横で、彼も解決策を講じていた。
「始発までここ……は、ちょっとやめといた方が良さそうだなぁ」
彼の視線の奥で、廊下をモップがけする店員の姿が見える。そもそも、このスペースは長時間の居座りを許可していない。右に左に振れる毛先が、用が済んだら帰れと促しているように見えた。
「先輩」
朋也くんは、心配そうでも慌ててもいない顔で、私を見ていた。さっきまでの私の思考の海とはまるで別の場所にいるみたいに。
「よかったら、
何を言われているのか、その時すぐに反応できなかった。私は目をパチクリと瞬きさせた。
「え?」
【後編につづく】