裸が出てきますが。
今度は学の時のように見ただけで圧倒される家ではなかった。ごく普通の家の前に車が停まり、伊吹はほっと息を吐いた。少なくともさっきのようなことはないだろう。そんなことを思いながら伊吹は青藍と並んでその家の呼び鈴を鳴らした。
「ほいほーい……っと。おや? こりゃまた珍しい客人だねぇ……って、げ」
玄関を開けた男には見覚えがあった。男はへらへらと笑いながら言って何故か中途で引きつる。伊吹は挨拶しようとしていたことも忘れ、男の視線を追って振り返った。何だろう。別に変なものがある訳ではない。二人の後ろには重森が立っているだけで、他には誰もいないのだ。
「あの、こんにちは」
似たようなことを思ったのか、青藍が戸惑いの表情で男に声を掛ける。そこで我に返ったのか、男はまた元通りのだらしない笑みを浮かべてこんにちはと挨拶を返した。
「えっとまあ、どうぞ。……なんでアンタが入ってくんのさ!?」
大きくドアを開けた男が小声でぼそぼそと言う。伊吹は青藍とありがたく家に上がりながら首を傾げた。重森はなにか問題でも? と男に笑みかけている。確かこの二人は知り合いのはずだから、別に家に上がるくらいのことは構わないのではないだろうか。そんなことを考えながら伊吹は男に言われるままに応接室に入った。
「えと、自己紹介を」
「あー、知ってるからそっちのは。ええと、伊吹ちゃんと青藍ちゃんだよね? オレは
妙に軽い口調で言って順と名乗った男がへらへらと笑う。どうして順は自分たちの名前を知っているのだろう。だが今はそんなことはどうでもいいのだ。伊吹はそう思い直して本題に入った。
「ぶっ」
他の人たちのところで言ったのと同じように、淫魔をめろめろにさせる方法はないかと伊吹が言った直後、順が面白い顔をして吹き出した。そしていきなり大声で笑い始める。
「うははははははははは! 相変わらず面白いね、キミたち!」
「相変わらず?」
言われた意味が判らず、伊吹は青藍と顔を見合わせて首を捻った。テーブルを叩きながらしばらく笑ってから順がぜいはあと息を吐く。笑いすぎだ、と重森が言ったような気がしたが、まさか執事の重森がそんなことを言うはずがない。きっと気のせいなのだろう。
「えーと、なに? めろめろにするヤクみたいなのが欲しいの?」
目に浮かんだ涙を拭いながら順が言う。釈然としないものを感じつつも伊吹は素直にうん、と頷いた。
「そんなのなくてもけっこー手近なモノでいけるんだけどなあ。淫魔ってのは元々、龍神の……ぶっ!」
何故か順が言葉を途切れさせてティカップに顔面を突っ込む。顔中に紅茶を被った順は嫌そうな顔をして振り返った。だがそこには重森しかおらず、別に他のものはなにもない。
「あのお?」
さすがに訝りを覚えたのだろう。青藍が眉を寄せて順に声を掛ける。順は渋い顔をしてハンカチで顔を拭ってから咳払いした。
「ええっとね、とりあえずいいモノをあげよう」
そう言いながら順がごそごそとズボンのポケットを探る。はい、とテーブルの上にのせられたのは小さな透明の瓶だった。しっかりとコルクの蓋の嵌ったそれを伊吹は何の気なしに取り上げた。
「えーっとねー。淫魔ってのはー……精液が大好きなんだよねー」
伊吹はぎょっとして順を見た。言葉を選んでいるのか、順は天井を仰いで途切れがちに言う。
「それでねー、精液からー、生気とか吸うんだけどぉ」
「じゃあ、これ、その」
手の中に収まった瓶と順とを見比べて伊吹は戸惑いの声を上げた。もしかしなくてもこの白い液体は精液なのだろうか。隣に座っていた青藍も物珍しそうに伊吹の手の中を覗き込む。
「そ。精液だよん。それをお風呂に垂らすといいんじゃない?」
順曰く、この程度の量の精液を口に入れたところで淫魔がめろめろになるのは難しい。だが、風呂などの湯気に乗せて拡散させれば、呼吸することで効果が強くなる。……と、いうことらしい。
二人は順に礼を言って家を出た。本当は車で戻るつもりだったのだが、重森は少し順に用があるらしい。幸い、ここから家までは近い。なので、二人は歩いて帰ることにした。
「風呂かあ。考えつかなかったな」
「うん。でも確かにこの間……その、お母さん、飲んでたけど、何ともなかったしね」
言いにくそうに言葉を継いで青藍が頷く。だが瓶は小指ほどの大きさで、中に入っている精液も少ない。こんなもので本当に効くのだろうか。
だがやってみなければ始まらない。家に着いた二人は早速、風呂に向かった。屋敷には幾つかの風呂があるが、水輝が使うのは二階の奥にある風呂場だ。ここが一番水輝の部屋に近いのだ。
「よし、大丈夫。誰もいない」
バスルームのドアを開け、中を確認してから伊吹は青藍に手招きをした。風呂の用意は整えられている。あとは精液を垂らすだけだ。伊吹は広々とした湯船に恐る恐る瓶の中身を入れた。
「特になにも変わらないね」
「ああ。でも俺らが判るはずないだろ。淫魔じゃないと」
瓶の中身を湯に全部落としてから二人は風呂場を出た。どきどきしながら水輝と夕食をとり、二人は早々に伊吹の部屋に戻った。
「大丈夫かなあ、ほんとに」
「今度は間違いなしだって!」
ドアを少しだけ開けて廊下の様子をうかがいながら伊吹は小声で返事をした。そうしているうちに水輝の部屋のドアが開く。出てきた、と小声で報せてから伊吹は水輝の姿を目で追った。間違いない。水輝は風呂に向かっている。水輝が風呂に消えたことを確認してから伊吹は部屋から駆けだした。青藍が不安そうに後をついてくる。
「何だか悪いことしてるみたい」
伊吹と一緒にバスルームの傍に座り込みながら青藍が呟く。バカを言え、と言い返して伊吹はふんぞり返った。
「研究のためだからいいんだっ」
「兄さんのそれは……あ。お母さん、出てきたみたい」
もの凄い勢いでドアの閉まる音がする。どうやら内扉を閉めた音らしい。その直後、大きな足音がして、二人の傍の風呂場のドアがけたたましい音を立てて開いた。
「誰だ! 牛の精液なんざ風呂にぶちまけやがったのは!」
二人は声をなくして水輝を見上げた。水輝はこれから風呂に入るつもりだったのか、真っ裸で出てきたのだ。
「うし……?」
「うし……?」
伊吹と青藍は全く同じタイミングで呟き、手の中の殻になった瓶を見下ろした。しばしの後、漸く我に返った伊吹はうわっ、と喚いて瓶を放り投げた。
「きーさーまーらーかー!」
地獄の底から響くようなどすの利いた声で水輝が言う。そこで漸く、伊吹は逃げ場がないことに気が付いた。
「えっ、ええ!?」
「いや、あの、ぼくらはその」
二人は真っ赤になって何度も首を横に振った。指を鳴らした水輝が不気味に笑いながら二人の前に立ちふさがる。伊吹と青藍は言い訳するのも忘れ、水輝の裸に見入ってしまった。
結局、嫌というほど尻を叩かれた二人は水輝の見張りの元、広い風呂の掃除をさせられた。
二回戦、大敗。
くそう、とぼやいて伊吹は頭をかきむしった。
「やばいぞ! 明日は父さんが帰ってくるんだ! 今日を逃すと後がない!」
「うう、お尻がまだ痛い……。兄さん、よく平気だね」
椅子に腰掛けている伊吹に青藍が呆れたように言う。気合いだ、と頷く伊吹も実はちょっぴり尻が痛かったのだが、青藍の手前、痛くない振りをした。
「でも普通、牛とか判るか!? 信じらんねー」
「ええと、普通は精液が入ってるってことも判らないと……あ。兄さん、やっぱり痛いんでしょ? やせ我慢せずに立って書きなよ、もう」
苦笑を浮かべて青藍が伊吹の腕を引く。だらだらと脂汗をかいていた伊吹は力なくうなだれて椅子から降りた。仕方なく立ったまま研究日誌の続きを書く。のろのろとキーボードを打つ伊吹を横目に眺め、青藍はため息を吐いた。
「やっぱり無理があるよ。まだ夏休みは始まったばかりだし、もっと他のことにしようよ」
「そうだ!」
考えを巡らせていた伊吹は閃きを感じて頷いた。これなら絶対に大丈夫だ。一人でそう言いながら頷く伊吹を青藍が白い目で見る。
「人の話、聞いてる?」
「寝てる時だ! 寝込みを襲えば確実だ!」
「何だか目的がどんどん変わってる気がするけど……」
眉を寄せて呟いてから青藍がどんな案? と訊ねる。伊吹は力強く頷いて自分の考えを打ち明けた。すると青藍がなるほど、と呟く。
「確かにそれならいけるかも」
「だろ!?」
「だとしたら今夜しかないね」