※この作品はR-18です。

とある妖狐の幸福な終焉   作:璽武通

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本編
前編


 ──1ヶ月後、小惑星が地球に衝突し人類は滅亡する。

 

 その報はあまりにも唐突で非現実的だった。しかし、国際連合本部の壇上に立った事務総長の沈痛な表情と震えた声は、それが逃れようのない事実であることを全世界に突きつけた。

 

『──我々にできることは、何もありません』

 

 声明と同時に公開されたデータは、人類の希望を根底から叩き潰した。

 今この瞬間も地球に接近している小惑星の直径は約1400km。人類が持つあらゆる兵器を、技術を駆使しても、破壊も軌道を変えることも不可能。

 衝突地点には直径数千kmに及ぶクレーターが形成され、衝撃波が厚さ数十kmの地殻を同心円状にめくり上げていく。巻き上がった地表の岩石は超高温の隕石となって降り注ぎ、地上は数千度の高温にさらされ、海は蒸発。どんな強固な核シェルターも意味を成さず、地球の生命は細菌一つすら残らない。

 

 未来という概念が消滅したことを悟った人類は絶望し、世界中は大混乱に陥った。だが、どれだけ嘆き狂おうが、宇宙の彼方から迫る死の星は一日ごとにその大きさを増していく。

 

 時間は無慈悲に過ぎていき……やがて最後の日が訪れた。

 

◆

 

 日本のとある田舎町。その外れの森の中に、人々の信仰を失って久しい廃神社がひっそりと佇んでいた。雨風にさらされ、苔むした鳥居。雑草が伸び放題の境内。そして、屋根の一部が崩れ落ちた拝殿の濡れ縁に、巫女服姿の1人の女が座っていた。

 

 年頃は30歳前後といったところだろうか。腰まで届く艶やかな金髪。磨き上げられた宝石のような赤い瞳。透き通るような白い肌。すっと通った細い鼻筋、瑞々しい唇。胸元を煽情的にはだけさせた巫女服からは、大玉のスイカもかくやの豊満な乳房がその存在を強く主張していた。

 

 美の女神かはたまた大淫魔か。人智を超えた美貌に添えられたのは、頭上でピンと立った狐耳と、腰の後ろでゆらりと揺れる毛並み豊かな尾。それらは彼女がやはり人ならざる者であることを示している。

 

 ぼんやりと空を見上げる彼女の目に映るのは、空の一角に居座り、徐々に大きさを増していく巨大な影。地球上に生きる全生命に終わりをもたらす直径約1400kmの絶望。

 まだ地球から遠く離れているというのに影響は出始め、大気は荒れ狂い、吹き荒れる暴風が木々を激しく揺らす。混乱した鳥たちが悲鳴のような鳴き声を上げて空を逃げ惑う。どこにも逃げ場はないというのに。

 

「さすがにこれは、どうにもなりませんね……」

 

 彼女──妖華(あやか)は酒杯を傾けながら呟いた。千年という永き時を積み重ね、多彩な妖術を操る古強者の妖狐の彼女であっても、宇宙の深淵から迫る小惑星の質量を押し返す術など持ち合わせてはいない。

 

 徳利から杯に酒を注ぎ、また呷る。昔、飲み仲間の山姥からもらった強い酒だ。

 杯の中の透明な液体を一息に飲み干すと、焼けるような刺激が喉を伝わって胃の腑に広がっていく。すでに何本かの酒瓶を空にしており、だいぶ酔いが回ってふわふわとしている頭で妖華は自分の生を静かに振り返る。

 

 人間たちがその身を焦がし心を狂わせ、時には化生へ身を堕ちさせることすらある『愛』という感情。人間の感情の極みというべきそれを深く知りたくて、この身と心で感じたくて、妖華は人の姿に化け、彼らの営みの中に混ざり込み、数多の男たちと肌を重ねてきた。

 古くは白拍子や歩き巫女として各地を巡り、江戸の世では遊郭、そして現代の歓楽街。人々の熱情が渦巻く場所で男たちの深淵を覗き続けた。何百、何千という男たちが言葉の限りを尽くして愛を囁き、莫大な金銀財宝を差し出し彼女に求婚した。

 

 けれど、それらが彼女の心身を熱くすることはついぞなかった。決して不快ではなかったが、何かが決定的に「しっくりこなかった」のだ。妖術で彼らの心を覗いてみれば、愛していたのはその目を眩ませるような美貌であり、極上の肢体からもたらされる快楽だった。

 

「……平凡な町娘にでも化けていれば、違ったのでしょうか」

 

 独りごちた言葉が、風にかき消される。その直後に妖華は苦笑して首を横に振った。それは矜持が許さない。この天賦の美貌を隠し、妥協して得る愛に何の価値があろうか。

 ありのままの、この淫蕩で美しい妖狐である自分を、狂おしいほどの情熱でただ真っ直ぐに愛してほしかった。わがままなものだと我ながら思うが、こればかりはどうしようもない。

 

 風に揺れる金髪を指で梳き、彼女は小さく溜息をつくと杯に酒を注いだ。まあ仕方ないと自身の結末を受け入れ、終焉までの残り少ない時間をこのまま静かに酒と共に過ごそう。そう思い杯を煽ろうとした矢先だった。

 

 乱れた風の音に混じって、石段を必死に駆け上がってくる足音が聞こえてくる。頭の上の狐耳が音のほうに向けてピクリと動く。

 聞き慣れた、けれど今はかつてなく必死な足音。妖華は杯を煽り、酒を喉へ流し込む。空になったそれを傍らに置き、ゆるやかに立ち上がると鳥居の方へ視線を向けた。

 

 やがてそこに現れたのは、近くの町に住む小学3年生の少年、悠人だった。

 数年前、森に入り込み迷子になって泣いていたところを助けてあげたその時以来、彼は足繁くこの廃神社へと通い詰めてきた。川で釣り上げた大きな魚のことや、学校のテストで良い点を取れたことなど、日々のささやかな出来事を話しに。

 千年という途方もない時間を生きる妖華にとってこの少年は、庭先にふらりと現れてはにゃあにゃあと鳴いて甘える猫のように愛おしく、儚い存在だった。

 

「はあ、はぁ……!妖華さん……!」

 

 どれだけ必死に走ってきたのか。妖華の前で足を止めた彼は膝に手をつき、肩を激しく上下させる。額から流れる汗が石畳に滴り落ちていく。

 

「悠人くん……。どうしてここに? 家族の傍にいなくていいのですか? もうすぐ、すべてが終わってしまうというのに」

 

 問いに対し、悠人は顔を上げてまっすぐに妖華を見つめた。そして、荒い呼吸を整えようともせず、剥き出しの感情をその幼い喉から絞り出す。

 

「好きだ……。大好きだ、妖華さん……っ!」

 

 少年の魂の叫びが、荒れ狂う風音が満ちる境内に木霊する。吹き荒れる暴風の中にあってなお、決して掻き消されることのない純粋な恋慕の念。

 

「大人になったら、僕と結婚してほしかった! 妖華さんに……僕のお嫁さんになってほしかったんだ!」

 

 その瞬間、妖華の時が止まった。

 かつて彼女の前に跪いた男たちは数知れない。権力に物を言わせた貴族、武功を誇る将軍、財を積んだ豪商。彼らから贈られた煌びやかな求婚の言葉は、一度として彼女の心の深淵に届くことはなかった。

 だが、この十年に満たない歳月しか紡いでいない少年の拙い愛の告白。それは強い言霊となって彼女の胸を打ち、経験したことのない熱を持って鼓動を跳ねさせた。

 

 一瞬で酔いは消し飛び、驚くほどのときめきが熱い奔流となって四肢を駆け巡る。

 死を前にして、いよいよ私も焼きが回ったのか。それとも、私って実は稚児好み(ショタコン)だった? 思考を巡らせるも、胸中で荒々しく灯った熱は、紛れもなく本物だった。

 なぜこれほどまでに心が震えるのか。答えを求めて彼女は妖術を編み、少年の心を覗き見る。

 

 そこには、言葉以上の愛があった。

 この廃神社に来る前、家族と過ごした最後の時間。彼は家族に決死の想いを告げた。最後に、どうしても会いたい人がいるのだと。

 

『──好きな人のところに行きたい。好きだって、伝えたいんだ』

 

 そんな彼を、父も母も、姉も祖父母も、涙を浮かべながら『頑張れよ』『気をつけてね』と笑顔で送り出した。最期まで一緒にいてあげられないことを心の中で何度も詫びながら、彼は破滅の迫る空の下を駆けてきた。もうすぐ幕を閉じる短い生涯。その最初で最後の恋を、一点の悔いもなく終わらせるために。

 

 想いが成就することなど、端から期待していない。すごく不思議で、綺麗で、優しくて……どこか寂しそうな狐のお姉さん。初めて会った時からずっと好きだった彼女にただ、自分の想いを知ってほしかった。最後にその姿を一目見たかった。声を聴かせてもらいたかった。それだけでいい。それで満足して、自分は死を受け入れられる。

 

 ──なんと純粋で、なんと切ない愛だろうか。

 

 少年の想いを目の当たりにして、妖華は感動して震えた。一筋の涙が頬を伝い落ちていく。

 彼が自分に淡い想いを抱いていることは気づいていた。だが、侮っていた。よもやこれほどまでに深く、熱く、重い愛だとは思いもしなかった。

 

 ああ……、これだ。胸を焦がす熱い感情。これこそが、人間の感情の極み──『愛』。千年の間、人の世を彷徨い歩き、万の肌を重ねて探し続けたもの。それが今、ここにある。

 

「……ふふ、嬉しい。そんな風に想ってくれていたのですね」 

 

 妖華の唇から零れるのは、千年の諦念を溶かすような柔らかな声音。涙を指先で拭うと、膝に手をついて必死に荒い息を吐き出す悠人の前へと歩み寄った。

 地面を見つめて肩を揺らす少年の姿は、あまりにも小さく、そしてあまりにも尊い。

 彼女は白く細い指先を伸ばし、彼の額を濡らす汗を優しく拭い去るとその身を抱き寄せた。少年の顔が、巫女服の柔らかな布越しに、豊潤で圧倒的な弾力を持つ双丘の間へと深く沈み込む。

 

 妖華は慈しむように彼の頭を撫で、やがてそっと顔を上げさせた。困惑と熱情が混ざり合う少年の視線を受け止めながら、彼女は身を屈めて吸い付くようにその唇を重ねる。

 

「ちゅっ……♡ んんっ、ちゅぅ……♡」

 

 かつて、この口づけ一つのためだけに男たちは大金を積み上げた。しかし今、ただの純粋な愛だけを携えてきた1人の少年に妖華は自らそれを捧げている。彼の柔らかな唇を食むたびに、彼女の胸の奥底では、これまで一度も経験したことのない未知の熱量が増幅していく。

 

「ん、ふ……っ。ちゅ、んぅ……♡ れろぉ、あむ……んんんっ♡」

 

 最初は初めての経験に戸惑う彼を慮る優しい丁寧なキスだった。だが、悠人の初々しい反応が彼女の理性を甘く溶かし、次第にそれは貪欲な、一方的に蹂躙するようなディープキスへと変貌していく。

 熱に浮かされるまま抱き上げた彼の小さな口内を、彼女の熟れた舌が隅々まで蹂躙し、己の存在を刻み込むように深く、激しく吸い上げた。

 

「んちゅっ、ふぅ、ちゅぱっ♡ あむっ、れるろぉ……んん、あむぅ……っ♡ れる、れろっ♡」

 

 たっぷりと時間をかけ、少年の全てを飲み干すかのようなキスを堪能した後。妖華はゆっくりと名残惜しそうに唇を離した。

 何が起きたのか理解が追いつかず、顔を真っ赤に染め上げ呆然としている悠人を、地面に下ろして微笑む。

 

「ふふ、驚かせてしまいましたね。ごめんなさい。でも……これが、私の答えです」

 

 そう言うと妖華は空中に向かって指を一振りし、境内に結界を張った。荒れ狂う終末の轟音は遮断され、暴風に揺れていた木々のざわめきも消えていく。さらに彼女が術を行使すると、荒れ果てていた拝殿は瞬く間に往時の威厳ある姿を取り戻していった。

 

 静寂に包まれた境内。妖華は悠人の小さな手を引き、拝殿の中へと導いていく。重厚な扉を開けば、行燈の柔らかな光が照らす畳敷きの外陣の中央に、二つの枕が並んだ真っ白な絹の布団が敷かれていた。

 この世界が終わりを迎えるまでの僅かな時間。この少年に己のすべてを捧げたいという、彼女の不退転の決意がそこに形となっていた。

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