# 終章 女神の降伏と受胎
## 5-1 脈のしるし(Day 35)
舞台初披露から、五日後の朝。
アルテミス、司令官公邸、奥のベッドルーム。
マリューは、シルクのシーツに、仰向けで、目を覚ました。
朝日は、この要塞には、届かない。宇宙要塞の内部は、人工の、暖色の、間接照明の朝から、静かに始まる。時計が、八時十二分を、指していた。
――胃の、奥の、深いところに、何かが、軽く、せり上がってくる、感覚があった。
彼女は、ゆっくりと、身体を、起こした。Gカップの豊満な膨らみが、シルクのネグリジェの上で、二つ、自重で、沈み、そして、軽く、波を、打った。
その波打ちの、質感が、昨日までと、わずかに、違った。
――少し、張っている。
彼女は、自分の、手のひらを、ネグリジェの上から、胸に、添えた。指先が、先端の、暗紫色の突起に、触れた瞬間、知らず、小さな、刺すような、痛みが、走った。
衛生士官の、知識が、静かに、鳴った。
乳房の張り。乳首の、過敏化。朝の、胃の不快感。そして――彼女は、昨夜、ベッドサイドに置かれた、自分の、生理用品のストックを、思い出した。
通常の周期は、二十八日。現在、最終の来潮から、三十五日目。
一週間の、遅れ。
十四日のあの夜以降、三十回以上、子宮の最奥で、ガルシアの、濃い、温かい、白濁を、受け止め続けてきた。
妊娠の、確率計算は、本来、医療データを用いて行うべきものだが――
マリューは、それを、計算の前に、身体の、あらゆる細胞が、既に、知っていた。
彼女は、ベッドから、ゆっくりと、足を、下ろした。
裸足の裏が、絨毯に、触れた。
妙に、絨毯の、繊維の感触が、昨日より、鋭敏だった。嗅覚も、聴覚も、普段より、一段、研ぎ澄まされていた。女性の身体が、妊娠初期に、起こす、共通の現象。
マリュー・ラミアスの、二十四年間、実用の機会を、得なかった、女性としての、生理的機能の、最後の一つ――「妊娠する」という機能が、今、彼女の身体の中で、静かに、動きはじめていた。
---
「……確認しよう」
ガルシアが、ネグリジェ姿のまま、震える彼女を、司令官公邸、奥の、小さな医療室に、連れて行ったのは、その日の、午前十時だった。
医療室は、白い、無機質な部屋だった。
壁には、地球連合軍の標準装備の、超音波診断装置。小さなベッド。腹部用のジェル。すべてが、衛生士官出身のマリューにとって、見慣れた、しかし同時に、**自分が、患者の立場で、横たわる**、という経験の、全く無い、場所だった。
医療室の、小さなベッドに、マリューは、ネグリジェの裾を、腰まで、上げて、横たわった。つるりとした恥丘の、すぐ上の、まだ、平坦な、しかし薄く、朝の張りのある下腹部が、冷たい、透明なジェルで、塗られた。
ガルシアが、プローブを、自ら、彼女の、下腹部に、押し当てた。
医師ではない、彼が、プローブを、自分で、操作するのを――マリューは、不思議と、違和感なく、受け入れていた。三十五日間、彼女の身体の、あらゆる場所を、触り、開発し、作り変えたのは、この男だった。だから、今、彼女の身体の、いちばん新しい一点を、確認するのも――他の誰よりも、この男が、ふさわしかった。
モニターに、暗い、画像が、浮かんだ。
ざらついた、ノイズ混じりの、宇宙空間にも似た、単色の、闇。
その闇の中に、雲のような、影が、ゆっくりと、形を、結び始めた。
ガルシアの、慣れた指が、ダイヤルを、回した。画像の解像度が、上がった。
画像の、中央に、ひとつの、小さな、白い、点が、映し出された。
闇の中の、たった一つの、星のような、光。
その光は、一定のリズムで、明滅していた。
鼓動のような、ごく僅かな、脈のしるし。
画面の中の、孤独な星が、マリューの身体の奥の、もう一つの、宇宙の、中心にあると――今、彼女は、知った。
「――ここに、居る」
ガルシアが、低く、呟いた。
彼の指が、モニターの、その点の、位置を、ひと撫でした。
「見ろ、マリュー。お前の子宮に、俺の種が、根付いた」
マリューは、モニターを、見た。
胎児の影。
衛生士官として、彼女は、これまで何度も、他の女性兵士の、超音波診断を、立ち会ったことが、あった。画像として、何度も、見慣れた、「ごく初期の、胎児のしるし」だった。しかし、画面の向こうの他人のお腹と、自分の胎内とでは、同じ画像でも、見え方が、全く、違った。
しかし、今、モニターに映っているのは、彼女自身の、子宮の、中の、しるし、だった。
マリューの、唇が、小さく、動いた。
「……ガルシア、さま」
「何だ」
「――嬉しい、です」
それは――この三十五日間で、マリューが、自分の口から、発した台詞の中で、最も、静かで、最も、素直で、最も、内側から、湧いた言葉、だった。
嘘は、一滴も、混ざっていなかった。
モニターの中の、小さな点を、彼女の、下腹部の、何層もの皮膚の下に、今、**確かに、「生かしている」という事実**が――
マリュー・ラミアスの、二十四年間、「守る者として生きる」と、母の墓の前で誓った、その誓いの、核心と、繋がった。
彼女は、今、二十四年で、初めて、自分の中に、「守るべき、具体的な、誰か」を、宿していた。
アークエンジェルの、百名のクルーでは、なかった。
自分の、子宮の、最奥で、今、脈を、打ち始めた、小さな一つの、命、だった。
マリューの、目尻から、熱い、雫が、ひと筋、流れた。
三十五日前の、初夜の夜に流した、屈辱の涙と、同じ場所を、今日の、静かな、受容の涙が、辿って、落ちた。
ガルシアは、彼女の、平坦な下腹部に、手のひらを、置いた。
医師のような、冷静な、触診の手、ではなかった。
彼の手は、今、父親の、手の、形を、していた。
「マリュー」
彼は、低く、言った。
「お前の子宮は、俺の種を、確かに、受け入れた」
「……はい、ガルシア様」
「これから、この要塞の、医療担当を、お前専属に、配置する。アークエンジェルへの補給完了は、もう、手続き上は、完了している。艦は、これから、正式に、出港する」
マリューは、その言葉に、一瞬、息を、呑んだ。
「出港……する、のですか」
「貴艦、アークエンジェル。ラミアス少佐は、アルテミス防衛強化任務のため、当要塞への、特別出向。そういう、連合総司令部への、申請を、昨日、通した」
マリューの、胸の奥で、かろうじて、まだ、小さく、燻っていた、**「いつか、アークエンジェルに、戻る」**という、最後の、最後の、ひとつまみの、火の粉が――
ガルシアの、淡々とした、行政手続きの、一言で、音もなく、完全に、消えた。
帰れる場所は、存在した。
しかし、その場所は、もう、彼女を、置いて、出港する。
マリューは、唇の端を、わずかに、震わせた。
――しかし、次の、瞬間。
彼女の、下腹部の、手の、下で、小さな、小さな点が、今、脈を、打っていた。
その脈に、彼女の、内側の、全ての、「帰らねばならない」という焦燥が――
**一気に、引き潮のように、退いていった**。
代わりに、残ったのは、奇妙な、深い、安堵だった。
これで、わたしは、ここに、居ていい。
この子を、腹の中で、生かすため、という、新しい大義。
「守る者として生きる」という、母の、誓いの、核心は、対象の名前を、変えただけで、この瞬間、彼女の中で、むしろ、更新されて、生き延びていた。
マリューは、自分の、まだ平坦な、下腹部の、ガルシアの手の下に、自分の、手を、重ねた。
そして、もう一度、小さく、呟いた。
「……ここに、居て、いい、のですね」
「居ていい」
ガルシアは、答えた。
「むしろ、ここで、俺の世継ぎを、産め、マリュー。それが、お前の、新しい任務だ」
新しい、任務。
三十五日前の、初夜で、ガルシアが、マリューに、初めて言った、「これが、お前の、新しい任務だ」――その、同じ、五文字の単語が、今夜、別の意味を、帯びて、マリューの耳に、届いた。
三十五日前は、「雌の器として機能しろ」という意味だった。
今夜は、「母として、生きろ」という意味に、聞こえた。
同じ単語だった。しかし、聞き取る側のマリュー・ラミアスが、既に、別人に、なっていた。
同じ単語が、別の意味を、届ける。
マリューは、ガルシアの、手の上に、自分の、指を、絡めた。
そして、彼女は、生まれて初めて、敵将だったはずの男の、手を――
自分から、握り返した。
---
## 5-2 聖餐の懇願(Day 38)
三日、挟んだ。
その三日間、マリューの、下腹部は、まだ、外見上、一切、変化を、見せていなかった。しかし、彼女の身体の、内側では、無数の、細胞が、分裂を、始めていた。胎盤が、形成の準備を、始めていた。彼女の血流が、内側に、もう一つの、小さな循環系を、迎え入れる準備を、していた。
マリューは、その内側の、変化の、一つひとつを、衛生士官の知識で、正確に、認識していた。
認識しながら、彼女は、奇妙な、安らぎに、包まれていた。
自分の身体が、自分のためではなく、「もう一つの誰かのため」に、働きはじめる。
その、**自分の身体の、役割の、変化**が、彼女の中の、二十四年間、「自分のために生きる」ことに、なじめなかった、古い違和感を、静かに、解消していた。
母のため、に、生きた幼少期。
国のため、クルーのため、に、生きた、青年期。
そして、今――
「自分の腹の中の、子のため、に、生きる」、という、最も、シンプルで、最も、古代からある、女性の生の、意味。
マリュー・ラミアスは、ここに至って、初めて、自分自身の存在の、位置を、静かに、受け入れた。
---
Day 38、二十時、司令官室。
マリューは、今夜、普段の召喚の時刻よりも、一時間、早く、司令官室に、向かった。
ガルシアは、机の奥で、書類を、読んでいた。
マリューが、入室した瞬間、彼は、顔を上げた。
「少佐。早いな」
「少佐、では、ありません、ガルシア様」
彼女は、そう、訂正した。その声は、もう、三十八日前の、冷たく整った、艦長の声では、なかった。柔らかく、しかし、芯のある、女の、声だった。
「連合軍の、籍は、もう、わたしには、似合いません」
「……ほう」
ガルシアが、書類を、置いた。
マリューは、絨毯の上を、ベッドの方ではなく、ガルシアの、机の、足元まで、歩いた。
そして、彼女は、ゆっくりと、絨毯の上に、膝を、折った。
両膝を、美しく、揃えた。両手を、太腿の上に、置いた。背筋を、伸ばした。
それは、軍人の、跪礼でも、雌の、奉仕の姿勢でも、なかった。
それは、**巫女が、神に、祈る**姿勢、だった。
彼女は、視線を、まっすぐ、ガルシアに、向けた。
「ガルシア様」
「何だ、マリュー」
「……どうか、お願いが、ございます」
彼女の、目から、ひとすじ、音もなく、涙が、流れた。
しかし、その涙は、苦痛の涙では、なかった。
それは、聖餐を、受ける前の、信徒の、感涙に、似ていた。
「どうか、この、わたしを」
マリューは、静かに、言った。
「あなた様の、世継ぎを、産む、『母体』として、正式に、お使いくださいませ」
ガルシアの、濁った灰色の眼が、ほんの僅か、細く、なった。
マリューは、続けた。
「マリュー・ラミアスという、名。地球連合軍、少佐、という、階級。アークエンジェル艦長、という、肩書。そのすべてを、今夜、あなた様に、お返しします」
「……」
「わたしには、もう、それらの、名称は、似合いません。わたしは、この三十八日間で、あなた様の手によって、別の、誰かに、作り直されました。その、別の誰か、の、正式な、新しい名を――あなた様に、与えていただきたく、存じます」
絨毯の上で、マリューの、背筋は、最後まで、伸びたままだった。
その姿は、哀しい、では、なかった。
誇り、だった。
自分の新しい役割を、自分で、選び取った、女の、誇り。
「わたしは――ただ、あなた様の、子を、産み、育てる、器として、ここに、生きたい」
マリューの、両目から、涙が、連続で、流れた。
しかし、声は、一切、震えなかった。
「世継ぎを、産ませて、くださいませ、ガルシア様」
ガルシアは、しばらく、その姿を、見下ろしていた。
そして、彼は、立ち上がった。
ゆっくりと、マリューの前に、歩み寄り、彼女の顎を、指の腹で、そっと、持ち上げた。
「よく、言った、マリュー」
彼は、低く、言った。
「お前に、新しい名を、与えよう。今夜から、お前の名は、**『俺の、マリュー』**だ。マリュー・ラミアスでは、ない。ただの、マリュー。俺の、所有する、マリュー、だ」
「はい、ガルシア様」
「そして、お前の役目は、俺の、世継ぎを、産むこと。――よいな」
「はい、ガルシア様」
ガルシアの手が、マリューの、髪を、撫でた。
父性的な、優しい、撫で方、だった。
そして、彼は、命じた。
「脱ぎなさい、マリュー。今夜は、受胎の、儀式だ」
---
マリューは、自分で、全ての、衣服を、脱ぎ去った。
全裸で、絨毯の上で、跪いた姿勢の、ままだった。
そして、ガルシアが、彼女を、ベッドに、横たえた。
今夜の性交は、これまでの三十八日間の、どれとも、違っていた。
乱暴では、なかった。
屈辱的、でも、なかった。
支配の、演目、でも、なかった。
それは――「受胎を、念押しするため」の、**儀式的な、交わり**、だった。
ガルシアは、マリューの、両膝を、優しく、抱えた。
彼の雄が、もう、すっかり、開発され尽くした彼女の秘裂に、滑るように、根元まで、沈んだ。
「あぁっ……」
マリューの、唇から、甘い、けれど、嬌声とは、違う、安らかな、声が、漏れた。
ガルシアの、腰は、一定のリズムで、優しく、動いた。
彼の雄が、子宮の、最奥、あの、開発された一点を、丁寧に、丁寧に、叩いた。
「……ガルシア、様……ガルシア、様……」
マリューは、彼の名を、呼吸のように、繰り返した。
ガルシアの、右手が、マリューの、まだ平坦な下腹部に、ゆっくりと、置かれた。
「ここに、もう、ひとつ、俺の種を、足そう」
「はい、ガルシア様」
どくん。
一度目の、最奥の、脈動。
熱い、奔流が、マリューの子宮に、注がれた。
「――あぁ、ありがとう、ございます……」
彼女の唇が、自然と、感謝を、口にした。
ガルシアは、一度も、抜かなかった。
彼は、そのまま、再び、腰の、リズムを、始めた。精を、出した直後の、敏感な、雄で、マリューの最奥を、もう一度、丁寧に、刺激した。
「あ、あ、また……また、来る……」
「そうだ、マリュー。もう一度、確実に、俺の種を、お前の腹に、刻みつける」
どくん。
二度目の、脈動。
再び、彼女の子宮に、濃い、熱が、注がれた。
マリューの、胎内が、内側から、じんわりと、満たされていく、実感。
ガルシアは、まだ、抜かなかった。
三度目の、リズム。
マリューの、身体は、既に、三度、絶頂に近い、小さな、震えを、繰り返していた。しかし、彼女は、もう、潮も、吹かなかった。失禁も、しなかった。
ただ、静かに、涙を、流しながら、ガルシアの、リズムに、自分の、呼吸を、合わせていた。
どくん。
三度目の、最後の、脈動。
三たび、濃い熱が、彼女の、内側で、広がった。
三度、連続の、中出し。
それは、彼女の、受胎の、念押しでもあり、ガルシアが、自分の、子の、父であることの、儀式的な、確認でもあった。
ガルシアが、ゆっくりと、雄を、引き抜いた。
マリューの、だらしなく、半開きに、なった、秘裂から、三度分の、濃い、熱が、シーツの上に、ゆっくりと、流れ出した。
マリューは、自分の、下腹部に、手を、置いた。
タプン、と、内側で、水音のような、感覚が、した。
彼女の口元に、陶酔と、深い、深い、安らぎの、笑みが、浮かんだ。
「――ありがとう、ございます、ガルシア様。たくさん、頂きました」
ガルシアは、彼女の、汗ばんだ額に、キスを、した。
それは、今夜、ガルシアが、彼女に、与えた、最初の、**口づけ**、だった。
---
## 5-3 透明な排水(Day 40)
翌々日、Day 40。
司令官公邸、奥の、個人用シャワールーム。
マリューは、お湯を、全身に、浴びていた。
ガルシアとの、昨夜の、行為のあとの、事後処理。それは、この四十日間で、既に、無数に、繰り返されてきた、ルーティンだった。
しかし、今朝の、マリューは、**他の日とは、違う、姿勢**で、シャワーの下に、立っていた。
右手が、無意識に、まだ平坦な、下腹部を、静かに、包んでいた。
お湯が、彼女の、頭頂から、肩へ、豊満な膨らみへ、くびれへ、骨盤へ、太腿へ、順番に、流れた。
肌の上に、昨夜の名残の、白い、粘液が、お湯に、溶けて、透明な、筋を、作り、足首へ、そして、排水溝へ、向かって、流れていった。
マリューは、その、排水溝の、中で、渦を、巻く、白濁を、見つめた。
それは――
**外側の、彼の印**、だった。
しかし、どれだけ、今、彼女の、皮膚の上の、白濁を、洗い流しても――
彼女の、子宮の、奥で、今、脈を、打っている、**最も濃い、最も深い、彼の印**は、もう、どこにも、流れていかない。
お湯では、洗い流せない。
石鹸では、消せない。
それは、これから、十ヶ月かけて、彼女の身体の、血流と、栄養を、全て、自分のものとして、吸収して――
**形を持った、一つの、命**に、なる。
そして、生まれる。
生まれたあとも、マリューの、腕の中で、二十年、三十年、彼女の、一部、であり続ける。
マリューは、微かに、微笑んだ。
外側の、排水溝へ流れていく、濁った液を、見ながら、彼女は、思った。
――この、外側の、洗浄は、もう、意味が、ない。
意味の全ては、内側にあった。
外側は、ただ、次の、受け入れのために、リセットされる、「器」の、表面に、過ぎなかった。
彼女は、お湯を、止めた。
曇った、鏡の前に、立った。
手のひらで、鏡の、湯気を、拭った。
鏡の中に、現れた、裸体。
Gカップの、豊満な膨らみが、この四十日間で、わずかに、さらに、張って、見えた。下腹部は、まだ、平坦。しかし、肌は、内側から、光るような、艶を、帯び始めていた。妊娠初期に特有の、細胞レベルでの、潤い、だった。
頬には、紅が、刷かれていた。
目の周りには、三十八日前までの、疲弊の、痕跡が、もう、ほとんど、消えていた。
代わりに、目の奥に、静かな、確信の、光が、戻っていた。
「母」としての、確信の、光、だった。
マリューは、自分の、腹部に、両手を、そっと、添えた。
「――おはよう」
彼女は、鏡の中の、自分の、下腹部に、話しかけた。
「これから、毎朝、会いましょうね」
返事は、返って、こなかった。
しかし、返事を、しない小さな存在が、そこにいるということ、その事実そのものが、マリューに、かつてない、深い、深い、安息を、与えていた。
ふと、彼女は、衛生士官としての、予備知識を、頭の中で、辿った。
妊娠三週目から、四週目。まだ、外見上、変化は、出ない。しかし、内側では、急速な、細胞分裂が、始まる時期。母体の側は、つわり、眠気、微熱、情緒の、不安定化。そして、いつもより、強い、食欲。――これらのうち、どれが、自分に、来るのだろう。
マリューは、自分の身体の、これから四十週続く、変化を、想像した。
下腹部が、少しずつ、丸みを、帯びていく。豊満な膨らみが、さらに、張り、やがて、初乳の準備を、始める。胎動。陣痛。出産。新生児の、声。授乳。
その、全ての、工程を――
彼女は、この、アルテミスの、鋼鉄の鳥籠の、内側で、ガルシアの傍らで、経験することに、なる。
アークエンジェルの、艦長室の、広い窓から、地球を眺めることは、もう、ない。
ムウの、メビウス・ゼロの、エンジン音を、ブリッジで、聞くことも、もう、ない。
キラ・ヤマトが、自分に、「艦長」と、呼びかける声も、もう、聞くことは、ない。
それらの、全ての、失われたものを――
マリューは、不思議と、少しも、惜しい、とは、感じなかった。
失われたものの、代わりに、彼女の、子宮の中には、もう一つの、新しい宇宙の、小さな、種が、脈を、打ちはじめていた。
その、小さな、脈動、ひとつで、これまでの、二十四年間の、全てが、既に、置き換わってしまっていた。
それが――**母**という、存在の、本質、だった。
マリュー・ラミアスは、ここに至って、初めて、母親としての、自分自身の、立場を、静かに、理解した。
理解した瞬間、彼女の、両目から、もう一度、涙が、流れた。
しかし、それは、もう、喪失の、涙では、なかった。
それは――新しい、役割の、始まりを、祝福する、儀式的な、水、だった。
---
---
午後。
マリューは、司令官公邸の、小さな、南向きの、一室に、移動した。そこは、ガルシアが、この日のために、急遽、用意した、「マリュー専用の、午後の間」だった。
窓の向こうには、もう、アークエンジェルの、艦影は、なかった。
二日前の、早朝――つまり、マリューが、初めて超音波診断を受けた翌日――、アークエンジェルは、アルテミスを、出港した。
艦の、指揮は、副長、ナタル・バジルールが、代行した。ナタルは、出港の前夜、地下シェルターの、小さな別室から、ガルシアの副官に、解放された。ただし、彼女の口には、一つの、契約書が、渡されていた。「本出向任務について、艦長の動向を含む、一切を、外部に漏らさない」という、地球連合軍、総司令部、公式書式の、守秘契約書。
ナタルは、それに、判を押した。
押さなければ、アークエンジェルは、他の艦長の手に、渡る可能性が、あった。
押した。
押して、そして、自艦に、戻った。
出港の、朝、ナタルは、アークエンジェルのブリッジから、アルテミスの方向へ、一礼を、した。艦長席を、彼女は、自分では、座らなかった。空席のまま、艦長代行として、艦を、運営する道を、選んだ。
キラ・ヤマト少尉は、ナタルに、「艦長は、どこに行かれたんですか」と、二度、尋ねた。ナタルは、二度とも、同じ答えを、返した。
「防衛強化任務で、アルテミスに、残られた。詳細は、機密だ」
キラは、納得していなかった。しかし、彼の直感は、その先を、追及することを、選ばなかった。彼は、自艦の、乗客の中に、もう一人、謎の「不在」が、いることを、知っていたからだ。
フレイ・アルスターも、アークエンジェルには、戻らなかった。
副長は、艦の出港の朝、艦長席ではなく、副長席に、座った。彼女の紫紺の眼差しには、十五日前までは、燃えていた、規律の光は、もう、ほとんど、残っていなかった。
代わりに、そこには、深い、諦めの、層が、静かに、沈んでいた。
アークエンジェルは、アルテミスを、離れ、次の戦線へと、向かった。
マリューは、知らなかった。知らなくても、彼女の、新しい人生の、意味は、もう、変わらなかった。
---
その夜、マリューは、南向きの部屋の、鏡の前で、一つの、衣装を、選んだ。
バニーガールの、衣装ではない。
仮面でも、ない。
軍服でも、もう、ない。
アルテミスの、司令官公邸の、奥の個室に、ガルシアの指示で、用意された、薄い、白絹の、ネグリジェ。
豊満な膨らみを、柔らかく、包み、くびれから、下へ、ゆったりと、流れる形の、貞淑な、しかし、官能的な、女性用の、夜着。
マリューは、それを、身に着けた。
鏡の中の、自分を、見た。
そこには――
もう、誰の目から見ても、「艦長」には、見えない、しかし、同時に、「雌の器」にも、「堕ちた女」にも、見えない、**一人の、柔らかな、母、になりつつある、女**、が、立っていた。
マリュー、と、彼は、今朝、呼んでくれた。
ラミアスでは、ない。ただの、マリュー。
そのシンプルな、四文字の名の中に、彼女の、四十日間の、全ての、崩壊と、再生が、静かに、収まっていた。
鏡越しに、ガルシアの、ゆっくりとした足音が、近づいてきた。
マリューは、振り返った。
彼女は、微笑んだ。
「――おかえりなさいませ、ガルシア様」
その声は、司令官を、迎える、艦長の声では、なかった。
敵将を、恐れる、捕虜の声でも、なかった。
支配者を、待ち侘びる、雌の声でも、なかった。
それは――
「夫を、迎える、妻」の、声、だった。
鋼鉄の鳥籠の、内側で、四十日間かけて、マリュー・ラミアスは、マリューという名の、**一人の、母**に、生まれ変わっていた。
窓の、遥か外、要塞の、外殻の、遥か先に――
アークエンジェルの、艦影は、もう、なかった。
出港した、のだった。
二十四年間、彼女が、アイデンティティの中心に置いていた、あの、白銀の、艦は、この要塞から、もう、見えない場所へ、移っていた。
しかし、マリューの、右手は、無意識に、まだ平坦な、お腹を、そっと、包んだ、まま、だった。
そこに、彼女の、新しい、宇宙の、中心が、あった。
アークエンジェルは、出港した。
その艦は、もう、マリュー・ラミアスのものではない。
しかし、マリューには、それに代わる、新しい「艦」が、既に、授けられていた。
自分の身体そのものが、この小さな命を、これから十ヶ月、守り、運び、育てていく、**新しい、アークエンジェル**――新しい、方舟、だった。
彼女の、唇に、小さな、しかし、確信に満ちた、微笑みが、浮かんだ。
静かな夜の、静かな、満ち足りた、笑みだった。