# エピローグ 鋼の鳥籠の母
五ヶ月が、過ぎた。
アルテミス、旧司令官公邸。現在の公式名称は、「ガルシア中将・特別居住区画」。
廊下の照明は、以前より、ひとつ、明るくなっていた。絨毯の色も、血のような深紅から、やわらかな象牙色へと、張り替えられていた。壁の、無機質な鉄の補強材は、淡い金色の装飾で、覆われていた。
全ては、ただ一人の女性のために、整えられていた。
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南向きの、大きな部屋。窓の外には、アルテミスの外殻の向こうに、変わらず、深い宇宙の、藍色の闇が、広がっていた。遠くで、連合軍の航路灯が、規則正しく、点滅していた。
その航路灯の中に、**アークエンジェルの艦影は、もう、どこにも、映らない**。
あの艦は、五ヶ月前に出港して以降、この宙域には、一度も、戻ってきていなかった。
部屋の中央、大きな、深い、柔らかなソファに、一人の女性が、腰を下ろしていた。
豪奢なドレス。淡い若葉色の、絹地。襟ぐりは、彼女の、膨張したIカップの、豊かな膨らみを、無理なく、包み、深い谷間を、上品に、見せていた。その谷間には、もう、銀の誓いの印は、なかった。代わりに、ガルシアから、三ヶ月前に贈られた、小ぶりの真珠のネックレスが、ごく静かに、光っていた。
ドレスの、腰から下は――
豊かに、張り出した、妊娠六ヶ月目の、丸い、**膨らみ**によって、前方へ、大きく、押し出されていた。
白磁の肌は、内側から発光するような、妊婦特有の艶を、纏っていた。頬は、薄紅を刷いたように、上気していた。栗色の髪は、後ろで、ゆるやかに、結い上げられ、首筋が、長く、美しく、開かれていた。
彼女の左手の、薬指には――
新しい、銀の環が、嵌まっていた。
ガルシアが、受胎確定の翌月、「仮の、指輪」として、彼女の指に、嵌めたもの。「正式な婚姻は、この戦争のあとで」と、彼は言った。そのセリフを、五ヶ月前のマリューなら、凍りつくような、既視感で、聞いたはずだった。
――しかし、今のマリューは、それを、素直に、受け取った。
過去の似た台詞の、記憶は、彼女の中で、もう、ほぼ、呼び出せない位置に、沈んでいた。
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マリューの足元に、一人の、少女が、蹲っていた。
燃えるような赤毛。
フレイ・アルスター。
彼女は、マリューのドレスの、裾の、ごく近くに、全裸で、両膝と両肘をつき、蹲っていた。マリューの右足の、先に、頬を、寄せるようにして、眠っていた。
フレイの、首には、古い、革の、首輪。両の、先端の銀のリング・ピアスは、相変わらず、つけられたままだった。
この五ヶ月、フレイは、マリューの部屋に、「犬」として、放し飼いに、されていた。ガルシアの、「次の、最高傑作」に、「前の、作品」を、添える、ひとつの演出だった。フレイ自身の自我は、半年以上前に、失われて、戻らなかった。
マリューは、フレイを、見なかった。
見ない、という行為に、悪意は、なかった。
マリューは、この少女を、自分の「守るべき民間人」として、認識する神経回路を、既に、三ヶ月前に、静かに、停止していた。
フレイは、マリューにとって、もう、「足元の、温かい、毛布のようなもの」、だった。
毛布に、人は、罪悪感を、持たない。
五ヶ月前までの、マリュー・ラミアスなら、この認識の、変化それ自体を、自ら、おぞましいと、感じたはずだった。しかし、今のマリューは、その「おぞましさを感知する神経」を、既に、静かに、切断していた。切断した、という自覚さえ、ない。切断は、それくらい、深く、自然に、彼女の内側で、進行していた。
マリューは、右手を、自分の、膨らんだ腹部に、ゆっくりと、添えた。
左手は、ソファの肘掛けの上に、優雅に、置かれていた。
そして、彼女は、微笑んでいた。
観る者がいれば、それを、「聖母の表情」と、呼ぶかもしれない。同時に、それを、「鋼鉄の鳥籠の、雌の、勝利の顔」と、呼ぶかもしれない。どちらにも、解釈は、開かれていた。
膨らんだ腹部の、奥で――
ぽこん、と、小さな、胎動。
マリューの、唇の端が、一段、深く、緩んだ。
「……いい子ね」
彼女は、誰にも聞こえない声で、そっと、呟いた。
「パパが、戻ってくる前に、ひと眠り、しましょうね」
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部屋の扉が、控えめに、ノックされた。
「どうぞ」
マリューは、振り向かずに、答えた。
扉が、開いた。
ガルシア中将が、礼装の肩を、軽く、鳴らして、入ってきた。日中の、軍務の後の、葉巻の匂いと、ほんの僅かな、アルコールの香り。
彼の、濁った灰色の眼が、部屋の中を、歩き、ソファの上のマリューを、愛おしげに、眺めた。
「――マリュー」
「おかえりなさいませ、あなた」
彼女は、立ち上がろうとはしなかった。立ち上がる身のこなしが、日々、不自由になっていくことを、二人とも、知っていた。
代わりに、彼女は、ガルシアに向かって、両腕を、僅かに、広げた。
ガルシアは、大股に、歩み寄り、マリューの、膨らんだ腹部の、すぐ横に、膝を、折った。
彼の、大きな手のひらが、マリューの、豊かに張った腹に、そっと、押し当てられた。
ぽこん。
彼の手のひらの下で、胎動が、応えた。
ガルシアの、口元に、初めて、純粋な、喜びの、笑みが、浮かんだ。それは、支配者の、勝ち誇った笑みでも、捕食者の、愉悦の笑みでも、なかった。
ただの、**父親の、笑み**、だった。
「元気な子だ」
「はい。今日も、ずっと、動いていました」
「お前も、元気そうだな、マリュー」
「はい、あなた。とても、幸せです」
ガルシアは、立ち上がった。
そして、マリューの額に、短く、口づけた。
マリューは、目を、閉じた。閉じた瞼の下で、かすかな、満ち足りた、安堵の、涙が、にじんだ。それは、屈辱の涙でも、絶望の涙でも、なかった。ただ、**ここに、居てよい、という、許可が、確かに、与えられている**、ということへの、深い、静かな、涙だった。
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窓の外、アルテミスの外殻の、遥か先――
深い、藍色の、宇宙の、闇が、変わらず、広がっていた。
その闇の中に、アークエンジェルの、白銀の艦影は、もう、一切、映らなかった。
キラ・ヤマトは、今、どこの戦線にいるだろうか。
ナタル・バジルールは、今夜、どの空の下で、眠るだろうか。
ムウ・ラ・フラガは――彼女の、「また会おう、マリュー」の声の、最後の残響は、どの星の、影の下で、消えていくだろうか。
マリューは、そのどれひとつも、考えなかった。
考えられなかった、のでは、ない。考えない、という選択を、彼女の神経が、もう、四ヶ月前から、静かに、採用していた。
右手は、ずっと、腹部に、添えられていた。
左手は、ガルシアの、大きな手の上に、重ねられていた。
彼女の、唇が、最後の、声にならない一言を、動かした。
(――もう、どこにも、帰りません)
それは、敗北の、台詞では、なかった。
それは、**選び抜かれた、最後の、居場所**、の、宣言、だった。
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アルテミス、外殻。
宇宙の、藍色の闇の、さらに、深い底から、
見上げた時、
その要塞は、
硬く、冷たく、逃げ場のない、一つの、鋼鉄の、檻に、見える。
しかし、その檻の、内側の、もっと、奥の、
一番、暖かい、一室では――
豪奢な絹のドレスを纏った、栗色の髪の女が、
膨らんだお腹に、片手を、添えて、
夫となった男の、帰りを、静かに、待っている。
彼女の足元では、赤毛の少女が、毛布のように、眠っている。
彼女の唇は、微かに、緩んでいる。
彼女の、内側の、新しい宇宙の、小さな星は、一定のリズムで、脈を、打っている。
この光景を、「地獄」と、呼ぶか。
この光景を、「救済」と、呼ぶか。
それは、外から見る者の、自由だった。
内側の、彼女自身にとっては――
それは、もはや、どちらでもない、**ただの、静かな、夜**、だった。
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鋼鉄の鳥籠の、内側で、
豊満なる、女神は、母と、なり、
永遠の、安息を、得た。
――完――