僕が先に好きだった幼馴染は、天才のリズムなしでは生きられない牝に書き換えられた。 作:123
放課後の教室は、ひどく淀んだ空気を孕んでいた。
傾きかけた西日が、埃っぽい教室の床に長々と影を伸ばしている。遠くのグラウンドからは、運動部の微かな喧騒やホイッスルの音が、まるで別世界の出来事のようにくぐもって聞こえてきた。
俺は、誰もいなくなった静寂の中で自分の席に座り、ただ一つのことだけを待っていた。
結衣(ゆい)が、部活を終えてこの教室に迎えに来るのを待つ時間。
それは、俺たちにとって疑いようのない、絶対的な日常のルーティンだった。
俺と結衣は幼馴染であり、家も隣同士で、物心ついた頃から常に同じ時間を共有してきた。俺にとって結衣を待つという行為は、単なる暇つぶしではない。自分が彼女の「特別な存在」であり、彼女の帰るべき「居場所」であるという、俺自身のアイデンティティを再確認するための、神聖な儀式のようなものだった。
結衣は、陸上部の短距離選手だ。
肩甲骨のあたりで無造作に結ばれた艶やかな黒髪のポニーテール。陽焼けした健康的な肌と、無駄な脂肪が削ぎ落とされた引き締まった四肢。誰よりも真面目で、ストイックで、陸上のためだけに青春のすべてを捧げているような、潔癖なまでの純白さを持った少女。
それが俺の知る、俺だけが深く理解しているはずの「結衣」というヒロインの輪郭だった。
かつて彼女が疲労骨折で長期間走れなくなり、部屋で一人泣き崩れていた時、彼女の手を握り、絶対にまた走れるようになると励まし続けたのは俺だ。俺の言葉だけが彼女を深い絶望から救い出し、再びトラックへと立たせたのだという、強烈な自負が俺の根底にはある。
だからこそ、俺は彼女の精神的な支柱であり、心身の一番の理解者であると信じて疑わなかった。
しかし現在の結衣は、ここ数ヶ月にわたる深刻なタイムの低迷――絶望的なスランプに陥っていた。
過去の怪我の時と同じように、俺は彼女を励まし続けた。
「昔みたいに、もっと楽しんで走ればいい」「タイムなんて気にせず、お前らしい走りを見せてくれよ」と。
だが、その感情的な励ましは、今の彼女にとって全く機能していなかった。コンマ一秒の世界で極限の肉体操作を競う彼女にとって、俺の言葉はあまりにも無責任で、精神論に過ぎないノイズでしかなかったのだ。俺はその事実を薄々自覚しながらも、それ以外の言葉を持たない己の無力さから目を背け、「俺が一番彼女を案じている」という自己満足の殻に閉じこもっていた。
ガラガラと、重い引き戸が開く音がした。
「ごめん、待たせちゃったね」
夕日に照らされて教室に入ってきたのは、俺が待ちわびていた結衣だった。
いつものようにジャージ姿で、首にはタオルを巻いている。しかし、彼女が一歩教室に足を踏み入れた瞬間、俺の鼻腔を、ある異質な感覚が強烈に殴りつけた。
匂いだ。
普段の結衣から香る、シトラス系の爽やかな制汗スプレーや、石鹸の清潔な匂いではない。
それは、鼻の奥にツンと突き刺さるような、男性用の安っぽく強烈な制汗剤の匂いだった。しかも、ただスプレーを吹きかけただけの匂いではない。ひどく熱を帯びた、生々しく濃密な「他者の汗」の匂いが、その制汗剤の香料とドロドロに混ざり合い、彼女の体温に乗ってむせ返るように発散されていた。
俺の脳内で、危険を知らせる警報がけたたましく鳴り響いた。
女子である結衣から、それも潔癖なまでのストイックさを持つ彼女から、どうして同年代のオスの体臭が、これほどまでに深く染みついているのか。まるで、他人の男の体液を直接肌に擦り込まれたかのような、圧倒的な異物感。
「……結衣、なんか……」
俺は、無意識のうちに口を開いていた。
「なんか、男物の制汗剤みたいな匂い、しないか? それに、すごい汗だぞ」
俺がそう指摘した瞬間、結衣の肩がビクッと跳ねた。
彼女は一瞬だけ表情を強張らせ、何かに怯えるように、あるいは何かを隠すように、無意識の動作で自分のジャージの襟元をきつく握りしめた。
「あ、えっと……」
結衣は視線を不自然に泳がせ、俺の目を見ようとしなかった。
「最近、部室の芳香剤が変わったのかな……それか、男子が近くでスプレー使ってたから、その匂いが移っちゃったのかも。ほら、今日は風も強かったし」
あまりにも不自然で、早口な言い訳だった。匂いが移ったというレベルではない。彼女の毛穴の奥底から、その男の匂いが滲み出ているようにすら感じられるのだ。
しかし、俺の心の中に巣食う「正常性バイアス」が、その疑念を全力で封殺しにかかった。
まさか。あり得ない。結衣に限ってそんな不純な真似をするはずがない。彼女は俺の幼馴染で、陸上にしか興味がない、真っ白な女の子だ。俺という理解者がいながら、他の男の匂いを纏うような裏切りをするはずがない。
俺は、内臓が冷たい泥に沈んでいくような悪寒を感じながらも、「そうか、男子の匂いってキツイからな」と、無理に笑顔を作ってその場をやり過ごした。自分の居場所を失う恐怖が、真実を追及する勇気を完全に麻痺させていた。
二人で並んで、夕暮れの帰り道を歩く。
沈黙が痛かった。かつては言葉がなくても心地よかったはずの距離感が、今は見えない壁に阻まれているように息苦しい。
「あのさ」
唐突に、結衣が口を開いた。その声は、どこか熱に浮かされたように甘く、うわずっていた。
「最近ね、居残り練習のペアを組んでるんだ」
「ペア? お前、短距離なのに誰かと組むのか?」
「うん。同じ部活の……同級生の、彼と」
結衣の口から出たのは、陸上部内でも圧倒的な才能を持ち、次期エースと目されている天才肌の男子部員の名前だった。俺も顔と名前くらいは知っている。努力だけでは到達できない、次元の違うバネと身体能力を持った「本物の天才」だ。
「監督に言われたのか?」
「ううん。私が、お願いしたの。どうしてもスランプから抜け出したくて……彼の動きを、一番近くで体感したくて」
結衣はそう言いながら、頬を微かに紅潮させていた。夕焼けのせいではない。彼女の体温が、その「天才」のことを思い出しただけで異常に上昇しているのだ。
「彼のリズムに合わせるとね……今まで絶対に届かなかった景色が、見えるような気がするの」
彼女の瞳を見た瞬間、俺の背筋に冷たい汗が伝った。
それは、純粋なアスリートが記録向上を喜ぶ顔ではなかった。もっと生々しく、ドロドロとした感情――未知の強烈な快感に中てられ、脳髄を焼き切られたような、異常な熱を帯びた「狂信者」の目だった。あるいは、初めて麻薬の味を知ってしまった人間の目だ。
「彼のリズムって……ただ走るペースの話、だよな?」
俺が引き攣った声で尋ねると、結衣はふふっと、俺の知らない艶やかな吐息を漏らして笑った。
「うん。でもね、走るだけじゃないの。体の奥の、骨盤の動かし方とか、筋肉の連動とか……全部。彼が直接、私の体に『叩き込んで』くれるから。彼のリズムが私の中に入ってくると、頭の中が真っ白になって、何も考えられなくなるくらい……すごいんだよ」
その言葉の端々に含まれる、無自覚な猥褻さに俺は目眩を覚えた。彼女は競技の話をしているつもりなのだろう。だが、その表現はあまりにも、密室で行使される「別の行為」を連想させるものだった。
その時だ。
結衣が、首筋に滲んだ汗をタオルの端で無造作に拭った。
ジャージの襟が少しだけ広がり、彼女の白いうなじの付け根、鎖骨の少し上のあたりが露わになった。
そこに、どす黒い赤紫色の痣があった。
十円玉ほどの大きさの、真新しい内出血。
ユニフォームが擦れるような場所ではない。陸上の機材がぶつかるような場所でもない。それは明らかに、人間の強い吸引力によって毛細血管が破壊され、所有印として意図的に刻み込まれた痕――生々しい「キスマーク」だった。
ドクン、と心臓が嫌な音を立てた。
俺の視線に気づいたのか、結衣はハッと息を呑み、反射的に手でその痣を隠した。
「こ、これ……マッサージ! そう、最近筋肉が固まってて、特殊な器具でマッサージしてもらってるから、その痕が残っちゃって……!」
動揺が隠しきれない、ひどく上擦った声。
嘘だ。あんな首の付け根に、あんな形の痣が残るマッサージなど存在しない。
だが、俺の脳は再び全力で自己防衛のシャッターを下ろした。
「……そうか、痛そうだな。無理すんなよ」
俺はまたしても、決定的な真実から目を逸らした。彼女を問い詰めて、もし「彼につけられた」と言われたら。俺が長年守り続けてきた「結衣の特別な幼馴染」という玉座が、その瞬間に音を立てて崩れ去ってしまう。
事実を認めることの恐怖が、俺からすべてを追及する権利を剥奪していた。俺は、都合の悪い情報を処理できない出来損ないの機械のように、ただ頷くことしかできなかった。
分かれ道に差し掛かり、結衣の家の前まで来た。
「じゃあ、また明日ね」
結衣は少しだけ安堵したような顔を見せ、俺に背を向けて歩き出した。
俺は、その場に立ち尽くしたまま、遠ざかる彼女の背中を見つめていた。
そこで、俺はさらなる微細な「エラー」に気づき、胃液が逆流するような吐き気を覚えた。
結衣の歩き方が、おかしい。
短距離選手である彼女の本来の歩様は、骨盤が真っ直ぐ前を向き、無駄なブレがなく、太ももの内側が規則正しく擦れ合うようなタイトな動きだった。
だが今の彼女は、歩幅が以前よりも僅かに広く、つま先が不自然に外側へ開いている。
何より異常なのは、腰の動きだった。一歩踏み出すたびに、骨盤が不規則に揺れ、お尻の肉が艶めかしく振れているのだ。まるで、股関節の奥深くまで強引に押し開かれ、その関節の結合が緩んだまま元に戻っていないかのような。あるいは、まだ体内に「異物の質量」を感じており、それを無意識に受け入れるために体が構造を変化させてしまっているかのような。
それはスポーツの力学による変化ではない。明らかに、繰り返される激しい「交尾」によって、オスの体格に合わせて強引に再構築された、牝としての肉体の適応だった。
俺の言葉では決して変えることのできなかった彼女のスランプの壁を、同年代の天才は、その圧倒的な才能と暴力的なまでの肉体の律動によって、いとも容易く破壊し、彼女の体の奥底まで侵食しているのだ。
「結衣……」
俺の掠れた声は、誰に届くこともなく夕暮れの風に溶けていった。
夜。
自分の部屋に戻った俺は、机の引き出しの奥から、冷たい金属の塊を取り出した。
結衣の家のスペアキーだ。
かつて、彼女の両親が共働きで不在がちだった頃、何かあった時のためにと俺が預けられたもの。それは、俺が彼女にとって「家族と同等の、絶対的な信頼を置かれた特権階級」であることの象徴だった。俺はこの鍵を見るたびに、自分の立ち位置の優位性を確認し、安心感を得ていた。
だが今、掌の中にあるその銀色の鍵は、ひどく無価値で、薄汚れたガラクタのように思えた。
俺が持っているのは、あくまで彼女の「部屋」という物理的な空間を開けるための物理的な鍵に過ぎない。
しかし、あの「天才」の男は違う。
彼は、俺がどれだけ優しくノックしても決して開くことのなかった結衣の「深奥」を、圧倒的な才能という大義名分のもとで力ずくでこじ開け、その中を直接弄り回しているのだ。
俺の鼻の奥には、まだあの男のむせ返るような制汗剤と汗の匂いがこびりついて離れない。
暗闇の中で、俺の脳内にある最悪の想像が、無限のループとなって再生され始めた。
放課後の部室。あるいは誰もいない体育用具室。天才の男に背後から捕まれ、骨盤を強引に固定されながら、彼のリズムを叩き込まれる結衣。痛みに顔を歪めながらも、やがてその暴力的な才能との同期に強烈な快感を覚え、だらしなく口を開けてよだれを垂らし、自ら腰を押し付けていく彼女の姿。
「ちがう……結衣は、そんな女じゃない……」
俺は震える手でスペアキーを強く握りしめ、手のひらに鋭い痛みを走らせることで、その狂気じみた想像を打ち消そうとした。
だが、あの上気した瞳。あの赤い痣。あの緩みきった艶めかしい腰の揺れ。
すべてが、結衣の肉体に起きている「未知の同調(シンクロ)」の正体を論理的に証明していた。
俺が長年かけて提供してきた、停滞した安らぎというぬるま湯。それは今、同年代の圧倒的な才能がもたらす暴力的なリズムと極限の快楽によって、無残に打ち破られようとしている。
俺は、自分が彼女の「過去の遺物」へと成り下がる足音が、すぐそこまで迫っていることに気づきながらも、ただ暗い部屋の片隅で膝を抱え、震えることしかできなかった。
自分の不可侵の聖域が、完全に別のオスによって上書きされようとしている、静かで確実な侵食の始まり。
その絶望的な事実が、俺の首を真綿で絞めるように、ゆっくりと、だが確実に息の根を止めようとしていた。
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