僕が先に好きだった幼馴染は、天才のリズムなしでは生きられない牝に書き換えられた。 作:123
放課後のチャイムが鳴り終わっても、俺は自分の席から動くことができなかった。
鉛のように重い身体を引きずり、ようやく教室を出た時には、すでにグラウンドから運動部特有の活気ある声が響き渡っていた。
昨夜の悪夢が、粘り気のあるタールのように脳の襞にこびりついて離れない。結衣の首筋に咲いていた、あのどす黒い赤紫色の痣。熱を帯びた生々しい他者の匂い。そして、未知の快楽に中てられたような、あの狂信的な瞳。
すべてを「異常なマッサージの痕だ」「何かの間違いだ」と自分に言い聞かせるための正常性バイアスは、一晩の孤独な自問自答を経て、もはや風前の灯火となっていた。
確かめなければならない。いや、確かめたくない。
相反する二つの感情が内臓を引き裂くように暴れ回る中、俺の足は無意識のうちに、フェンス越しに陸上部のトラックが見渡せる死角へと向かっていた。
そこは、俺がいつも結衣の練習が終わるのを、優越感と安心感に浸りながら眺めていた特等席だった。俺は部外者だが、彼女の一番の理解者であり、彼女が最後に帰ってくる場所は俺の隣であるという絶対的な事実が、俺の自尊心を支えていた。
だが今日、錆びたフェンスの金網を握りしめる俺の手は、情けないほどに震えていた。
グラウンドには、西日を浴びてタータンの上を躍動する部員たちの姿があった。
その集団の中で、彼女を見つけるのに時間はかからなかった。
結衣だ。
肩甲骨のあたりで揺れる、艶やかな黒髪のポニーテール。太陽の光を吸い込んで健康的に日焼けした肌。過酷なトレーニングによって無駄な脂肪が削ぎ落とされ、しなやかなバネを内包した引き締まった四肢。俺が物心ついた頃から見守り続け、誰よりも美しく、誰よりも純潔であると信じて疑わなかった、完璧なアスリートの姿。
だが、遠目からでもはっきりと分かるほどに、彼女の「何か」が決定的に狂っていた。
結衣がスタートラインにつき、前傾姿勢をとる。
かつての彼女の走りは、生真面目で、直線的で、ひたすらに努力の結晶を地面に叩きつけるような、硬質で堅実なフォームだった。俺はその泥臭いまでのひたむきさを愛していたし、スランプに陥った時も、その真面目さゆえに壁にぶつかっているのだと思っていた。
パーン、という乾いたピストル音が鳴り、結衣が飛び出す。
俺の目は、網膜に映るその動きを信じることができなかった。
硬さが、ない。
彼女の身体は、まるで骨の髄までドロドロに溶かされ、別の生き物の設計図に従って組み直されたかのように、ぬらぬらとした艶めかしさを伴ってタータンを蹴っていた。
地面を蹴るたびに、引き締まった大腿筋が異様なほどの柔軟性をもってうねり、その衝撃が骨盤を滑らかに通過し、背骨を通って指先へと抜けていく。
それは陸上競技のストイックなフォームというより、獲物を狙う雌豹の跳躍か、あるいは、オスの律動を受け入れるために極限までしなやかに開発された、牝の肉体の躍動だった。
「なんだ……あれは……」
俺の口から、掠れた声が漏れた。
走るという行為そのものが、ひどく性的な行為に見えてしまう。結衣が一歩踏み出し、腰を捩るたびに、彼女の奥深くにある未知の快楽回路が刺激され、自発的に身体をうねらせているようにしか見えないのだ。
俺の知っている結衣は、こんな淫らな走り方をする女ではなかった。
彼女のゴール地点、フィニッシュラインの奥でストップウォッチを構えている男の姿を見て、俺の心臓は絶望という名の氷塊に貫かれた。
あいつだ。
昨日、結衣が上気した顔で名前を口にした、同級生の天才。
陸上部における絶対的なエースであり、努力や根性といった凡人の言葉を嘲笑うかのような、次元の違うバネと身体能力を与えられた選ばれし存在。
長身で、均整の取れた筋肉の鎧を纏う彼の立ち姿には、同年代とは思えないほどの威圧感と、雄としての圧倒的な強者のフェロモンが漂っていた。
結衣がゴールを駆け抜け、荒い息を吐きながら彼の前で立ち止まる。
天才の男は、手元のストップウォッチを一瞥し、つまらなそうに舌打ちをした。
「遅い。重心の連動がまだバラバラだ。俺のリズム、もう身体から抜けたのかよ」
その言葉は、同級生に向けるものとしてはあまりにも傲慢で、指導者というよりは、自分の所有物を品定めするような冷酷さを孕んでいた。
しかし、結衣は反発するどころか、ビクッと肩を震わせ、ひどく怯えたような、それでいてどこか期待に満ちたような湿った瞳で彼を見上げた。
「ごめんなさい……もっと、もっと教えて。あなたのリズムを、思い出させて」
結衣の声は、トラックの土埃にまみれた競技者のそれではない。夜の密室で、男の腕にすがりつき、与えられる快感にすがりつく女の哀願そのものだった。
「仕方ねえな。身体に叩き込んでやるよ」
男はそう言うと、周囲に他の部員たちがいるにもかかわらず、結衣の背後にぴったりと密着した。
俺の呼吸が止まった。
男の大きな手が、結衣のジャージの腰骨のあたりを、逃げ場を塞ぐようにガッチリと掴んだ。
「あっ……」
結衣の口から、微かな、しかし甘い吐息が漏れる。
男は容赦なく、彼女の腰を前へと突き出させ、自分の下半身の動きを彼女の骨盤に直接同調させるように、深く、重く圧力をかけた。
「ここだ。ここがロックされてるから力が逃げる。俺の動きの通りに腰を使え」
そう言いながら、男の手は彼女の腰から下がり、太ももの内側、極めて無防備な鼠径部の近くへと無遠慮に滑り込んだ。
「やめろ……ッ!」
俺はフェンスを握りしめ、喉の奥で絶叫した。
だが、その声は音にはならなかった。
男の行為は、傍目には「陸上競技における、重心移動と筋肉の連動を体感させるための、熱心で高度な指導」という完璧な大義名分でコーティングされていたからだ。
周囲でアップをしている他の部員たちも、誰一人としてその光景を咎めようとしない。それどころか、「さすがエースの指導は熱が入ってるな」「あいつが直接教えるなんて特別待遇だ」といった羨望の眼差しすら向けている。
俺が飛び出していって「結衣に触るな!」と叫んだところで、「何を言ってるんだお前は。これは競技の指導だ」と論理的に一蹴され、狂人扱いされるだけだ。
誰も、俺に介入する権利など認めていない。
同じ競技者として、彼女の肉体の構造を理解し、実際にその壁を打ち破る「具体的な力」を持っている男の前では、俺が長年培ってきた「幼馴染としての精神的な絆」など、何の役にも立たない無価値なゴミ屑に過ぎなかった。
男の指が、結衣の太ももの内側の筋肉を強く揉みほぐすように食い込む。
「んっ……あ、あっ……」
結衣は顔を伏せ、苦痛に耐えるような素振りをしながらも、その声のトーンは完全に裏返っていた。
彼女の膝がガクガクと震え、自立することすら難しくなっているのが遠目からでも分かった。
男の暴力的なまでのリズムと同調させられるたび、結衣の腰が、無意識のうちに後ろへ――男の下半身へと擦り寄るように、いやらしくうねる。
それはもはや、指導などではない。
白昼堂々、グラウンドの片隅で行われている、圧倒的な才能による「肉体の調教」だった。
結衣の真面目さ、スランプから抜け出したいという痛切な向上心。そのすべてが、男にとっては彼女を合法的に支配し、肉体を開発するための都合の良い鎖でしかなかった。
「ほら、抜重の瞬間を体で覚えろ。抵抗すんな、俺に全部委ねろ」
「は、はい……あっ、そこ……すごく、変な感じが……」
「変じゃねえよ。それが正しいお前の体の使い方だ。俺が教えてやるから、頭空っぽにして従え」
男の低い声が響くたび、結衣の身体はまるで電流を流されたように跳ね、その度に彼女の芯にある「純潔なアスリートとしての矜持」が、ドロドロの快楽に溶かされて崩壊していくのが分かった。
結衣の顔が見えた。
汗に濡れた前髪の隙間から覗くその表情は、苦しい練習に耐える者のそれではなかった。
瞳はトロンと熱を帯びて焦点が定まらず、半開きの唇からは、よだれのように粘り気のある吐息が絶え間なく漏れ続けている。
天才の暴力的な侵入によって、未知の快楽回路を強制的に開通させられ、それに依存しなければ生きていけない「雌」へと作り変えられた者の顔。
「ああ……ッ」
俺は、視界が涙で歪むのを感じた。
悲しみではない。激しい怒りでもない。
どう足掻いても抗うことのできない、圧倒的な実力差と、生物学的な雄としての敗北感。
俺が、彼女を励ますためにかけてきた無数の優しい言葉たち。何十時間、何百時間と一緒に過ごしてきた記憶。
それらのすべてを掻き集めても、男が結衣の腰を一度乱暴に掴み、彼のリズムを叩き込む数秒間の「物理的な支配」には、遠く及ばないのだ。
男は結衣からパッと手を離した。
支えを失った結衣は、まるで糸の切れた操り人形のように、タータンの上に力なくへたり込んだ。
「今日はここまでだ。感覚、忘れるなよ。夜、また俺の部屋で続きを叩き込んでやるから」
男はそう言い残し、結衣を振り返ることもなくスタスタと去っていった。
へたり込んだ結衣は、立ち上がろうともしなかった。
彼女は、地面に手をつき、極限まで弛緩しきった身体で荒い息を繰り返しながら、去っていく男の背中を、熱に浮かされたような、飢えた瞳でいつまでも見つめ続けていた。
その顔は、彼のリズム、彼の暴力、彼の才能が、自分の体から失われていくことに耐えられない、禁断症状に苦しむ中毒患者のようでもあった。
完全に「彼を求める女」の顔だった。
俺の知る、ストイックで真面目な幼馴染の結衣は、もうこの世界のどこにも存在しない。
彼女の純潔な肉体と精神は、才能の差という残酷な現実を隠れ蓑にしたあの男の手によって、合法的かつ徹底的に、彼専用の「快楽の器」へと再構築されてしまったのだ。
部活が終わり、生徒たちがまばらになったグラウンドの入り口で、俺は結衣を待っていた。
逃げ出すべきだと本能が叫んでいたが、どうしても、自分の目で最後の確認をしなければ気が済まなかった。
水道の蛇口で顔を洗い、タオルで髪を拭きながら結衣が歩いてくる。
「結衣」
俺は、できるだけ普段通りの、何事もなかったかのような平坦な声を絞り出して彼女を呼んだ。
結衣がこちらを向いた。
「あ……」
彼女の目が俺を捉えたはずだった。
だが、その瞳孔は俺の姿を正しく認識していなかった。
彼女の目は、焦点が合っていないガラス玉のように虚ろで、俺の顔を見ているようで、その向こう側にある虚空を見つめているようだった。
「お疲れ。今日も、遅かったな」
俺が言葉を継いでも、結衣の表情には何の感情も浮かばない。
彼女の全身からは、先ほどまでの激しい運動による熱ではなく、もっと内側から燃え上がるような、むせ返るような生々しい熱気が立ち上っていた。
そして、微かに震える彼女の太ももや、だらしなく緩んだ口元が、彼女の自律神経が未だに「男との強烈な接触と同期の余韻」に完全に支配されていることを物語っていた。
「……うん。ちょっと、疲れちゃった」
結衣の口から出たのは、自動音声のような感情の乗っていない言葉だった。
俺の言葉は、今の彼女の脳内では単なる環境音――ノイズとして処理されている。
彼女の頭の中には、俺という幼馴染の入る隙間など1ミクロンも残されていない。そこにあるのは、あと数時間後に訪れる「夜の続き」への期待と、身体の奥底で疼く狂おしいほどの渇望だけだ。
「帰ろうか」
俺の言葉に、結衣は無言でこくりと頷き、足を引きずるようにして歩き出した。
俺たちは並んで歩いた。
だが、その間には、決して埋まることのない絶対的な断層が口を開けていた。
俺は、横を歩く彼女から立ち上る「あの男の匂い」と「メスの熱気」に吐き気を覚えながらも、ただ俯いて歩を進めることしかできなかった。
優しさなど、何の価値もない。
寄り添うだけの愛情など、脆く無力な自己満足に過ぎない。
同じ競技の土俵に立ち、彼女の肉体のリミッターを直接外し、圧倒的な才能と暴力によってその芯まで支配することができる第三者の「力」こそが、彼女にとっての真理なのだ。
俺は、自分が築き上げてきたと信じていた幼馴染という城が、音を立てて崩壊し、跡形もなく消え去っていくのを、ただ無様に眺めていることしかできなかった。
夕闇が、すべてを飲み込むようにグラウンドを覆い隠していく。
俺の存在意義は、この冷たい夜風とともに、誰にも知られることなく、完全に消滅した。
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