僕が先に好きだった幼馴染は、天才のリズムなしでは生きられない牝に書き換えられた。 作:123
週末の静寂は、時として人の精神をひどく残酷に乱高下させる。
初夏の気配を帯びた生温かい風が、アスファルトの熱を連れて俺の頬を撫でていく。突き抜けるような青空とは裏腹に、俺の足取りは、両足に鉛の枷でも嵌められているかのように重く、そして鈍かった。
俺は今、結衣の住むマンションに向かって歩いている。
ポケットの中には、冷たい金属の塊――彼女の部屋の合鍵が、俺の太ももに硬い感触を伝えていた。
結衣は今日から二日間、陸上部の県外遠征で家を空けている。彼女の両親も共働きで、週末は家を空けることが多い。
昨日、結衣から直接頼まれたのだ。
『ベランダで育ててる鉢植え、水やり忘れちゃって。悪いんだけど、合鍵で入って水あげておいてくれないかな』と。
それは、幼馴染という関係性において、極めて自然で、正当な依頼だった。昔から何度も引き受けてきた日常の延長線上の雑務。俺の持つ合鍵が、唯一その本来の機能を発揮できる瞬間。
結衣が何のてらいもなく俺にこの頼み事をしたということは、彼女の部屋には「やましいもの」など何一つないという証明ではないのか。
俺の脳内で悲鳴を上げ続ける正常性バイアスは、その一縷の希望に必死に縋り付こうとしていた。
グラウンドで見たあの光景。食堂で見せたあの発情した顔。それらはすべて、俺の被害妄想が作り出した悪夢であり、極限状態のアスリートが陥る一時的な錯乱に過ぎないのだと。彼女の部屋に入れば、そこにはいつもの、真面目で潔癖な「俺の知る結衣」の生活空間が広がっているはずだ。
そう自分に言い聞かせなければ、正気を保って歩くことすらできなかった。
やがて、見慣れたマンションの扉の前に立つ。
深呼吸をして、震える手でポケットから合鍵を取り出した。
チャキッ、と。
鍵穴に金属が滑り込む音。手首を回すと、重々しいシリンダーの回転音が響き、ロックが解除された。
この瞬間まで、俺はこの合鍵を「俺だけが許された、不可侵領域へのパスポート」だと信じていた。
ドアノブに手をかけ、ゆっくりと手前に引く。
その瞬間だった。
「…………ッ」
俺は、無意識のうちに口元を手で覆い、一歩後ずさっていた。
開かれたドアの隙間から、部屋の中に閉じ込められていた空気が、まるで意志を持った瘴気のようにぬちゃりと這い出してきたのだ。
それは、俺の知る結衣の部屋の匂いではなかった。
かつての彼女の部屋は、シトラス系の爽やかな芳香剤と、洗い立てのタオルのような清潔な匂いで満たされていた。
しかし今、俺の鼻腔を暴力的に殴りつけてきたのは、若々しいオスの体臭と、むせ返るような濃厚な体液の匂い、そして、ゴムの焼けるような特有の臭気だった。
密室の中で、極限まで肉体をぶつけ合い、汗と精液と愛液が混ざり合い、それが乾かないまま放置された空間にだけ発生する、生々しく、ひどく淫らな「事後」の匂い。
俺の心臓が、恐怖と絶望で早鐘のように打ち鳴らされる。
頭の奥で、何かが決定的に壊れる音がした。
逃げ出したい。今すぐこのドアを閉めて、すべてを忘れて逃げ出したい。
だが、俺の足は自律神経の制御を離れ、まるで恐ろしい真実を確かめずにはいられない亡者のように、その澱んだ空気の中へと足を踏み入れていた。
靴を脱ぐために視線を落とした玄関の三和土(たたき)で、俺は最初の決定的なダメージを食らった。
綺麗に揃えられた結衣のスニーカーの横に、無造作に脱ぎ捨てられた、巨大なサイズの男物のスポーツシューズがあったのだ。
結衣の華奢な足のサイズとは比較にならない、圧倒的な体格差を誇示するようなその靴は、俺が昨日グラウンドで見た「あの天才の男」が履いていたものと全く同じモデルだった。
靴がここにあるということは、彼は結衣が遠征に出る直前まで、この部屋に滞在していたということだ。あるいは、遠征に持っていく荷物を減らすために、あえてここに置いていったのか。どちらにせよ、この部屋がすでに「彼にとっての第二の自宅」として機能している事実を、その巨大な質量が論理的に証明していた。
俺が長年、どれだけ丁寧に扱ってきた不可侵の領域に、彼は土足で上がり込み、自分のマーキングを当然のように残している。
息を殺しながら、廊下を進み、リビングへと足を踏み入れる。
カーテンが半分閉められた薄暗いリビングの光景は、俺の残されたわずかな希望の欠片すらも、大型のロードローラーで粉砕するほどに凄惨だった。
フローリングの床には、衣服が点々と散乱していた。
結衣が部活で愛用している、学校指定のジャージ。
それが、あの天才の男が着ていたであろう、巨大な黒いTシャツと、まるで組み敷かれた獣のように激しく絡み合って床に落ちている。
丁寧に畳む余裕などなかったのだ。
玄関を入ってすぐ、あるいはリビングに辿り着いた瞬間に、互いの肉体を求める衝動が理性を凌駕し、獣のように互いの衣服を剥ぎ取った。その異常なまでの飢えと熱量が、脱ぎ捨てられた衣服の乱れ方から痛いほどに伝わってくる。
ふらつく足取りで、部屋の中央にあるローテーブルに近づいた。
そこには、俺の精神をさらに奥深くへと突き落とす、グロテスクな配置があった。
テーブルの上には、ルーズリーフが数枚、乱暴に広げられている。
そこには、男の癖の強い乱暴な字で、陸上競技における戦術や、筋肉の連動に関する専門的なメモが書き殴られていた。
『腸腰筋のロック解除』『重心の同期』『骨盤の反発力』
一見すれば、それは熱心な部活動の延長、極めて真面目なアスリートのミーティングの痕跡に見える。
だが、その崇高な競技のメモに重なるようにして放置されていたのは、結衣が身につけていたであろう、黒いレースのあしらわれた下着だった。
スポーツブラではない。あきらかに、男の目を意識して選ばれた、勝負下着と呼ばれる類のものだ。
それが、陸上の戦術メモの上に、無惨に放り投げられている。
この異様な光景が意味することは一つしかない。
彼らはこのテーブルで、競技のタイムを縮めるための真剣な話し合いをしていた。
だが、その「指導」の熱は、極めてスムーズに、かつ必然的に「肉体の調教」へとシフトしたのだ。
「重心の連動を教える」という大義名分のもとで男が彼女の身体に触れ、彼女の奥底に眠る雌のスイッチを入れる。真剣な陸上のミーティングが、いつの間にか濃厚な前戯へと変質し、彼女は自らその下着を脱ぎ捨て、テーブルの上で彼を受け入れたのだろう。
競技の向上心と、極限の快楽。
その二つが彼らの中では完全に同一のものとして処理されているという、逃れようのない現実。俺がどれだけ結衣を「純潔なアスリート」として神聖化しようと、彼女の真実は、戦術メモと下着が絡み合うこのテーブルの上の光景そのものなのだ。
俺の喉の奥から、ヒュッと引き攣った音が漏れた。
視界がぐにゃりと歪み、胃液が喉元までせり上がってくる。
だが、拷問はまだ終わらない。
俺はふらふらと、洗面所とバスルームの方へと向かった。
洗面台の鏡の前には、結衣の歯ブラシの横に、見知らぬ真新しい歯ブラシが立てかけられていた。それはもう、俺にとって決定的なダメージにはならなかった。すでに俺の心は致命傷を負い、血を流し尽くしている。
俺の目を引きつけたのは、洗面台の横に置かれた、蓋のないゴミ箱だった。
その中には、スポーツドリンクの空きペットボトルが数本、無造作に突っ込まれている。
水分補給。アスリートにとって当然の行為だ。
しかし、そのペットボトルの残骸に混じって、大量の丸まったティッシュペーパーと、生々しく光を反射する「使用済みのゴム」が、数え切れないほど捨てられていた。
一つや二つではない。
一晩で消費されたとは信じがたい異常な数が、彼らが毎晩この部屋で繰り広げている「練習後のクールダウン」の異常性を、数字という客観的なデータで俺に突きつけていた。
同年代の天才が持つ、陸上競技だけでなく、雄としての圧倒的な体力と性欲。
それに一晩中付き合わされ、何度も何度も内側から果てさせられ、それでもなお彼の才能と快楽を貪欲に求め続けた、結衣の底知れぬ雌としてのポテンシャル。
俺には到底不可能なことだ。
俺がもし結衣と結ばれていたとしても、これほどの暴力的なまでの情熱と体力で、彼女の肉体を極限まで開発し、満たしてやることは絶対に不可能だった。
俺は、自分が精神的だけでなく、生物学的にも完全なる「敗北者」であることを、ゴミ箱の中の残骸によって論理的に証明されてしまったのだ。
「……ははっ」
俺の口から、乾いた笑い声がこぼれた。
もはや涙すら出ない。悲壮感よりも、あまりにも完璧な敗北の前に、感情の処理回路がショートしてしまったのだ。
そして俺は、最後の部屋――結衣の寝室へと足を踏み入れた。
そこは、この部屋の匂いの震源地だった。
部屋の中央に置かれたセミダブルのベッド。
そのシーツは、まるで大型の肉食獣が獲物を仕留めて暴れ回ったかのように、原型を留めないほどに激しく乱れ、マットレスからはみ出していた。
枕は床に突き落とされ、掛け布団は捻り上げられ、シーツの至る所には、彼らがどれほど激しく、乱暴に、そして果てしなく愛し合ったかを物語る、濃い染みがいくつもこびりついている。
俺は、その惨状を前にして、ついにその場に膝から崩れ落ちた。
冷たいフローリングに両手をつき、荒い息を吐く。
都合よく、彼らが行為の最中である密室に出くわすような、ドラマチックな展開など存在しなかった。
俺の目の前にあるのは、結衣が自らの明確な意思で彼をこの部屋に招き入れ、進んで自らの身体を開き、彼専用の「快楽の器」として毎晩機能しているという、動かしようのない事実の痕跡だけだ。
不在という密室。
誰もいないこの空間だからこそ、俺の脳は最も残酷な働きを始める。
残された痕跡が、俺の脳内で勝手に映像を構築し、再生していくのだ。
この乱れたシーツの上で、結衣がどのように組み敷かれていたのか。
太陽の光をたっぷり吸い込んだ彼女の褐色の肌が、男の巨大な身体の下で汗に塗れ、紅潮していく様。
普段はポニーテールに結ばれている艶やかな黒髪が、枕の上に無惨に散らばり、男の指に乱暴に掴まれている光景。
無駄な脂肪のないアスリートの引き締まった太ももが、抗うことのできない力で大きく押し開かれ、未知の律動を打ち込まれるたびに、ビクビクと痙攣する様。
『あ、あっ……もっと、彼のリズム、私の中に入れて……ッ!』
『いい子だ。俺の動き、全部お前の体の奥に刻み込んでやる』
『ああっ、頭がおかしくなる……私、もうあなたのモノだから……好きにして……ッ!』
俺の鼓膜の裏側で、結衣の狂おしいまでの歓喜の絶叫と、男の傲慢な笑い声が、幻聴となって響き渡る。
「やめろ……やめてくれ……っ」
俺は両手で耳を塞ぎ、フローリングに額を打ち付けた。
だが、脳内で再生される映像は止まらない。
結衣は犯されているのではない。彼女は強姦の被害者などではないのだ。
彼女は、同年代の天才が放つ圧倒的な才能と、暴力的なまでの快楽に自ら屈服し、それに依存することを選んだ。彼なしではもはや生きていけない身体にされることを、彼女自身が望んだのだ。
俺が長年かけて彼女に注いできた「優しさ」や「思いやり」は、彼女にとって何の価値もなかった。彼女の奥底に眠っていた「自己破壊的なまでの才能への渇望」と「支配されることの悦び」を満たしてやることができなかった俺は、最初から彼女のパートナーになる資格などなかったのだ。
視界が涙で滲む。
額から流れる冷や汗が、床に落ちて小さなシミを作る。
俺は、右手に固く握りしめていた合鍵を、ゆっくりと開いた。
手のひらに残る、金属の冷たい感触。
この鍵は、俺が彼女にとって「特別な存在」であることの証明だと信じていた。
だが、その認識は根本から間違っていたのだ。
俺は、彼女の心の扉を開けたことなど一度もなかった。彼女の肉体の奥深くに触れたこともなかった。
俺が持っていたのは、ただの物理的な扉の鍵。
毎晩、結衣が他の男に理性を破壊され、泣き叫び、完全に牝として作り変えられているこの淫らな空間を、彼女が留守の間にこっそりと訪れ、枯れた鉢植えに水をやるためだけの。
俺はただの、哀れな清掃員だ。
彼女の生活インフラを支える、機能を持たない無用の長物。
「あぁ……ああぁっ……」
俺の口から、もはや言葉にならない嗚咽が漏れ出した。
この部屋の淀んだ空気が、俺の肺を満たし、俺の存在意義を根こそぎ腐らせていく。
どれほどの時間が経っただろうか。
涙も涸れ果て、俺の感情は完全にフラットな虚無へと移行していた。
俺はふらふらと立ち上がり、洗面所で水を汲むと、ベランダに出た。
初夏の眩しい太陽の光が、網膜を焼くように突き刺さる。
ベランダの隅で、結衣が大切に育てていた小さな鉢植えの土が、白くカラカラに乾いていた。
俺は、そこに冷たい水を注いだ。
乾いた土が、シュウシュウと音を立てて水を吸い込んでいく。
結衣が昨夜、あの男の才能と体液を、その身体の奥底で貪欲に吸い込んでいたように。
水やりという「俺に与えられた唯一の役割」を終え、俺は再び、あの凄惨な匂いの充満する部屋を通り抜けた。
テーブルの下着も、ゴミ箱の残骸も、乱れたシーツも、もう二度と視界に入れないように、足元だけを見て歩いた。
玄関で靴を履き、外に出る。
ドアを閉め、合鍵を差し込んで、冷たい機械音とともにロックをかける。
これで、俺の役割はすべて終わった。
結衣の生活空間からも、彼女の精神からも、俺という人間は完全に、論理的に、そして不可逆的に排除された。
手の中の合鍵を、ジーンズのポケットの奥深くへとねじ込む。
俺は、自分の聖域が完全に蹂躙され、二度と取り戻せないことを受け入れ、這うような足取りで、彼女のマンションを後にした。
空はどこまでも青く、世界は俺の絶望など一瞥もせず、残酷なほどに完璧な日常を運行し続けていた。
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