僕が先に好きだった幼馴染は、天才のリズムなしでは生きられない牝に書き換えられた。 作:123
あの夜、コンクリートの壁に押し付けられ、獣のように喘ぎ狂う結衣の姿を網膜に焼き付けられてから、俺の時間の流れは完全に停止していた。
いや、世界は確かに動き続けている。
太陽は昇り、沈み、教室には退屈な授業の声が響き、放課後になればグラウンドから活気に満ちた部活の喧騒が聞こえてくる。
だが、俺という個体だけが、その正常な時の流れから完全に切り離され、真空のガラスケースの中に閉じ込められた標本のように、ただ腐敗していくのを待つだけの存在になり果てていた。
息を吸うたびに、肺の奥底にあの夜の生々しい水音と、咽せ返るようなオスの体臭がフラッシュバックする。
目を閉じれば、艶やかな黒髪を振り乱し、白目を剥いて絶頂に達する幼馴染の、純度100パーセントの「肉便器」としての顔が、高解像度の映像となって脳髄を焼き焦がす。
俺はもう、狂っているのかもしれなかった。
自分が生きているのか死んでいるのかすら曖昧なまま、重力だけに従って学校の廊下を歩いていた。
三年生という時期は、否応なく「未来」というものを突きつけてくる。
進路。受験。就職。
誰もが自分の人生の設計図を広げ、不安と希望を抱えながら、その先のステージへと歩みを進めるための準備を始めている。
しかし、俺の設計図はすでに、跡形もなく引き裂かれ、燃やし尽くされていた。
俺が思い描いていた未来。
それは、地元の大学に進学し、結衣の陸上を陰ながら支え、いつか彼女が競技を引退した時には、昔のように二人で穏やかに笑い合い、ささやかな家庭を築くという、ひどく凡庸で、しかし絶対的に揺るぎないと信じていた青写真だった。
だが、その未来には、致命的な欠陥があった。
俺は、結衣という人間を、自分の都合の良い「守られるべき純潔なヒロイン」として神聖化しすぎていたのだ。
彼女の奥底に眠っていた、極限のプレッシャーに対する死の恐怖。そして、その恐怖を塗り潰すための「圧倒的な暴力と才能による支配」を渇望する、自己破壊的なまでの雌としての本能。
俺の凡庸な優しさでは、彼女のその巨大な空洞を、到底満たしてやることはできなかった。
足を引きずるようにして歩いていた俺の歩みが、ふと、止まった。
渡り廊下を抜けた先、特別教室棟の静かなエリア。
進路指導室の前だった。
少し開いたドアの隙間から、聞き覚えのある声が漏れ聞こえてきたのだ。
俺は、心臓を冷たい手で直接握り潰されたような錯覚に陥りながら、壁の影に身を潜めた。
「――ですから、彼女のポテンシャルを100パーセント、いや、限界を超えて引き出すためには、俺の管理が絶対に必要不可欠なんです」
低く、自信に満ち溢れ、そしていかなる反論も許さない絶対者のトーン。
あの天才の男の声だった。
「ほう……同じ関東のS大学へ、二人揃ってスポーツ推薦で進学したいと。確かに、君たち二人が今回叩き出した県大会での記録は、大学のスカウト陣も大いに注目している。しかし、君は彼女の『専属コーチ兼マネージャー』のような立場で、生活環境のすべてを共にしたいと言うのかね?」
応じるのは、恰幅の良いベテランの進路指導教諭の声だった。
俺は、その会話の内容を脳内で処理し、あまりの残酷な現実に吐き気を覚えた。
大学への進学。
しかも、全国トップクラスのスポーツ名門大学へ、二人で一緒に。
「ええ。彼女は、精神的にも肉体的にも、俺のリズムと完全に同期させることで初めて、あの圧倒的なパフォーマンスを発揮できる。生活環境を分け、俺の目が届かなくなる時間を作れば、必ず彼女のシステムにノイズが生じます。大学側が彼女を欲しがるなら、俺とセットで、俺が彼女を24時間体制で『管理』する環境を保証させます」
男の言葉は、教師に対する高校生の進路相談の枠を完全に逸脱していた。
それは、自分が所有する優秀な競走馬、あるいは高度な機械の運用条件を、堂々とプレゼンしているような冷酷さだった。
『管理』。
その言葉の裏に隠された、夜な夜な行われる密室での暴力的な肉体の調教と、精液による精神の洗脳を、この教師は知る由もない。
教師の耳には、それが「アスリートとしてのストイックな献身と、究極のパートナーシップ」として、この上なく美しい美談に聞こえているのだろう。
「なるほど……。君の指導力と、彼女の才能。それが組み合わさった時の爆発力は、確かに誰もが認めるものだ。大学側も、君たちを『最強のアスリートペア』として迎え入れることに、異論はないだろう。……結衣さんは、どうなのかな? 彼と生活のすべてを共にし、すべてを委ねるというこのプランに、不安はないかね?」
教師の問いかけ。
静寂が、廊下に落ちた。
俺は、壁に爪を立て、そこから漏れてくるであろう彼女の声を、ただ震えながら待っていた。
ほんのわずかでも、ためらいがあってほしかった。
親元を離れ、一人の男に人生のすべてを捧げ、完全に飼育されることに対する、人間としての恐怖や葛藤が、声の震えとなって表れてほしかった。
だが。
「はい。不安は、一切ありません」
指導室から響いてきた結衣の声は、一片の迷いもない、恐ろしいまでに澄み切った、透明な声だった。
「むしろ、彼と一緒じゃないと……彼の管理下にいないと、私の体はもう、動かないんです」
それは、教師に対する決意表明の形をとった、完全なる「隷属の誓い」だった。
俺の脳裏に、夜の部室裏で、男の楔を奥深くまで打ち込まれながら絶叫していた彼女の姿がフラッシュバックする。
『あなたの動きのリズムが体から抜けると、苦しくて立っていられない』
彼女が教師に語っている「体が動かない」という言葉は、競技のモチベーションの話などではない。
あの男の圧倒的な才能と暴力的な快楽という麻薬が体内から切れると、禁断症状で自立することすらできなくなるという、完全に破壊された精神の構造そのものを語っているのだ。
「彼が私の限界を壊し、私の体を一から作り直してくれました。私にとっての陸上は、彼に従い、彼にすべてを捧げることと、完全に同義なんです。彼なしの未来なんて、私には考えられません」
結衣の声は、熱を帯びていた。
大人の教師の前で、進路指導という極めて公的な場で、彼女は自分が「彼に犯され、支配されるためだけの肉の器」であることを、言葉を巧妙にすり替えながら、堂々と、恍惚と宣言しているのだ。
そこにあるのは、若さゆえの感情的な熱情でも、恋愛ごっこの延長でもない。
「アスリートという極限のシステム」を維持し、生き残るための、冷酷なまでに完成された「合理的な共依存の契約」だった。
「そうか……。そこまでの覚悟があるなら、私から止める理由は何もない。むしろ、君たちのこれからが楽しみだよ。推薦の書類は、私が責任を持って最高の形で書き上げよう」
教師の、感極まったような承認の声。
ガチャン、と。
俺の中で、最後に残っていた細い細い未練の糸が、無惨に断ち切られる音がした。
社会が、大人が、学校というシステムが、彼らの狂気に満ちた隷属関係を「美しい正解」として承認し、祝福したのだ。
俺が思い描いていた、いつかまた昔のように二人で笑い合う未来。
それは、彼らが構築した「巨額の資本と、人生のすべてを懸けた強固な未来図」の前に、あまりにも薄っぺらく、稚拙で、何の価値もない紙屑として破り捨てられた。
彼らの未来の設計図には、俺という不確定要素(バグ)が入り込む余地は、1ミリグラムも、いや、1ミクロンすら存在しない。
同じステージに立ち、同じ地獄のプレッシャーを共有し、それを圧倒的な暴力と才能でねじ伏せることができる者だけが、彼女の隣に立つ資格を持っている。
過去の実績に縋り、彼女を純潔なヒロインとして神聖化し、安全な外野から「頑張れ」と無責任な言葉をかけることしかできなかった俺は、彼女の未来の景色から、論理的に、構造的に、完全に排除されたのだ。
「ありがとうございました」
椅子の引かれる音がして、指導室のドアが開く気配がした。
逃げなければ。
そう思ったが、足は床に縫い付けられたように動かなかった。
ゆっくりと開かれたドアから、二人の姿が廊下へと現れた。
男が先頭を歩き、その半歩後ろを、結衣が従順な足取りでついてくる。
肩甲骨のあたりで無造作に結ばれた艶やかな黒髪。健康的な褐色の肌。引き締まった四肢。
制服姿の彼女は、どこからどう見ても、未来に希望を抱く美しい女子高生だった。
だが、俺の目には、その制服の下に隠された、男が夜な夜な刻み込んだ無数の所有印と、彼女の精神に固く巻き付けられた見えない首輪が、はっきりと見えていた。
廊下の壁際に立ち尽くす、青ざめた俺の姿。
それに最初に気づいたのは、男の方だった。
男は、歩みを止めることなく、俺の方を一瞥した。
その視線には、怒りも、嘲笑すらも浮かんでいなかった。
道端に落ちている石ころを見るような、あるいは、すでに機能停止した旧式の機械を通り過ぎるような、完全なる「無関心」だった。
彼は、俺がこの会話を聞いて絶望しようが狂おうが、どうでもいいのだ。
自分が手に入れた極上の牝が、過去にどんな無能な幼馴染とつるんでいようと、今の彼女の肉体の奥深くまでを支配しているのは自分であり、その事実は未来永劫揺るがないという、絶対的な強者の余裕。
男は、俺の目の前を通り過ぎる瞬間、わざと見せつけるように、結衣の腰に手を回し、自分の方へと強く引き寄せた。
「あっ……」
結衣の口から、無意識の甘い声が漏れる。
彼女の身体が、男の腕の力に抗うことなく、ピタリと彼の巨体に寄り添う。
そして、結衣もまた、壁際に立つ俺の存在に気づいた。
目が、合った。
俺の心臓が、最後の抵抗のように激しく脈打つ。
結衣。俺だ。お前をずっと見てきた俺だ。
頼む、何か言ってくれ。昔のような、あの純粋な目で、一秒でもいいから俺を見てくれ。
だが。
結衣の瞳は、俺を捉えながらも、そこには何の感情の波紋も生じなかった。
驚きも、罪悪感も、哀れみすらもない。
彼女の目は、完全に「あの男のもの」としてフォーマットされており、男以外の人間はすべて、彼女の生存戦略において意味を持たない背景としてしか認識されないのだ。
結衣は、俺の顔をただの壁のシミでも見るかのようにスルーすると、すぐに視線を男の横顔へと戻した。
そして、発情した犬が主人の匂いを嗅ぐように、男の腕に自分の頬を擦り寄せ、恍惚と目を細めたのだ。
「ねえ……今の話、本当? 大学でも、ずっと一緒にいてくれるの?」
結衣の声は、俺には一度も向けられたことのない、甘く、媚びへつらうような、完全に従属しきった女の声だった。
「当たり前だろ。お前の体は、俺が一生管理してやる。……ほら、行くぞ。今日のメニューはハードだからな」
「うん……っ、私、頑張る。あなたのためなら、どこまでも……っ」
二人の足音が、静かな廊下に遠ざかっていく。
俺は、その背中を追うこともできず、ただ壁に寄りかかったまま、足から崩れ落ちた。
彼らはこれから、同じ大学へ進み、同じ部屋で暮らし、同じベッドで毎晩その肉体を狂おしいほどに交わらせる。
競技のプレッシャーを暴力的な快楽で上書きし合いながら、互いの才能を喰らい合い、社会的な名誉と絶頂を同時に貪り続けるのだ。
そこには、俺という存在が入り込む余地は、文字通り「存在しない」。
俺が過去に彼女を励ました言葉も、一緒に帰った夕暮れの道も、俺がどれほど彼女を大切に想っていたかという事実も。
すべては、彼らが歩んでいく光り輝く狂気のステージの前に、何の価値も持たない塵として吹き飛ばされた。
「あぁ……っ、うあぁぁっ……!」
俺の口から、獣のような、惨めで、どうしようもない嗚咽が漏れ出した。
廊下の冷たいリノリウムの床に額を擦りつけ、俺は声を殺して泣き叫んだ。
奪われたのではない。
寝取られたのではない。
俺は最初から、彼女の本当の飢えを満たす力を持たない、ただの無力な傍観者だったのだ。
「僕が、先に……好きだったのに……っ」
その言葉は、もはや誰に向けたものでもない、空虚な呪詛となって、薄暗い廊下の空気に溶けていく。
俺の世界は終わった。
彼らの未来を阻むものは何一つなく、俺の未来には何一つ残されていない。
俺は、自分が彼女の人生から完全に、そして絶対的に排除されたという事実を、骨の髄まで噛み砕きながら、ただ永遠に続くような絶望の底で、暗い床を見つめ続けることしかできなかった。
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