このたび『MEDESGAME』を投稿させていただきます。
スマホアプリから異世界の女性キャラクターを召喚し、奪い合う――そんな危うい題材ですが、
単なるバトルやハーレムではなく、相手との関係や読み合いも大事にした作品にしたいと思っています。
気になっていただけましたら、どうぞよろしくお願いします。
また、こちらで活動報告の募集がありますので、興味がありましたらぜひ。
https://syosetu.org/?mode=kappo_view&kid=339370&uid=45956
天井の照明は落としてあった。机の脇に置いた小さな間接灯だけが、ワンルームの壁を薄く照らし、洗い残したマグカップの縁に鈍い色を溜めている。ベッドの上で片膝を立て、俺は親指だけでスマホの画面を流していた。
動画もニュースも頭に入ってこない。指だけが癖で動く。上へ払って閉じ、また別のアプリを開く。その繰り返しの途中、見覚えのない黒いアイコンが視界に引っかかった。
MEDES。
入れた記憶はない。広告を踏んだ覚えも、変なリンクを開いた記憶もなかった。長押ししても削除表示は出ず、代わりにアイコンがふっと開く。黒地に灰色の文字。企業ロゴも説明もなく、無愛想な英文が並んだ。
――AUTHORIZED USER CHECK
――IDENTITY : UNCONFIRMED
――VESSEL LINK : OPEN
「……気味悪いな」
独り言が狭い部屋に落ちた。閉じようとしても反応しない。電源も切れない。通知欄も、他の表示はきれいさっぱり消えていた。スマホの中身が、この一画面に塗り潰されたみたいだった。
修理か初期化か、そこまで考えたとき、画面に一行増える。
――INITIAL CONTRACT AVAILABLE
――SLOT : 01
次に現れたのは、四角いボタンだった。
[召喚を開始する]
意味は分からない。分からないが、悪趣味な単語の選び方だけは嫌というほど伝わる。悪ふざけなら反応がなさすぎるし、ウイルスならもっと露骨に金を要求してくる。どっちにも寄っていない、その曖昧さが落ち着かなかった。
放置するのも気持ちが悪い。何か起きるなら、見えるところで起きた方がまだましだ。そう自分に言い聞かせ、俺は一度だけ深く息を吐いた。
「……一回だけだ」
誰に聞かせるでもなく呟いて、ボタンへ指を伸ばす。
触れた瞬間、間接灯の色がわずかに沈んだ。
音はなかった。代わりに、部屋の空気だけが重くなる。夏でもないのに肌が粟立ち、耳の奥がきんと鳴った。スマホの画面中央に、黒い底から紋様が滲む。花にも、照準にも見える円形の線が幾重にも重なり、その中心から何かが落ちてくるような錯覚が走った。
次の瞬間、ベッド脇の床へ影が叩きつけられた。
思わず身体が強張る。
人影だった。ただ、普通の人間ではない。最初に目へ入ったのは、腰まで流れる黒髪と、その上からぴんと立った狼みたいな耳だった。毛並みの黒い尾が床を払う。伏せるように低く構えた姿勢のまま、紫色の瞳がこちらを射抜いた。
綺麗だとか可愛いとか、そういう感想が先に出る余地はなかった。異物だ。部屋の広さも空気も、何ひとつ噛み合っていない。人の形をしているのに、まず獣がいると感じる。その違和感が強すぎた。
「……おまえ」
低く、唸るみたいな声だった。大人びた顔立ちに対して、響きには生の警戒がむき出しになっている。ゆっくりと立ち上がった姿は女そのものだった。黒い髪の隙間から覗く耳。しなる尾。息とともに揺れる胸の大きさまで、視界に入るもの全部が生々しいのに、現実感だけが追いつかない。
「ここ、どこです」
語尾だけ丁寧で、声の温度はまるで子供みたいに率直だった。
「分からない、って言ったら信じないだろうけど、本当に分からない」
そう返しながら、俺は両手を軽く上げた。敵意がないと示す、反射に近い動作だった。
だが通じた様子はない。彼女――デルタは鼻先をわずかに動かし、獲物を測る獣みたいに俺の匂いを取る。次の瞬間、気づいたときには目の前にいた。速い、というより、消えて詰めたような距離だった。
息が近い。紫の瞳がすぐそこにある。
「怪しいやつです」
「否定はしにくいな」
「知らないところへデルタを呼んだです。怪しいに決まってるです」
声は冷たいのに、言い分は妙に真っ直ぐで、そこだけ妙なちぐはぐさがあった。俺が何か答えるより早く、デルタは部屋の中を見回す。ベッド、机、流し台、カーテン。狭い空間の端から端まで一瞬で視線を走らせ、今度は窓際へ行って外を見た。
まるで、知らない巣穴に放り込まれた獣だ。
「逃げ道、少ないです」
「逃げる前提なんだな」
「当たり前です。怪しいやつの部屋です」
振り返る動作ひとつがしなやかだった。裸足の足音がほとんどしない。床を踏むたび、尾が低く揺れる。警戒が抜けていない証拠だろう。
スマホを見下ろすと、画面にはいつの間にか別の表示が増えていた。
――CONTRACT ESTABLISHED
――SUBORDINATE LINK : ACTIVE
嫌な文面だった。ぞっとするほど簡潔で、こっちの気持ちを何一つ勘定に入れていない。
「……契約、か」
「それです」
デルタがぴくりと耳を動かした。俺の視線の先を追い、スマホへ目を落とす。表示を理解したらしい。さっきまでの警戒に、別の色が混じった。
「デルタ、縛られてるです」
短い言葉のあと、空気がぴんと張る。次に何を言うべきか、一瞬迷った。大丈夫だ、なんて軽々しく言える状況じゃない。実際、何が起きているのか俺にも分かっていない。
「……少なくとも、俺はおまえをどうこうする気はない」
「命令できるです?」
直球だった。
「多分、できるんだろうな。だから余計に気分が悪い」
言いながら自分でも顔がしかめられるのが分かった。デルタはそれを見て、ほんの少しだけ目を細める。値踏みの色が混じる。
「変な顔です」
「だろうな」
「嬉しそうじゃないです」
「嬉しい要素がどこにある」
「普通は、あるです」
その言い方に、妙な重さがあった。思わず言葉に詰まる。デルタは肩をすくめ、次の瞬間、腹の虫でも鳴いたのか小さく耳を揺らした。鋭い目つきが、ほんのわずかだけ不機嫌そうに歪む。
「……腹、減ったです」
警戒と敵意と空腹が同時に来るのか、と場違いなことを考えた。けれど、その一言で変に空気が切れたのも確かだった。
「食べるか」
そう言うと、デルタは露骨に怪訝そうな顔をした。
「毒入れるです?」
「そんな手間をかけるくらいなら、最初から命令するだろ」
「それもそうです」
納得が早いのか雑なのか判断に困る返事をして、デルタは尾を一度振った。俺はベッドから降り、冷蔵庫を開ける。買い置きの肉と野菜、作り置きのスープ。凝ったものはできないが、温かいものは出せる。
火を入れる音が小さく響く。油の匂いが立つと、後ろの気配が少し近づいた。
「肉です」
「肉だな」
「いいです」
「おまえ、分かりやすいな」
「うまいものは、いいものです」
断言が早い。けれど、その率直さには救われる。フライパンを振りながらちらりと振り返ると、デルタはさっきまでの刺すような警戒をほんの少し引かせて、台所の動きをじっと見ていた。耳が忙しく動いている。匂いを追っているのだろう。
皿に盛り、スープと一緒に机へ置く。俺は先に一口だけ口へ運んで、安全だと示した。
「食べたくなければ食べなくていい」
「……変なやつです」
「よく言われる」
「初めて言ったです」
「それもそうだな」
デルタは俺を見て、皿を見て、もう一度俺を見る。その一瞬の迷いが妙に生々しかった。強制的に従える関係に置かれているのに、自分で選ぶ余地を探している。そう見えた。
やがて手を伸ばし、肉をひとつ口へ入れる。
噛んだ。
紫の瞳が見開かれる。
「……うまいです」
今度ははっきり、声の色が変わった。
そこからは早かった。夢中で食べる。がつがつというほど下品じゃないのに、勢いだけは隠せていない。熱いのも気にせず口へ運び、飲み込んでから、しっぽが正直に揺れる。
「そんなに腹減ってたのか」
「減ってたです。知らない場所、嫌な匂い、怪しいやつ。いっぱい疲れたです」
「その評価の中に、俺への救いがひとつもないな」
「肉があるです」
「それは俺への評価じゃなくて飯への評価だろ」
「飯を出すやつは、ちょっといいやつです」
即答だった。思わず笑いそうになるのを飲み込む。デルタは二皿目もきれいに平らげ、スープの最後の一口まで惜しむように飲み干した。食べ終わる頃には、最初の殺気じみたものはかなり薄れていた。
ただ、消えたわけじゃない。皿を置いたあと、不意にデルタが俺の手首を掴んだ。細く見える指なのに、力はまるで鉄だ。
「優しいふりして、あとで変なことするやつもいるです」
真っ直ぐな疑いだった。試しているのか、確かめているのか、その両方かもしれない。
「嫌がることはしない」
それしか言えなかった。飾り立てても仕方がない。デルタは俺の顔をじっと見て、それから少しだけ顔を寄せてくる。鼻先が触れそうな距離で匂いを取られ、息が止まりかける。近い。食後の温かい吐息が頬へかかる。
「……嘘っぽくないです」
「光栄だな」
「でも、まだ怪しいです」
「だろうな」
掴んでいた手首を離したあと、デルタは今度は妙に自然な動作で俺の膝へ体重を預けてきた。試すような、でも無防備でもある寄りかかり方だった。黒髪が腕へ流れ、肩越しに尾が揺れる。胸の柔らかさが服越しにかすめて、心臓が変に跳ねる。
顔に出すな、と自分へ言い聞かせた。
「……なんです」
「いや」
「今、変なこと考えたです?」
「考えない方が無理な距離に来たのはそっちだろ」
言ってから、しまったと思った。けれどデルタはきょとんとして、次いで少しだけ口角を上げる。
「正直です」
「取り繕っても意味ない気がした」
「いいです。嘘つくより、いいです」
そこでまた、耳が小さく動く。満腹と安心と、まだ少し残る警戒。その全部が混ざっている顔だった。
「眠いならベッド使え」
「仮ボスは?」
「俺は床でもいい」
「なんでです」
「召喚した責任くらいは取る」
自分で口にして、妙な言い回しだと思った。責任なんて、今の段階で背負いきれるものじゃない。ただ、少なくともこの状況を楽しむ側には立ちたくなかった。
デルタはしばらく黙っていた。やがて小さく鼻を鳴らし、俺の膝へ顎を乗せるようにして見上げてくる。
「変なやつです」
「何度目だよ、その評価」
「でも、悪くない変なやつです」
それから少しだけ間を置いて、ぽつりと続けた。
「ここでは、おまえがボスみたいです」
「みたい、か」
「本物かどうか、まだ分からないです。だから仮です」
紫の瞳がまっすぐこっちを見る。
「仮ボスです」
子供っぽい決め方のくせに、その響きには妙な納得があった。命令で押しつけられた主従とは別のところで、デルタなりに俺の立場を決めたのだろう。
「……そうか」
「嫌です?」
「いや。嫌ではない」
「ならいいです」
そう言って、デルタは今度こそ力を抜いた。完全に預けるほど無防備じゃない。それでも、さっきまでみたいにいつでも飛びかかれる角度ではなくなっている。こちらへ身体の重みを預けたまま、尾が気まぐれみたいに脚へ触れた。
しばらくそのまま、どちらも喋らなかった。間接灯の明かりが黒髪に沈み、耳の先だけが時々ぴくりと動く。俺は迷った末、ゆっくりと手を伸ばした。
「触るです?」
「嫌ならやめる」
デルタは少しだけ目を細め、それから動かない。拒絶ではないと判断して、指先でそっと髪を梳く。毛先は思ったより柔らかかった。耳の付け根は避けていたのに、途中でデルタの方からわずかに頭を寄せてきて、指が黒い毛並みの近くをかすめる。
「……悪くないです」
小さな声だった。
その一言に、召喚直後の牙はもうない。
やがてデルタはベッドの端へ移るかと思ったが、そうしなかった。代わりに、俺のすぐ隣へ腰を下ろし、肩が触れるぎりぎりの距離に落ち着く。近い。けれど、さっきまでの近さとは違う。試すためではなく、そこが一番落ち着くと身体が決めたみたいな寄り方だった。
「仮ボス」
「ん?」
「明日も肉あるですか」
「用意する」
「いっぱいです?」
「いっぱいだ」
それを聞くと、デルタは満足そうに目を細めた。大きく欠伸を噛み殺し、尾が一度だけ機嫌よく揺れる。
「じゃあ、しばらくはここでもいいです」
「上からだな」
「デルタはそういうやつです」
言い切ったあと、眠気に引かれるみたいに身体がわずかに傾き、その重みが俺の肩へ触れた。押しつけるでもなく、遠慮するでもない、半端な預け方だった。それがかえって妙に生々しい。
知らないアプリを開いただけの夜が、どうしてこんなことになっているのか、相変わらず何ひとつ分からない。MEDESの正体も、この契約の意味も、明日どうなるのかも。
ただ、ひとつだけ分かることがあった。
最初は明確な異物だった黒い狼の少女は、今この瞬間だけなら、少なくとも俺を敵としては見ていない。
温かな食事を腹に入れて、警戒を少しだけ解き、仮ボスなんて勝手な呼び名をつけて、俺の隣で眠たそうに耳を揺らしている。
その事実が、妙に胸へ残った。
「……おやすみ、デルタ」
「まだ寝ないです。ちょっとだけ、こうしてるです」
眠そうな声でそう言って、デルタは肩へ触れたまま動かなかった。
結局その夜、俺はスマホの画面をもう一度開く気にはなれなかった。