目が覚めた時、最初に感じたのは重みだった。
胸のあたりへ、柔らかな熱がぴたりと寄り添っている。毛布の中へこもった体温は、夜のうちにすっかり馴染んでいて、目を開けるまでそれが自分のものではないと気づかなかった。視線を落とすと、黒い髪が喉元のあたりへ広がっていた。耳がひとつ、枕からはみ出している。デルタだ。
昨夜のまま、腕の中へ半分収まるみたいな格好で眠っている。眠りは深いらしい。呼吸がゆっくりしていて、尾も毛布の中でほとんど動いていない。夜のあいだ何度か目が覚めた気がしたが、そのたびにこの熱がすぐ近くにあったせいか、結局ひどく沈みきることはなかった。
それでも、胸の奥に残った重さが完全に消えたわけじゃない。
白くほどけていった光景は、朝になったからといって夢になってはくれなかった。目の前から消えた人間の気配も、スマホへ残った冷たい表示も、ちゃんと現実のままだ。身体は少し休めた。けれど、気持ちの方はまだ鈍く沈んでいる。
デルタを起こさないよう、そっと身体を抜く。毛布がずれた瞬間だけ耳がぴくりと動いたが、それ以上は起きる気配がない。頬が枕へ埋もれ、少し不満そうに眉を寄せただけで、またすぐ静かになった。
「……起きないか」
小さく呟いて、毛布をかけ直す。黒い耳の先だけが外へ出ていたので、そこも半分ほど隠した。これで起きるならまだしも、デルタはもう一度もぞりと動いただけで、今度こそ完全に眠りへ沈んだらしい。昨夜は遅かったし、戦ったあとの疲れもある。しばらくは起きないだろう。
ベッドから出て、静かに部屋の外へ出る。
朝の光は、夜の明かりよりずっと容赦がない。カーテンの隙間から差し込む薄い白さが、テーブルの上のスマホの輪郭をくっきりさせていた。伏せたままなのに、そこにあるだけで存在感が強い。
見ないようにして、台所へ向かう。
そこで、先に起きていた気配に気づいた。
「おはようございます」
落ち着いた声がして、顔を上げる。バーゲストがそこにいた。もう着替えも済ませていて、昨夜の戦いの名残を感じさせないくらい整っている。とはいえ、この部屋の流し台へ立つには少しだけ体格が良すぎて、棚や壁との距離感に微妙な窮屈さがあった。その不釣り合いささえ、今朝はどこか現実離れした慰めに見える。
「……おはよう」
「よく眠れましたか」
問いかけは穏やかだった。けれど、目はもうこちらの答えを半分読んでいる。たぶん、顔色を見れば分かるのだろう。俺は少し考えてから、曖昧に肩をすくめた。
「寝た、とは思う」
「ですが、回復はしきっていない」
断定されて、苦笑するしかなかった。
「そんなに分かりやすいか」
「かなり」
バーゲストはそう言って、小さく湯気の立つカップをひとつ差し出してくる。中身は茶だ。香りは濃すぎず、朝にはちょうどいい。
「ありがとうございます、と言うべきでしょうか」
「そのまま受け取ればいい。気を遣う元気も、まだなさそうだ」
図星だった。礼を言うこと自体は難しくない。けれど、普段通りに整った言葉を返すだけの余裕がない。そういう意味で、今の言い方はありがたかった。
カップを受け取る。温かい。指先へ熱が移ってくるだけで、少しだけ息が通る気がした。
バーゲストも自分の分を取ると、流し台へ背を預けるようにしてこちらを見た。しばらくは何も言わない。無理に話を引き出そうとせず、ただ同じ空間へいる。その静けさが、夜のデルタとは別のやり方でありがたい。
茶をひと口飲む。苦すぎない。温度も丁度いい。
「デルタは?」
俺が尋ねると、バーゲストの視線が一度だけ寝室の方へ向いた。
「まだ深く眠っています。起きる気配はありません」
「そうか」
「昨夜は彼女なりに気を張っていたのでしょう。あなたのそばにいたぶん、安心して眠っているようにも見えましたが」
最後の一言だけが、少し柔らかい。からかうほど露骨ではない。だが、見ていたらしい。思わず視線を逸らしかけて、やめる。今さらごまかすようなことでもない。
「……助かったよ」
「ええ。そうでしょうね」
そこで会話が途切れる。
気まずいわけじゃない。ただ、俺の中の沈みがまだ底に貼りついていて、自分から言葉を足す気力が薄いのだ。バーゲストもそれを分かったうえで、しばらくカップの縁へ視線を落としていた。
やがて、彼女が静かに口を開く。
「このまま部屋にいても、あまり良い方へは向かわないでしょう」
責める調子ではない。事実を確認するみたいな言い方だった。
「……そうかもな」
「ですので、少し出ませんか」
「出る?」
「ええ。長くなくて構いません」
銀の瞳がまっすぐ向く。
「歩くだけでも良い。何か温かいものを外で取っても良い。昨夜の続きばかりを頭の中で反芻するくらいなら、空気を入れ替えた方がまだ建設的です」
建設的。いかにもバーゲストらしい言葉だった。デルタならもっと単純に「外行くです」で終わる。バーゲストはそこへ、理由を添える。こちらが受け入れやすい形へ整えて差し出してくる。
「デルタが起きたら」
「起きません」
即答だった。
「少なくとも、しばらくは」
「言い切るな」
「耳の角度と呼吸で分かります」
そこでようやく、口元が少しだけ緩む。ほんの少しだ。だが、夜のあとでは十分だったらしい。バーゲストの目がそれを見て、ほんのわずかに和らぐ。
「もし起きても、私が責任を持って説明します」
「それ、今ここにいるのに言う台詞か」
「あなたが断る理由を潰しておきたかったのでしょう」
自分で言ってから、バーゲストは小さく息を吐いた。冗談を言ったつもりはないのかもしれない。ただ、本音としてそうなのだろう。逃げ道を塞ぐ、というより、こちらが余計な遠慮をしなくて済むよう先回りしている。
茶をもうひと口飲む。少し落ち着く。けれど、動くとなると、まだ身体が鈍い。
「散歩みたいなものか」
「そう思っていただいて構いません」
「おまえが誘うと、何か別の意味に聞こえるな」
「別の意味はありません」
きっぱりと言い切られると、それはそれで可笑しい。
「元気が出ていないと分かっている相手を、無理に引っ張り回す趣味はありません」
「じゃあ、何で誘う」
「沈んだまま座っている顔を見続ける趣味もないからです」
思ったよりはっきり言われて、今度こそ少し笑った。声にはならない程度の、小さな息だけの笑いだ。それでも、自分の中で何かが少し浮いたのが分かった。
バーゲストはその変化に気づいたようだったが、何も言わない。ただカップを流し台へ置き、代わりに上着を取る。
「朝はまだ冷えます。何か羽織った方が良い」
「分かった」
「デルタの分は、そのままにしておきましょう」
「……ああ」
そう答えてから、一度だけ寝室の方を見る。閉めたままの扉の向こうには、黒い髪と耳を毛布の中へ埋めたデルタが、まだぐっすり眠っているはずだ。あの様子なら、しばらく起きないだろう。起きたとしても、すぐに怒るより先に寝ぼける。そんな確信が、もうある。
カップを置き、棚から上着を取る。袖を通しながら、ふとバーゲストを見る。彼女はもう玄関の方へ向かっていた。剣の代わりに、今はただ静かな足取りだけを持って。
「バーゲスト」
「はい」
「……誘ってくれて、助かった」
その言葉へ、バーゲストは振り返る。銀の瞳が一度だけやわらいだ。
「なら良かった」
それだけ言って、少し間を置く。
「元気を出せ、とまでは申しません」
「厳しいな」
「今はまだ、そう簡単な段階ではないでしょう」
否定できない。
「ですが、少しだけ外の空気を吸えば、呼吸くらいは楽になるかもしれません」
「そのくらいなら、期待してもいいか」
「そのくらいで十分です」
玄関の鍵へ手をかけながら、バーゲストは続ける。
「無理に立ち直る必要はありません。ただ、立ち止まり続ける必要もない」
「……おまえ、昨夜よりずっと優しいな」
「昨夜は戦場でした」
「今は?」
「朝です」
妙に納得してしまって、今度はちゃんと笑いが漏れた。
扉を開ける。朝の冷たい空気が、頬へ触れる。夜の残りをまだ引きずっているような冷たさだが、閉じた部屋の中の重さとは少し違う。
一歩、外へ出る。
バーゲストが半歩先で立ち止まり、こちらを待つ。急かさない。振り返りすぎない。ただ、置いていかない距離でそこにいる。
俺は小さく息を吸った。
まだ元気は出ていない。胸の中の鈍い重さも、完全には残っている。けれど、部屋の中でひとり、あの光景だけを反芻していたさっきよりは、ほんの少しだけ前を向ける気がした。
「行くか」
「ええ」
バーゲストが頷く。
そのまま、朝の街へ二人で歩き出した。