朝の空気は、夜を引きずったまま薄く冷えていた。
部屋を出た時から、胸の奥に沈んだ重さはまだ動かない。歩けば少しは紛れるかと思ったが、現実はそう都合よくはないらしい。昨夜見たものは、眠ったくらいで輪郭を失ってくれなかった。人ひとりが、声も、血も、骨も残さず消える。その光景だけが、朝の白さの中でも妙に鮮明だった。
ただ、ひとりでそれを反芻している時よりはましだった。
半歩先を歩くバーゲストの足取りは静かで、巨体に似合わず路面へ余計な音を残さない。こちらへ気を遣いすぎるでもなく、かといって置いていくでもない、絶妙な距離だ。話しかけようと思えば届く。黙っていたければ、それでも成立する。あの落ち着き方は、たぶん生来のものだけじゃない。騎士として人に仕える中で身についたものもあるのだろう。
少し離れた先で、犬を散歩させている夫婦がいた。子供を連れた母親がパン屋の袋を提げて歩いていく。何でもない朝だ。昨夜の殺し合いも、消滅も、そんなものは世界の表面から完全に切り離されていて、こちらだけが知っている悪夢みたいに沈んでいる。
「寒いですか」
バーゲストが、前を向いたまま訊いた。
「少しだけ」
「戻りますか」
「いや」
即答してから、自分で少し苦笑した。立ち止まりたくないのは本当だった。部屋に戻れば、またあの黒い画面を見てしまう気がする。
「もう少し歩く」
「承知しました」
それだけ言って、彼女はペースを緩める。こちらの歩幅に合わせたのだと分かる。気遣いが過ぎると疲れる時もあるが、バーゲストのそれは押しつけがましさを感じさせない。だから助かる。
通りを抜けて、川沿いの遊歩道へ出る。木々の葉はまだ朝露を残していて、風が吹くたび、小さく光った。人通りは商店街より少ない。そのぶん、視界が開けている。昨夜のことがあってから、無意識にそういう場所を選んでいる自分に気づき、少しだけ嫌になる。
「デルタは、まだ眠っているでしょうか」
「たぶん。あれは昼近くまで起きないかもな」
「深く眠っていましたから」
バーゲストの声に、ほんの少しだけ柔らかい色が混じる。昨夜、デルタが俺のベッドへ潜り込んだことを思い出しているのかもしれない。そこを茶化さないあたりが、この人らしい。
「……助かったよ」
「ええ。彼女はそういうやり方ができる」
「おまえはできない、みたいな言い方だな」
「私には別の役目があります」
その返しに、少しだけ口元が緩んだ。昨夜からずっと張っていた糸が、完全ではないにせよ、少しずつほどけているのが分かる。
その時だった。
バーゲストの足が、ふっと止まる。
唐突だった。こちらが二歩ほど前へ出てから、その変化に気づく。視線を向けると、彼女は川沿いのベンチが並ぶ一角を見ていた。人影が二つある。朝の散歩客かと思ったが、違う。違和感がある。いや、違和感というより、こちらの身体が先に嫌な予感を拾った。
ベンチに座っていた女が、だるそうに片脚を組み替える。
長い髪。気の抜けたような表情。けれど、視線だけは異様に重い。何かに興味がないようでいて、実際にはこちらをじっと観察している。視線が合った瞬間、ぞくりとした。生き物に見られているというより、こちらの反応そのものを面白がるような目だ。
その隣に立つ男は、逆に妙に落ち着いていた。こちらへ気づいているのに、驚きもしない。スマホを持つ手が少しだけ強張っているのが、余計に嫌だった。
「……偶然、かな」
女が言う。気だるげな声だった。張りもないし、敵意を剥き出しにもしていない。なのに、耳へ入った瞬間から不快だった。
「でも、ちょうどよかったかも」
バーゲストが、半歩前へ出る。
その動きで確信した。相手も同じだ。こちらを見た瞬間に、もう普通の通りすがりではなくなっている。
「仮ボス」
低い声だ。
「下がっていてください」
「……ああ」
言われた通りに一歩引く。瞬間、ベンチの女――ムジナが、初めてはっきりと笑った。笑うというより、口元だけで何かを確かめた、そんな顔だ。
「ちゃんと守るんだ」
その言い方に、胸がざわつく。
男がスマホを持ち上げる。黒い画面。見慣れすぎたせいで、あれを見ただけで胃が縮む。
同時に、俺のポケットの中でもスマホが震えた。
来る。
理解より先に、空気が張り詰める。
ムジナが、ゆるく首を傾げた。
「じゃあ、やろっか」
軽い。まるで時間つぶしにゲームでも始めるみたいな口調だった。
次の瞬間、視界の端にあった自転車が、音もなく浮いた。
「っ!?」
理解が一拍遅れる。倒れかけたわけじゃない。持ち上げられたのでもない。ただ、そこにあったはずの物体が、急に意志を持ったみたいにこちらへ飛ぶ。
バーゲストの剣が閃く。銀の一閃で自転車が真っ二つになり、金属片が散った。遊歩道の舗装を抉って、火花が跳ねる。
そこからは、間を置かなかった。
ベンチ。標識。ゴミ箱。視界にあるもの全部が、まるでこちらへ牙を剥いたみたいに動き出す。正確には、飛ぶ。叩きつけられる。投げられる。目に見えない手で鷲掴みにされ、軌道だけを与えられて殺意へ変わっていく。
ムジナは立ち上がりもしない。ただ、こちらを見ているだけだ。気だるげなまま、面白そうに。
「バーゲスト!」
叫ぶと同時に、彼女がこちらの前へ完全に割って入る。剣の軌跡が二度、三度と閃く。飛来する物体を叩き落とし、弾き返し、鎧の肩口で無理やり受ける。そのたびに、遊歩道の舗装が砕け、木の幹が裂け、柵がへし曲がる。正面から殴り合う戦いじゃない。環境そのものが敵になっている。
「視線を切ってください!」
バーゲストが叫ぶ。
言われるまでもなく、そうしたかった。だが、視線を切る、というのがどういう意味なのか、一瞬だけ分からなくなる。ムジナから目を逸らせばいいのか。飛んでくる物から目を外せばいいのか。迷ったその一瞬で、街灯の下にあった案内板がこちらへ滑るように突っ込んできた。
バーゲストが剣で受ける。だが、その衝撃は重い。金属と金属がぶつかる鈍い音が鳴り、彼女の身体が半歩だけ押される。
ムジナが、そこでようやく立ち上がった。
「へえ」
どこか感心したような声だった。
「ほんとに強いんだ」
気だるい顔のまま、だが瞳だけがじっとバーゲストへ向いている。その視線の異質さに、肌が粟立つ。見られている。そう感じるだけで、胸の内側を手で探られるような嫌悪感があった。
「あなたも、悪くないかも」
その言葉の意味を考えるより先に、バーゲストの動きが一瞬だけぶれた。
本当に、ほんのわずかだ。剣を握る手が鈍る。次の踏み込みが遅れる。その隙へ、川沿いの鉄柵が捻じ曲がるみたいにこちらへ飛んだ。
「バーゲスト!」
今度は受け切れず、彼女が腕で逸らす。鈍い衝撃音。鎧へ当たった鉄が弾け、足元の地面が削れた。頬の横へ冷たいものがかすめる。折れた柵の一部が飛んだのだと、あとから分かった。
ムジナが笑う。嬉しそうでも、楽しそうでもない。ただ、自分の見たいものが見えた時の顔だ。
「そういうの、あるんだ」
バーゲストはもう答えない。剣を構え直す。けれど、さっきの一瞬を俺は見逃さなかった。視線が絡んだ、その直後だ。何かが起きている。
男の方が、そこで初めて口を開いた。
「ムジナ、遊ぶな。仕留めろ」
「えー」
返事はだるい。だが、言いながら視線は一度も外さない。そのままムジナが片手を持ち上げると、近くの街路樹の枝が、不自然な角度でしなる。次の瞬間、枝だけじゃなく、根元から土ごと浮いた。
「っ、後ろへ!」
バーゲストの声に、反射で飛び退く。樹ごと抜かれたそれが地面へ叩きつけられ、土と木片が爆ぜた。視界が茶色く濁る。
その濁った向こうで、ムジナの声がした。
「生きる意味、くれるかな」
ぞっとするほど軽い声音だった。
「受け入れてくれるなら、わたし、ちゃんと従うよ」
誰に向けた言葉なのか、一瞬だけ分からなかった。こちらか。隣の男か。あるいは両方か。だが、その曖昧さごと不気味だった。敵意と誘惑が同じ声の中に入っている。
男は、そんなムジナの横顔を見て薄く笑う。
「今は俺だけ見てろ、ムジナ」
「それ、どうしようかな」
会話そのものが読み合いだ。関係性が透けて見えるのに、はっきりとは掴ませてくれない。気だるく見えて、その実、やたらと人の心へ踏み込む言葉を選ぶ。バーゲストとは真逆だ。正面から叩き潰す重さじゃない。気づけば足元を崩されている類の相手。
スマホが、そこで強く震えた。
今だ、と直感する。ポケットから取り出した画面には、黒地に白い文字が並び始めていた。戦闘中だというのに、そういう瞬間だけ、MEDESは異様に整然としている。
――TARGET CONTRACTED SUBJECT : MUJINA
――ENGAGEMENT CONFIRMED
――SEIZURE CONDITIONS DISPLAYING...
その下へ、一行目が浮かぶ。
――対象契約体の本質的属性を特定せよ
続いて二行目。
――対象契約体の能力発動条件を特定せよ
そして最後。
――対象契約体が現在の所有者へ従う理由を特定せよ
心臓が強く鳴る。
視線。
超能力。
そして、従う理由。
ムジナが、そこで初めてはっきりとこちらを見た。目が合う。まずい、と理解した時には遅い。頭の奥へ冷たい針が差し込まれるような、不快な感覚が走った。
「……見た」
ムジナが、小さく笑う。
ぞくりと背筋が冷えた。
次の瞬間、視界の端にあった砕けた自転車の車輪が、独りでに浮いた。